仏足跡(石)について
 
 「仏足跡(石)ぶっそくせき」は、仏像が生まれる途上で造られました。
 ですから、「仏足跡(石)」のことをお話するには、仏像の歴史をさかのぼらなければなりません。
(1) 仏教の始まり

 お釈迦様は、紀元前4~5世紀の頃の実在の人です。
 今から2500年も昔になります。
 現在のインドの北部・ネパールとの国境にあった小国の王子としてお生まれになりました。
 母の摩耶まや夫人がお産のため里帰りする途中の、
 現在のネパール南部のルンビニの花園の沙羅双樹さらそうじゅの木の下でご誕生になりました。

 

 古保利薬師の西南、向いの山沿いの市街地にある
  「ルンビニ園保育所」の名前は、お釈迦様ご生誕の地に由来します


    

 ルンビニ園保育所の園児たちが、毎年、古保利薬師の春祭りに参加して、
    可愛らしい演技を見せてくれます。
                                      
    


                                     ➡ 春祭り


 王子のお名前は「ゴーダマ・シュダッタ」です。
 シュダッタは王子として何不自由なく成長しました。
 しかし、王子の国は周りを大国に囲まれ、いつ攻め滅ぼされるか分かりません。
 一歩、王城を出ると、飢餓にあえぎ、病気に苦しむ人々でいっぱいです。
 そして人は、王子であろうと誰であろうと刻々と年をとり、いつ訪れるかもしれない死におびえます。
 シュダッタは、このような「生老病死しょうろうびょうし」の苦しみに直面して、どうすればよいか真剣に考えます。

 そしてついに29歳の時に、王子の座を捨て、妻子を残して城を抜け出し、修業の道に入りました。
 当時、インドはバラモン教のもとで、生まれながらに身分が定まるカースト制度が敷かれていました。
 人々は、バラモン(司祭)、クシャトリア(王族、武士)、バイシャ(庶民)、スードラ(奴隷)の4階級に分けられていました。
 そしてバラモン教は、修業が厳しければ厳しいほど、真の悟りが得られると教えました。
 シュダッタも厳しい修業に入り、6年間、難行苦行を積みました。

 しかし、何も得られません。
 身も心もすっかり疲れ果て、今にも死にそうです
 そこへ少女が現れ、シュダッタに温かいミルクを飲ませました。
 生気を取り戻したシュダッタは、菩提樹ぼだいじゅの下に座り、静かに瞑想めいそうします。
 そして、「生老病死」の苦しみを乗り越えて清く穏やかに生き、やがて涅槃ねはんして仏になる悟りの境地に達したのです。

 「涅槃」とは、梵語ぼんご(サンスクリット語)の「ニルヴァーナ」に漢字の発音をあてたものです。
 「心安らかに死を迎える」という意味合いでしょうか。
 「仏陀」は、梵語の「ブッダ」に漢字の発音をあてたものです。
 「ブッダ」とは、「目覚めた人」、「悟った人」の意味があります。
 かくして、悟りを開いたシュダッタは、「仏陀(ブッダ)」と呼ばれるようになりました。
 仏陀はインドの各地を巡り、教えを説きました。
 そして80歳の時に、クシナガラの沙羅双樹の下で横になり、多くの弟子や信者、動物、植物に囲まれ、安らかに入滅(死去)されました。


(2) 仏足跡をつくる
 仏教はインド全土に広まり、インドの国教になりました。
 お釈迦様が亡くなられて後、人々はお釈迦様を敬い、「どんなお方だったでしょうか?」 と尋ねます。
 生前にお釈迦様の説法を聞いた人たちは、「このような方だった」 と答えることができました。
 しかし、幾世代も経ると、「このような人だったらしい」 という話になります。
 やがて、お釈迦様は「三十二相八十種好」のお姿だったと伝えられるようになりました。
 それは、体、顔、髪の毛、額、眉、目玉、鼻、頬、そして胸や肩から手足まで細々と描写したものです。

 中でも足の裏には、「瑞祥七相ずいしょうななそう」の美しい指紋があったということです。
 そこで人々は、その昔、この石の上に立って説法されたと伝えられる石に向かって拝みました。
 そしていつしか、石に瑞祥七相の指紋をきざんだ「仏足石ぶっそくせき」を拝むようになりました。

 

 古保利薬師の仏足跡です。
 伝えられる「瑞祥七相」の通りに刻まれています。

 仏陀は菩提樹の下に座して悟りを開かれたので、菩提樹を拝むこともありました。
 あるいは、仏陀の遺骨を納めた卒塔婆そとうば(ストゥーパ)や仏法が広まる姿をシンボル化した法輪ほうりん、仏陀の生涯を浮き彫りにした仏伝図などを拝みました。

 仏陀は、修業するには自分自身をしっかりと見つめることを教えました。
 他に頼らず、自らの力で悟りを切り開く道です。
 仏陀にすがり、仏陀に助けを求めることを、仏陀は期待していなかったのです。
 当時の人々は、崇高なお釈迦様を物的な形にするのは恐れ多いと考えていたようです。

(3) 仏像を作る

 しかしながら、お釈迦様の像を作りたいという気持ちが起きるのも当然でしょう。
 お釈迦様にお会いしたい。お釈迦様におすがりしたい、という気持ちが湧いてきます。
 お釈迦様の教えを学ぶには、お姿にお会いするのが分かり良いといったこともあったでしょう。
 初めて仏像ができるのは、仏陀が亡くなられてから約五百年後です。
 最初にお釈迦如来の像がつくられたのは、ガンダーラとも、マトゥラーとも言われます。
 ガンダーラはインドの西北の、現代のパキスタンにあり、シルクロードに近く、ギリシャ文明の接点にあったことから、
 仏像はギリシャ風の均整がとれたスタイルになったということです。
 マトゥラーはインドの西北部にあり、インド風の仏像が作られました。
 やがて、仏教や仏像が中国に伝えられ、日本にも伝えられました。


    「境内のご案内」へ戻る