抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信 

 
 シリーズ 34  ・

  
  教育の歴史を北広島町に見る   ・
 




 明治以来の北広島町の教育の歴史を、南方を例に紐解いてみたいと思います。
 そのほとんどを名田富太郎著「山県郡教育誌」を参考にしました。
 浅学で、ゆかりのない者がおお恐れ多いことと存じますがをお許し下さい。

 江戸時代は、庶民の子どもの教育といえば、家塾寺子屋でした。
 南方には、大島南峰が光雲寺の境内に家を建てて開塾。次第に門弟が増え、特に農閑期の11月から2月にかけて門弟が多かった。1日米1合の割で毎月末に月謝を持参したとあります。教えたのは、日常の生活に必要な品々の名称、数の計算、郡内の村の名称、証文、商売往来、消息往来(手紙)、論語などでした。
 額田部には、有久茂平の家塾があったようです。
 しかし、こうした塾や寺子屋で学ぶ子どもは限られており、読み書き計算が必要な庄屋、商人、寺社など、経済的に余裕のある家の子が主でした。多くの農民の子は、働かなければなりませんでした。百姓には学問は要らないと言う農民もいました。

 明治維新になり、新しい時代を迎え、西欧にならって、子どもは皆、学ばなければという方針が打ち出されます。明治5年に太政官布告により学制が発布され、全国各地に学校開設の気運が高まります。しかし、学校の開設費や授業料は、農民にとって新たな負担になるので、相当の抵抗があったようです。

 
 参考までですが、その当時の様子を他の地域の資料から紹介します。
 全国的に学校が開かれたのは、明治7,8年ですが、学制発布よりも前に、村が自主的に学校(啓蒙所)を開いた地域があります。当時の福山藩、のちの小田県(今の広島県東部と岡山県の西部)です。子どもに子守りをさせたり、牛馬を飼わせたり、肥料にするため落ち葉を拾わせたり、使い走りさせていては、いつまでたっても貧乏から抜け出せない。悪友に誘われて、悪行に走ることになる。寝酒の1勺、肴の1切を節約し、蒟蒻の1枚、薪の1本を余分に働き、啓蒙所(教育施設)開設に協力してほしいと村人に呼びかけます。

                自著「自治のすゝめ」第15章 窪田次郎らの実践 「啓蒙所」


 今日のように、国や県の補助があるわけではありません。寺社や民家を借りての出発でした。村人の分担で経費を捻出しなければなりません。家割りや石数割り(水田を評価して米の通常の出来高を定める)などで案分しました。そして授業料を徴収しました。子どもが多い家庭は減免されました。そうした事業を進めるには、村人の理解・納得がなければできません。この時代、自分たちのことは自分たちで・・・・村には相応の「自治」がありました。

 事情は全国どこも同じだったと思います。
 村々は、他の村に遅れをとるまいと、競って学校を開設しました。一方では、新たな負担となるので、小田県のように学校の開設に抵抗があったことも想像されます。

 南方では、明治7年12月7日に、光雲寺において大島南峰の塾を引き継ぎ、日新舎が開設されました。生徒は20名でした。そしてその月の27日に、浄徳寺において清新舎が開設されました。生徒は30名でした。さらに同日、出原の末田禎次郎宅において得明舎が開設されました。現在の末田隆士さんの六代前で、裏山のわずかな平坦地にその跡があるそうです。
 畑においては、その22日に岡崎市郎次宅で遥望舎が開設されました。

 運営に当っては、学区ごとに学校世話係(役)が置かれました。
 学校は、板の間に筵を敷き、平机を並べ、教師が教鞭をとります。
 教科の内容は、寺子屋のように漢学の習得を目標に置き、文章の暗証や書写などに偏重したものから、ひらがな、カタカナ、九々、算術、日本や世界の地理・歴史など実用的で内容も幅広いものになり、福沢諭吉の「学問のすゝめ」なども活用されました。
 そうした新しい教育観に立ち、日本で最初の小学校教科書を出版したのが、なんと芸北の川小田出身の古川正雄です。               明治3年9月第1編発行・小学校教科書「絵入智慧の環」
                        シリーズ18 川小田の岡本周吉と福沢諭吉
 その後、明治8年9月に学舎名が廃止になり、明治9年3月から地名を冠した校名になりました。
 日新舎は、木次学校に。そして、大島南峰は高齢のため引かれ、熊谷凖逸が教員となりました。学校世話役は立川國太郎とあります。
 清新舎は、南方学校に。教員は熊野澤心でした。学校世話役は山田重之助とあります。
 得明舎は、額田部学校に。教員は朝枝慿實と岡崎市郎次でした。
 遥望舎は、畑学校に。教員は兼職の熊谷凖逸と立川美人でした

 そして、学校経営は第五大区(山県郡)御用所が所轄し、各村へ学税として賦課し、それを各学校の請求により交付しました。
 明治11年における学資の賦課は、木次村で、戸数93、1戸に付き6銭6厘25として61銭6厘、(水田からの出来高見込み)1石に付き12銭4厘として15円32銭、計15円93銭6厘。南方村で、戸数350、同上の戸数割が62円70銭、同上に石数割が2円31銭9厘、計65円1銭9厘。
 このようにして賦課した学資金の交付は、南方学校で、俸給に36円56銭6厘、器械に1円91銭4厘、宿料・営繕費・消防品に1円28銭6厘、借宅料に6円18銭、計55円73銭
 そして、残額は余剰金として貯めて学校建築の資金としました。

 その後、学校経営が大区(郡)から村へ移されたのでしょうか、「山県郡教育誌」に次の記述があります。
 「明治十一年より明治十三年までは小学校費を自治費と唱え、戸長役場の管理に属し、其の学校通学区城内人民に負担せしむ。該予算は村会に於て議定せしめ、人民より徴収し、戸長は毎月其の村学校の経費を支払う規則となれり・・・
 いずれにせよ、年貢に替わる税は国に納めましたが、教育費は地方で独自に徴収していたのです。

 
 このように、教育は地方の責任で行う原則を今に貫いている国があります。欧米の地方自治をベースとする国々です。
 その事例を、朝風第4号シアトルの住民投票でお伝えしました。
 教育は「学区」の責任で行い、4年間の教育計画を立て、それに掛る経費とそのための教育税を算出して、住民の賛否を直接、住民投票できくのです。この方法だと、否応なしに地域は学校の教育に関心を持ち、まさに地域の学校として盛り上げます。そして、学校運営などに積極的に関わってゆきます。そして、教育内容や方法はそれぞれ自由で、例えば学力の目標や教育方針を掲げ、それを達成できる教育者…日本でいう教育長を全国公募するといった方法をとっているところもあります。また、日本でいう教育委員会には、保護者はもとより、高校の場合は生徒代表も加わるというような学区もあるそうです。教育を受ける側の率直な意見を取り入れようというものです。学区それぞれが自由に競争して教育を向上させ、教育水準の高い町には転入が多く、町が潤うといったことがある反面、貧しい地域は財政的に苦しいという問題もあります。そうしたアンバランスを補うため、州政府の補助金制度もあります。
 極端な事例かもしれませんが、ワシントンDCでお会いした高齢者は郊外の小さな町に住んでいると言われました。その町には学校がないので、教育税が要らないからだそうです。その町の子どもは、近隣の町の学校へ通学し、相当の負担をするのだそうです。
 もうひとつ参考例を朝風第4号シアトルの住民投票 に載せています。
 シアトル市では、日本で言う小学校入学時点で学力やしつけが整わないため1年生での学習に支障があるので、就学前教育を行おうということになりました。そこで、日本で言う公立の幼稚園を考え、その財源として新たにエスプレッソ(コーヒーのような飲み物)1パイ当りいくらの新税を課す案がまとめられました。そしてその教育方法と新税の案が住民投票にかけられましたが、反対が多く否決されました・・・住民投票が実施されるまでの間、市民を挙げて教育論が闘わされたことが想像されます。

 インターネットは便利なものです。アメリカ合衆国の学区をご覧ください。
 ドイツ連邦共和国では、教育は基本的に州に委ねられています。

 確かに日本は、教育は国の責任として国の積極的な推進により、全国一律に優れた教育を施すことができました。しかし一方では、とかく日本の教育は学校任せ、先生任せになり、保護者や地域が教育内容に関心が薄く、家庭や地域の役割が十分に発揮されない側面があることも否めないところです。



 明治12年に学制を廃され、太政官布告により教育令が発布されました。小学校、中学校、大学校、専門学校に分けられ、それぞれ制度や学科、教科書、教員資格、月俸などが定められました。小学校では、読書、習字、算術、地理、歴史、修身ほか、物理、生理、博物、女子には裁縫を教えました。
 そして、町村は小学校を設置しなければならないとされ、学校世話役に替えて学務委員を置くことになりました。学務委員は村民が選挙した者の中か県令が選考して任命しました。
 しかし、教育への取組み状況に地域格差が生まれたため、教育令は明治13年に改正され、学校の設置
・廃止は県令の認可、就学の徹底、授業日数等の改正などにより国や県の指導が強化されました。

 明治15年には小学くや小学校名が定められ、第22小学区は、額田部小学校南方小学校(以上、南方村)、木次小学校畑分校(以上、木次村)となりました。南方小学校の教員は、六等訓導の熊谷凖逸でした。
 名田富太郎著「山県郡教育誌」には、「明治15年2月 木次村木次小学校新築成る。詳細不明。」、「明治15年3月 南方村正田に南方小学校を新築せしが翌年2月9日焼失、3月に武住に再築、4月移転式を行ふ。校地71坪は借地なり。」とあります。

 この頃から、「教育」を巡る状況が変わります。
 明治維新以後、欧米の思想を受け入れ、自由な気風が高まり、自由民権運動なども展開されましたが、一方では経済状況が悪化して納税に苦しみ農地を手放す者が増えるなど不満が高まり、欧米の経済に遅れを取った日本を発展させるため、国の強力な政策が展開されるようになります。そのため、英米流の自由・民主の政治から、独流の立憲君主制による中央集権的な政治に転換され、教育もそうした渦の中に巻き込まれました。
 また、学校教育の実態として、就学率や出席率の低下、地域経済の格差等々により、村々の学校運営に支障をきたす事態も生まれたため、明治19年に、村ごとの運営から山県郡全体を一小学区すなわち「山県小学区」とする運営に変えられ、教育内容を軽減するなど経費節減対策が講じられました。その時、郡内で7校は小学校として残りましたが、小学校よりも簡単な教則を以て教育する所として小学教場が設けられ、南方小学校は南和小学教場に、木次小学校は南和小学教場分教室に、また山越や飛び地などで中央の学校に通学が困難な地域には巡回授業所が設けられることになり、畑分校は畑小学巡回授業所にとなりました。
 この時点で、額田部小学校名はなくなっています。
 しかしこの頃、国において大きな政治の変革があり、ドイツ流の立憲政治を目指し、その前提条件として教育の重要性が認識され、国の指導のもとで教育の普及が図られることとなりました。
 その前年の明治18年には太政官制が廃止され、内閣及び各省が置かれ、伊藤博文内閣のもとで森有礼文部大臣は教育改革に取り組みました。そして明治19年に小学校令が発布され、翌20年4月に実施され、小学校は高等小学校と尋常小学校の二等とし、それに至らない地域については小学簡易科で代用することとしました。簡易科は修業年限3年で、それを卒業したら尋常小学校4年に編入するという方法です。その結果、南和小学教場は南和簡易科小学に、畑小学巡回授業所は畑簡易科小学に改められた。これらの簡易科を卒業すれば、壬生村の山県第五尋常小学へ編入します。校表にないものは廃止すると注記がありますので、この時に元の木次小学校は統合されたのでしょう。そして同じ20年10月に、南方簡易小学校畑簡易小学校に改められ、位置はいずれも南方村となりますので、この頃、南方村と木次村が合併したのでしょうか。 参考・北広島町の変遷
 その後明治24年に、南方簡易小学校は南方尋常小学校とあり生徒は男98女83、畑簡易小学校は畑尋常小学校とあり生徒は男34女4でした。
 さらに明治34年には、南方尋常小学校は男47女59、畑尋常小学校は男29女25となっています。女子の就学が普及したことが窺えます。畑に相当の家数があったようです。

 その間、明治23年には教育勅語が定められ、修身・道徳教育が展開され、国家主義的色彩を濃くして行きました。以後、おおよその検討がお付と思います。
 その後、教育年限が延長され、順次、尋常小学校に高等科が併設されます。大正9年に、南方尋常高等小学校になりました。畑についてはそのまま尋常小学校となり、高等科は南方尋常高等小学校に進学したのでしょう。
 以後、学校が狭隘となり、南方尋常高等小学校は昭和11年に新築、畑尋常小学校は昭和12年に拡張工事を実施しました。
 世は戦時体制に突き進み、昭和16年に小学校は国民学校と名を変え、国の統制下におかれました。

戦後は、昭和22年に、南方小学校畑小学校となりました。
 畑小学校は、昭和59年に生徒が5人となり休校。生徒は南方小学校へ編入しました。



 
 少し考えてみました。
 あのアルプスの山岳地帯のスイスがしっかりとした経済を保ち、スイスフランが安定しているのはなぜか、不思議です。日本で言えば、関東平野よりもしっかりとした経済を日本アルプス周辺の町や村が維持しているのです。
 しかし、スイスの歴史を尋ねると、今日の経済基盤を得るまでの道のりは決して生易しいものではなかったようです。彼らはその昔、ヨーロッパの平野部へ出稼ぎして、経済の不足を補いました。「血の輸出」と言われるように外国の雇い兵となって働きました。何とかして技術を持ち帰り、自国の産業にしよう。子どもも朝早くから夜遅くまで働かされたと言います。しかしその後、反省の機運が高まり、子どもの教育を大切に考え、地域の将来を担う人材教育を施しました。地域の合意のもとで、教育を推し進めたのです。
 ドイツの場合も、産業が広く山間の地にも点在しています。州ごとに、日本でいう文部省があり、独自の教育を施します。子どもの能力に応じて、早めに職業教育をして地域産業の人材確保に努めていると聞きます。
 そのようなことを考えると、日本経済の発展段階が装置型の大規模生産の時代に入ったとはいえ、世界に例を見ない過疎・過密の一因は、こうした教育の在り方にもあるように思えます。

 とにもかくにも、明治以来、日本の小学校の名前は、多分に国の都合でいろいろと名前を変えさせられました。調べたことはありませんが、欧米の自治の進んだ国(ドイツを除く)では、こんなことはないと思います。

 


 我が村の小学校の前身は、どういう名前か、とお思いの方もあるでしょう。
 参考までに、名田富太郎著「山県郡教育誌」から
  (学校番号順にしてあるはずですが、舎名、村名とも未詳なものもあります。)

 修道舎  吉木村字本郷
 勧善舎  吉木村字簾
 薫陶舎  今吉田村
 静進舎  阿坂村
 龍南舎  都志見村
 進明舎  戸谷村
 求益舎  西宗村
 薫朗舎  中原村
 諄誨舎  長笹村
 報徳舎  東八幡村
 成生舎  西八幡村
 明教舎  政所村
 明徳舎  橋山村 (記念の木柱が、橋山の大歳神社の隣に立っていました。)
               

 舎名未詳 川小田村
  〃    細見村
  〃    大暮村
 曠識舎  移原村
 舎名未詳 溝口村
 鳴皐舎  筏津村
             
                 筏津小学校閉校時に建つ         ひさし
                      鳴皐舎は、当時の三浦村長宅の庇を借用したそうです。
 さんろう
 芟陋舎  大塚村

 出藍舎  大朝村
 得眞舎  田原村
 分教舎  新庄村
 舎名未詳 宮迫村
 進習舎  岩戸村
 一陽舎  川戸村
 尚實舎  蔵迫村
             後の小学校跡の正門横に記念碑・・・その中に、「明治8年5月5日 尚實舎開校」とある。
 開鏡舎  下石村
 立本舎  志路原村
 金鼎舎  寺原村
 遷善舎  有間村
 精輝舎  春木村
 求明舎  今田村
 静修舎  有田村
 涵養舎  壬生村
 一斉舎  川井村
 交陽舎  總森村    惣森学校となり、のちに野賀に分教場ができる。川西小学校の前身。
 修業舎  本地村
 泉源舎  本地村
 鳳龍舎  石井谷村
 日新舎  木次村
 清新舎  南方村
 得明舎  南方村
 遥望舎  南方村

 註・ 「山県郡教育誌」には、これらの舎の位置、寺、神社、個人宅、教員、経費、人口、生徒数などが分る範囲で記されています。



   戦後の小学校 統廃合の経過一覧

   旧学校名  統合・休校 年  統合形態
    統合先
統合時の
生徒数
 統合後の学校施設の活用
 樽床小学校 昭和32年(1957) 八幡小へ吸収   36  ダム用地
 中野東小学校 昭和41年(1966) 雲月小を新設   31  地域運営宿泊施設(休業中)
 中野北小学校     〃    〃   65  農協倉庫・ゲートボール場
 土橋小学校     〃    〃   29  ノートルダム清心学園教場
 雄鹿原小学校
      空城分校
昭和45年(1970) 雄鹿原小が吸収    2  地域公民館
 橋山小学校 昭和47年(1972)    〃    3  地域公民館
 中野西小学校 平成元年(1989) 芸北小・新設   33  跡地に芸北小
 中野南小学校      〃    〃   18  高齢者生活福祉センター仙水園
 社会福祉協議会
 美和東小学校 平成12年(2000) 美和小・新設    8  美和文化センター
 宿泊研修施設
 美和西小学校      〃    〃    9  研修宿泊施設
 田原小学校 平成4年(1992) 大朝小へ吸収    7  田原温泉5000年風呂
 筏津小学校 平成8年(1996)    〃    9  筏津芸術村
 蔵迫小学校 昭和45年(1970) 八重小へ吸収   45  バイパス用地
 川西小学校 昭和47年(1972) 壬生小へ吸収   49  地域公民館
 八重西小学校 昭和62年(1987) 八重小へ吸収   39  地域公民館
 畑小学校 昭和59年(1984) 休校・南方小へ    5  地域公民館
 都志見小学校 昭和39年(1964) 豊平西小・新設   63  工場
 琴谷小学校      〃    〃   60  琴庄老人集会所
 都谷小学校      〃    〃  107  跡地に豊平西小学校
 長笹小学校      〃    〃   62  長笹公会堂
 吉木小学校 昭和41年(1966) 豊平南小・新設   91  吉木福祉センター
 阿坂小学校      〃    〃  131  工場・阿坂老人憩の家
 吉坂小学校 昭和42年(1967)    〃   88  今吉田老人集会所・広電車庫
 原西小学校 昭和46年(1971) 豊平東小・新設   99  原西きんさい広場
 原東小学校      〃    〃  115  原東生活改善センター
 原東小学校下石分校      〃    〃   39  下石生活改善センター
 酒森小学校 昭和46年(1971) 豊平西小へ吸収   26  共盛集会所
 豊平かじか運動公園

  * 中学校についても、昭和30年頃の町村合併に伴い統廃合がありましたが省略します。


樽床小学校
           樽床ダム用地


中野東小学校

      
             しばらくは研修宿泊施設として活用されたが、今は才乙地区の集会所となっている。

中野北小学校


土橋小学校
        


雄鹿原小学校空城分校
       

橋山小学校
      

中野西小学校
       川小田 跡地に芸北小学校

中野南小学校
       細見 跡地に高齢者福祉センター仙水園 社会福祉協議会

美和東小学校

    

                                       美和東文化センター

             

                 三上クニ from New York      kuni mikami trio japan tour
  
                文化の日   ジャズ・コンサート in 美和東文化センター

    場内アナウンサー・・・・開演します。携帯電話を切るか、マナーモードにしてください
    
出演者がステージへ
     そこへ、「夕焼け、小焼けで日が暮れて・・・・」
     携帯電話と思いきや、廃校前のチャイムが今も残っている。

     すると出演の三上クニさんは、ピアノで「夕焼け、小焼け・・・・」を引き、ジャズ調に

     ジャズは既成の音楽を脱して、自由奔放なメロディーを探し求めたもの
       ・・・正に、ジャズそのものの開演でした


美和西小学校

          

田原小学校

      

         田原温泉5000年風呂                     

       正面の学校の教室は宿泊施設
       左は、食堂
       元の講堂・体育館が待合室
           ステージで毎月演芸など
       教室と講堂の間に温泉

       運動場は駐車場

       お土産、地元産品コーナーも
                     あります
       付設のグランドゴルフ場あり

         問合わせ
           tel (0826)82-3888






筏津小学校

      


筏津芸術村
 10周年特別展

素晴らしい絵画に
  囲まれて
 アコーデオンで
    合唱

 筏津地域の
いきいきクラブ
(高齢者の集い)









蔵迫小学校
          

                     小学校はバイパス(国道)用地に・・・正門がバイパス脇に残る
                             隣に学校の歴史を伝える記念碑

川西小学校
    

 川西公民館の前庭に立つ石碑
 裏面



八重西小学校

       


                  
                     JA広島北部農協の木工教室


畑小学校
          

都志見小学校


琴谷小学校
     


 琴谷老人集会所の入口に立つ
 琴谷小学校の校門
 門柱は左右にある
 標識は、
 戦前に「琴谷尋常小学校」となっていたが、
 戦後に中の「尋常」が削り取られたようだ。



















都谷小学校


長笹小学校

       


吉木小学校


阿坂小学校


          
















吉坂小学校
















原西小学校




原東小学校














  学校跡に建つ石碑



 
名田富太郎先生の書による
  
原東小学校跡の記念碑

 名田先生は、この小学校に長年、勤務され、
 その間、志路原に住まれました。

 記念碑の説明版によると、
 この小学校も、次々と名前を変えています。

 明治7年  立本舎
 明治9年  志路原学校
 明治12年 志路原小学校
 明治19年 平南小学教場
 明治20年 志路原簡易小学校
 明治24年 
成志尋常小学校
 大正8年  原東尋常小学校
 昭和3年  原尋常高等小学校志路原分教場
 昭和16年 原国民学校志路原分教場
 昭和22年 原東小学校
 昭和44年 豊平東小学校原東教場
 昭和46年 豊平東小学校へ統合






原東小学校下石分校




酒森小学校

     


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