抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信
シリーズ 26 |
雨情の足跡をたどる in 大朝 ・ |
大朝2丁目の進 藤さん宅の、元の診療所に、
うじょう
野口雨情の直筆による「大朝小唄」を展示しています。(ただし、これらはコピーです。)
野口雨情は、童謡や民謡の作詞家です。 野口雨情
童謡には、十五夜お月さん、七つの子、赤い靴、あの町この町、雨ふりお月さん、青い眼の人形、シャボン玉、こがね虫、証城寺の狸囃子、俵はごろごろ・・・・・日本人の心の故郷とも言える歌の数々があります。
民謡もたくさんあり、その土地で歌い継がれています。
野口雨情作詞民謡(中国地方)
野口雨情さんは、昭和11年10月に大朝に来られました。
きよみ
作曲家の藤井清水(ようこそ、藤井清水のお部屋へ)さんと一緒でした。
新庄村と合併以前の旧大朝町内を回り、名所旧蹟を題材に「大朝ぶし」を作詞し、藤井清水さんが曲を付けました。
大朝には数日間滞在し、その間、香川旅館に宿泊しました。
そのとき既に、雨情さんは上記のような童謡を作曲して日本中に知られていました。
そのような有名な文化人を東京から招くには、相応の経費が掛かります。
当時、大朝は商業の町として栄えていました。
町内の有力な商家や農家、寺社、医院などが資金を出し合って、招いたのです。
そして、作詞した大朝ぶしを写真のように書にして、資金を出した方に渡しました。
そのような事情から書は各家に分散したため、なくなったものもあります。
それぞれの家の大事な宝ですから、こうしてコピーを展示しています。
雨情さんと清水さんは、9月には加計に滞在して「加計やんさら節」を、10月には三段峡で「安芸三段峡ぶし」を作詞作曲しています。
それから大朝に来られて「大朝ぶし」を作詞作曲され、その後、八重に行かれ「八重ぶし」作詞作曲しました。ですから、八重にも、同じように唄が残され、同じように各家に書が残されているはずです。
「大朝ぶし」は「大朝小唄」と呼ばれるようになりました。
それぞれの唄の囃子ことばは
アリャ シデの木ア天狗が来てとまる わたしは今夜は ヨウ ノッ ホイホイ どこでねる ・ |
天狗しでには、夕方に天狗がやってきて泊まると言い伝えられています。 シリーズ8 天狗しで
旅から旅へのわが身・・・・雨情さんは、家業を受け継ぎましたが行き詰まり、我が子を失い、離婚し、不運と失意の繰り返しで、漂泊の時期もありました。 童謡詩人、野口雨情
自分の人生と重ね合わせ、「天狗には泊まる所があっていいなあ・・・・自分は今夜どこに泊まるのだろう」 ・・・味わいのあるところです。
ところで、雨情さんの「シャボン玉」の歌詞の「シャボン玉消えた、飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた」は、生まれて七日で死んでしまった我が子への悲しみを込めたもので、「七つの子」は、ただ単に可愛いカラスの子が七匹いるのではなく、死んでしまった我が子を思い出して可愛いそうなことをしたと嘆く親の気持ちを込めた歌と言われます。そのほかの童謡も、そうした雨情さんの心情がにじみ出て、人々の心をとらえています。
先年、北茨城市磯原町の雨情さんの生家を訪ねました。 野口雨情生家
そして大朝では、雨情さんのお孫さんを迎えて、講演会を開催したことがあります。
この展示をご覧になりたい方は、あらかじめ進藤さん(電話0826−82−2018)へご連絡ください。
パッチワークも見せてもらえます。
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その時の雨情さんの足跡をたどってみたいと思います。
雨情さんは、進藤さん宅の隣の香川旅館に泊まられました。
おそらく大朝の世話役が三段峡までお迎えに行ったのでしょう。当時すでに自動車がありました。
滞在中、どなたかが世話役になり、昼夜を問わずお世話されたものと思います。
香川旅館もそうですが、近くの新枝旅館も、二階への階段が特異で、お客さんが上がり降りする玄関向きの階段と旅館の者が上がり降りする内向きの階段が同じ箇所に交差して設置されています。
雨情記念館から
広浜街道を西へ。
左の塀壁の家が進藤さん
その次の二階建てが香川旅館
その向かいが大朝駅
その向こうに信号がある十字路
真っ直ぐは浜田へ
左に筏津から芸北、田原から豊平へ
右に田所から川本へ
直進して坂を上る。
昔の広浜街道
円立寺の参道下に着く
香川旅館の前に、大朝駅がありました。大朝駅と言えば鉄道の駅のように思われますが、これはバスの駅です。広い待合室や切符売り場、売店がありました。広島から大朝へ、がたがた道を行くのですから三時間余りかかります。浜田へ行くには、まず大朝行で大朝まで来て、乗り継いで浜田に向かいました。また、大朝から、島根県の川本方面や美和方面へバスが出ていました。昭和四〇年前後には、省営バス、後の国鉄バス、そして広島電鉄バスも同じくらいの便数があり、広島交通バスも通い、大朝は交通の要衝として栄えました。
大朝商店街の街路は、江戸時代は浜田藩の参勤交代の道筋となり、明治になって陰陽を結ぶ重要道路として新たに開設され、さらに浜田から大陸への軍用道路として改修されました。
このような交通の利便性から商店や利便施設が集まり、酒屋、呉服屋、瀬戸物屋、鍛冶屋、食料品店などの店や、往時には映画館、パチンコ屋などもあり、飲食業は、一杯飲み屋から料亭まで十数軒ありました。今残っているのは、散髪屋と電気屋など数件で、多くは空き店舗となっており、「カーテン通り」と揶揄される状況です。
町筋を西に向かいます。町中に「大朝饅頭」の林風月堂本舗があり、今もなお頑張っておられます。
大朝商店街を西へ、広浜街道を浜田方面に向かうと、円立寺の正面階段の下に出ます。
階段を上る途中で振り返ってみてください。富士の形をした大きな山が見えます。寒曳山です。大朝小唄の一番に出ます。
一 忘れなさるなエ 寒曳山のセ チョイ チョイヤサ 下は大朝 米どころ ヨーソレナ 米どころ アリャ シデの木ア天狗が来てとまる わたしは今夜は ヨウ ノッ ホイホイ どこでねる ・ |
寒曳山は、文字通り「寒さを曳く山」です。町の北にあって、いわば大朝盆地の屏風の役割をします。山の向こう側の北斜面は広島県下のスキー場の草分けとなった「寒曳山スキー場」です。多くのスキー客がバスでやってきました。年配のスキーファンは、「寒曳山スキー場」をご存知です。
「神曳山」とも、
「大朝富士」とも
呼ばれます。
富士の形をしていますが
休火山では
ありません。
頂上に平らな所はなく
寄棟屋根のようです。
十 誰がつくやらエ 円立寺の庭でセ チョイ チョイヤサ 夜明け夜明けに鐘が鳴る ヨーソレナ 鐘が鳴る ・ |
円立寺の階段を上ると、塀からはみ出た枝垂れ桜が目に入ります。門をくぐると、この桜は庭一杯で、木柱で支えた枝は地に達しています。
円立寺の枝垂れ桜は立派なもので、多くのホームページに紹介されています。
鐘楼は庭の東の端にあります。お寺は高い位置にあるので、朝夕の鐘の音が広く商店街から田園へ響き渡ります。
円立寺の しだれ桜
(平成20年撮影)
その向こうに寒曳山を望む
鐘楼は、地元では
「鐘突き堂」と呼ぶ。
この桜の右にある。
四 駿河丸からエ 啼く鶯のセ チョイ チョイヤサ 声に昔がしのばれる ヨーソレナ しのばれる ・ |
円立寺の参道を降りて、広浜街道をさらに浜田方面に進みます。川に接した路上から寒曳山を見渡すと、寒曳山の麓に駿河丸があります。大朝小唄の四番に出てきます。
承久の変で戦功のあった吉川経高が所領をいただき、駿河の国吉河村(今の清水市)からやってきてここに城を構えました。今から七百年以上も前のことです。城と言っても土塁を固めた素朴なものです。前面に肥沃で広い大朝盆地を望みます。雪が降りますが、絶えず天竜川の水害に悩む吉河村よりも魅力があったのでしょう。吉川氏の三代、約七十年間の居城となりました。
駿河丸城跡
大朝の間所 寒曳山の麓
平成22年に竹が伐採され、城跡が姿を現しました。
吉川氏が、正和2年(1313年)に静岡からやって来て、
初めて城を構えたところです。
吉川氏は、承久3年(1221年)の承久の変において
勲功が認められ、北条義時から
安芸国大朝本庄の地頭職を補任されていました。
以後、駿河国から遠隔の地大朝本庄を
統治していましたが、90年余り経て大朝に
やってきたのでした。
前面に大朝の平野が見渡せます。
駿河の国の吉河村は、天竜川の下流の傍にあり、
暖かいところです。大朝の冬は寒かったことでしょう。
十一 見たか枝宮エ 八幡さまのセ チョイ チョイヤサ 杉の走り根 船の石 ヨーソレヨ 船の石 ・ |
円立寺の参道を降りて、広浜街道を西に約1キロ進むと、鎮守の森が見えてきます。ここに枝宮八幡神社があります。大朝小唄の十一番に出ます。
枝ノ宮八幡神社は、吉川氏の来往よりも古く徳治元年(1306年)の勧請と伝えられ(大朝町史上巻)、五十年毎に大祭が催されます。その七百年の大祭が平成十七年(2006年)に行われました。本殿は、昭和四十年に県の重要文化財に指定されました。
唄にある「杉の走り根」は、境内の東側の建物に納めてあります。駿河丸の前面に広がる水田の土中から発掘されました。この辺りが肥沃な土地であったことを裏付けるものです。
「船の石」は、境内の西側にあります。船のように上が凹になった石です。たいへん大きいものです。
そのほか、吉川元春の坐像もあります。
この建物の中に
大きな杉の根があります。
暗くて写らなくて
すみません。
これは、
船石を運んだ時に、
指揮者が使った
旗です。
石に綱を掛け、
下に木材を並べ、
指揮者が石の上に乗って、
掛け声で、
「よいしょ、よいしょ」と
綱をひきました。
石の凹の部分に、
「水量六石参斗余」
入るのですから、
大きなものです。
八 丸瀬山見りやエ まだ雪が解けぬセ チョイ チョイヤサ 山にや春さへ おそいやら ヨーソレナ おそいやら ・ |
枝ノ宮八幡神社から広浜街道をさらに西へ進むと大塚の平野が開け、その奥に山の峰がそびえます。その右側の山が丸瀬山です。大朝小唄の八番に出ます。
丸瀬山は標高九八二メートル。スキー場の瑞穂ハイランドがあり、大朝に向いたゲレンデは「ビックモーニング」と言い、上級者向きの急斜面です。左の山は阿佐山で、標高一二一八メートル。北広島町で臥龍山に次いで高い山です。この二つの山には春も遅くまで雪が残ります。五月になっても、阿佐山の谷間に雪があったことがあります。
丸瀬山
逆V型のゲレンデが丸瀬山
ビックモーニングは右の直降
丸瀬山は山全体が島根県
阿佐山は頂上が県境。
早くから遅くまで
雪があります。
大朝の冷蔵庫のようなもの。
写真は、新庄の方から撮影
(平成18年12月4日)
二 三坂峠のエ 泣き別れ水はセ チョイ チョイヤサ 別れながらも 泣いてゆく ヨーソレナ 泣いてゆく ・ |
さらに広浜街道を二キロ余り進むと、島根県境に達します。三坂峠です。大朝小唄の二番に出てきます。
この峠を越えると、市木に出ます。向こう側はかなりの下りになります。カーブが多く、自動車の運転で、何回ハンドルを切り返すか数えてみましたら、百回でした。車酔いに弱い方は気を付けて・・・・最近は近道ができましたので、そちらをどうぞ。
分水嶺になりますが、どちらも江の川に合流して江津市から日本海に流れ出ます。ひょっとして雨情さんは、瀬戸内海と日本海の分水嶺と勘違いしたのかもしれません。
中三坂峠と言う峠もあります。新庄から田所への峠です。三坂峠は本三坂とも言います。
峠には、「おれんかんべえ」の墓があります。石見の国のおれんとかんべえが駆け落ちして、安芸の国を目前に殺されました。
四 駿河丸からエ 啼く鶯のセ チョイ チョイヤサ 声に昔がしのばれる ヨーソレナ しのばれる ・ |
三坂峠を引き返して、平成二十二年に休校となった大塚小学校の前を通り、まっすぐバイパスに入ると、寒曳山がまじかに見えます。その寒曳山の麓の中央部分に駿河丸があります。バイパスに案内の看板が出ていますので、それにしたがって山の麓に向かってください。竹藪に覆われていましたが、最近、伐採したので、よくわかると思います。この駿河丸が大朝小唄の四番に出てきます。
承久の変で戦功のあった吉川経高が所領をいただき、駿河の国吉河村(今の清水市)からやってきてここに城を構えました。今から七百年以上も前のことです。城と言っても土塁を固めた素朴なものです。前面に肥沃で広い大朝盆地を望みます。雪が降りますが、絶えず天竜川の水害に悩む吉河村よりも魅力があったのでしょう。吉川氏の三代、約七十年間の居城となりました。
駿河丸城跡
大朝の間所 寒曳山の麓
平成22年に竹が伐採され、城跡が姿を現しました。
吉川氏が、正和2年(1313年)に静岡からやって来て、
初めて城を構えたところです。
吉川氏は、承久3年(1221年)の承久の変において
勲功が認められ、北条義時から
安芸国大朝本庄の地頭職を補任されていました。
以後、駿河国から遠隔の地大朝本庄を
統治していましたが、90年余り経て大朝に
やってきたのでした。
前面に大朝の平野が見渡せます。
駿河の国の吉河村は、天竜川の下流の傍にあり、
暖かいところです。大朝の冬は寒かったことでしょう。
六 夏は夜明けのエ 可愛川べりのセ チョイ チョイヤサ 蛍夜霧で 身をぬらす ヨーソレナ 身をぬらす ・ |
バイパスに出て東へ下ると、橋が三つ架かった交差点に出ます。三つの橋を一緒にして、「大朝大橋(わさおおはし)」と言います。
江の川の上流です。ご承知のように、江の川は島根県の江津市から三次へ、三次で可愛川、馬洗川、西城川に分かれますが、国交省の定める江の川は可愛川です。この可愛川をさかのぼり、千代田では壬生で志路原川と分かれ、大朝ではこの大朝大橋で大塚川と分かれます。
戦後は護岸工事が進み、蛍はめっきり少なくなりました。しかし、その護岸のお蔭で、水害がほとんどなくなったのも事実です。
熊城山 阿佐山 丸瀬山
(山裾に天狗しで) 小山神社 円立寺
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
左の橋が架かる川が可愛川
右に二つの橋が架かるのが
大塚川
中央に見える大きな建物が、
北広島町大朝支所
その手前が
ショッピングセンターわさーる
左奥に行けば、田原・豊平、筏津・芸北
左に行けば、新庄・広島
右奥に行けば、大塚・浜田
右手前に行けば、田所・川本
この大朝大橋の欄干には、原みちおさんの絵があります。原みちおさんの生家が、大朝大橋の南の旧道沿いにあります。
七 すゝきや穂に出るエ 犬追原あたりセ チョイ チョイヤサ 月を夜長の 秋となる ヨーソレナ 秋となる ・ |
バイパスを東へ十字路を直進すると、可愛川の川べりへ出ます。その反対側の丘に犬追原があります。大朝小唄の七番に出ます。
今は工業団地と町営住宅団地になっています。進入路を上がってください。
江戸から明治にかけて人参畑でしたが、雨情さんが来られたころは広場で、草競馬などが行われていました。来られたのが秋ですから、小唄にあるようにすすきが風にそよいでいたことでしょう。この犬追原は、野球は運動会の場としても活用されましたが、学校の運動場が開設されるにとともに県の杉の育苗場として活用され、さらにその後は、働き場を確保するため工業団地や町営住宅用地に活用されています。
犬追原
「犬追原」の地名は、吉川氏の武芸場だった
ことに由来すると言われます。
山の高台で、一町歩余りが概ね平坦です。
馬術の稽古などが行われていたのでしょう。
この犬追原は、幕末の元冶元年(1864年)に、
広島藩の殖産興業の一環として、
人参畠として活用されることになりました。
絵は、明治2年当時の人参畠の活況を、
壬生の画家和田青華が描写したものです。
(進藤家所蔵)
特集42 北広島町の工業・流通団地
九 鳩が泣きますエ 小山の森でセ チョイ チョイヤサ 逢いに来ぬとの 知らせやら ヨーソレナ 知らせやら ・ |
再び引き返してバイパスを西へ、そして大朝大橋の十字路を左へ折れ、筏津・芸北方面へ進みます。
おやま
商店街を横切ると右の山にこんもりとした森が見えます。これが、大朝小唄の三番と九番に出てくる小山八幡神社です。
古い書物(三代実録)に「大麻天神」の記録があります。一一五〇年前に遡ります。もともと大朝は「大麻」と言ったようです。麻は繊維をとる植物のことで、この地域の特産でした。境内に本殿とは別に大麻神社の祠があります。
三 春は小山のエ 雲井の桜セ チョイ チョイヤサ 枝が垂れかゝつて 花が咲く ヨーソレナ 花が咲く ・ |
くもい
小山神社の階段を登ったところに、雲井の桜があります。樹齢千年とも言われ、戦後もしばらく咲いていましたが、今は枯れた幹が一本、立っています。最盛期には、空も見えないほど咲き乱れていたということです。言い伝えによると、旅の僧が吉野の山から携えてきた杖を差したところ、根が出て葉が出たのだそうです。この雲井の桜は、回り舞台のある大きな演芸場の「雲井座」や林風月堂の「雲井の羊羹」の名前のもとになりました。
北広島町の桜
雲井の桜
大朝は西横町の小山八幡神社
枯れておよそ50年
・・・・・幹だけが今も寂しく残る
由緒ある桜として知られる
・・・・・・・その昔、旅僧法順が
吉野からた携えてきた杖を挿したところ
根を下ろしたと伝えられる
「目通周囲四米、高さ十五米もあり、
樹齢は一千年を経たものと言われる。
老幹密枝天をおほい、快晴の日でも
光をもらさず、万枝垂れて糸のごとく、
まことに綺麗である。・・・」
(昭和33年刊「大朝町の展望」
中国観光地誌社発行)
この雲井の桜に由来して
雲井座(18.12トピックスで紹介)
雲井羊羹
林風月堂の名物
今は、製造休止
十二 秋の矢淵はエ あかねの紅葉セ チョイ チョイヤサ 色もなつかし 錦織る ヨーソレナ 錦織る |
筏津・芸北方面に進むと、筏津の里と過ぎた所から急に山が険しくなり、川も流れが急になります。ここが矢淵谷で、大朝小唄の最後の十二番に出ます。
秋の紅葉は素晴らしく、川にはイワナやヤマメが棲み、風光明媚な所です。
ここは江の川の最上流になります。そして、さらに源流をさかのぼると阿佐山と畳山の間の谷に達します。
矢淵谷
このような急峻な地形は、
大朝盆地では少ない。
雨情さんは、案内されて
ここまで来られたのでしょう。
イワナやヤマメの釣り人が
川伝いに上ります。
ただし、鑑札が必要です。
途中からは保護区になっており、
特別な監察が必要です
五 加計の山にエ 啼く時鳥セ チョイ チョイヤサ 声に昔が しのばれる ヨーソレナ しのばれる ・ |
矢淵谷から引き返して、大朝の町の手前で、田原・豊平方面に向かいます。その途中の茅原辺りで左に、テレビ塔や無線局がある山が迫ります。 加計の山です。大朝小唄の五番に出ます。
加計の山は、標高七五二メートル。春木からも見えます。頂上に、NHKや民放、携帯電話そして防災無線のアンテナがあります。志路原や川戸の方へも電波が飛びます。こうした施設の管理のため、頂上まで自動車道を建設しました。頂上からは、大朝、新庄の町や村を一望できます。
(囃子唄) アリャ シデの木ア天狗が来てとまる わたしは今夜は ヨウ ノッ ホイホイ どこでねる ・ |
この県道を進むと田原の天狗の里五千年風呂に着きます。田原小学校の校舎や講堂を改造した温泉です。地下五百メートルで、ラドン含有量がきわめて多い水脈を掘り当てました。ホカホカして湯冷めがしないことで知られています。天狗の里の名前は、「天狗しで」からいただいたものです。天狗しでは、この天狗の里から西方の熊城山の山麓にあります。大朝小唄の各番で歌う囃子唄のシデノ木です。
雨情さんが来られて七〇年以上経ちます。その頃から天狗しでは世に知られ、雨情さんが来られた翌年の昭和十二年に広島県の天然記念物の指定を受けました。そして、平成十二年に、国の天然記念物の指定を受けています。
天狗しでは、幹が曲がりくねり、先端は垂れ下がっています。普通のしでの木はそんなになっていません。昔から、別の品種だろうかと思われていました。またある人が、苗を持ち帰り神社に植えたところ、普通のしでの木のように直ぐくなったので、土質が特異なのだろうという説もありました。そのような疑問を解明するため、平成十年になって遺伝子分析を行いましたところ、別の品種ではなく、曲がりくねり垂れ下がるDNAが顕著な木が遺伝の度に集まり、一帯が天狗しでの森になったものと判明しました。
田原の里の村人は、炭にしようとしても灰になるので切り残し、やがては「天狗しでを切ればたたりがある」と大切にした結果、このような森になったものと思われます。まだまだお話したいことがありますが、これは天狗しでをご覧ください。
天狗しで
平成22年度
公民館講座「ふるさと再発見の旅」(22.11.11)
大型バス1台42人とスタッフが、
晩秋の天狗しでを見学。
地元の押山春昭さんから
楽しいお話がありました。
雨情さんを案内した時も、
こんな風だったことでしょう。
大朝の市街地
周辺の航空写真が
大朝建設株式会社の
ホームページに
あります。
野口雨情さんと藤井清水さんは、日中は大朝のアチコチノ名所へ、夜は料亭などで酒を酌み交わし、地元の人たちと歓談したことでしょう。その間、作詞や作曲の構想を練り、最後の日には雨情さんは大朝小唄を皆に示して書にしたため、清水さんは楽譜を渡して、唄ってみせたのではないでしょうか。そしていよいよ大朝を発つ時には、八重から迎えが来て、町中の者が大朝駅あたりで見送ったことでしょう。
八重では、自分が小学校の頃、雨情さんが来られたと言って先生が行かれ、学校が昼から休みになったのを記憶しておられる女性があります。
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