古保利薬師を紹介いただいている書籍・資料
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〇久野健・田枝幹宏著著『日本の彫刻 続第2(中国)』 美術出版社 〇『美術研究』284東京文化財研究所・・・久野健著『平安初期における如来像の展開 下』 〇奈良国立博物館編『国宝・重要文化財仏教美術 中国2(広島】』小学館 〇『古美術』88三彩社・・・丸山尚一著『十一面観音の旅ー10-中国山地に育った観音たち』 |
◎ 文献50
『仏像集成8 日本の仏像(中国・四国・九州)』久野健編・学生社1997年刊
(内表紙)
冒頭の序文で、この地域を代表する仏像として
古保利薬師の仏像が紹介される。
そして文中に、
「本尊薬師如来坐像の堂々たる塊量や、
脇手まで一木で彫り上げようとした千手観音立像の姿には、
まさに”霊木の化した仏”の真髄が目の当りにされ、
四天王の本来は超越的な忿怒の表情も、
まるでユーモアにも似た人間味が生々しく表出されている。」
また、この文中に、
「全体としては往年の山県郡大朝荘の地に活動した
民間仏師集団の一貫した特色がうかがえよう。」
とある。
◎ 文献49
『 東庵 』 東北大学文学部 東洋・日本美術史研究室3年生ほか著 修士1年生・学部4年生編集
同研究室では、教授、助教のご指導のもと学生、修士計22名が、
2024年10月21日~25日に、
広島県の宮島、古保利薬師、
島根県の出雲大社、古代出雲歴史博物館、大寺薬師、松江城、仏谷寺、大山寺
鳥取県の三徳山三佛寺、倭文神社 などを実地研修されました。
その事前研究のため、専門の書籍等を調査して論文をまとめられました。
「古保利薬師」については、古保利薬師堂の由来、そして
薬師如来及両脇侍像三体、
千手観音菩薩立像、十一面観音菩薩立像三体、
吉祥天立像、四天王立像四体について、
それらの信仰の起源、仏像の特色などを体系的に紹介してあります。
東北大学東洋・日本美術史研究室(@tougeikai) • Instagram写真と動画
◎ 文献48
『 広島県史 』 原始古代 通史1 広島県・昭和55年
・・・律令時代の有形文化財として古保利薬師の仏像を取り上げる。
注目されるのは、古保利薬師の仏像などの文化を支えた経済基盤の分析である。
広島県内の備後甲山盆地(太田荘)には、古保利薬師と同じ時期に発足した今高野山龍華寺がある。
そして、安芸西条盆地には国分寺がある。
これらの盆地には、まとまった田畠の「条理」の記録が遺る。
同じように、山県郡壬生盆地について田畠の「条理」の記録が遺る。
こうした条理は、今日の千代田地域の全域にわたっていたと推察される。
こうした経済基盤あったから、当時としては最先端で独特な古保利薬師の仏像が彫られたのだ。
◎ 文献47
『 石見と安芸の妙好人に出遇う 』神英雄じんひでお著
自照社出版 2015年刊
「妙好人」とは、世俗にあって念仏信仰に篤い人のことです。
中国新聞では「洗心」を連載して、昔から現代に至り、
仏教の信仰に篤い世俗の人を紹介している。
その中で、古保利薬師を守り伝えた地域の人達を、
「古保利薬師を守り続ける千代田の人」と題して紹介している。
江戸時代以来、四百年にわたり無住となった寺を守り伝え、
今も奉賛会が町役場と一緒になって護っていると聞いて感激したとある。
・・・・古保利薬師を支える方々
◎ 文献46
『 日本古彫刻史論 』 猪川いかわ和子著
講談社 昭和50年刊
各時代各地の彫刻による仏像について語る。
その中で、古保利薬師の吉祥天像を紹介。
これは、猪川和子氏が文献29で紹介の研究論文『 吉祥天彫像 』をもとに、
他の多くの吉祥天像とともに論じたもの。
◎ 文献45
『 藤原彫刻 』 中野玄三編
「日本の美術7」第50号・至文堂発行・昭和45年刊
監修・文化庁、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館
「貞観彫刻」とする通説を認めつつも、
貞観彫刻の『盛期の作品に比べると、すべての部分の彫りが浅くなって、
穏やかな調子がでているのに気付く』
そして、両脇侍について、『その愛すべき堂顔や、
腰をわずかにひねって立つ楚々としたポーズには、
藤原彫刻の優美さがすでにあらわれている。』とする。
・・・このところは争点の一つだ。
貞観彫刻とする説によると、
この穏やかで優美な特色は、温暖な山陽地方なるが故の
地方色をあらわしたものと考える。
また、本書は、持国天像の写真を載せ、
『ずんぐりした体や邪鬼まで一本で造る構造に古様を残している。
忿怒の顔にあらわれたユーモラスな表現も巧みで・・・
この地方の先進的な性格がうかがわれる。』と述べる。
◎ 文献44
『 貞観彫刻 』 倉田文作編
「日本の美術1」第44号・至文堂発行・昭和45年刊
監修・文化庁、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館
貞観彫刻について詳述。
その地方例として、古保利薬師の仏像が取り上げられる。
「十世紀はじめ頃の一木彫成像」とする。
◎ 文献43
『 古保利薬師堂の諸仏 』 佐藤昭夫著
「広島県文化財ニュース」第18号 広島県文化財協会編集・1963年5月刊
この中に、薬師如来坐像について、
「まるまるとした豊麗な顔、幅広な肩、厚みのある胸や腹、高いひざなど実に強烈な
までに量感を豊かに表現しており、衣のひだはどこまでも太くそして深く彫りこまれている。
こうした特色はただちにこの像が平安時代の初め、九世紀ごろの製作になることを
示している。しかもその強い表現は貞観彫刻も早いころの特色をそのまま伝えている。」
とある。
◎ 文献42
『 平安初期における如来像の研究 』 久野健著
美術研究所発行「美術研究」第278号、283号、284号に掲載
これらは、文献35に紹介の
久野健著『 平安初期彫刻史の研究 』及び『 同図版 』昭和49年刊
に収録された。
◎ 文献41
『 千代田の展望 』 中国観光地誌社発行・昭和34年
この中に、
①「古保利薬師雑考」 国宝薬師奉賛会会長 三宅蕡みのる
歴史を紹介・・・開基以来500余年、真言宗古義派の研修道場として栄え、
吉川氏の来往後は、戦勝祈願所や菩提寺として尊崇された。
しかし、関ケ原の合戦後、吉川氏が岩国へ移封され、寺運は衰微した。
昭和17年7月に本尊薬師如来座像が国宝に指定され、
日光・月光菩薩、十一面千手観音、十一面観音3体、吉祥天、四天王4体が
重要美術品に指定された。
その後、昭和24年に名仏師白石義雄氏による本尊の修復
昭和32年に収蔵庫を建設
さらに昭和33年に他の11体の仏像を白石氏により修復
先哲が遺したこれらの文化財は「不朽のもの」と断じる。
②「郷土の歩み」 名田富太郎
郷土の歴史家で、文献24「山県郡史の研究」の著者の名田富太郎氏が
古保利薬師を紹介。
◎ 文献40
『 日本美術全集 第5巻 平安の建築・彫刻Ⅰ 』 講談社・1992年
編集顧問・前川誠郎 編集委員・大河直躬ほか8名
古保利薬師の仏像については、
カラー図版に、「薬師如来坐像・9世紀末~10世紀初期」
単色(白黒)図版に、「千手観音菩薩立像・9世紀」
図版解説に、「薬師如来坐像」について、山岸公基の解説
その解説の中で、
「丸々と肉付きよく体奥の厚い姿に古様をとどめる一方、
見開きの大きな両眼は伏目がちで、両脚部の張りの大きい
安定した体貌には仁和四年(八八八)の仁和寺阿弥陀三尊の
中尊像と通じる趣がある。九世紀末から十世紀初頭の造立であろう。」
とある。
◎ 文献39
『 日本美術全集 第4巻 密教寺院から平等院へ 』 小学館・2014年
責任編集・伊東史朗 論考執筆・伊東史朗・佐々木守俊・武笠朗ほか
図版 「第1章 新護寺薬師如来像と遷都後の奈良」に
古保利薬師の「薬師如来坐像」の正面写真が載る。
その説明に「重文 9世紀末 木造」とある。
さらに図版解説で、「大きな膝張りは、仁和四年(八八八)の仁和寺阿弥陀三像の中尊との類似が指摘されている。」 とある。
その指摘は、◎文献40「日本美術全集 第5巻 平安の建築・彫刻Ⅰ」 講談社・1992年における
山岸公基による図説解説にある。
見比べると、確かに類似性が感じられる。
仁和寺の創建時期(888年)と古保利薬師の仏像の推定される作成時期(9世紀末~10世紀初期)がほぼ同じです。
◎ 文献38
『 古保利薬師堂ー薬師如来坐像 』
「日本の仏像」No.49・講談社
「山陰・山陽の古仏」の欄で、古保利薬師の薬師如来坐像を紹介
◎ 文献37
『 眼で見る 安の今昔 』 安郷土史懇談会・令和3年
本書によると、広島市安佐南区の『光明寺は今から約740年余年前の弘安2年(1279)
山県郡北広島町古保利の真言宗福光寺28世慈教がこの荒谷山の麓、
夜珠荘鷹捕(安の荘高取)の長瀧といわれる岩屋に古寺を建立し
「圓妙院」と言ったのが始まりと言われています。』とあります。
◎ 文献36
『 生きている仏像たち 日本彫刻風土論 』丸山尚一著
読売選書・昭和45年刊
著者は「この古保利の木彫像を基準として、ある共通した仏像圏を想定することができた」と述べる。
それは「瀬戸内的性格」とも言えるもので、「瀬戸内域という風土に育った明るい仏像たち」と捉える。
この「瀬戸内域の木彫群」の範囲は、福山の芦田川から西で、愛媛県北部にわたる。
昭和45年5月に訪れた時の感想を記述。
◎ 文献35
岩国の『 万徳院由来 』
岩国の万徳院は、吉川氏が岩国へ移封の際に北広島町舞綱の万徳院を移設したものです。
その由来が記載されています。
その万徳院の御本尊「不動明王」は、もともと古保利薬師にありました。
舞綱の万徳院が岩国へ移された際に、「不動明王」も移されたのだそうです。
岩国の万徳院へ、古保利薬師奉賛会のメンバーが「仏像巡り」で参拝しました。
仏像巡り・・岩国「万徳院」
◎ 文献34
頼杏坪著『 芸藩通誌 』巻六十
文政8年(1825年)に発行された『芸藩通誌』を大正元年(1912年)に吉野兵作が翻刻したもの
藩内の神社仏閣を調査した報告に次のようにある。
「廃福光寺
古保利村にあり、伝云、もと古保利金蔵院と号し、四十九坊ありて、三百石の寺領ありしと、
今堂一宇、仁王門、稲荷社を造す、堂中に、釈迦、薬師二大仏、及び小像数座を置く、
寺祉も四十余区見えたり、或は云、吉川氏、周防国移封の日、此寺も引れたりと、
いまだ是非をしらず 」
・・・吉川氏が周防に移封される1600年頃は、この『芸藩通誌』が書かれた時より約250年前になる。
ここには、「伝云」とあるように、地元に語り継がれた状況が記された。
「四十九坊」もあったとすると、正面の参道の両脇に、多くの「坊」や「寺祉」があったのだろう。
今は、その一帯に段々畑の跡が残る。
そこに「坊」や「寺祉」があったのだろうか。
しかし、吉川氏の移封により、三百石を失い、廃寺を余儀なくされた。
*「宇」とは、ここでは「家」「お堂」のこと。 「坊」とは、ここでは「僧侶の居所」のこと。
◎ 文献33
丸山尚一著『 地方仏を歩く 中国四国九州編 』
NHK出版・2004年刊
著者は、何度も来訪された。
冬の寂しい季節に訪れた際にも、明るく豊かな仏像群に魅了されたそうだ。
そして、「会津(福島県)の勝常寺が東日本を代表する地方物の宝庫とすれば、
この古保利の仏たちは西に本を代表する、
特徴的な最高の木彫像群といっていいだろう。」と言われる。
また、「量感溢れる貞観仏がずらりと居並ぶ光景は圧巻である」と。
それぞれの仏像の作者は違うが、この地方の仏師によるものではないかと・・・。
このように多くの仏像を作成するほどこの地が開けていたのは、この地から中国の後漢代(25~220年)の
銅鏡(内行花文鏡、径16.25センチ)が出土したことからも察しられる。
この時代にこのような鏡が出土したのは、中国、朝鮮と密接な繋がりをもった
北九州に限られていたからだと述べる。
そして、千手観音からは、現代彫刻家のヘンリー・ムーアのフォルムを重ね見ることができると・・・。
ヘンリー・ムーアはイギリスを代表する彫刻家です。ネット上でご参照ください。
![]() 出典『千代田町史・通史編』 弥生時代の古墳から、青銅鏡が出土した。 この時代に中国製の青銅鏡を持つことは卓越した権力者の証と言われる。そうした権力者を支える経済基盤があったことを物語る。 そうした経済基盤があったので、古保利薬師の仏像群が製作されたと考えられる。 |
◎ 文献 32
『 仏像列島ー日本のすごい仏像100 』
監修本田不二雄・宝島社・2021年12月刊
「注目すべきは、奈良・京都の国宝仏だけではない!」
その中で、「古保利薬師」の仏像群について、
「人々によって守られてきた お薬師様」
そして、薬師如来像は「大きな目をもつ平安時代前期の像容」と紹介。
◎ 文献 31
『 原色日本の美術 第5巻 密教寺院と貞観彫刻 』昭和42年刊
著者・倉田文作 発行・小学館 企画協賛・文化庁文化財保護部
古保利薬師の「薬師如来座像」を紹介
説明文中に、「・・・いかにも量感豊かだが、肉どりや衣褶の彫り口がよわく、引きしまった充実感に欠けるうらみがある。
これは一〇世紀にはいった木彫像の一般的な傾向だが、この像にはまた地方の風とでもいうべき、
野放図なおもむきがあって、なかなかおもしろい。・・・」とある。
そして、『貞観彫刻』と題して倉田文作の解説を載せる。
◎ 文献 30
久野健著『 平安初期彫刻史の研究 』及び『 同図版 』昭和49年刊
「第一部 平安初期彫刻の成立に関する研究」
本書によると、「奈良仏教の本質が朝廷や上流貴族の独占物の観があり、僧侶たちは、国家の安泰やこれら天皇や
貴族たちの福徳を祈ることに終始していたということは古代史の常識のようになっていて、こうした意味では一般住民は
全くあずかり知らぬことであった。」23頁
ところが、天平時代に入ると、仏教が民間にも知られるようになる。
「仏教と民間との結びつきは、地方にまで及んだかにみえる。天平二年の『続日本紀』には、
安芸周防の国人等、妄りに禍福を説いて多くの人衆を集め、死魂を妖祠して祈るところありと云ふ
と伝え・・・大群集への布教の様が伝えられている。」24頁
髪をそって僧の姿になり、托鉢して回る者が現れる。
そうした僧の中に「行基」がいた。
聖武天皇が大仏造立の詔(東大寺の大仏)を発すると、「行基法師は、弟子等を率いて衆庶を勧誘し、浄財を集めている」25頁
かくして、仏教は民間に広まり、
「奈良時代の後半(八世紀後半)において、こうした私度や優婆塞たちのいとなむ私寺や山寺や小堂の中に、
木彫が盛んに安置される」27頁
この時代に仏像を造った人々について、
「延暦年間(8世紀後半から9世紀初頭)に仏像を造る人々には、
大寺の造仏所出身の仏師と、
私寺や小堂の木彫を造っていた仏師と、
数はそう多くはなかったかも知れないが、『日本霊異記』に伝えられるような僧侶自身が木造を造る場合と、
この三つがあったと思うのである。」34頁
しかし、これらの三区分はルーツをたどるもので、互いに入り混じって平安初期を迎える。
仏師は、「渡来の檀像等の刺激を受け」35頁、
小さな工房で木像を造っていたが、 「すでに大工房を構え、多くの徒弟を養っていたものもあったであろうことは想像できる。」35頁
「延暦年間における官寺造仏所の廃止以降」は多様化して、
「あの装飾的な仏教から、実質的な仏教への要求が強まってきたことも一つの変化であると同時に、
表面的に華美な仏像よりも精神性ゆたかな像が求められてきたことであろう。
このことはこれまでの奈良の都を中心にした都市仏教から、山岳仏教へと変る、仏教の動きとも深く結びついている。」35頁
そして、「古保利薬師」の仏像を取り上げる。
「第二部 平安初期彫刻の展開に関する研究
第一章 平安初期における如来像の展開
二六 古保利薬師堂の諸像 」189~191頁
その中で、「まず、地方の平安初期彫刻のうち、注目すべき遺品は、広島県の古保利薬師の薬師如来像である。」
そして、本像の特徴からして、「本像の製作年代は、九世紀末ないし十世紀前半をそう遡り得ないのではないかと想像される。」
以下、薬師如来像、伝日光、月光菩薩像、千手観音像、吉祥天像、四天王像について論じる。
別冊の「図版」に、それぞれの仏像の写真(白黒)を掲載。
久野健さんのサイン
◎ 文献 29
『 吉祥天彫像 』猪川和子著
「美術研究」第二百十号・東京国立文化財研究所(美術研究所)・昭和35年刊
吉祥天を祀り、罪過を懺悔し、五穀豊穣を祈願する吉祥悔過の法会が、毎年、多くは正月に行われる。
本書によると、古文書で見る限り、吉祥悔過けかの法会が奈良時代から行われ、平安時代に広まったとのこと。
古保利薬師の「吉祥天」は平安前期のものとされる。
本書の図版と挿図に、古保利薬師の「吉祥天立像」の写真(白黒)が掲載される。
「吉祥天」を本尊として祀る寺院がある。
古保利薬師の「吉祥天」も、四十九のお堂があった時代に独立して祀られ、吉祥悔過の法会が営まれたと推察される。
◎ 文献 28
伊東史朗著『 薬師如来像 』
『 日本の美術7 』No.242・昭和61年刊
監修/文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館
「薬師如来像」を特集。図版の始めのカラー写真に「古保利薬師堂像」を紹介。
薬師如来の経典、形像、中国の薬師像、飛鳥・天平の作例、悔過けかと民間信仰に続き、
平安時代前期の作例のひとつとして、「古保利薬師堂像」を載せる。
その説明に、古保利薬師堂の諸像の中で薬師如来像は「ひときわ古様である。」、
「大らかな境地を見せ、この地方随一の古像である。」とある。
◎ 文献 27
久野健著『 仏像の旅ー辺境の古仏 』
芸艸堂出版・1975年(昭和50年)刊
昭和35年3月に著者が古保利薬師を訪ねた時に、地元で応対したのは歯科医師で仏像研究家の三宅昭典だった。
仏像を一つ一つ運び出して調査された。
そして、仏像の製作時期、一木造の意義などを言及された。
◎ 文献 26
『 小寺巡礼「古保利薬師堂の諸仏」 』佐和隆研著
佛教藝術學会編『佛教藝術』第38巻・毎日新聞出版・1959年(昭和34年)刊
佐和隆研さわりゅうけん教授が昭和34年1月の雪降る中、古保利薬師堂を訪れ、調査された。
その時、当地の三宅昭典さんが案内された。
その時の写真(出典・三宅昭典編『回想の古保利薬師』)
佐和教授は、「広島県の奥地では、古い仏像のある代表的な地域」と、
世羅の「今高野山福智院の十一面観音像」と古保利薬師の諸仏を調査に来られた。
その論文中で、「福山尾道地方には天台宗のものが少し入っているようである。
尾道以西、世羅郡には高野山系統の伝承をもつ寺院が多いようにも考えられる。」
そして、「この地方の名が中央の文献に最初に出て来るのは、古事記・日本書紀などで、
垂仁天皇・仁徳天皇などの頃に出てくる品部(本地)壬生などの地名がそれである。
・・・この地が早くから中央との交渉をもっていたことを物語るものである」と述べる。
広島県の古墳の三分の二が江川流域にあることから言えるとのこと。
このような歴史背景から、「この地に平安前期の頃に、かなり大規模の寺院が建立されていた
ということは、別に不思議と考える必要もないことである。」と考える。
そして、製作時期は、「一応平安前期、即ち貞観時代の制作と考えられる。
而かもその形式化しない時期、少なくとも貞観年間頃までの時期が考えられるのである。」
そして、唐風な表現から、貞観時代も早い時期に製作されたものではないかと考える。
仏像の製作時期
また、四天王について、四像それぞれを特定している。
四天王の特定について
その他、両脇の琴平神社や大歳神社との関連などを論及されている。
◎ 文献 25
『 仏像風土記 』久野健著
NHKブックス カラー版・昭和54年発行・
日本放送出版協会刊
この表紙に「奈良・京都から遠く離れた辺境の地に今も特色ある地方仏が数多く残されている。」とある。
「古保利薬師堂」の説明に、「山深い里にひっそりとたたずむ薬師堂は、平安初期彫刻の宝庫である。
豊かな量感、彫りの深い衣文線は野性味があり平安初期の特徴を十分に伝えている」とある。
久野健さんのサイン
◎ 文献 24
『 山縣郡史の研究 』名田富太郎著・昭和二十八年発行
表紙に表題なし。これは内表紙
「第一章第四節 古保利山金蔵院福光寺」
弘法大師がこの地におみえになり古保利薬師を開いた伝説を紹介。
「大師が六根清浄の霊地を御巡錫の時 今の八重町まで御出でになり・・・・」
但し、大師がこの地へ巡錫したか否か、信ずべき文献はないとされている。
「第六章 古保利山福光寺」
(一)祈願所・・・天正年間(1573~1593年)に、吉川氏の祈願所になった由来。
この時期に当山は隆盛を極め、堂塔が四十九もあり、寺領は三百石を有した。
(二)衰頽・・・・・関ケ原の役(1600年)の後、吉川氏は岩国へ移封され、当山は取り残された。
福島正則がこの地を治めることになり、当山の領地は三十石に減ぜられた。
(三)本末論争・・・そして当山は、可部の庄の福王寺から番僧を派遣される状況になった。
ところが、大隣という番僧が立ち上がり、もともと当山が本寺で福王寺が末寺だと主張して論争になった。
宝暦十一年から十三年(1761~1763年)にかけて、関係者の間で交わされた文書を紹介。
結局のところ、当山は福王寺の末寺ということで決着した。
◎ 文献 23
『 秘仏の旅(下) 』丸山尚一著
精興社・昭和五十八年発行
筆者は、中村昭夫写真集(後掲)に『西国の仏教彫刻史』・『図版解説』を載せる。
「中国山地の辺境の古保利山に、十数体もの平安期の優れた木彫仏を見ることは、まさに驚きである。」で始まり、
「量感あふれるばかりの貞観仏が居並ぶ光景は壮観というほかない。」と述べる。
そしてこの中で、吉祥天像の親しみある横顔の写真(白黒)を載せる。
◎ 北広島町観光協会の英語版絵葉書
町内の神楽、花田植、戦国の歴史観、テングシデ、聖湖などを紹介
1枚100円
古保利薬師の絵葉書の表面
Kohori Yakushi /Kitahiroshima,Hiroshima
裏面 Post Card ( Adress Stamp)
<ご案内付記>
古保利薬師 Kohori -Yakusi
The 12 Buddhist statues, including the seated Yakushi Nyorai statue featured
above,
are designated as cultural asserts of national inportance,you walk up
the south-side
approach, you will be greeted by the Kongo-Rikishi statues on both sides
of
the temple's main entrance.
ACCESS ⇒アクセスとご注意
◎ 文献 22
ブリタニカ国際大百科事典の「貞観彫刻」に代表的な貞観彫刻として載る
ブリタニカ国際大百科事典は、1768年にイギリスで出版された、英語による最古、最大の総合百科事典。
版を重ね、更新して、現在32巻となる。
ネット上で、コトバンクが「貞観彫刻」を取り上げ、このブリタニカ国際大百科事典・小項目事典における「貞観彫刻」の記述を紹介している。
⇒コトバンク「貞観彫刻」
「貞観彫刻」の由来や特徴を解説し、代表的な仏像として中央における神護持の薬師如来像、新薬師寺の薬師如来像などと共に、
地方における岩手の黒石寺の木造薬師如来像や古保利薬師の薬師如来像を挙げる。
◎ 国鉄バス切符(昭和57年頃)
表面
裏面
国鉄バス50周年記念に発行された切符です。
国鉄バスの歴史から推して、昭和57年(1982年)頃に発行されたものです。
この切符は倉敷駅で発行されました。
オークションに出品されたものを入手しました。
◎ 文献 21
『 國寶古保利薬師如来 』
発行・古保利薬師奉賛会・昭和三十八年刊
本書は、昭和三十七年四月八日に、古保利山福光寺金蔵院の本堂で、
浄土真宗の仏法僧藤秀璻ふじしゅうすいさんが講演されたお話を記録したものです。
古保利薬師如来は、戦前に国宝に指定されましたが、
この時点では新法により重要文化財に指定されていました。
題名には、「国宝」の気持ちで大切にしようという思いが込められているようです。
◎ 文献 20
『 伊豆を守護する仏たちー忿怒の仏 』
発行・上原仏教美術館
古保利薬師の四天王とよく似ています。
この中に、
・・・・従来、本像に関しては、甲冑の形式や面貌表現、体勢が、9世紀前半と推定されている
広島県・古保利薬師堂の四天王立像とよく似ていることが指摘されている。・・・・
古保利薬師の四天王と見比べてみてください。
第三体とよく似ています。 ⇒古保利薬師の仏像(四天王)
伊豆の南禅寺の仏像は、薬師如来座像もよく似ています。
薬師如来に四天王(二天王)が仕える組合せが、伊豆 南禅寺のほか、会津 勝常寺、宮城 双林寺に見られます。
このような組合せが全国に広まった時代があったと想像されます。
⇒薬師如来に四天王が仕える組み合わせ
◎ 文献 19
『 仏像の鑑賞 』 三宅昭典著
著者の三宅昭典さんは、古保利薬師がある北広島町有田出身の歯学博士。
地元に古保利薬師があるという縁で、「仏像」について独学され、仏像の基本をまとめられたものです。
仏像の種類と「かたち」、印相と持物、そして古保利薬師堂の仏像のデータ、仏像彫刻関係年表などが掲載されています。
裏表紙に「古寺巡礼に敬虔な中級以上の学徒の手引きとして、一層の研究の糧になることを願うものである。」とあります。
しかし、古保利薬師には、コピー版しかありません。
どなたか、本物をお持ちではないでしょうか。
もし、お譲りいただけるものでしたら、古保利薬師資料館で保存したいのですが・・・。
◎ 文献 18
『 古保利薬師の仏 』
写真:藤森武 文:田中恵 発行:北広島町教育委員会・2015年発行
写真集:藤森武/文・田中惠『藤森武写真集・隠れた仏たちー里の仏』1997年発行・東京美術
このコンビにより編集・・・いわば縮小版・・・・分かりやすく、コンパクトにまとめてあります。
古保利薬師収蔵庫の資料館で販売しています。 1冊 900円
◎ 文献 17
『 古保利薬師堂四天王彫像ーその制作年代についてー 』
松本 真しん著・ 広島修道大学人文学会「広島修大論集 第24巻 第2号 (昭和58年12月)
古保利薬師の四天王のうち、表紙の一躯は四天王は9世紀前半と考える。
他の三躯は九世紀中期から十世紀初頭と考える。
そしていずれも、俗にいう「地方仏」ではなく、奈良から下った専業の仏師の手になるものである。
その理由について論じたもの。
◎ 文献 16
『 出雲国風土記・・・語り継がれる古代の出雲 』
島根県立古代出雲歴史博物館
平成29年3月25日初版
開館10周年記念企画展に、古保利薬師の「木造十一面観音菩薩立像」と「木造吉祥天立像」が展示されました。
➡仏像展・絵画展・写真展
この企画展を記念して出版された本書に、なぜ、古保利薬師の仏像が展示されたか、その説明があります。
「・・・(出雲市)鰐淵わにぶち寺蔵観音菩薩立像の台座には、「壬辰年」(692年)という制作年・・・父母の為に造像したという造像銘が刻まれている・・・」
鰐淵寺蔵観音菩薩立像は銅造です。
「・・・『日本三代実録』元慶元年(877年)八月二二日条には、古代の出雲国分寺での吉祥悔過についての記事がある。
これによれば、先述の正月恒例の吉祥悔過の本尊はもともと画像であったのが、
貞観一三年(871年)、出雲国のそれは傷みが激しくなったため、高五尺(約150cm)の木彫像に改めたというのである・・・」
古保利薬師の吉祥天立像は、163.8cmの木像です。
➡仏像の大きさ
仏像が造られ、祀られる経緯を物語るものです。
なお、「悔過けか」とは、罪を悔い改め、御利益ごりやくを願うこと、またはその儀式のことです。
◎ 文献 15
『 日本古寺美術全集19 山陰・山陽の古寺 』
集英社
昭和57年発行
薬師如来座像と四天王1躯の写真と斉藤孝さんの図版解説
これによると、四天王1躯は「焔髪まで逆立てた怪異な面相の内に、どこか人間的なユーモアをすら含み、巧まずして驚くほど高い芸術的な表現に達している」とある。
古保利薬師の仏像・・・四天王の第一体目
◎ 文献 14
『 解説版 新指定重要文化財 3 彫刻 』
昭和56年発行 毎日新聞社
昭和二十五年八月施行の文化財保護法によって、昭和五十五年度までに指定された重要文化財を収録したもの。
この中に、古保利薬師の 十一面観音立像 三躯
千手観音立像 一躯
吉祥天立像 一躯
四天王立像 四躯
以上、九躯が 昭和三十七年二月二日 文化財保護委員会告示第七号
重要美術品より指定 台帳・指定書番号 彫三一二〇
として掲載されています。
◎ 文献 13
『 画集・原爆70年 ヒロシマの記憶 』
日本画家・ 宮川啓五
2015年発行
画集には、被爆直後の惨状12点、古保利薬師の仏像8点、花や風景ほか10点、そして仏像の素描8点が掲載されています。
宮川啓五画伯は1927年(昭和2年)のお生まれ。1949年(昭和24年)に県美展入選以来、数々の画展に出品
日本美術院特待・創美会主宰
宮川画伯のお話によると・・・・戦後ほどなく、古保利薬師を訪れた。薄暗い部屋に置かれた仏像群を見て、ドキッとした。
仏像群は、「人間は、なんと惨いことをする」 とお怒りになっている。
以来、原爆の惨状と古保利薬師の仏像を描くようになった。
2014年4月にサンクス内の「ギャラリー森」において、そして2015年7月に「はつかいち美術ギャラリー」において個展を開かれました。
古保利薬師の仏像の絵画展
また、2016年に、宮川画伯から、仏像の日本画『 群像 』(150号)と素描『古保利薬師』(10号)をご寄贈いただきました。
古保利薬師の展示室に常設展示しています。
古保利薬師の展示室
◎ 文献 12
『 仏像風土記 』
藪内佐斗司著・大和書房発行
2016年9月発行
古保利薬師の四天王立像が紹介されています。
◎ 文献 11
『 回想の古保利薬師 』
三宅昭典編著・正文社発行
昭和60年発行
当地出身で歯科医師の三宅昭典氏が、長年にわたる仏像の研究と古保利薬師の仏像についてまとめられた。
「古保利薬師の展開」
「佛像の鑑賞」
「真言・古寺略記」 ほか
資料
「自現山金藏院福光寺雑考」 三宅 蕡(みのる)(「自現山金蔵院福光寺雑考」昭和34年・中国観光地誌社刊「千代田の展望」)
「重要文化財の意義について」 藤 秀璻(しゅうすい)(「重要文化財指定記念講話集」昭和38年・古保利薬師奉賛会刊)
「古保利薬師の諸尊」 佐和隆研(たかあき)(「古保利薬師の諸尊」(「仏教芸術」38号・昭和34年・毎日新聞社刊
「古保利薬師堂」 岡 徹夫 (「小寺随想」昭和47年・広島県編(未刊)
「廃福光寺薬師堂の諸尊」 久野 健 (たけし)(「佛教風土記」昭和54年・日本放送出版協会刊)
「貞観仏の居並ぶ壮観」 丸山尚一(なおかず)(「秘佛の旅・下」昭和58年・中日新聞社刊)」
「明るく大らかな如来像」 瀬戸内晴美 (「西国の秘仏」昭和59年・山陽新聞社刊)
「西国の地方性と貞観彫刻」 斎藤 孝 (「西国の秘仏」昭和59年・山陽新聞社刊)
「古保利薬師奉賛会設立由来の回想」 三宅 蕡
◎ 文献 10
『 日本の美術 5 「四天王像」 』
監修・文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館
執筆・編集 稲川和子
昭和61年発行
四天王について、その役割や源流、その類型などをまとめたものです。
この中で古保利薬師の四天王が取り上げられています。
◎ 文献 9
島根県立石見美術館 『 石見の地より・・・祈りの仏像 』
発行・島根県立石見美術館
石見地方を中心とする中国5県の仏像や仏画などが一堂に展示されました。
古保利薬師の四天王4躰が会場の中心に置かれ、ひときわ目を引きました。
古保利薬師奉賛会から見学に参りました。➡奉賛会活動
この本は、展示された仏像や仏画などの写真や説明をまとめたものです。
◎ 文献 8
内田和浩著『 ふるさとの仏像をみるー日本全国の「秘仏」「古仏」「美仏」を訪ねて 』
2007年発行・株式会社世界文化社
表紙は、古保利薬師の「千手観音菩薩立像」です。
文中にも、見開きで「千手観音菩薩」の写真が掲載されています。
表題に「安芸の古代を秘める丘に伝わる木彫群」とあり、古保利薬師の由来が紹介されています。
◎ 文献 7
久野健著『 図説・仏像巡礼事典 』
発行・株式会社山川出版社
(1986年版) (1998年新訂版)
仏像を訪ねて巡礼される方のために、仏像の種類、座法、印相、持物、光背、台座などについて説明し、
金銅、漆造、塑造、木彫、石仏など仏像作製の技法を紹介し、日本の各地の仏像を網羅したものです。
久野健先生のサイン
◎ 文献 6
むしゃこうじ・みのる(武者小路穣)著『 地方仏(ものと人間の文化史41) 』
1980年初版・法政大学出帆局
◎ 文献 5
松本眞著『 古保利薬師の仏像ー中国地方の山間・古保利薬師の仏像造形考察 』
広島修道大学学術選書23・2004年発行・アートダイジェスト
◎ 文献 4
主催・東京国立博物館、読売新聞社・後援文化庁、日本テレビ放送網
『 特別展「仏像」一本にこめられた祈り 』2006年
◎ 文献 3
写真・藤森武/文・田中惠『 藤森武写真集・隠れた仏たちー里の仏 』1997年発行・東京美術
◎ 文献 2
写真・藤森武/編・解説・丸山尚一『 秘仏 十一面観音 』・平凡社・1985年
寄稿・谷川徹三著『十一面観音の思想』
・橋本聖圓著『十一面観音と十一面千手観音』
◎ 文献 1
中村昭夫写真集/文・瀬戸内寂聴『 西國の秘佛 』・山陽新聞社・昭和59年
解説・斎藤孝著『 西国の仏教彫刻史 』・『 図版解説 』
瀬戸内寂聴さんが昭和58年秋に来往
寂聴さん61歳の時。
西国の仏像を巡り、古保利薬師を訪れ、その時の感想文を寄稿
雨が降る、秋の夕暮れだった。
灯された明かりに浮かび上がる仏像をご覧になった。
「明るく大らかな感じがするが、見つめていると、密教的な神秘性もそこはくとなく伝わってくる不思議な仏像だ。」
そして、
「名もない田舎の仏師の素朴な信仰がそのまま、木に宿って、霊力を持ってきたような如来である。」
と記す。
その折に、素晴らしいサインをいただきました。
訪問記念のサイン
写真・解説
薬師如来座像、月光菩薩立像、月光菩薩立像、先手観音立像、吉祥天立像、
四天王立像、十二神将立像を素晴らしい写真技術で紹介、
そして、それらの図版及び個々に解説
斉藤孝さんの論文中に、
古保利薬師の仏像について、「・・・全体としては、往年の山県郡大朝庄の地に活動していた民間仏師集団の作風的特色が、一貫して認められよう。」
とある。
現在の北広島町大朝地域に仏師集団があったとする歴史的根拠は何か不明である。
斉藤孝さんにお尋ねしたいところですが・・・
古保利薬師の仏像について、このように多くの方に研究していただいています。
しかし、これらの文献において、製作時期、製作者、素材などいくつかの点で一致しないところがあります。
仏像の製作時期、製作者、素材 (書きかけ)
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