古保利薬師の歴史と仏像について


<北広島町教育委員会の説明板から>
                       ふっこうじ                                おおし
 「古保利薬師」で知られる古保利山福光寺(現廃寺)は、かってこの地方で勢力を誇った豪族凡氏

 菩提所として平安時代初期(9世紀)に建てられたと伝えられます。
             みぶ      ほんじ
 当時の山県郡は、壬生、山県、品地などの5郷からなっていました。
                           ぐんが               こおり
 古保利という地名は、山県郡の中心となる郡衙(役所)が置かれた山県郷の所在地であったことから

きています。
           ぐんじ
 凡氏はこの地の郡司(山県郡を治める地方官)を務めていました。
             おおあさのしょう        きっかわ
 寺は鎌倉時代以降、大朝荘の地頭となった吉川氏の手厚い保護のもとに栄えますが、関ヶ原の合戦後
                 くにがえ
1600年に吉川氏が岩国に国替えされると次第にさびれて、明治時代には無住職の寺となりました。

 荒れ果てた様子を見かねた地元の有志による熱心な働きかけで、再評価の声が高まり、昭和17年、

本尊薬師如来国宝に、ほか11躯が重要美術品に指定されました。戦後、昭和25年の文化財保護法

改正に伴い、いずれも国の重要文化財に指定替えされました。

 量感あふれる一木造りで、優しくほほえむ仏像群は、平安時代初期の仏教彫刻を代表するものです。

 福光寺とかってそこに安置された諸仏は、この地域の文化レベルの高さと政治勢力の強大さを物語って

います。



<昔より当山で伝えられる古保利薬師の歴史>

(1)史略
 福光寺は弘法大師の開基(天長年間)と伝えられます。
 弘法大師作と伝えられる仏像があったと古文書に記載があります。
 寺運隆盛を極めた時代には49坊の塔頭を有し、寺領300石となり、名僧・知識僧が相次いで来寺したそうです。
 この辺りを支配した吉川氏の戦勝祈願所や菩提寺となり、大いに栄えました。
 山門脇にそびえる大桧(広島県天然記念物指定)の古木も福王寺の歴史を物語っています。

 以下、その歴史の概略を列記します。
  806年(平城天皇・大同元年)
       弘法大師が唐より帰朝して真言宗を開く(年齢32歳)

  824年(淳和天皇・天長元年)
       古保利山福光寺開基
       以後、高僧の来往により、修行僧、老若男女が参詣し、道場、庫裡が建築された。約500年間、隆盛。

  835年(仁明天皇・承和3年)
       弘法大師入寂(没年63歳)
       古保利薬師の重要文化財指定仏像はこの前後の作かと思われる。

 1313年(花園天皇・正和2年)
       吉川経高公が駿河の国から大朝の庄へ地頭として着任。
       以後、福光寺を戦勝祈願所・菩提寺としたため、寺運は益々隆盛した。

 1552年(後奈良天皇・天文21年)
       吉川元春の招聘により、名僧禪誉(ぜんよ)法印が古保利山福光寺に入る。

 1575年(正親町天皇・天正3年)
       吉川元長が万徳院を建立(北広島町舞綱)

 1600年(後陽成天皇・慶長5年)
       関ヶ原の戦いで豊臣方が敗北、吉川氏は岩国へ移封となった。
       よって金藏院福光寺は寺号を持って岩国へ移ったが、建物や仏像はそのまま残った。

 1601年(後陽成天皇・慶長6年)
       広島城主毛利氏は萩へ移封され、福島正則が広島城主となる。
       福島正則は寺社領の検地を行い、福光寺の寺領は300石を30石に減石した。
       それでは寺院の経営は不可能と考えた寺院信徒は協議のうえ、
       寺領を返上して無禄となり、京都御室の仁和寺の末寺となった。

 1693年(東山天皇・元禄6年)
       薬師如来像の大修理(施主・木次 立川氏)、山門建築、
       法印の座像等を作る(仏師・木次 作兵衛・・・薬師如来の左手の中から記録が出た)
       その頃、一時栄えた。

 1727年(中御門天皇・享保12年)
       福光寺金藏院厨子を改築
       入仏式、導師福王寺(広島市安佐北区可部)住職学範来山。時の庄屋は片山三左衛門

 1731年~1834年(中御門天皇・享保16年~仁明天皇・天保5年)
       福光寺薬師祭り(毎年3月に開催、勧進芝居を約7日間興行)

 1835年(仁明天皇・天保6年)
       山門修理

 1865年(孝明天皇・慶応元年)
       吉岡天鎧が福光寺の住職となり、真言宗から浄土真宗(西本願寺派)に改宗した。
       木仏阿弥陀如来一体及び見眞大師、聖徳太子、七高僧、第十九代宗主本如上人の各影像を請い受ける。

 1880年(明治13年)
       3月、浄土真宗の寺号公称の許可があった。
       しかし、7月に、吉岡天鎧は山県郡穴村の教導職大前大證に寺号及び寺宝を譲渡して寺を去る。
       その時、真言宗経典その他の古文書を処分。無住の寺となる。

 1912年(明治45年)
       仁王門修理

 1923年~1924年(大正11年~12年)
       広島文理大学教授の新見吉治氏が調査のために来町。玉井源作氏が同行。
       本堂改築

 1933年(昭和8年)
       広島文理大学講師の藤秀翠氏が調査。
       仏像の雄姿に驚き、学術的専門家の鑑定を勧める。
       そして、保存の必要性を説き、顕彰方を示唆した。

 1935年(昭和10年)
       古保利薬師仏像群の保存・顕彰について研究するため「八重町尚古会」を創立した。
       初代会長は児玉惟一氏

 1940年(昭和15年)
       広島進徳女学校の中野正行文学士が調査。学術的に「弘仁仏」と鑑定。
       続いて12月に、広島県文化財委員文学士の織田三郎次氏が仏像を調査。

 1941年(昭和16年)
       能美良材、玉井源作、小倉豊文、栗田元海、和田宗八、堀川良夫の各氏が研究調査。
       6月に、「大桧」が広島県天然記念物に指定された。

      

 その頃の大桧です。建物は仁王門。
 大きさが分かります。


 1942年(昭和17年)
       5月、文部省の文化財国宝監査官の丸尾彰三郎博士が織田文学士とともに調査。
       7月、薬師如来座像が国宝審議会において国宝に指定される。
       あわせて、11躰の仏像が「重要美術品」に指定された。
       日光菩薩立像・月光菩薩立像千手観音菩薩立像吉祥天立像
       十一面観音菩薩立像3躰、四天王立像4躰

  

      

          その頃の本堂
           

             仁王門
    懐かしく思われる方もあるでしょう。
   今では、本堂があった場所に仏像の収蔵庫が建てられ、仁王門は本堂側に移動して新築されました。



 1943年(昭和18年)
       「古保利聖地復興委員会」を創立。会長八重町長益田雅次郎氏。
       復興計画諸規則等が町議会で議決され、町が福光寺を含めた古保利山一帯を保存管理することになる。
            (*『千代田町史・近代現代資料編・上巻』802頁=昭和17・10「八重町古保利聖地復興趣意書」)
       この年、新納忠之介氏が調査研究。冊子「古保利聖地」千部発行。

 

  復興計画が図面化されました。
  左は、それを絵葉書にしたものの写しです。
  
  手前は五日市の商店街。志路原川に古保利橋が架かる。  
  左の広場からもう1本の橋が架かる。
  右側から表参道。その両脇に堂や修練道場。銭湯もある。
  そして上段には本堂や宝物庫、大歳神社、琴平神社。




 1947年(昭和22年)
       薬師如来像の大修理を文部省が計画。
       修理費10万円のうち国庫補助金8万円、残りの2万円を地元負担。

 1949年(昭和24年)
       2月 文部技官の蓮見重康氏が大修理の指導のために来町
           奈良市の仏師 白石義雄氏、塗師 城本重次郎氏による修理
       4月 大修理が終わる。
          町長石橋鎭雄の司会で開眼供養を厳修
       尚古会を解散。「古保利薬師奉賛会」に改める。

 1950年(昭和25年)
       5月、法改正に伴い、新法の文化財保護法のもとで、
       薬師如来座像と両脇侍像(日光菩薩菩薩立像・月光菩薩立像)の3躰が国の重要文化財に指定される。

 1951年(昭和26年)
       仏師の白石義雄氏の設計により、春日形式本尊仏厨子が完成。

 1955年(昭和30年)
       本堂改築。経費60万円の内、町40万円、地元負担20万円。

 1956年(昭和31年)
       文化財収蔵庫計画立案を文部省へ申請 (設計 岡田貞次郎氏)
       町長 国光喚呼、建築委員長 三宅蕡 、施工 斎藤篤郎
       文部技官 大滝正雄、毛利登の両氏が指導のため来町。
       町内各戸米1升の寄付

 1959年(昭和34年)
       日光菩薩、月光菩薩、重要美術品指定仏9躰の計11躰の大修理施工 (仏師 白石義雄氏)
         経費25万円(施主 香浦巧、立川賀寿美、香川チエの3氏各2万円、ほか地元で19万円)
       京都市立美術大学教授 佐利隆研氏「仏教美術」に古保利仏像を発表。

 1961年(昭和36年)
       文部省文化財技官 倉田文作氏が仏像調査のため来町
       国立美術研究所文部技官 久野健、猪川和子の両氏が古保利仏像に関する論文を発表。

 1962年(昭和37年)
       2月、重要美術品9体の仏像全てが国の重要文化財に指定
       十二神将の大修理を施行 (仏師 白石義雄氏) 経費20万円(施主 呉市 古川忠氏)
       山門大修理 (大工 猪狩市太郎) 経費12万円(施主 三島哲男氏)

 1963年(昭和38年)
       冊子「古保利薬師如来」千部出版(講述 藤秀翠師)
       千手観音、吉祥天、十一面観音(2躰)が奈良博物館出展。
       文部次官佐藤昭夫氏が古保利仏像について論文掲載。

 1981年(昭和56年)
       現在の「古保利薬師収蔵庫」(鉄筋コンクリート造り)が新築完成

 1982年(昭和57年)
       講堂新築完成
       十二神将仁王像町の重要文化財に指定される。

 1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)
       仁王像復元修理完成、阿弥陀如来像頭部修理完成
       仁王門新築(施主 新田美智子)

 2006年(平成18年)
       四天王の内の2躰が東京国立博物館仏像展「一本の祈り」に展示される。

 


 2007年(平成19年)
       千手観音菩薩が福山歴史博物館に展示される。

 2008年(平成20年)
       古保利薬師奉賛会を会員制として広く会員を募集する。

 2015年(平成27年)
       古保利薬師奉賛会創立80周年(尚古会創立から)記念事業
            クリスタルレプリカ「薬師如来」を400個作成

 2016年(平成28年)
       講堂の床等を改修・・・・桧の板張り

 

 2018年(平成30年)10月おみくじ奉納所を改築
                  「おさすりさん」の前のおみくじ奉納所を改築

 2019年(平成31年) 古保利薬師写生大会10周年記念作品展示会
      期間     平成31年1月8日~1月14日
     
会場      サンクス2階 ギャラリー森
     
展示作品  平成30年度写生大会受賞作品 19点
     
第1回~第9回 受賞作品    12点
     
地域社会人 薬師関係絵画   数点

 2019年(平成31年)2月 境内や下の竹藪跡に植樹
     枝垂しだれ桜         2本     参道の右の竹藪跡
     染井吉野そめいよしの    1本      同
     山桜             1本      同
     楓かえで           1本      境内

 2021年(令和3年)10月 金毘羅神社の鳥居を改築(古保利講中)

 参考文献
  名田富太郎著『広島県八重町古保利薬師聖地』
  三宅蕡著『古保利山福光寺 遺跡と史略』
  三宅昭典著『回想の古保利薬師』
  高田覧一著『古保利薬師について』
  松本眞著『古保利の仏像』
  北広島町教育委員会発行『古保利薬師の仏たち』ほか

 編集 高田順郎

    ⇒古保利薬師の仏像はいつの時代に制作されたか?


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