「自治のすゝめ」(要約版)


   第3編


第十一章  挫折

 「七人の侍」 
 
舞台を日本に戻します。
 西部劇は自治の物語と申しましたが、そのアメリカの西部劇が日本の映画を参考に製作されました。ユル・ブリンナー、スティーブマックイーン、チャールズ・ブロンソンなどの名優がガンマンに扮する「荒野の七人」は、黒沢明監督の「七人の侍」からヒントを得だのだそうです。「七人の侍」はヴェネチ映画祭の銀獅子賞を受賞したので、そうした機会に目にとまったのでしょう。
 ということは逆に、日本映画の「七人の侍」は自治をテーマとしていたことになります。
 ・・・・「七人の侍」の舞台は、戦国の世です。その時代、村はいつ野盗に襲われるかもしれない。村人は、自分たちで村を守らなければなりませんでした。
 ストーリーは、「七人の侍」も「荒野の七人」も同じです。村人は相談のうえ、侍=ガンマンを雇います。そして、戦います。
 そして、やっとのことで戦いに勝ちますが、どちらの映画も最後に、生き残った侍=ガンマンはつぶやき、村を後にします。
 「勝ったのは俺たちではない。あの百姓たちが勝ったのだ。」

 蓮如の苦悩 
 
「七人の侍」のように、農民に味方する武士もあったでしょう。しかしほとんどの武士は、一国一城の主を目指して時代の前面に出てきます。その壮絶な戦いに目を奪われて、とかく私たちは、戦国時代を武士対武士の戦いの時代と見てしまいますが、本当のところは、武士対民衆の戦い、すなわち武士の封建支配対民衆の自治との戦いでした。
 
巣立ちしたばかりの小鳥は、飛べる喜びで一杯です。勇んで「飛び立ち」、大空を自由に飛び回ろうとします。回りの恐ろしい獣や鷲も目に入りません。ちょうどこれと同じように、初めて目覚めて「自治」することを知った人たちは、「自治」することの喜びを知り、思い切り背伸びしようとします。そして随所で、旧勢力や武士と衝突するようになりました。
 その時の蓮如の苦悩は、大変なものでした。これまで苦労して育てた各地の門徒集団が戦火に巻き込まれる。差し迫った状況下で、蓮如は次々と「掟(おきて)」を門徒に発しました。(以下、笠原一男著「乱世に生きる・蓮如の生涯」から)
「一 諸法・諸仏・菩薩などを軽んじてはならない 
 一 真宗の作法を基準として他宗を非難してはならない
 一 守護・地頭などの政治権力の言いつけを大切にし、これを軽んじてはならない
 一 社会的には王法を第一とし、内心には仏法を本とせよ
 一 われこそは・・・本願寺門徒だといって(所かまわず、遠慮もせず)真宗のことを人にこれ見よがしにみせつけることは、
   たいへんな間違いである。
 一 もし人が「あなたはどのような仏法を信じる人か」とたずねても、はっきりと真宗の念仏者だと答えてはならない・・・・・
 一 四講の会合のとき、念仏の信・不信についての話しあいのほか、政治・社会などの世間の問題を云々することはいけない
 一 ・・・大勢であるから守護・地頭を刺激するゆえ、よくないことだ。必要な人数だけをえりすぐって・・・・             」

 蓮如の懸命の呼びかけにもかかわらず、守護・地頭など支配勢力と前面衝突となります。
 彼らは生産者であり、兵農未分離の状態で武力を備えることができました。そんな彼らが利害を超えて厚い信仰心で結束したとき、その勢力は強力なものになりました。彼らは、攻められ、殺されても、念仏を唱え戦いました。

 
第九章でお話しました山城国や加賀国の自治は、このようにして一揆に発展したのです。
 武士対民衆の戦い・・・武器を持って、武士のコーナーで戦っては負ける・・・とりあえず武士に従い、内心は仏の教えに従う。武士と共存しながら仏法を守り、時節を待つ・・・蓮如の願いもむなしく、武士の支配下に組み込まれて行きます。
 「進者往生極楽 退者無間地獄」(進む者は極楽に往生する、退く者は無間の地獄に落ちる)の旗を押したて徹底的に抗戦します。しかし、時の武士は、いかに懐柔しても服従させることが無理とみるや、彼らを皆殺しにする「根切り」をしました。


 したたかな自治
 
蓮如が求めたのは、たとえ表面上は支配されても、心までは屈しない・・・その姿勢から連想するものがあります。これまでお話したヨーロッパの例です。
 キリスト教は、三百年にもわたりローマ帝国の迫害に耐えました。「なんじの隣びとを自らのごとく愛せよ」、「敵を愛し、迫害者のために祈れ」を守り、厳しい弾圧の中で信者を増やし、遂に帝国の国教として認められました。
 その後も領主や王の支配を受けますが、教区自治でお互いに励まし合い、時には彼らは秘かに教会の地下室に集り、自治の精神を守り伝えました。そうした人々に伝えられたのが、ウイリアム・テルの物語であり、ロビン・フットの物語なのです。そうした物語が実際にあったかどうかが問題ではなく、そういう自治の物語を秘かに伝え、心までは支配に屈することなく、自治の精神を守ったことに意義があるのです。
 ウイリアム・テルの物語について、私たちはとかくウイリアム・テルの派手な立ち回りに目を奪われますが、この物語の大切なところは、代官のゲスラーが重い税を課したり、城造りに徴用したり、いろいろと無理難題を押し付け挑発します。それでも村人は、お互いに励ましあって我慢に我慢を重ねます・・・・読者さえも、もはや我慢できないというところまで追い込みます・・・・この物語もロビンフットの物語も、ヨーロッパの人たちに、北風の時も我慢して時を待てば、必ず南風の時が来る、それが真の勇気だということを教えています。
  ところが日本では、我が子の命を賭して国を守った英雄・・・そして、近年では、我が子を危険にさらす危険な物語として・・・

 リターン・バック

 
戦国時代の真の戦いは、武士対武士の戦いではなく、武士対農民の戦いだっと申しました。
 戦国時代も始めの頃は兵農未分離でした。農民は、地方の豪族の要請を受け、鍬を槍に換えて兵として協力しました。平素から農民を守り、大切にしてくれる武士でなければ積極的に協力しない・・・その意味で武士と農民は対等の協力関係にありました。「人は城」と言って城を築かなかった武士もいました。ところがやがて、ご承知のように兵農は分離され、農は武士の支配下に組み込まれてしまいました。
 武士対農民の戦いの最たるものが一向宗徒の戦いでしたが、多くの場合は知らず知らずのうちに武士の支配下に置かれ、身動きできない状況に追い込まれます。

第十二章  よろしからざる事

 家康の体験
 
ここからしばらく、暗い、気の重くなる話ばかりですが、ご辛抱ください。
 信長、秀吉、家康をもって戦国時代は終焉します。この過程で経験が家康以降の政策に反映されます。

 
信長は、10年に及ぶ西本願寺の戦いや、長島、越前、紀伊、雑賀等の一揆に苦労しました。信長に従った秀吉も同様ですが、家康も、三河の一揆のため何度か死地に追い詰められました。そのため、秀吉が始めた刀狩などの兵農分離策や身分制度を受け継ぎ、強化します。
 
そしてさらに、次々と民衆の抑圧政策を推し進めます。

 再び稲作強制 
 
秀吉は、大仏を建立すれば国土安全・万民快楽になると刀・槍などを集めました。そして、検地を強行します。その徹底振りから、太閤検地とよばれます。家康もこれを受け継ぎ、全国六十余州の検地を行い、石高制による領国支配の基礎を固めました。
 そして、農民を土地に縛り付けます。
 まず、農民が無断で土地を離れることを「逃散」と言い、罪とします。
 例えば、慶長十二年(1607年)に備前岡山の監国となった池田利隆は「申し渡百姓にす覚え」では、今後は人質はとらないが無断で逃散した場合には罰すると言い渡しています。さらに寛永十九年(1642年)になると、同じ岡山藩では「御法式」を示し、逃散があった場合、五人組みの責任を問い、さらに親類を尋問し、宿を貸したり荷物を送るのを手伝った者には米一石を出させ、村中の百姓から一軒当たり米一升を出させる。そして、逃げた後の田畑のことにも細かく注文をつけます。
 さらに慶安二年(1649年)に出されたものに慶安の御触書があります。質素倹約など農民の生活を細かく戒めています。
 寛永二十年(1643年)には田畑の永代売買禁止令を出して農民を農地に縛り付け、代々家を守り、土地を守ることを宿命つけます。 また、島原の乱以後、寺に宗門改めを行わせ、宗教や思想を監視します。

 徒党 
 
そしてさらにいろいろな規制を加えます。
 一揆の体験から、幕府や藩が恐れたのは、人々の自主的な集会でした。集会の場で不満が爆発して力が結集されると、一揆に発展します。そこで、「百姓大勢申合わせ候を徒党」と言い、「よろしからざる事」と言って罪悪視するようになりました。
 広島藩に「青枯集」という藩の下級役人の手引書が残されています。その中で、百姓が日々暮らせるのはお上のご恩だから、ありがたく思い、農業に精を出し、滞りなく年貢を納めるように。そして、徒党をすれば所の騒ぎになり、当人たちにとっても為にならないので、秘かに役人に申し出るように、庄屋が取り次がない場合は村回りか代官に封書で申し出るように。以上のことを百姓へ漏らさず読み聞かせるように・・・


 高札 
 
このような百姓への戒めが、「高札」として村に掲げられました。広島県福山市に伝わるものです。要約しますと、
      定
 一 よろしからざる事は徒党、そして徒党して強いて願事を企てることを強訴、申し合わせて村を立ち退くことを逃散
    徒党、強訴、逃散をその筋の役所へ訴え出た者には、褒美に銀百枚、場合によっては苗字帯刀も許す。
    たとえ一旦、仲間になっていても、発言した者の名前を申し出るならば、罪を許し、褒美を与える。
 一 訴え出る者もなく騒動になった場合も、村人を差し押さえた者、あるいは徒党に加わらなかった村方や鎮めた者に
    褒美を出し、名字帯刀を許す。


 暗黒の時代
 
もはや、人を信じることができなくなりました。たとえ不満があっても、それを口に出したり、相談すると、密告される恐れがあります。人々の心は歪められ、「見ざる、言わざる、聞かざる」を守り、我が身を大切に、閉ざされた村の片隅で黙々と生きるほかなくなったのです。これでは「自治」など成り立ちません。
 横山十四男著「百姓一揆と義民伝承」によると、江戸時代におよそ3212回の百姓一揆や打ち壊しがあったということです。一揆に至らないで、未然に発覚したものもあったでしょう。農民の要求を認めると、農民の自治を「自治」を認めることになります。そのため止むを得ず、咎めを覚悟で一揆に訴えます。それによって認められる場合もありますが、その後、首謀者は徹底的に糾弾されました。そして、集会や強訴、逃散を防止するため、「ためにならない」、「よろしからざる事」と人々を圧迫しました。


 村の広場 
 戦国時代以前では、村で頻繁に集会が行われ、村の掟に、村人の集会への出席義務を明記しているものもありました。
 ところが江戸時代になると、年に一度でも、村人が集って公式集会を開くということがなくなりました。村を運営するのは、もっぱら庄屋や組頭など村役人や有力者となりました。
 だから、日本の村や町には、集会の広場がありません。ここが、ヨーロッパの村や町との大きな違いです。ヨーロッパの場合、村や町の中央部に広場があって、周辺に公共施設や教会などがあります。ところが私たちの周辺の村や町を振り返っても、集会の広場だったというような場所は残されていません。近年、役所の隣に公民館や町民センターといった大きな集会所が建ってられましたが・・・
 日本の村や町には、広場はなかったが、「高札場」がありました。村の自治は無視して、高札に上意下達の禁止事項が張り出されました。


 享保の百姓一揆
 
私の郷里にも典型的な百姓一揆がありました。それは、郷土史家植田吾朗氏の研究で、大朝町歴史民族研究会編「あぜみち放談」に発表されました。要約しますと、江戸時代の後半に、ある百姓が砂鉄の関連事業で財を成し、広島藩から所務役人に取り立てられました。その頃、藩は財政の悪化で苦しんでいたため、その所務役人に年貢の増徴を指示します。それに反対して、村人は所務役人はじめ周辺の庄屋へ踏み込み、打ち壊しをします。藩はやむなく増徴案を引っ込めますが、騒動が鎮まった後、首謀者を探し出し、斬首、入獄などの刑に処しました。

 「義」
 村が窮地に追い込まれたとき、最後の手段は一揆でした。しかし、先頭に立つと自分や家族が犠牲になります。確かにそのとおりで、 新村出編「広辞苑」には、「義民=正義・人道のため一身をささげる民。江戸時代、百姓一揆の指導者などを呼んだ。義人。」とあります。問題は、辞書でも「義民」を江戸時代に限っていることです。
 ウイリアム・テルも、ロビン・フットも、日本流に言えば、「義民」と言うことになるでしょう。しかし、これらの物語を読んでも、彼らには、人のために犠牲になる、という思いがありません。そして、人々を勇気付けています。ハッピーエンドの物語だからと言えばそれまでですが、日本にも戦国時代までには、ウイリアム・テルの物語のように村人が力を合わせて村を守った物語がたくさんあったに違いありません。しかしそれらのハッピーエンドの物語は江戸時代になると、抑圧され、語ることができなくなり、葬り去られたのではないでしょうか・・・「義民」とは、自治のない時代に上から押さえつけられ団体自治が侵された時の、命と引き換えの最後の手段でした。


第十三章  上下の分

  再び儒教 
 
中世から戦国にかけて、世は乱れましたが、個人の主体性は発揮されるようになりました。
 主従関係を結ぶにも、双方に選択の自由がありました。「七度主君を変えねば、武士(もののふ)とは言えぬ」、実力主義で勝ち抜く社会でした。信長に見込まれた秀吉と光秀、そして信長に反旗を翻した光秀、主君に替わって君臨した秀吉、その秀吉も、家康をはじめ諸侯に秀頼へ忠節を誓わさなければなりませんでした。
 ヨーロッパの場合も、第七章「中世の自由」で紹介したように、フェーデ権を預けて主従の契約で結び、同時に複数の主君と契約を結ぶこともありました。
 ところが、日本の場合、ほどなく急転して、「滅私奉公」、「二君に見(まみ)えず」そして「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」・・・たとえ君がしっかりしていなくても、臣は臣の勤めとしてしっかり仕えなければならない・・・そうすることが美徳で、常識の時代になります。
 何でこのように変わったのでしょうか。
 「儒教」です。第四章「公」・官僚優位の思想でお話した孔子の儒教です。儒教は、徳を積んだ優秀な役人が、君主に代わって世を平安に治める、というものです。この儒教は、古代律令制社会に持ち込まれましたが、再びこの時期に持ち出されたのです。
 それを持ち出したのは、家康でした。家康は、下克上の世を目の当たりにして、儒教を積極的に導入しました。
 日本儒学年表(斯文会編)によると、文禄二年(一五九三年)に、家康は藤原惺窩(せいか)に「貞観政要」を講じさせたとあります。貞観とは、唐の太宗の時代で、儒教の教えによって世がたいへん良く治まったと言われます。
 一五九三年は秀吉が天下の時代で、朝鮮の役の最中でした。その頃既に、家康は準備していたのです。関が原の戦いの前年の一五九九年には、孔子の書物を木版により出版しています。

  家康と儒教
 そうした儒教の教化活動が、幕府の政策に反映するようになります。
 例えば、大名の憲法とも言うべき「武家諸法度」は、初めて制定された慶長二十年(一六一五年)のものは第一条が「文武弓馬之道、専可相嗜事」(文武弓馬の道をもっぱら相たしなむべきこと)と単純に文武を奨励していますが、天和三年(一六八三年)の武家諸法度では第一条が「文武忠孝を励し、可正礼義事」(文武忠孝に励み、礼儀を正すべきこと)、同じく第三条は「人馬兵具等、分限応じ可相嗜事」(人馬兵具等は身分に応じて相たしなむべきこと」というように、儒教色が濃いものに変わります。
 同じように武士一般に対して制定された「諸士法度も、寛永九年(一六三二年)のものは第一条が「侍之道無油断、軍役等可相嗜事」とありますが、早々に寛永十二年(一六三五年)には改定して「忠孝をはげまし、礼法をただし、常に文道武芸を心がけ、義理を専らにし、風俗をみだるべからざる事」となります。
 儒教は、徳川幕府の安泰のため利用されました。そしてさらに、人々の心に大きな影響を与えました。
 今でもよく知られるのが家康の遺訓です。桑田忠親著「現代に生きるリーダーの哲学ー徳川家康名言集」から、
 「人の人生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常をおもえば不足なし。こころに欲おこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ。勝つ事ばかり知って、負けることをしらざれば、害その身にいたる。おのれを責めて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。       慶長八年正月十五日    家康(花押)  」
 さらに同書では、「人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな」など現代にも受け継がれている名言をたくさん紹介されています。

   朱子学 
 
藤原惺窩が家康に講じたのは、儒教の中でも朱子学で、道徳的な儒教を政治論として体系付けたものでした。惺窩弟子の林羅山は、家康以来三代に仕え、朱子学を幕府の官学とする基礎を築き、以後、林家は代々にわたって儒家として幕府に仕えました。そして、幕府の手厚い庇護を受け、寛政二年(一七九〇年)には寛政異学の禁により朱子学を正学とし、他の学派の者は官吏に採用しないこととしました。
 この朱子学について、平凡社「国民百科事典」から要点を抜粋します。
 「・・・朱子学の厳粛主義は、義を利からきびしく分かち・・・国家中心主義・・・宋以後の官僚制中央集権の深化に対応して形成され・・・元以後清まで官学に採用された・・・」
 そして朱子学は、次のような一節をもって江戸時代の人々に迫りました。
 「 上下分を定めて
     その尊卑貴賎の位
       古今乱るべからず
   天は尊く地は卑し
     上下差別あるごとく
       その上下の次第を分かって
          礼儀法度という        」
 徳の高い者が君主に代わって世の中を治める指導者原理=官僚支配=中央集権=国家中心、そして上下身分の固定化・・・このような儒教・朱子学の思想は「自治」と相容れるべくもありません。人々は支配され、蔑まれ、ただ黙々と働き、窮々として生きる。不満も言えず、閉ざされた狭い世界で、自分のことに執着し、人を裏切ることも平気になる。せっかく育ちつつあった自主自立の精神は、封建支配の中に埋没してしまいました。
 この儒教・朱子学の精神は社会の中に深く根を下ろし、日本人の心に巣くい、明治以降も払拭されず、むしろ国家の形成とともに中央集権や官僚支配を強め、今日なお自治の進展を阻んでいます。

  君臣上下の分

 幕府の支配体制や愚民化政策を擁護したのは、官学の朱子学ばかりではなく、在野の儒教各派も君臣のあり方を説き上下序列支配の原理を説きました。新井白石、中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎などたくさんあります。
 人々は、「天下の御政道を論ずるのはもっての外」と、幕府や藩の政治を批判できず、狭い町や村の中にも序列が生まれ、町や村の政治にも口出しできない立場におかれました。このようにして植え付けられた意識は、自由で対等な参加を大前提とする自治を進める上で決定的な障害となりました。

第十四章  日本の夜明

  「人民が一番上」 
 
泰平の眠りをむさぼっていた日本にとって、嘉永六年(一八五三年)のぺリー来航はたいへんな出来事でした。四隻の黒船に、日本中が大騒ぎになりました。このペリーの来航は歴史的大事件として知られますが、それよりも前にアメリカ人が日本に上陸した事実がいくつかあります。
 その中のひとつ、ペリー来航の五年前に、マクドナルドというアメリカの青年が、北海道の焼尻島に上陸して捕らえられるという事件がありました。日本を探検したい一心から、漂流を装って上陸したのです。その青年は、翌年にアメリカの艦船に引き渡されますが、その時、迎えに来たグリン艦長が青年から次のような供述書をとっています。(刀水歴史全書5・マクドナルド「日本回想記」富田虎男訳訂の解説より)
 ・・・松前藩の役人が、青年マクドナルドを迎えに来るグリン艦長の位はどれくらいか、質問したそうです。藩として、クリン艦長の位に相応の役人が対面しようと考えたのです。その時、青年が「人民が一番上」と言ったら、藩の役人がけげんな顔をした。そして、二番目が大統領、その次が海軍長官、提督、大佐、中佐のグリン艦長はその次だと答えたら、役人はビックリ仰天したと供述しています。
 最初に「人民が一番上」と答えたときに役人がけげんな顔をしたのは、恐らくその意味が理解できなかったからでしょう。そして、グリン艦長の位を答えたときにビックリ仰天したのは、このみすぼらしい一青年を、そんなに位の高い人がわざわざ迎えに来るのか、と驚いたのでしょう。当時の日本では、位の高い武士が、庶民一人のため艦船を動かして迎えに行くなど考えられないことでした。
 一八四八年のアメリカといえば、独立して八十年も経ち、西部開拓もたけなわ、次々と新しい州が誕生していました。そうした西部出身のジャクソンが一八二八年に大統領になり、西部の町での「自治・民主」の体験を生かし、一部の者の特権打破と大衆の政治参加に努めていました。そして一八六一年に、奴隷制度をめぐって南北戦争に突入しました。その後に生まれた大統領が、「人民の、人民による、人民のための政治」で有名なリンカーンでした。
 この時代に育ったアメリカの青年マクドナルドは、専制支配と民主主義の違いがよく解っていました。彼は、日本人の役人の反応を目ざとく見つけて、「思ったとおり、民主主義がさっぱり解らない国だ」と嘲笑し、報告しているのです。


  ええじゃないか
 
慶応三年から四年にかけて、民衆の中に不思議な現象が起きました。慶応四年は、明治維新の年にになります。
 人々が一団となって、「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂いうのです。それは、神仏のお札が、家の屋根や庭に振ることから始ります。お札が振った家では、お札を神棚か仏壇に供え、酒肴を準備します。集った人たちは、土足で家に上がり込み、酒肴の振る舞いを受け、酔うほどに熱狂して踊り狂い、「ええじゃないか」と囃し立て、町を練り回ります。お札が振るのは、豪農や豪商でした。
 このおかしな現象は、三河あたりで始り、関東、近畿、山陽にまで波及しました。
 この不可解な騒ぎは、何を意味するか。「ええじゃないか」を口ずさんでみてください。
 二百数十年にわたって抑圧され、虐げられ、やり場のない人々の立場になって口ずさんで見ると、解るような気がします。平素は玄関に入るのも平身低頭する豪農や豪商の家に、今日はどたどたと土足で上がり、酒肴を持ってこさせる・・・何か時代が変わるらしい。「いいぞ、いいぞ」という気持ち。さりとて、楽になるものやら、いっそう苦しくなるものやら・・・「どうにでもなれ」という投げやりの気持ちも伝わってきます。
 島崎藤村の「夜明け前」の主人公の半蔵も、この「ええじゃないか」に、「下々(しもじも)の草叢(くさむら)の中」から燃え上がるエネルギーを肌身で感じ、胸をときめかしていました。


  明治〃維新〃 
 
何かしら新しい時代が来るらしい、人々は、幕末の相次ぐ出来事の中に時代の大きなうねりを感じ取っていました。
 そんな中、慶応四年(明治元年)三月に、五個条御誓文が発布されます。その第一条「広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スヘシ」の条文は、子どもでも暗唱するほどでした。
 しかしながら、人々の期待とは裏腹の方向に流れました。依然として人々の政治参加の道は閉ざされ、「広ク会議ヲ興シ・・・」は実現されませんでした。それはなぜか、いままでお話した視点に立って分析するとよく解ります。
 要約しますと、
(一) 明治政府は、中央には古代律令体制と同じ太政官・大臣制を取り入れ、地方には政府任命の知事、その下に知事任命の郡長、区長を配し、上意下達の中央集権・官僚支配体制を敷きました。
(二) この官僚体制を支える儒教が受け継がれました。儒教については既に再三述べたように、孔子に始まり、国を平安に治めるため、徳の高い人が君主に代わって慈政を施すことを是としました。
(三) そして、儒教が引き継がれたことにより、主従、忠孝、上下といった精神が残存し、民主的精神の発育を阻みました。
(四) 引き続き稲作強制が行われ、人々は土地に閉じ込められました。


  再び律令制 

 まず初めに、(一)の律令制のことです。
 明治維新政府の体制は、古代律令制と同じだと言えば、そうだったかなとお思いでしょう。事実、そうなのです。
 それには背景がありました。幕藩体制下では、各藩は幕府の監視下にありましたが、それでも各藩は独立して経済を営み、当時「国」と言えば藩のことを指し、地方それぞれが特色のある国を形成していました。ところが幕末になると、日本をめぐる国際環境は急を告げ、フランスやイギリスなどが幕府や藩に触手を伸ばし、中国のように列強の植民地にされかねない状況にありました。そのような緊迫した状況下で、各藩や諸勢力をまとめ、日本を一つの国として統一する方法として登場したのが、王政復古、尊王攘夷でした。日本古来の天皇を頂点とする律令体制を敷き、中央集権体制を構築することによって日本の統一を図ったのです。
 幕末の動乱の中で活躍した坂本竜馬は、維新の一年前の慶応3年に『八策』という意見書を提出しています。その中で、『第四義 律令ヲ撰シ 新ニ無究ノ大典ヲ定ム 律令既ニ定レハ 諸侯伯皆此ヲ奉シテ 部下ヲ率ス』と律令制を推奨しています。
 その状況は、かって古代日本の統一過程で、豪族などの諸勢力を押さえるため、律令制を確立した「大化の改新」と同じようなものでした。
 そして この律令制を支える思想が、儒教がでした。
 実際に明治四年に太政官制が敷かれ、地方には廃藩置県が行われました。県には政府任命の府知事や県令が送り込まれました。さらに明治五年には太政官布告が発せられ、昔からの村とは別に一〇〇戸もしくは五〇〇戸を単位に小区とし、一〇〇〇〇戸を単位に大区を設ける一方的な再編成が行われ、従前の庄屋といった呼び名を廃して戸長、区長と呼ぶよう指示しました。

 新潟県史によると、改革の熱意に燃えて地方に下った少壮の県令が、郡政(郡中)改革としてこのような地方制度を推し進めたとあります。全国どの県も、同じようなことだったでしょう。
 
新政府の役人のほとんどは、儒教の流れを汲む漢学を教え込まれた元藩士でした。
 このようにして始まった官僚主導の政治思想は、戦後も払拭されることなく続き、官僚任せの政治となり、民主化の道を阻ばむ要因となりました。


  「跋扈の幣」
 
この新潟県郡政改革の中で、従来の村や庄屋の体制を止めて、画一的な集権体制が必要な理由を挙げています。
 その理由の一つに、村を庄屋に任せると、『跋扈の弊』があるというのです。跋扈の弊とは、何か。それは、後漢書雀馬伝の中で使われた用語で、「大魚が籠に入らないではねる・・・転じて、上を疎かにして思うままに振舞うこと」を意味します。
 幕藩体制下では、年貢を集めて納める外、村のことは庄屋に任されていました。庄屋任せでは、徴税、徴兵その他の行政を画一的に進めることができません。近代国家を目指すには、全国の市町村を掌握して上意下達の体制を整える必要がありました。そのため、新に県が任命した戸長や区長に、『例規ニ照ラシ』、『細大トナク』県に届けることを義務付け、区独自の布告の禁止、訴訟状へ区長や戸長が所見を書き添える奥書の禁止、許可なく課税の禁止などで自治を制約しました。


  「広ク会議・・・」と言いながら
 
五箇条の御誓文では、その最初の「広ク会議ヲ興シ ・・・」は広く知られ、人々に新しい時代の到来を予感させました。しかしその実は、集会に消極的・否定的でした。
 御誓文が発布された慶応四年三月十四日の翌日の明治元年三月十五日に、太政官は、第十二章で紹介した高札と内容がほとんど同じ高札を掲げました。徒党、強訴、逃散を御法度として禁じ、犯した者を知らせれば褒美をやるというものです。そして、戸長を通して、村寄合と称して集り、酒食に興ずるような事は止めるように。相談事があるなら、村の主だった者だけで話し合うように布達を出しています。
 さらに後には自由民権運動が活発になりますが、それに対して集会取締規則を定め、演説などに制約を加えました。


  またまた儒教
 
明治以降も、儒教が受け継がれました。
 乱れた世の中を治める際に持ち出されるのが儒教です。これが、明治維新後も政治思想の基調に置かれました。
 慶応四年三月の、先ほど紹介した徒党、強訴、逃散を禁じた高札と同じ時に、次の高札を掲げます。
   『  高札 第一札  人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事     
               ・・・・・                        太政官   』
 五倫とは、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友のあるべき姿を説く、儒教に基本となる教えです。その教えるところの秩序・・・家長中心の家の秩序、さらに家を擬制した国の父と臣下や民などの上下的秩序を守ることによって国を治めようというものです。それは、五箇条の御誓文の『旧来ノ陋習を破り・・・』の理念とも矛盾するものですが、幕藩時代と同様に政治のバックボーンとなりました。そしてその国家理念は、やがて国家ナショナリズムへの道へ引きずり込むこととなります。


  教育勅語
 
この儒教に、教育も押し流されます。
 明治五年に政府が教育に取り組む際に発布された「学制」では、その序文に、『人々自ラ其身ヲ立テ 其産ヲ治メ 其業ヲ昌ニシテ 以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ外ニナシ・・・』とあるように、自主・自立の精神を尊び、そのための学問を奨励しています。その「学制」のもとに学校が建てられ、例えば広島県北広島町の例ですが、創設された学校の名前は、「出藍舎」といった漢学風のものがある中で、「自由舎」、「進取舎」、「日新舎」、「芟陋舎(古いしきたりを刈り取るの意)」、「鳴皐舎(気高く進むの意)」というように斬新な校名も見受けられ、新しい教育への意気込みが感じられます。
 ところが一方で、明治政府は儒教の導入に走ります。例えば、先に家康の儒教導入について紹介した斯文会編「儒学年表」によると、『明治十三年二月 右大臣岩倉具視 儒教に依りて堅実なる思想を養成し、以て国基を鞏固ならしめんとし・・・・』儒学者と協議したとあります。そうした政府の姿勢は、政策に反映されます。その一つで、人々に大きな影響を与えたのが「教育勅語」でした。『・・・我臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ・・・臣民父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ夫婦相和シ 朋友相和シ・・・』と儒教そのものの内容になりました。

  稲作強制の強化
 
明治以降も、稲作強制は引き継がれ、むしろ強化されます。
 幕藩体制化では、庄屋が農民から年貢を集め、藩主に納めました。年貢は強制的に賦課され、藩の政治を批判することは許されなかったが、農地の売買が禁止されていたので、農村内部は比較的平等な状況が保たれ、講などの場で話合いや相互扶助を行うことができました。
 ところが、明治になると農地の売買が自由になり、地券が発行され簡単に売買されるようになりました。そして、作況に関わらず、地価に応じてお金で直接税を払わなければならなくなりました。そうなると、不作、あるいは病気などで税の支払いや生活に行き詰まると、農地を手放す農民が増え、一方では多くの田地と小作人を持つ地主が現れます。その結果、農村は階層分化が進み、複雑な序列が生れ、村の運営は一握りの有力者が行うようになりました。そうした社会構造のもとで、農民はますます土地から離れられない状況に置かれました。

 以上のような状況下では、自治の進展は難しく、一方では産業や軍備の強化を急ぎ、住民の思いが届く政治の道は閉ざされました。


第十五章  窪田次郎らの実践
 
 民選議院設立の建白
 
幕末のいろいろな出来事から人々は新しい時代の夜明けを感じ、「広ク会議ヲ興シ・・・」は新しい時代のスローガンと受け止めました。しかし、それをいかに実行するか、具体策が示されないまま時が経過しました。その一方で、戸籍、租税、徴兵などの政策が進められ、征韓論や台湾征討などの問題が世論を賑わすようになると、国民の中から、「広ク会議ヲ興シ・・・」を実行しない政府に対して批判が高まります。明治七年に、板垣退助らは民選議院設立の建白書を提出して政府に迫りました。
 政権は『独り有司に帰す』、そして『夫れ人民、政府に対して租税を払うの義務あるもの 乃政府の事を予知可否するの権理を有す』と主張します。この「有司」の意味は二段階に考えられます。まず第一段階として、「有司」とは論語に出てくる言葉で、役人・官僚という意味です。「有能な司(つかさ)」ということでしょうか。ですから、政治が官僚の思うままに進められていると官僚政治を批判しています。さらに第二段階として、提出した板垣らからすると、有司とは官僚の中でも政権の中枢にいる薩長出身の役人のことでした。建白書の中では特定していませんが、政敵としての薩長でした。そのような事情から、板垣らがせっかく納税者の権利を出張しながらも、当時の世論の中には、自らも官僚を辞任した身ではないかと政権争いに受け止められた側面がありました。
 ともかくも、この建白書は却下されますが、これを契機に各地で自由民権運動が始ります。


  
窪田次郎
 こうした板垣らの活動や自由民権運動については広く知られているところですが、それよりも早く明治四年頃から、
「広ク会議ヲ興シ・・・」の実現をめざして活動した人たちがいました。その中心になったのが窪田次郎でした。
 場所は、福山藩、そして廃藩置県後は小田県となった今日の広島県東部と岡山県西部一帯。窪田次郎は、現在の福山市加茂町にあたる粟根村の医師でした。
 窪田次郎は、子どもの教育が大切と考え、藩内の村々に啓蒙所という教育施設の設置を提唱します。当時の厳しい藩財政では藩に頼ることができないため、それぞれの村でお米を出し合って啓蒙所を設立する方法を考え、村人を説得しました。そのため粟根村では、選挙をして代議人による政治を試みました。そうした経験をもとに、民意が反映される政治に関心を持つようになります。

  
下議員結構ノ議案
 
政府は全国に、大区小区を設けます。そして県には政府任命の県令が派遣され、概ね五〇〇戸を一小区の基準とし、従来の小さな村を数村ずつ集めて小区とし、小区の上に概ね郡の単位で大区を置きました。そして県令が、小区には戸長、大区には区長を任命して、戸籍などの事務を行わせました。従来の村の慣行を無視して、正に律令制度を上から押し付けるものでした。そして政府は、「上から」一方的かつ効率的に行政を推し進めようとしました。この仕組みでは政策は上から下へ降りてきますが、民意が政府に上がりません。地方の人々は納税や兵役などを押し付けられるだけで不満が溜まります。窪田j次郎は、何とかして民意を政府に伝え、民意を反映した政治が行えるよう思案しました。そして生まれたのが『下議員結構ノ議案』の構想をです。
 その構想とは、『
議政ハ下ヨリ昇』るよう、小区会から大区会へ、県会へと臨時議会を開き、当時課題となっていた問題を議論して、その決議を積み上げて、民意を政府の議会に持ち込むというものです。

  
自主ノ民権
 
窪田次郎が『下議員結構ノ議案』を構想した目的の一つは、民意の反映する政府を目指したものでしたが、今一つの目的は、人々のそうした政治への参加を通じて学習の機会を得て、『一区中人々 自主の民権を保テ 戸々繁栄資財倍息可能致様』というものでした。その発想は、正に「地方自治は民主主義の学校」という考えで、第三章「世界の夜明け」でお話したイギリスの地方自治の理念に通じるものです。

  
直接参政
 
小区、大区、県において民選議員による議会を提案しますが、同時に民意が政治に直接反映できるよう心をくだきます。
 小区においては、子どもたちが学ぶ啓蒙所と隣接して会所を配置します。そして、啓蒙所の子どもたちが会議を見学し、県からの通達などを子どもたちに暗唱させ、家族に話し伝える。
 そして『格外ノ大事件』は、戸長や組頭など主だった者や代議人だけで決議しないで、住民一同に議案を丁寧に読み聞かせ、所存のある者は三日以内に代議人に申し出て四日目に臨時議会を開いて決議する、としています。大区においても『格外ノ大事件』は小区の代議人二名に戸長、組頭など主だった者や啓蒙所の教師などで大会議を開いて決議する。また、県会において、特定の地域に関係する議案については、管轄する大区の議員は一旦大区に持ち帰って大区臨時議会を開いて意見を聞き、県会に臨む。
 窪田次郎らが、これまで紹介した住民総会、タウン・ミーティングあるいは住民投票といったイギリスやスイスやアメリカなどの直接参政制度を知る由もありません。しかし、できるだけ民意が反映する政治をしたいと思うとき、行き着くところはこうした直接的な方法がもっとも民主的ということでしょう。


  空論ヲ飾ラズ
 『下議員結構ノ議案』の構想の中で、会議が円滑に進行するよう細かに条文に定めています。
 まず現状として・・・「郡内村々の風土や人々をお互いに知らない、教育が行き渡っていない、選挙をするに読み書きも不十分で人物を鑑定する力がない。そして、話上手な人を開達家と見なし、沈黙の人を深謀遠慮な人と見なし、喧嘩や言い争いをまあまあと治める人を機略勇決の人と見なす。選ばれた議員が、空論を張って議員然としたり、古い考えで新しい問題に対処しようとする。あるいは、あれこれ策略をめぐらすが、問題を解決することができない」・・・・この説明には、窪田次郎の苦労がにじみ出ています。江戸時代から明けたばかりの明治の初めです。いきなり、話し合いで物事を解決するということは難しかったことでしょう。
 彼の苦労は、『下議員結構ノ議案』の条文からも窺えます・・・・ 「選挙に当っては、『職業貧富才不才学不学ニ拘ワラズ』平生から万事について候補者を観察し、信頼できる人を、自分で考えて投票するように。代議人は、布告などをよく理解して区内に広める。そして、区内の家々の暮しや人々の気風行状に気を配り、心得違いの者には親切に教え、困窮の者には授産の道を教え、啓蒙所が盛栄するよう尽力し 道路橋梁堤防等の修理の方策を考え、 地域の産物の開発を試みるなど配慮する。議員たる者は、何があっても決して怒を発したり 自分の勝手な思いで言動しないこと。また、議員であることを誇ったり 威勢を張るようなことをしてなならない。もし、議員が会議に欠席して、後になって異論を主張し 決議を妨げるようなことをしてはならない。たとえ自分の目的に沿わない人や仕事であっても、決議したことには従わなければならない」・・・誠に懇切丁寧に諭しています。
 「そして、『外ノ大事件』の決議に際して、三日以内に異議を申し出ずに後になって決議を誹謗する者は狂乱者と見なし、役場にその名を掲示する。また、村人の喧嘩や争闘を調停する人は代議人に限る、他の者はたとえ篤行や才略の評判があっても一切手出しをしてはならない。そしてさらに、会議中にほかの事を話したり、ほかの人を誘って中座したり、曖昧な言葉や決議表明をしてはならない。自分本位になって、公けの大切なことを疎かにしてはならない。自分の思うことは丁寧に反復して、詳細に話すように。」

 窪田次郎の細かな記述は
一見、滑稽な感じさえしますがしかし、決して明治の頃に限った問題ではありません・・・・今日でも似たようなことが多々見受けられます。ついつい怒りを発する、攻め立てるように話す、人の名誉を傷つける、悲観的な話に終始する、長演説で具体性のない空論を述べる、他人事のように話す、せっかく出席しても一言も話さない、自分や自分たちの集団のことばかり話す、同じ事をいつまでも言う、後になってぐずぐず言う・・・・等々のため、お互いに納得できる解決ができない。今日に至っても克服されていない課題です。
 これらの問題は、自治の体験が乏しいことも一因です。何度も申し上げるように、地方自治は民主主義の学校と言われ、自分たちの問題は自分たちで話合い、解決する。そうしなければお互いに損をする。欧米では民族が始って以来、生きるために培ってきた地方自治の精神・・・その体験が、日本では戦後も不十分なまま今日に至り、話合いはいつも役人や政治家に「お願いします、頑張ってください」で終わってしまい、役人任せ、政治家任せになって、気が付いたときには国や自治体が多額な借金を抱えてしまいました。

  議政ハ下ヨリ、為政ハ上ヨリ
 
治五年に作成した『下議員結構ノ議案』の構想は、明治七年になって実践のチャンスが来ました。
 明治七年一月、板垣退助らによる民選議院設立の建白書が政府に提出され大きな反響を呼びましたが、これを政府は取り上げる様子もなく日が過ぎた五月二日、政府は、全国府県の知事や県令を集めて地方官会議を開催すると宣しました。その後、兵庫県令が、地方官会議に先立って県民の意向を把握しておきたいので、意見のある者は申し出るように県民に告示し、地方官会議の議長に対して傍聴人を同行してよいか伺いを立てている新聞記事が出ました。窪田次郎は、その記事を見て思いつきます。自分が構想した『下議員結構ノ議案』を活用して県民の意見をまとめ、県令に県民の意見を知ってもらう。さらに傍聴人が同行して県令から相談を受けながら地方官会議に臨めば、地方の声が政府に届く・・・国に民選議院の設立が駄目なら、この方法がある。窪田次郎は、仲間を説得して実行に移します。
 議題には、日ごろ彼らが政府に対して疑問や不満に思っていた問題を取り上げ、小区で話合い、各小区の議決を持ち寄って大区で話合い、さらに各大区の議決を持ち寄って臨時県会で話し合い議決する。小区、大区、県会と積み上げて意見を集約するという膨大な計画です。

  政治の基本
 
窪田次郎が、この時代に、どうしてこのような開明的で民主的な境地になったのか不思議です。
 憶測するほかないのですが、一つには、彼は蘭医学を学んだことです。蘭医学の師をたどれば緒方洪庵の門下になり、また彼の父は長崎でシーボルトに学びました。蘭医学を通して欧米の思想を知ることができました。病気の治療には、貧富も身分もないという考えがありました。一部の者だけでなく、皆が良くならなければ・・・・という考え方を医学から受け継いだと考えられます。
 窪田次郎が欧米の思想の影響を受けたルートがもう一つあります。一八五三年に黒船が来航した時に幕府の老中首座にあったのは、福山藩主阿部正弘でした。正弘公は、広く意見を聞き、合議により鎖国の禁を解いて開国の道を開きました。正弘公に従った藩士やその折に開設された蛮書調所置、後の洋学調所に派遣された塾友から欧米の思想や制度を聞く機会がありました。そして、正弘公の合議の姿勢は、その後の福山藩に受け継がれました。
 今一つ、彼は、理屈ではなく、実践的に学んだことです。子どもの教育が必要と考え、藩や村人を説得します。村に啓蒙所を設立するためには、各戸からお米や生徒を集めなければなりません。食べ物に事欠く時代です。当時、子どもは一家の働き手でした。旧来の儒教を教える漢学者の抵抗もあります。しかし、今日のように義務教育として強制的に進めることはできません。そうした困難な中で、各戸が米を出し、子どもを学校に行かせるよう協力を得るには、一人ひとりに理解を求める民主的な方法以外に方法がなかったと思われます。
 途中、明治四年の秋に、藩債処理のため東京に行き、半年くらい東京で過ごします。そして、東京の一方的な文明の進歩や政治の展開とはかけ離れた、旧態依然の故郷・・・無知なる故に発生する大一揆など、中央と地方の乖離を痛感します。政府から村々へ、村々から政府へ・・・・どうすれば意思の疎通が図れるか、真面目に考え、真面目に実践したのが窪田次郎でした。
 実際のところ、自治の母国と言われるイギリス、自治の学校と言われるスイス、自治の実験室と言われるアメリカなどいずれも、理論や制度が先あって出発したものではありません。お互いに分かり合える地域の住民が、真面目に話し合い、真面目に実践しながら前進した結果です。


  実地験習ノ効ヲ積ミ
 
窪田次郎は、この構想の実践に大きな期待を抱きました。
 「・・・『実地験習ノ効ヲ積ミ』、これを行うこと十年にして、山間や島々の民は面目を新たにして、御誓文のお陰で、『旧習ノ雲霧』を払い、『新政ノ日光』を拝み、『私欲ノ迷路』を出て、『天地ノ公道』に立ち帰ることができる」・・・彼は、「地方自治は民主主義の学校」という視点に立っていました。

  協同合一、供ニ公益ヲ謀ルノ権利
 
人が力を合わせれば、大きな力が生まれます。その力を合わせる場の一つが、地方自治です。
 「小田県は条件が恵まれているのに貧しいのは、そうした場がないため、争いで疲弊し、小利に走り、『協同合一、供ニ公益ヲ謀ルノ権利』を知らないためだ。県の役人が駄目なだけではない。県民にも責任がある。一人ひとりが、将来に大きな希望を持ちコツコツと努力して『自主ノ民権』を保つならば、家々は繁栄し、豊かになるだろう。

 
今日につながる問題です。経済の流れるままに流れてしまった。その結果が、過疎過密でした。今日に至って地域づくりが叫ばれていますが、高度経済成長の前から、自治に根ざした地域づくりの取組みがあれば、もう少し違った、地域に特色があり、地域バランスの取れた日本になったことでしょう。
 話合いは、人を動かします。問題を理解すれば、自分も何とかしなければと思うようになります。行政や他人任せにせず、自分も責任の一端を担おうという気になります。そうした自治の精神から、ボランティアは生まれます・・・「
ボランティア」と外来語で言わなければならないことは、自治の歴史がない日本を物語っています。

  啓蒙所
 
生活を豊かにするにも、旧来の蒙昧から脱して文明を享受するにも、教育が大切というのが、窪田次郎の考えでした。そのため、幼児教育施設を「啓蒙所」と名付けました。そして、目前の生活にとらわれて、子守をさせたり、牛馬を飼わせたり、肥料にするため落ち葉を拾わせたりして子どもを働かせていては、いつまで経っても貧困から脱し得ない。寝酒の一勺、肴(さかな)の一切れを節約し、こんにゃくの一枚、薪割り一本を余分に働いて啓蒙所に助力して欲しいと説得します。
 スイス人はその昔、貧しい時代に、山間僻地で生きるため家内工業を興し、子どもを酷使しましたが、教育の大切さに気付き、学校を始めました。そして優秀な人材を育て、内陸の山間に適した産業を興しました。西部開拓で村人が集って最初に取り組んだのが、教会と学校でした。村人が我が子の成長のため学校を設ける共同事業は自治の出発点であり、住民の身近にあって絶えずその成果が問われるのは今も変わりません。

 
啓蒙所が小田県内で始められたのが明治四年頃でした。文部省が明治五年に学制を布告して、全国に学校が設立されるのは、それから二、三年後のことでした。

  人材陶冶
 
智識のための教育ではなく、実践的な教育を目指しました。そのため、啓蒙所と役所や議事所を隣接して配置することを提案します。そして、子どもに会議の様子を見せたり、通達などを暗記させ、家族へ伝えさせようとしました。家族ともども勉強しようというのです。
 
子どもの頃から自治を体験して共同社会の運営を学ぶことは大切です。そのため、スイスでは、放課後センターといったところで、「こども村」や青年クラブを自主運営させ、親は見守るが干渉しない・・・それを見た日本人が、日本の親なら非行少年の溜まり場になると言ってほっとかないだろうと印象を述べています。自主自立の人を育てることが教育の目的であり、同時に自治の目的でもある訳です。
 
                                      
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