「自治のすゝめ」(要約版)

   第2編

弟六章  ゲルマンの底力

  ゲルマンの活力
 
舞台をヨーロッパへ移します。
 北のゲルマンは、森の中を徐々に移動する生活を送っていました。しかし彼らは、好き好んで移動していたわけではありません。畑地は作り続けると痩せます。畑作は連作障害があります。周りの獣も獲り尽くしてしまいます。水田稲作のように、適地を確保して定住という訳に行かないのです。
 やがて彼らは、冬が長くて厳しい北の地から、過ごしやすい南へと動き始めました。そうした人々の中に、スイスの谷にたどり着き、スイスの源流となった人たちもいました。このことは、序章でウイリアム・テルの物語をお伝えしたときにお話しました。
 このようにして南に向かう人々は、やがてローマとぶつかります。ローマは、南下してきたゲルマンを支配下に組み入れ、貢納や奴隷の供給源にしようとしました。
そのときゲルマンと接触して、ローマとは異なる若々しいゲルマンの活力に驚き、ローマに警告を発したのが、前にも紹介したタキトウスの「ゲルマーニア」でした。
 例えば、奴隷の場合、ローマでは主人に追従して命じられるままに動き、鎖や鞭も使われました。ところがゲルマンでは、奴隷も所帯を持ち、外から見ると区別がつかないほどで、穀物や織物など一定の納付を命じるにとどまり、約束の義務を果たせば解放されることもありました。


  ゲルマンの大移動
 
ゲルマンと接触した初めの段階は、ローマが優位に立っていました。しかし、次第にゲルマンはローマに侵入します。両軍が対峙して派手な戦いもありましたが、むしろ浸透すると言う方が適当でしょうか、あるものは奴隷としてローマに連れ去られ、あるいはローマの兵士に雇われ、さらには納税を条件にローマの支配地を任され、徐々に力をつけ、ローマに浸透してゆきました。

  一群の独立国家
 ゲルマン生来の、寒い北の森で鍛え、おのれの名誉や勇気を重んじ、集権支配に抵抗し、自治の精神を護り伝え、仲間や同胞との友情を大切にする彼らのエネルギーが、ローマ帝国の支配体制を根底から覆すことになりました。
かくして、地中海に面するローマ帝国の統一国家から、太平洋側や北海側に広がる多くの独立した国家群に変え、今日のヨーロッパの基礎を築きました。
 そして、彼らの自主・自立の精神は、一方では競争してやまない近代化の波を興し、他方では行過ぎた闘争心を生み、国家間の紛争や戦争をもたらすことにもなりました。


  すべての道はローマに通じる

 
独立した国家群の時代になると、道もそこそこの国家内でクローズになり、他の国の道と必ずしもつながらなくなりました。ところが、ローマ帝国の時代を振り返ると、すべての道はローマにつながっていました。自主・自立の国家群の時代となって、改めてローマ帝国の偉大さに気づいたのでした。
 しかし、この「すべての道はローマに通じる」の諺は、我々アジア人にしてみれば少し奇異に感じます。すべての道は、東京にも江戸にも、古くは京の都にも通じているのは当り前で、中国の場合も中心となる都に通じているのは当り前でしょう。中央集権の国に馴染んだ我々アジア人には、すべての道がローマに通じても、諺にするほど偉大なこととは感じられないのです。



第七章  中世の自由

  フェーデ
 
偉大なローマの侵攻に耐えながらもじわじわとローマに侵入しゲルマンが、4世紀から5世紀にかけて大移動します。いわゆる「ゲルマンの大移動」です。その結果、ヨーロッパは大きな変革期を迎えます。
 変革の第一は、ローマ帝国の古代秩序が崩壊し、人々は古代的束縛から解放され、ゲルマン流の自助・自立の精神が注入され、人々の活動が活発になったことです。
 変革の第二は、キリスト教がローマ帝国の管理下から離れ、自由な活動により人々の生活の隅々まで行き渡り、ヨーロッパ全域に大きな影響力を持つようになったことです。
 後に歴史家はこのことを指して「ローマとゲルマンが融合して、ヨーロッパが生まれた。」と言うようになりました。
 しかし、それは人々にとって安穏としたものではなく、むしろ厳しいものでした。古代秩序が崩壊して、人々は混乱の中に投げ出されました。今日のように、法や国家がある訳ではありません。なんら頼るもののない、混沌とした世界でした。
 そのような世界で生きてゆくには、自らを守るほかありません。今日で言う自力救済権を発揮して自らを守るほかないのです。今日では法があり、自力救済は正当防衛に限られますが、その時代には、まさに実力の争いをもって決着を付け、その結果が神の裁きと考えました。そうした自力救済の権利=フェーデを主張することが、人としての名誉であり、人としての証であると考えました。

  ヨーロッパ封建法
 
しかし、このような自力救済権を主張して実に訴えると、いつまでも争いが続きます。一旦、争いが始まると、双方の血族が加勢し、負ければ敵を討つ。争いは大きくなるばかりです。
 そこで弱いものは、自分の自力救済権を、教会や貴族など他の有力者に預けてその保護に頼ります。これを、託身と言います。託身した者は主人のために労働し、主人は彼に代わって自力救済権を行使し、彼を守ります。こうして中世の農奴が生まれます。武士の場合も託身しますが、軍務につき、自力救済権の行使に制限を受けることになります。
 この中世ヨーロッパ封建社会は、私たち日本人が受け止めている封建社会と比べて、どうでしょうか。日本の近世封建社会は、滅私奉公、忠義を尽くす・・・自分を犠牲にしてまで主君に尽くすことが美徳とされました。この点はまた後で述べますが、中世ヨーロッパの場合、農民は領主に対して保護を求める権利があり、領主は農民を保護する義務がありました。だから、領主が義務を果たさない場合、逃げたり、領主と争うことは正当な権利と自覚されていました。武士の場合もそうで、主君と臣下はいわば契約関係にあり、双方に権利義務があり、例えば一人の臣下が数個の領主に仕え、知行を任されるということもありました。二君にまみえず・・・私たちが知っている封建制の常識では戸惑いを感じます。


  神の平和
 
自力救済権の預け先は、君主や領主には限りません。戦いを中止して平和な社会を造るため、教会は「神の平和」という運動を起こし、自力救済権の行使を中止する誓約団体をつくり、参加を呼びかけました。これは教会をエリアとする都市や農村を単位に行われ、都市や農村の自治獲得の運動に発展し、さらには司法、警察、行政を備えた「国家」の原型となります。そして、このような自治する都市や農村が連合してお互いに守ると言うこともありました。
 ヨーロッパ中世の人々は、君主や領主の無謀に打ちひしかれた弱い、従順な羊ではなく、いざと言うときは抵抗するたくましいやからであり、自治するゲルマンの伝統を失うことなく受け継ぎました。
 この時代は開墾が広く行われ、難を逃れた農民を受け入れる所があり、ゲルマンの森と同じ役割を果たしました。

  三圃制の普及
 
ところがヨーロッパにも十二、十三世紀を過ぎ中世後半になると様相が変わってきます。
 
託身して権利を守る集団をさらに守る上位の集団というように、集団を支配下において権利を一手に掌握する君主の時代となります。このように集権化の道をたどり、君主を支える役人が立法の名のもとに自力救済権を制限し、やがてすべての権利を掌握する絶対君主に発展します。
 その背景には、農業の生産力を飛躍的に向上させた技術の普及がありました。三圃制です。農地を夏畑、冬畑、休閑地に三区分してローテーションを組み、地力回復を図ります。初めにも申し上げたように、ヨーロッパの森は痩せていました。畑作は連作障害があります。同じ場所で作付けを繰り返していては収量が落ちるので移動しなければなりません。ところが三圃制なら、生産力が維持でき、移動が不要になるので居を構え、大きな犂などの農具を使い、計画的に作業することができました。その結果、収量は増え、生活は安定してきました。しかし、これを喜んでばかりはおれません。余剰ができると搾取が可能になります。しかも定住して身動きできません。そうした農民を支配するのは容易です。
 かくしてヨーロッパにも、集権化に好都合なアジア的条件が生まれました。


  ウイリアム・テルの時代背景
 
冒頭で紹介した、日本人におなじみのウイリアム・テルの物語は、このような時代を背景に生まれました。
 定住して生産を拡大する農民と、そうした農民の自治を奪い、武力を背景に税を要求する支配者・・・その戦いの物語です。豊かな平野部を支配下に置いたハクスブルグ家が、やがてスイスの谷合の村にまで触手を伸ばしてくる。ハクスブルグ家が送る代官と、村の自治を守る村人、その先頭に立ったウイリアム・テルの戦いの物語です。
 ウイリアム・テルの物語に類似の物語は、特に自治意識の高い北欧のあちこちに残されているそうです。前にもお話したように、スイスの人々のルーツは北欧という伝説があります。厳しい北欧の環境に耐えかねて南を指して移動した。その行き着いた先がスイスだったと言うのです。現に、スイスの自治の伝統は、北欧に通じるものがあります。

  シラー「ウイリアム・テル」
 
もともと伝説として受け継がれたウイリアム・テルの物語は、ドイツの作家シラーによって世に出ました。その戯曲「ウイリアム・テル」の中に、そうした時代背景がそのまま織り込まれています。
 ・・・・平野部は豊かだが、土地は王様のもので自由がない。自治がなくて、隣同士さえ信用できない。スイスには自由がある。自分で自分を守る。いかなる王にも屈したことはない。王の庇護も、自分たちで選ぶ。スイスは古い慣習と、自分たちで作った法律をもとに自治をしいている。

  テルの勇気
 
このウイリアム・テルの物語が伝えようとしている大事なことは、テルの勇気です。
 
実は、このところが日本人には知られていまっせん。テルは、わが子の頭上のリンゴを弓で射た・・・危険なことをする。それは真の勇気ではない。それが日本人の常識です。テルがなぜ、そのような危険なことをしなければならなくなったか。そこに至るまでには経緯があり、物語の重要なところです。
 ハクスブルグ家の手先の代官は、無理難題をけしかけてスイスの村人を挑発します。それでもスイスの村人は我慢します。あちこちの村の代表が集まって秘かに話し合い、戦いの意を決します。そうとも知らず代官はさらに挑発して、広場に代官の帽子を置き、村人へお辞儀をするよう立て札を立てます。これにお辞儀しなかったのが、スイス人として誇り高きウイリアム・テルです。代官はテルを責め、牢獄に入れる、さもなくば、我が子の頭上のリンゴを射つように迫ります。
 争いがあれば、堂々と対決し、神の裁きを受ける・・・これがこの時代の法でした。スイス人が誇る弓矢の名手として逃げることができない、逃げたら代官に屈したことになる・・・そうした状況におかれて矢を放ったのでした。矢は見事にリンゴに当たりますが、それでも代官はテルを逮捕しようとします。卑劣な代官に、遂にスイスの村人は蜂起し、力を合わせて戦います。ウイリアム・テルは、スイスの自治を守った建国の英雄として愛されるようになりました。

 ここで
重要なことは、このウイリアム・テルの物語が、その後の厳しい封建支配や絶対君主のもとでも、ヨーロッパの人々の中で秘かに語り継がれたことです。それが、次の自由で民主的な時代の「種」となりました。

 
このような場合、日本のお代官様だったらどう裁くでしょうか。
 代官とて、わが子の頭上のリンゴを射るような危険で非情な事は命じない。直ちに刑に処すか、あるいは今回だけはお慈悲で許そう。許されたテルも村人も、代官の寛大な処置に感謝して一件落着。しかしその結果、支配関係は固定します。



第八章  教区自治

  キリスト教の起源
 
このゲルマンの支配に屈しない自主自立の精神は、その後も受け継がれ、今日に民主主義をもたらす力となりました。しかし、この精神は、名誉や自由のために命を賭ける、荒々しい面がありました。これに優しさと忍耐の精神を注入したのが、キリスト教でした。
 ここで、キリスト教の起源をたどってみましょう。
 キリスト教はアジアやアフリカで生まれた、と言えば、本当?、と思う方は多いでしょう。実は、本当なのです。キリストが生まれたユダヤの町ベツレヘムや十字架の磔になったエルサレムは、アジアの西の端に位置します。さらに旧約聖書をひもとけば、アダムとイブが禁断の実を食べてしまった「エデンの園」や大洪水に命を救われた「ノアの箱舟」の物語は、今のイラク、チグリス川やユーフラテス川の流域が舞台と言われます。また、モーゼがエジプトを脱出して「十戒」を授かったのは、シナイ(半島)でした。
 これらの物語がキリスト教の中で意味するところを、かいつまんでお話します。
 紀元前の昔、ユダヤの民は、ヨルダン川の周辺に住んでいました。しかし、その土地は痩せ、厳しい生活を余儀なくされました。その点、チグリス・ユーフラテス川の流域は四大文明のひとつに数えられるように豊かです。ユダヤの民は、戦い破れて捕虜になり、あるいは豊かさを求めて、この流域にやって来ました。
しかし、土地は豊かでも、その土地は支配者に隅々まで支配され、よそ者は受け入れてもらえません。
 このことは、土地と水を支配するものが人を支配するアジアの特性として、既にお話しました。ユダヤの民のアブラハムは、豊かな土地を求めて旅します。豊かな土地を見つけては先住民にすがり、土地を得ようとしますが、結局は追い出されます。そうした寄宿の身の彼らは、時に美しい妻を娘と偽って差し出さなければ・・・もし、自分の妻と分れば殺される・・・食べて行けないような弱い立場にありました。
 「禁断の実」は、美味しそうでもうっかり食べると、止められなくなり、つらい思いをしなければならなくなる・・・ユダヤの民への戒めでした。そして、その流域が大洪水に見舞われた時、神は、清い心のユダヤの民だけを救った・・・ユダヤの清い心と誇りを失わないよう戒めたものでした。


  出エジプト記
 
そのように教えられたユダヤの民ですが、今度は豊かさを求めてナイルの流域に行き、またしても辛い奴隷の身になります。このエジプトからユダヤの民をひきいて脱出したのが、モーゼでした。モーゼの一行は、シナイの荒地をさまよい、励まし合い、助け合う内に、エジプトで染み付いてしまった、ピラミッドや肖像など権力を象徴する偶像の崇拝、自分本位で隣人を踏み台にするゆがんだ心を振り払い、ユダヤの民の誇りを取り戻します。その末に授かったのが「十戒」でした。神は彼らに、偶像崇拝を捨て、隣人愛など人が共に生きて行くために大切な戒めを約束させました。
 シナイの荒地は、ゲルマンの森のようなものでした。ゲルマンが森を移動したように、彼らも荒地をさまよう内に、ユダヤ伝来の隣人愛や連帯の大切さを思い起こしました。それは、自治の精神につながるものでした。
 この教えとゲルマンの精神が融合するベースはこの辺にあるように思えます。


  旧約から新約へ
 
この教えはイエス・キリストの出現により、さらに進展します。
 
長年にわたる苦難の末に生まれたこの教えは、非常に厳格で、戒律を守る者のみが、しかも神に選ばれたユダヤの民のみが救われるというものでした。しかし彼らは土地を追われ、生活は貧しく、絶望のどん底にあえぎ、救世主の出現を待ちます。その期待を背負って誕生したのが、キリストでした。
 しかしキリストの教えは、ユダヤの民の期待に反し、戒律を守れば救われるとか、殺す者は応報として裁きにあう、というものではなく、隣人を自からのごとく愛せよ、さらには敵を愛し迫害者のために祈れ、というものでした。このような教えは、ユダヤのみが救われると信じていたユダヤの人々に白眼視され、ついに十字架に架けられます。
 しかし、このキリストの教えは、大きな広がりを見せます。キリストの受難を分かち合い、お互いに慰め合い、助け合う教えが、何ら頼る術もない、悩み苦しむ大多数の人々の心をとらえました。

    
  教会
 
キリスト教は、パウロたちの伝道活動によって広められ、行く先々に教会が建てられました。
 やがて時の帝国ローマに伝わりましたが、三百年にわたって迫害を受けました。異教徒として差別され、さまざまな迫害を受け、時には野獣の餌食にされましたが、敵を愛せ、迫害者のために祈れの教えを守り、耐え続け、遂にローマ帝国の国教として認められました。そして、帝国の庇護のもと、帝国内を教区に分け、教区ごとに教会が建てられ、それまでの霊、精、魔といった信仰に替わって、身近な生活のあり方や同胞とともに生きる大切さを説き、人々の信仰を集めました。
 さらに進んで教会は、教区民の話合いの場となり、病人や貧しい人の救済などの行政の機能を持つようになり、時には支配者の無理な要求に対する住民の相談の場ともなりました。
 このようにして教区は自治機能を持つようになり、その伝統は今もヨーロッパ各地に残っています。


  教区自治
 
このキリスト教は、南下してきたゲルマンと融合して、ヨーロッパの新たな展開を見せます。
 話は前章に戻ります。ゲルマンの精神で自力救済権を主張していては、お互いに傷つきます。そのため、教会が進める「神の平和運動」に参加して、教区に自力救済権を預けます。
 この点を解り易く説明すれば、例えば我が身を守る場合、一人ひとりが武器を取って自力救済権を行使するよりは、その権利を教会に預けて警察や防衛の組織をつくり、団結して守るのが強力で安心です。そのために応分の負担をする、それが税でした。当たり前の話ですが、彼らのように必要に迫られて自己の問題解決のため納得して負担する場合と、日本のように国が外国から制度を導入して上から与えられる場合とは、歴史的に人々の認識が違ってくるのは当然でしょう。
 例として外敵から身を守る場合を取り上げましたが、そのほかの行政分野にも言えることで、特に病人や貧しい人のための福祉は、お互いに助け合うことによって安心を得る・・・隣人を愛するキリストの教えの実践の場として教区の重要な仕事になってきました。
 身を守ることや福祉も自治の現場から始まった・・・この辺の感覚は、自治の体験が乏しく、中央集権的な体質に染まった日本人には解り難いところです。


  自治と福祉
 
教区の仕事として始まった福祉は、その後時代が下ると国家福祉の理念のもとに国家の責任で行われるようになりますが、教区はそのまま地方自治の最小単位として存続し、小さな自治体でもできる身近な生活や福祉の問題に取り組んでいます。
 日本の場合も、明治の初めには小さな村や町が、救貧や飢饉に備えて食料の備蓄といった役割をいくらか果たしていました。しかしその後の相次ぐ合併や国家主導の政策のために自治機能を失い、人々は国に頼ることに慣れてしまいました。そしてようやく今日に至り、行き届いた施策や行政経費の節減のため、コミュニティー活動とか地域福祉、地域防災といった地域住民による自治活動が提唱されるようになりました。
   

  隣人愛と社会変革
 
今にも残されている教会の活動を、実際に体験された方の報告から紹介しましょう。
 平成四年九月二九日の中国新聞に紹介された、広島経済大学今石正人教授の記事です。マサチューセッツ大学で教鞭をとる同教授が日曜日に出かけた教会は、キリスト教の教義とともに隣人が抱える問題に目を向けさせ、ともに重荷を背負い社会の変革に参加するよう促し、貧困者の救済やエイズ患者のためのホーム建設、恵まれない子どもたちへのクリスマス・プレゼントなどのプログラムに取り組んでいるそうです。
 現代の錯綜して多忙な社会でどこまで存続可能か・・・ついついそんな視点で見てしまう自分を反省するところです。

 
アメリカでは、町づくりのはじめ、まず教会と学校を建てました。教会は自主運営を行い、学校を運営する学校区が自治体として機能して地域それぞれ独自の教育に取り組んでいます。
 イギリスでは、教区が自治体として身近な生活や福祉などに携わり、歴史の名残りをとどめています。



第九章            鎖を切る

  浮浪
 
舞台を日本に戻しましょう。
 
農地をすべて公地とし、国から農民と認められた公民に、一人当り二反、女子はその三分の二というように一律に農地を配分する・・・この公地公民制は、律令支配の下で全国一律に実施されました。
 しかし、これも行き詰まりを見せます。
 第五章で紹介しましたように、
山上憶良は「貧窮問答歌」の中で、親子や夫婦の情を捨ててまで山沢に隠れ住む民を儒教道徳で諭しています。税や徭役を課せられ、仕方なく土地を離れ、山野に逃げ隠れる。支配する側には困り者ですが、そうした流浪の民は次第に多くなります。

  僧行基
 
そうした流浪の民の中には、新たに土地を探して開墾したり、流浪の民を集めて開墾する者も現れました。
 例えば、僧行基たちによる開墾です。行基は官寺に勤めていましたが、官寺から脱して独自に寺を設け、仏法を説き、同時に人々を説得して、行き倒れの人を助けたり、橋を架けたり、開墾しました。そうした農地は、流浪の民を迎え入れ、次第に広がりを見せました。


  飛び立つ
 
支配され、管理された状態では、能率はありません。農地は定められ、夢はありません。ところが開墾地では、希望が持てました。そのため律令体制は公地公民の基本を崩し、開墾地を三代まで私有できる三世一身の法、さらには墾田永代私有令を発するまでになりました。
 このように開墾した土地の私有が認められるようになると、資力のある豪族は、流浪者や奴婢あるいは一般の農民を使って開墾し、土地を集積するようになります。そして、土地の権益を守るため中央の有力な貴族や寺院に土地を寄進して荘園の領主となり、勢力の拡大に努めます。そのような状況になると、収奪の厳しい土地の農民は離散して、待遇の良い土地に流れます。かくして、土地に縛られていた農民に逃亡の自由が与えられ、「飛び立ちかねつ」の農民は、自ら「飛び立つ」ことができるようになたのです。


  加賀郡傍示札  
 
農民が怠けたり、逃亡するるため、収穫が少なくなり、年貢が取れない。その対策のため、加賀の国司の命令を受けた加賀郡の郡司が、村役人に掲示させたお触書の木札が見つかりました。
 これによると、農民は午前四時には農作業に出かけ、午後八時まで働くように。ほしいままに酒魚を飲食しないこと。溝や堰を維持管理しない農民は罰するように。税を逃れるため土地を離れ、逃げ隠れしている農民を捜し捕らえること。そして村の役人は、これらの禁制を犯した農民を報告するように指示しています。律令体制が崩れ行く状況を物語っています。


  逃散
 
やむにやまれず逃げ隠れしていましたが、農民を迎えてくれる場所ができると、農民の立場は強くなります。我々農民あっての年貢だと思うようになり、逃げることもひとつの方法と考えるようになってきます。「逃散」は農民の反抗の手段となり、村の農民が一緒になって相談し、領主と交渉する力を持つようになりました。

  村の自治
 
日本の村にも、自治が始まりました。
 支配する領主の側は、個々の農民をいちいち管理し、逃亡を防止するため苦労するよりも、一括して村に年貢を請け負わせ、村人の連帯責任で確実に納めさせるのが楽です。これを「百姓請」と言います。そのためには、村の中で話合いが必要になってきます。村人は団結し、集会や灌漑用水、共同で利用する入会地、年中行事などの取り決めをします。
 そうした自治の高まりを示す資料が中央公論社「日本の歴史10」に紹介されています。近江蒲生郡の今掘惣の掟で、村の寄合に二度呼んでも出ない時には罰金、入会地の森の木を切ったり肥料にするため木の葉を採った者も罰金を課すというもので、文安五年(一四四八年)に定めたとあります。
 自治に無縁と思われた日本にも、このように自治の世界が生まれつつありました。農民を土地に縛り付ける鎖が解け、村人が集って村を運営する・・・村の自治が始まったのです。


  日本の中世
 
日本の中世を、私たちは江戸時代の延長と考えがちです。ところが、中世は江戸時代とは違う世界がありました。
 それは、ヨーロッパの中世に似たものでした。背景としては、あのゲルマンがヨーロッパを移動したときと同じように、日本の中世の人々が移動できるようになったことです。新しい農地を求めて、あるいは畑作なら、灌漑施設は不要で、傾斜地でも生産が可能でした。このような畑作は支配者にとって厄介で、掌握が難しく、税を課しても逃げられるとそれまで・・・畑作によって多様な換金作物が生産され、商人の活動が盛んになりました。

 
それと同時に生まれたのが、ゲルマンの世界と同じ「実力の世界」です。集権的な秩序が崩壊して自由になりましたが、反面では自分で自分を守らなければならなくなりました。
 
  伽藍仏教
 
そしてヨーロッパのキリスト教と同じ役割を、仏教が果たします。
 しかし、仏教が日本に伝わったきっかけは、政治的なものでした。第五章でお話した儒教と同様に、仏教も国を治める手段として利用されたのです。
 六世紀の半ばの律令体制が不安定な時期に、仏教を取り入れようとする蘇我氏と、反対する物部氏が争い、聖徳太子と組んだ蘇我氏が勝ち、聖徳太子によって仏教導入の詔が下され、全国に広められました。当時の先進国の中国、朝鮮から舶来の「妙法」を国教として広め、政治の安定を図りました。そのために東大寺の大伽藍をはじめ全国に国分寺が建設されました。それはちょうど、第二章でお話いた古墳の役割と同じで、国家事業として建設し、その先頭に立って仏像に額ずくことにより、国家の安定を願った・・・鎮護国家の具とされたのでした。


  仏教の由来
 
ご承知のように、仏教の発祥地はインドです。
 紀元前六世紀の頃、カピラ城の王子として生まれたシャカ族のゴーダマ・シュダルタは、人生の問題に悩み、城を抜け出し、王子の地位を捨てて、巷の生老病死や愛別離苦・怨憎会苦のさまざまな苦難に直面し、人間が生きる価値は、神から与えられたり、カーストなどの身分で決まるものでなく、人間自身に根ざす正しい生き方にあると説きます。
 この仏教の本来の教えに気づいた僧は、体制に庇護され利用される仏教に疑問を持ち、官僧の身分を捨て民衆の中に飛び込み、日々の暮らしに苦悩する民とともに仏の道を求めます。

  いはんや悪人をや
 
先に紹介した行基もそうでした。さらに時代が下がり、源信、空也、そして法然、日蓮、一遍などが新たな仏教の道を開きました。
 親鸞もその一人で、官僧として修行中の比叡山を飛び出し、すでに在野にあった法然に学びました。そして越後や関東を流浪し、生きるのにやっとの人々と生活をともにして、人間の生き方を問い続けました。
そうした修行を経て親鸞は、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・誰とて人は皆、生きるために、直接、間接を問わず、殺生をはじめ人を欺き、だまし、さまざまな罪業を重ねる。その避けることにできない我が身を素直に受け止め、お陰をありがたくいただく者に、自ずと仏の光が照らされると説きました。

 
このような教えは、前章でお話したキリスト教と通じるものを感じませんか。イエス・キリストも、ゴーダマ・シュダルタも、そして親鸞も民の苦難を背負い、救いの道を探求しました。キリストも仏も、常に私の身についていてくださる、そしてお救いくださる・・・そう感じるからこそ、民衆に広く受け入れられました。

 惣村自治
 
さらに親鸞は、生死ギリギリの世界に身を置いて人間本来のあり方を問い、信心を同じくして共に生きることの大切さを悟りました。それは「御同朋御同行」の教えと言い、日々の生活に苦しむ民衆の頼るべきよすがとなりました。
 この教えは、一人では生きてゆけないものが助け合う「自治の精神」通じることにお気づきでしょう。


 寄合談合
 
この教えは、親鸞の時代から下ること二百年、第八世の蓮如の代に一気に花開きます。
 それは、時代の要請でもありました。鎖を切り、飛び立った人々は、何かにすがろうとします。蓮如は、そうした人々の心をつかみ、村々をまわって教えを説きました。「四、五人の衆、寄合談合せよ、かならず五人は五人ながら意巧に聞くものなる間、よくよく談合すべし」、「愚者三人に智者一人とて、何事も談合すれば、面白きことあるぞ」(御一代記聞書)と、大衆自身による学習を勧めています。
 この教えは、農民自身による村づくりの機運に乗って広まりました。

 
 講 
 
そうした広まりのベースとなったのが、「講」でした。村ごとに、あるいは小集落ごとに学習の場を設け、「御同朋御同行」の実践の場としました。
 現代でも、毎月、講中が集って「お茶講」、「お寄り」を開いてお坊さんのお話を聞いたり、講中がお葬式のお世話をします。三十年くらい前までは、家の普請や災害などの場合に相互扶助の機能を発揮していました。茅葺屋根の葺き替えは、戦後も昭和三十年ごろまで、講中総出でやっていました。茅葺き屋根は二十年で葺き替えが必要です。一軒でたくさんの茅や縄を蓄えることができないので、年々順番に茅や縄を持ち寄って葺き替えをしました。このように講は,農民の共同生活を支えてきました。
 キリスト教の教区と同じ役割を見出すことができます。


 寺内町
 
講と同じような成立の由来を持つものに、「寺内町」があります。
 人々が活発に活動するようになり生産力が増すと、商業が活発になります。信仰を同じくする商人が集って町をつくり、道場となる寺を中心に結びつき、自分たちで町を治めました。守護や荘園領主の租税を免れ、治外法権を持ち、自由な取引を行いました。そして、外敵から守るため、町の周囲に堀や壁をめぐらすこともありました。
 同じ寺を中心とする町でも、いわゆる「門前町」と違う点にお気づきでしょう。 「寺内町」は、今日、確認されるだけで二十三ケ所あったそうですが、ほとんどが姿を消しました。その中のひとつ、大阪府の富田林のことが朝日百科「日本の歴史26」に紹介されていました。史料によると、紺屋十五名、大工六名、桶屋五名など二十種以上七十人余りの職人や商人が住んでいたそうです。昭和五十六年に甲子園に出場したPL学園を紹介するテレビで、古い町並みが映し出され、当時に由来する職人気質が今もなお受け継がれていると伝えていました。
                                                          富田林寺内町
 寺内町は、ヨーロッパ中世の自治都市とも共通点を見出すことができます。同じように堀をめぐらせ、城壁を築きます。その中には、教会や領主の館のほか、街の中心には市場があり、集会のための広場や市役所がある・・・この辺は、お堀の外側に町ができる日本の「城下町」とは異なるところです。


 山城国
 
このように自治の機運が高まり、ひとつの国が自治を行うようになります。
 そのひとつに山城国があります。この国は、三十六人ないし三十八人の地侍や土着の領主が結集して、月々の当番制で「衆中談合」により物事を進めていました。それは、一人の有力武士とそれを取り巻く家臣団というピラミット型の構成ではなく、各地域の代表が集って連合体を組み、話合いで国を治めるというものです。
 はじめにも申し上げたように、アジアに特徴的なのは上から下へのピラミッド型の統治形態で、自治を基本とする連合体を組むのがゲルマン流です。そのゲルマン流の連合組織が、日本にも現れたのです。

 一向一揆
 
この山城国はわずか八年で挫折しますが、加賀国は百年も続きました。
 この国を支えたのは、講でした。領主の過酷な年貢の収奪抵抗し、村々が結束して立ち上がり、自治の国をつくりました。「加賀国は百姓と坊主の持ちたる国」とさえ言われました。
 領主の一方的な税の要求に、村人が結束して領主と戦う。それは、第三章で紹介しました、ロビンフットの物語そのものです。日本にも、ロビンフットの物語と同じ舞台が現出したのです。この時代、日本にもロビンフットと同じような物語がたくさん生まれたことでしょう。しかしそれらの物語は、後でお話しするように後の時代に、為政者にとって好ましくない話として葬り去られたと思われます。


 畑作
 
この時代、畑作が広範に行われるようになった。
 稲作は、支配者から捕捉され易い。その点、畑作は開墾が容易で、多様な生産が可能だ。直接換金することもできる。さらには、戦乱を逃れて奥地に入り、畑作に専従するものも生まれました。あのゲルマンの畑作と同じように、焼畑などで移動しながら畑作を営み、独自に村を治める集団も生まれました。


 稲作強制
 
そうした畑作の存在が、近年の研究から明らかになりました。
 
民族学者の坪井洋文さんの著書に「稲を選んだ日本人」があります。これによると、日本の各地に、お正月に餅を食べない地域があることに着目します。それは、後でまたお話しますが、徳川幕府のもとで厳しい稲作強制が行われても畑作農民は習慣を守り、畑作の気概を伝え、正月のハレの日は畑作の山芋や蕎麦などを食べるというものです。
 私たちは、ついつい近世封建時代の延長線上に、そして瑞穂の国の宿命として歴史を捉えがちですが、中世は未解明な点も多く、常識として考える以上に「自由」で「自治」のる活発な社会だったと思われます。



第十章         自治の実験室 アメリカ

 西部劇
 
刀と銃の違いますが、日本のチャンバラ映画に対比されるのが西部劇。どちらも、必ずハッピーエンド。
 しかし、ストーリーは同じようでも、中味は違う。その違いを佐藤忠男さんは、著書「日本映画思想史」の中で解り指摘しておられます・・・・最近の若者は、チャンバラ映画を観たことがないかもしれませんが。
 西部劇では、登場人物の間に身分の違いがない。ただ、正義と悪、強者と弱者、勇気のある者と臆病者という区別がある。ところが時代劇は、強いのは侍かやくざ、町民は妙にへりくだって、百姓はケチで臆病で烏合の衆とみなされる。
 例えば、西部劇の「シェーン」。チャンバラの股旅物とそっくりだが、シェーンがわらじを脱ぐ開拓農民は、農民の誇りを持ち、結婚記念日には晴れがましくスピーチをする。農民の子も、一人の人としてシェーンと渡り合う。「荒野七人」もそうだ。ガンマンは、外敵を倒したが、「強いのは我々ではない、農民だ。」と言って村を立ち去る。
 西部劇は、アメリカ大陸を西へ、西へと進む開拓民の歴史です。ですから、そこには必ず、町づくり、村づくりのテーマ、すなわち「自治」のテーマがあります。無法者が町を牛耳る・・・支配、不正、横暴、卑劣、略奪・・・それに勇敢に立ち向かうヒーロー。
 それでは、チャンバラのテーマはというと、義理と人情です。これは、私たち日本人にはよくわかります。ところが、西部劇の背景にある「自治」のテーマは、日本人に解らない。

 アメリカを旅して、西部劇の舞台そのものの歴史的保存地区に出会いました。
 「My Old Kentuvky Home」の舞台で知られるケンタッキー州の バーヅタウンという、1788年に発足の古い町です。町の大通りはT字型で、町の中心となるの交点に巡回裁判所があります。裁判所の入り口には、「入場者は金属探知機の間を通らなければならない」と張り紙がありました。銃の持込を禁じているのです。裁判所の横に、保安官の詰め所と留置場の跡があり、通りに面して写真のように、見せしめの台がありました。道を挟んで、教会や学校・・・・正に、町づくりの順番どおりに、公共的な施設が配置されています。

 
ところで、西部劇のストーりーは、ウイリアム・テルやロビンフッドの物語と似てると思いませんか。それもそのはずです。
  どちらも「自由・自治」への抑圧に立ち向かい、最後に正義が勝つ物語です。







 アメリカの誕生
 
よく知られているようにアメリカ大陸は、1492年、スペイン王の援助を受けたコロンブスの冒険によってはじめてヨーロッパとの関わりを持ちました。そのため当初は、スペインの植民地になりましたが、無敵艦隊と言われたスペイン海軍がイギリス海軍に敗れて以来、北のアメリカ大陸はイギリスの植民地となりました。
 もちろんイギリスの移民にも、新大陸でひと儲けしようという経済的動機がありましたが、同時に彼らの中には、イギリスにおける政治上や信仰上の束縛から逃れ、「自由」を求めてアメリカへ永住しようという敬虔なキリスト教徒もいました。
 ここでもう一度、イギリスの歴史を振り返ってみましょう。
 第三章でお話したように、ジェームズ一世が、ゲルマンの王の伝統を無視して王権神授説をとなえますが、議会は「権利の請願」を議決して王に迫り、清教徒(ピューリタン)革命を達成します。その時、王の迫害を逃れ、新天地を求めてアメリカへ渡る者も多くいました。幸いにもアメリカには無限の土地が広がっていましたので、かってゲルマンが北ヨーロッパの森で活躍したのと同じように、思い思いの土地で自治を始めることができました。
 これがアメリカの出発です。
 彼らが最初にやって来たのは、マサチューセッツ州プリマスでした。メイフラワー号に乗り組んだ、101人の清教徒は、航海の途中、討議を重ねました。そして、個人の尊厳と権利を重んじ、すべての政治権力は自由な個人の同意に基づく社会を造ることに同意しました。メイフラワーの契約書と呼ばれる憲章です。この精神のもとに自由な個人の同意に基づく「自治」を始めたのでした。
 このような経緯から、この地方には今もなお、町や村の有権者が集って決議する住民総会( タウン・ミーティング)が開かれるという。NHK海外取材班「自治と民衆」に、モントレーという町の町民総会のことが紹介されていました。
 この本は、昭和50年ごろの出版なので、今も行われているか、インターネットで調べてみました。人口が900人余りで、ご覧のようにモントレーMontereyの町のホームページの中ほど「Government」の欄に「オープン タウンミーティングを実施している」とあります。その時期には、提出される議案などが、ホームページに載ってくると思われます。

 
タウン・ミーティング
 
タウン・ミーティングは換言すれば住民総会のことで、彼らの住民総会は、第1章で紹介した「古ゲルマンの集会」に始まり、スイスやイギリスのマン島に今もなお伝えられているとをお話しました。
 
タウン・ミーティング、すなわち住民総会は、議員を選んで、議員に決定権を委ねるのではなく、住民自身が集会に参加して発言し、決定できる制度です。その方法が、今日、出来るかとお思いでしょうが、実際に今日もやっています。
 先ほど紹介したマサチューセッツ州のモントレーは、Berkshire County(郡)の中の市町村のひとつです。
 この郡には32の市町村があります。その中で、28市町村がタウンミーティングの制度を持っています。人口が12000人以上になると市になることができ、議会制を持つことができます。残る4市は、市長・議会制や議会制とタウンミーっティングの併用等です。このBerkshire County(郡)は、マサチューセッツ州でも、山間地にあり、町村の人口は小さいものでたったの130人、1000人未満もたくさんあります。10000人以上でもタウンミーティングを実施しています。
 沿岸部の人口の多い地域はどうか、始めに紹介したプリマスのあるPlymouth County(郡)の場合、27市町村のうち、25市町村がタウンミーティングを実施しています。人口が2万を超える町も実施しています。町村の大半は1万人前後です。議会制をとっているのは、人口5万と9万の市です。
 参考までにどのようなことを審議しているか、そのひとつ、Carver町(人口11、163人)のタウンミーティングを見てみましょう。毎年、定例と予算、そして特別案件と3回以上のタウン・ミーティングが開かれています。
 そんなに多くの人が集ることが出来るか、疑問をお持ちでしょう。たとえ集っても、多くの人数で審議が出来るか、騒がしいだけでどうしようもない。実際にセレモニーとして、あるいはお祭りのような側面もあるようです。しかし、賛否が伯仲するような場合、誰もが発言できる、住民の最後の砦になるでしょう。
 とは言え、私自身、現場を見たことはありません。
  ・・・見ずに語るのは申し訳ないことですが。実は、こうしたことが一番の問題なのです。
 私たちには、タウンミーティングは珍しい、驚くことですが、マサチューセッツ州の人々にとって、珍しくもなんともない。まるで空気のようなもので、ことさら仕組みを詳しく説明する必要もない。町や村のホームページにも、タウン・ミーティングの様子は出ていません。議案は詳しく出ていますが・・・
 物質文明は、明治以来、どんどん輸入しました。非物質的なものでも、芸能とか、文学、音楽等は、見せるためのものだし、見たいと思う・・・私たちも接する機会が多いのですが、自治のことになると、外部に見せるものでもない。
 どれだけ自治が機能して、住民の立場が守られているのか=民主的か、実際にそこに生活する者でなければ解らない。
 結局、私たちは、私たちなりに、日本の流儀が当たり前と思ってやってきました。しかし、アジアの多く・・・そして日本の地方制度は、あまりにも中央集権的で、政治家や官僚・役人任せの、世界的に極めて特異なものになっています。

 もう少し説明しましょう。なぜ、マサチューセッツ州の人々は、タウン・ミーティングを存続できるか。
 先ほど紹介したマサチューセッツ州の市町村は、17世紀から18世紀にかけて誕生しました。彼らは、入植して生活を始めますが、一家族ではやって行けない。自分たちを守るため、子どもの教育のため、宗教的生活を送るため、・・・・地域にある程度の人数が定住すると、集って相談して村を造ろうということになります。そのために必要な経費を計算し、それを割り振って、皆で負担します。その延長線上に、今があります。
 自分たちのことは、自分たちでやるしかない。州も連邦も助けてくれない。いざという時に、頼りになるのは自分たちの町や村・・・だから、町や村はそのまま、人口が130人になってしまった村があれば、5万人に膨れ上がった市もある。しかし彼らは、容易に合併はしません。自分たちの村は、自分たちで・・・・それは排他的というのではなく、自分たちの村や町には、祖先が苦労した歴史があり、誇りがあり、伝統や財産があり、その村や町ならではのやり方がある・・・我が村や町への愛着は非常に強い。
 その点、日本は、国の政策で、明治の初めに全国一律に市町村ができ、その運営は国や県の指導のもと、一部の有力者で行われ、気が付いた時には、税源は乏しく、交付金や補助金など国に頼るほかない。
 ・・・合併と言われれば、そうせざるを得ず、何回か合併を重ねた。
 自ら参加して確認しなければ納得できないマサチューセッツ州の人々と、お任せに慣れっこになった私たち日本人の間で、「自治意識」に大きな格差があることは否めません。
         (* 参考  Town Meetings
 なお私では語り尽くせないところがあるので、先ほど紹介したNHK海外取材班が実際にタウンミーティングの様子を見て伝えた一説を引用します。
 「・・・(タウンミーティングへ参加することによって)人々は今、自分たちの町の政府を構成するという権利を厳粛に行使している。その政府は、互いに気心を知り合った隣人たちによって構成され運営されるのが望ましく、いわば財布のひもは見知らぬ人に預けるわけにはいかないという考え方が基本にある。身近な問題を扱う町村の政府には特別な人ではなくて、誰もが参画できなければならないし、それでも権力というものは監視の力が小さければ気ままになって専制化しやすい性格をもっているため、できるだけ民衆のそばに置き、民衆が細かく意思決定に関与しなければならないと考える。このためニューイングランド(マサチューセッツ州を含むこの一帯は、歴史の経過から、「新しいイギリス」の意味で呼ばれる)の地方自治体はおしなべて小さく、マサチューセッツ州の自治体の六十パーセントは、住民総会(=タウンミーティング)による直接民主制の伝統を守っている・・・」

 余談ですが、彼らは裁判も、専門家任せにしない。法は、もとを正せば、国民が定めたものだ。法の運用も、国民の目の届くところに・・・住民は「陪審員」となって直接裁判に参加する。
 日本の明治以降の地方行政制度については、第十四から十九章でお伝えします。


 制度の選択も自治のうち

 
アメリカの町を訪ねると、ますはじめに、、「私たちの町は○○年に設立した古い町、新しい町・・・」と紹介します。
 そこのところが、私たち日本人には、ピンと来ない。市になって○○年とか、合併して新しい名前になって○○年とか・・・
 そこが、アメリカは違う。州も、当初の8州があれば、後に合衆国に参加した州がある。州は郡に仕切られ、郡の中は、市町村が治めている区域があれば、市町村の設立がまだで、郡が直接治めている区域もある

                      (この点は、朝風第4号住民投票の中の図をご覧ください。)

 
そして彼らは、それぞれ自由に町や村をつくりました。そしてその後も、試行錯誤で、いろいろ工夫して町づくりを進めました。つい気を許して任せたら、不正、腐敗、怠慢、高税、大借金、破産・・・いつの間にか裏切られ、大変なことになる。税を引き下げるには効率よく、しかも住民の目が届くように・・・人口が多すぎてタウン・ミーティングが駄目なら、案件ごとに賛否をとる住民投票で、あるいは計画や政策について事前に住民の意見を求めるパブリック・コメント制を・・・体系的には、住民総会型、委員会型、支配人型(議会ー支配人)、首長型(議会ー首長)、そして弱首長型、強首長型など多様です。 日本の国会のように議員の中から首長を選ぶ方法や、公募して経験があり有能な支配人を選び、議会が細かくチェックする方法などがあります。
 制度を選択するのも、自治のうちです。日本は、地方自治法で全国統一ですが・・・
 このようなことから、イギリスが「自治の母国」と言われるのに対して、アメリカは「自治の実験室」と言われます。
















  
アメリカ合衆国 イリノイ州の選挙
        
2000年4月21日に実施されたもので
  
上 ↑ は、投票項目を記載したパンフレットです。
   案件は約20項目あります
   その下の段は、大統領選挙の候補者
    ジョージ ブッシュ   1→
       ・・・・
    ジョーン マケイン   5→
   そのほか、上院議員、湖埋立管理委員、クック郡選出のイリノイ州検事、クック郡の公証人、クック郡の巡回裁判所事務官、
  最高裁判事、上告裁判所判事(組織が日本と違い、正確な役職は分かりかねます。)

  
それに加えて、上の段は、住民投票にかけられた案件です。賛成なら 283→  反対なら 285→
  住民投票にかけられた案件は、禁煙と医療に関するものです。

  
投票案件の英文は
       OFFICIAL  BALLOT
(公式の投票)
     COOK COUNTY、ILLINOIS
(イリノイ州クック郡)
       MARCH 21、 2000  (2000年4
21
     ADVISORY  REFERENDUM  (住民投票)
      
諮問的な住民投票=最終的には議会で議決・・・・法的に即決定の住民投票もあります
  TO THE ELECTORS OF COOK COUNTY 
(クック郡の選挙民へ)

  " Shall Illinois' share of the tobacco lawsuit settlement be committed to fund comprehensive
  smoking prevention and medical treatment programs and to fulfill the mandate of the Bernardin
  Amendment which calls for decent health care for everybody in Illinois? "
                                                  YES
(賛成)  283→
                                                  NO 
(反対)  285→
  
英語とフランス語で書かれていますが、別に、ドイツ語、イタリア語、中国語などほとんどの言葉で準備されています。
  イリノイ州は、大都市シカゴを抱え、いろいろな言語が使われているからです。


 
 右 → は、パンチカードです。これをパンフレットの下に挟み、の先に、釘のようなもので穴を開けると、
  パンチカードの所定の番号のところに穴が開く仕組みになっています。
  項目は多くても、パンチカードですから集計は早い。
  パンチカードは、穴がずれて判断できないことがあり、この前の選挙ではマークシート(鉛筆で黒く塗る)が使われたようです。
  将来的には電子投票の方式が導入されるでしょう。

  日本ですと、たった1名の名前を書くのに投票所に向かいます。
  彼らは、いろいろな公職・・・例えば、日本で言うと、教育長、消防長、水道局長、ほか各種の委員長や委員を同時に選挙します。候補者が多くて判断できないときは、支持する政党が推薦する候補に任す方法もあります。
  これらの選挙にあわせて、懸案となっている事項を住民投票にかけます。同時に実施するのは、経費節減と投票率向上の狙いがあるのでしょう。住民投票は、合衆国全体でも、かなり頻繁に行われています。賛否が別れ、関心が多いと、投票率は上がります。重要案件のほか、増税となる事項や、住民の協力を得なければ実施できないような事項は、できるだけ住民投票にかけるようです。



 アメリカ魂  
 
アメリカの広い大地で、彼らの開拓精神は培われました。それはちょうど、北のヨーロッパでゲルマンが自由に活動した森のようなものです。西へ西へと進む彼らのほとんどは自作農でした。伝統的な権威はありません。自らが働き、自らを守り、あるいはお互いに力を合わせました。そして、民主主義を学び、自由と独立の精神を養い、自発的な参加による自治を育てました。
 西部劇は、そうした彼らの開拓の歴史です。


 独立戦争

 
イギリス国王の迫害から逃れ、自由を求めてアメリカにやってきましたが、その後もイギリスの干渉に苦しみます。
 自治を基盤とする民主的な政治を進めようとするかれらに対して、イギリス本国は植民地支配を続けようと弾圧したため独立運動が勃発しました。しかし、独立までの道程は険しく、メイフラワー号が上陸して160年余り経った1783年に、ようやく独立を果たします。
 それはちょうど、ウイリアム・テルの物語を同じでした。植民地支配を続けて収奪しようとするイギリスに対して、アメリカの各地が力を合わせ抵抗して果たし得たのです。







                    「団結か、死か」 
                 アメリカ合衆国の国旗の候補
    フランクリンの新聞漫画                      フランクリンの漫画の発想から、国旗の候補に蛇の図柄が
    蛇が切断されると、死ぬ。                    候補に上がったが、小差で採用されなかった。
    8州へ団結を呼びかけました。                 国防省ペンタゴンに展示してありました。
    イギリス本国に対する抵抗は、
    フランクリン自身、生死をかけたものでした。

         独立宣言とフランクリン

 
アメリカの独立は、ヨーロッパに影響し、フランス革命を勇気付けました。
 独裁者ヒットラーを打破する力になりました。軍国日本に対しても・・・
 自由が侵されると、自国であろうと、他国であろう黙って見ておれない・・・彼らには、世界の民主化の先頭に立った自負があります。しかし、それぞれの国には歴史の発展段階があります。その段階を踏まえ、民主化を援護する長期的視野が必要と思えまます。
 そうした行動に対して人的にも財政的にも多大な犠牲を払っていますが、国内的には民主的な合意の手順を踏んでいます。アメリカに望むことがあれば、アメリカ国内の世論に働きかけ、地域社会の関心を呼び興すことが大切と思います。
 できるだけ他人に任せない、できるだけ自分で・・・他人に任せれば不安だ、いつ裏切られるか分らない、監視しなければ・・・そうした彼らの姿勢は、例えば、自分を守るのは最終的に自分、だから銃は離せない、あるいは医療は自分で保険会社と思い思いに契約する、一律に扱われるのは嫌だ、といったことなどに顕著に現れます。日本のように、行政や議会に任せきりで、国民、町民が一丸になって、お互いに助け合いの心を大切に・・・どちらが正しいと結論づけるつもりはありません。ここでは、日本の自治の特色を明らかにするため、欧米の自治の原点を探り、比較することに主眼を置いています。
 ともかく日本も、彼らの成果をいただき、彼らの力を借りて民主化を進めてきました。それがどこまで理解され、定着し、民主化に結びついたか・・・
 この点については、また後でお話します。


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