古保利薬師の仏像の製作者

  古保利薬師の仏像の製作者について,何ら記録は残っていない。
  そのため、研究者の研究もいろいろで諸説がある。

(1)研究文献における見解

 ◎「仏像の作者も、飛鳥・奈良時代には、工人であったのが、平安初期には、僧や行者が多く
   仏像を作るようになってきた。」
      久野健著『仏像の旅ー辺境の古仏』昭和50年刊
<文献27>

 ◎「官立の寺々の造仏所とは違った民間の仏師やあるいは僧侶の手で、
   かかる純朴な木彫が造られており・・・」 
      久野健著『仏像風土記』昭和54年刊
<文献25>

 ◎「飛鳥時代から奈良朝に至る仏教は、鎮護国家祈願のほか、僧侶は自己の本貫とする寺院に定住して・・・」仏法を学んだ。
  律令時代初期の仏教は中央の公的な朝廷・貴族や地方の氏族に庇護されていた。
  「ところが、八世紀後期の奈良時代に」になると、広く民衆が仏教を信仰して
  「彼らに身近な土地に鎮り、住民の行う善悪に対して即座に応報する神々の力を、そのまま仏力の偉大さとして進行し始めたのである。
  このような素朴な仏教信仰の欲求に呼応するように、僧侶の中にも、自ら寺院を出て山野に入り、実践的修行の上にある種の呪験力を身につけ、
  再び俗界にもどるや、巷に苦しむ庶民の群れを、仏の慈悲の名において積極的に救済して歩く、いわゆる聖僧が現れ始めた。」
  そして、仏師集団に代わって、「
新しい造仏の方向は、僧侶自らが仏師になった。
  時は、「延暦十三年(七九四年)の平安遷都により・・・新時代の仏教として登場した天台宗・真言宗の密教は・・・
仏像に表して信者に直接感得
  させる道を選んだ
。・・・密教は速やかに地方民衆の心を掌握し、地方寺院もまた・・・・奥深い山懐に開く山岳密教寺院が、むしろ常道となって行った。」
   長く引用させていただき、申し訳ないのですが、これによって地方にも立派な仏像が彫り残されることとなった経緯がよく理解できました。
   ただし、古保利は安芸の国の山県郡の郡衙はあった場所です。氏族の
おおし氏が治めていました。
   凡氏は、中央の朝廷や貴族による公的な寺院を範としたのではないか。
   だから、多くの優秀な仏師を招き、多くの精巧な仏像が彫られたと考えられます。

  そしてこの書は、古保利薬師の十一躰の仏像のうち、「
薬師三尊・千手観音・四天王の九躰はほぼ作風が共通し、少なくとも同じ工房の仏師の手になる
  一揃の群像とみられる。」と論じる。

  さらにこの書には、「全体としては、往年の山県郡
大朝庄の地に活動していた民間仏師集団の作風的特色が、一貫して認められよう。」とある。
  この大朝庄の仏師集団については未解明となっている。
   斉藤孝著『解説・西国の仏教彫刻史』・中村昭夫写真集「西国の秘仏」山陽新聞社出版
<文献1>
 
     斉藤孝- 岡山大学教授、佛教大学名誉教授。仏像彫刻


 ◎十一面観音立像、千手観音立像、吉祥天立像、四天王立像の九躯について、
   「木心や節にこだわらず、内刳りも施さない粗豪なつくりに地方作風が強くあらわれている。」
      「重要文化財」編纂委員会編「解説版・新指定重要文化財」昭和56年刊
<文献14>
  

 ◎「土地のにおいを満身に宿した、いかにもこの土地にふさわしい仏像たちである。
   土地の仏師によって作られたものに違いない」 
      丸山尚一著『秘仏の旅(下)』昭和58年刊
<文献23>


 ◎「四天王立像の作風は形に崩れのない洗練された趣があり、都周辺の仏師によって造られたと考えられる」
      金子啓明著『仏像ー一木にこめられた祈り」主催:東京国立博物館・読売新聞社 後援:文化庁
<文献4>

 ◎要約させていただくと・・・「中央仏、地方仏」という言い方があるが、「貞観仏」には当たらない。
   天平来の仏師が中央、地方に広く散らばった。「極論すれば貞観は単なる天平の退化現象とみてもよいのではなかろうか。」と言う。
   だから、地方にも素晴らしい仏像がある。
   古保利薬師の仏像は、「底流をなす天平の伝統様式を継続させたものの上に貞観が加味されたものであると確信している。
   奈良天平仏師の末裔の作である。古典主義的傾向をみる本四天王はその適例である。
   貞観の弱まりではなく、天平をベースとして貞観を味付けされたものである。」
   十一面観音菩薩立像の2体(当HPの第一体、第三体)は地方作の概念を当てはめることができる。
   しかし、「他の10体でみるとその見方は間違っている。古保利諸像の12体はすべて中央作である。
   奈良あるいは京都の仏師が出張して造仏に当たったものである。
      松本眞著『古保利の仏像』
<文献5>
   
   このように、古保利薬師の仏像の製作者は、地方の僧侶とするものから中央の仏師とするものまで幅広い。


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