仏像の修理

 古保利薬師の仏像は、作成されて以来、長い年月を経ており、
 無住の寺となったこともあって、たいへん傷んでいました。


 戦後、間もなく,古保利薬師の仏像を修理することになりました。
 修理に当たったのは、
   彫刻師    白石義雄さん
   漆師(ぬし) 城本重次郎
さん



 左・城本重次郎さん  右・白石義雄さん
 この写真は、昭和30年(1955年
 3グループに分かれて活動していた美術院の技師たちが再結集した際の
 集合写真から摘出したものです。
 集合写真は城本重次郎さんの孫の城本恵壽さんからいただきました。

 HP:「公益財団法人美術院・国宝修理所」によると、
 美術院の起源は、明治11年に岡倉天心が創設した「日本美術院」に遡ります。
 仏像や神像などの木彫の修理に最先端の技術を有する団体です。
 
 白石さんと城本さんは同じグループだったこともあり、
 タイアップして数々の仏像の修理に当たられました。


 古保利薬師の仏像修理

 (1)薬師如来坐像の修理
 昭和17年に「国宝」に指定された薬師如来坐像について、
 戦後の昭和22年に、文部省が大修理を計画
 昭和24年に、文部技官蓮実重康が調査、指導のため来町
   彫刻師・白石義雄氏と塗師・城本重次郎氏により修理

 (2)昭和26年 薬師如来坐像の厨子が完成
    白石義雄氏の設計により、春日形式本尊仏厨子を作成

 (3)日光月光菩薩ほかの大修理
 現在の重要文化財(薬師如来坐像を除く11体)を、
 昭和33年に3ケ月にわたって修理

 三宅昭典著『回想の古保利薬師』によると、
 仏像は年数が経っているため、いわば化石化しており、
 修理用具の刃こぼれがひどく、
 刃物の磨ぎ直しの時間の方が長かったそうです。

 白石さんは、三宅昭典さん宅に宿泊
 十日市の消防団詰所に仏像をお移しして修理されました。


 
       仏像を修理中の白石義雄さん


 (2)十二神将は、
 昭和37年に奈良の白石宅にお移しして修理されました。


 
 仏像の修理

 重要文化財です。
 高度な技術で修理されました。

 
   出典:三宅昭典編著「回想の古保利薬師」

 数百年にわたり、地元の方々により保存管理されました。
 その間、建物の床が壊れて、足の部分が腐れました。
 そのため、足が補修されました。
 左は、補修前の無残な姿です。
 それが、立位も可能な足になっています。
 そのつなぎ目がまったく分かりません。
 補修は最小限に止め、
 他の部分・・・頭部、手、持ち物、光背などは
 遺されたままの状態で保存されています。



   

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