製作時期
古保利薬師の仏像はいつの時代に制作されたか?
古保利薬師の仏像は、たいへん古い・・・・と言っても、どんなに古いのか。
いつ制作されたものか、確かな記録はありません。
古保利の薬師さんと言えば、国指定重要文化財の薬師如来はじめ12体の仏像のことです。
専門家の分析にも諸説あり、「 9世紀初頭から10世紀初頭 」(800年代の初めから900年代の初め)と幅があります。
奈良や京都に現存する、年代がはっきりした仏像と比べて時代を推定すると、このように考えられるということです。
この時代をおさらいすると、
794年 平安京に都を移す
805年 最澄が唐から帰り、天台宗を伝え、比叡山に延暦寺を建てる
806年 空海が唐から帰り、真言宗を伝え、高野山に金剛峰寺を建てる
835年 空海=弘法大師入滅
「 9世紀初頭から10世紀初頭 」というと、
894年 菅原道真の意見により遣唐使を廃止
901年 菅原道真が大宰府に流される
905年 古今和歌集・・・紀貫之らが編纂
ちなみに
995年 この頃、枕草子が著される
1010年 この頃、源氏物語が著される
1016年 藤原道長が摂政になる
仏像の彫刻で有名な運慶湛慶は1100年代です。
古保利薬師さんは、もともと福光寺と言い、古保利山金蔵院と号しましたが、正確な建立の年は分かりません。
「弘法大師の開基」という言い伝えがあります。
弘法大師とは空海のことで、唐から帰り、全国を行脚して真言宗を布教しました。
となれば、福光寺の建立は、空海が生存中で、835年に入滅するまでのことになります。
従って、福光寺が建てられて数十年を経て、仏像が安置されたことになります。
しかし、空海の生涯を調べますが、この地域へ布教した形跡は見当たりません。
空海の弟子がやって来て、空海の教えを広めるうちに、空海が来たと伝えられるようになったと考えられます。
弘法大師が認めて創立されることを「開基」と考えるなら、弘法大師がこの地においでにならずとも、「弘法大師の開基」と言ってもよいでしょう。
この時代は、律令体制下にありました。
律令体制は中央集権体制をとり、地方を国、郡、里の3段階に分け、中央から地方へ国司を派遣して治めました。国司が地方の有力な豪族を郡司に任命し、さらにその下に里(郷)長を置きました。
この律令体制の時代、この地は山県郡やまがたごおりが置かれ、 山県郡内には賀茂(志路原・西宗あたりか)、壬生、山県、品治(本地)、宇岐(新庄あたりか)の五里(郷)があり、山県郷が山県郡の中心地となりました。
「郡」は、「こおり」と読み、いつしか郡の中心地が「こおり」と呼ばれ、「古保利」と言われるようになりました。
この当時の山県郡の郡司は、この地に勢力のあった凡おおし氏でした。
高度な技術で造られた立派な仏像を安置できたことから、山県郡は相当の経済力があり、凡氏の支配力も相当なものであったと思われます。
そして、福光寺の門前は経済や文化の中心地として栄えたものと思われます。
その後、鎌倉時代には吉川氏の菩提所や祈願所となりましたが、吉川氏が岩国へ移ってからは衰退し、無住職の寺になってしまいました。
江戸時代や明治時代は、古保利薬師にとって苦難の連続でした。
その間の三百年余り、このように仏像が守り伝えられたことは奇跡ともいうべきものです。
地元の方々の篤い信仰心があったればこそです。
長年にわたり、地元古保利地区をはじめ八重地区の人々の奉仕で守られましした。
昭和十七年に薬師如来が国宝に、他の十一体が重要美術品に指定されました。
戦後は、新法のもとで、昭和25年に薬師如来坐像と日光菩薩・月光菩薩の三体が国の重要文化財に指定され、
昭和三十七年に残る九体も国の重要文化財に指定されました。
八重町、千代田町、そして北広島町は、これらの仏像の保存のため積極的に支援しています。
地元では、尚古会、そして古保利薬師奉賛会を結成して保存に努めています。
製作時期についての諸説
① 『平安初期彫刻史の研究』久野健著・昭和49年発行
「本像の制作年代は、九世紀末ないし十世紀前半をそう遡り得ないのではないかと考えられる」
理由・「・・・衣文は浅くざんぐりと刻まれ、目は上瞼がふくれやや伏目に近くなっている。
こうした本像の特徴は平安時代初期もそう遡らない頃の制作ではないかと推定される・・・
・・・(日光月光菩薩について)面相はすっかり温和になり、九世紀初頭の仏像に
見られるような迫力は失われている。」
② 『解説版・新指定重要文化財3』「重要文化財」編纂委員会・毎日新聞社・昭和56年刊
文中に「平安前期の一木造りの大作として知られ、昭和十七年十二月に旧国宝に指定されている。」とある。
③ 日本古寺美術全集19『山陰・山陽の古寺』集英社・昭和57年刊
斉藤孝氏による「薬師如来像」の説明で、
「薬師像は全体的にきわめて塊量に富み、しかも巨木の材質感そのままの粗豪さを伴っている。
したがって一見しては、九世紀の平安初期木彫仏に迫るものを感ぜしめる。けれどもよく観察すると、堂々たる迫力の内に、
意外なほど明朗で温和な気分も芽生え始めており、おおよそ十世紀代に下っての、古様の作と判断できるのではあるまいか。」とある。
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