「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
     第五章  蛙鳴群       その4


    阿房漢会議

 八月の上旬。

蛙が目を吊り上げて、神辺の光行寺に集まった。

それぞれが愛読の新聞を小脇に抱えている。

本堂に輪になって、口々に愚痴を言う。

「矢野権令の発言がない。なぜだろう?」

(かぞ)えてみると、発言した地方官は三十九人だ。ほとんどの地方官が発言した」

「矢野権令は御欠席だったのだろうか?」

「欠席した県令は新聞に名前が載る。その日はどなたの名前も載っていない」

「出席なら、御発言があってしかるべきだ!」

「そうだ。小田県臨時民選議院で、大区へ議会を置くべしと決議した。それを、矢野権令はなぜ堂々とおっしゃらない?」

「傍聴人は何をしていたのか?」

「第二次会は、途中で休憩がなかったようだ。助言をする()がなかったのだろう」

「二、三日かけてやれば、夜に傍聴人とじっくり相談できたのに」

「採決で、矢野権令は公選民会に賛成されたのだろうか?」

「それは当然だろう」

「第三次会に入るまでに休憩があった。傍聴人がいれば念を押せたはずだ」

「傍聴人が分かれば、そこのところを訊けるのだが・・・」

「ともかくも、官選区戸長会に決まった。もはや民選議院は開けない」

「民選議院は御仕舞いだ!」

「次郎さんの『下議員結構』も御仕舞いだ!」

「・・・」

 

 入滅されたお釈迦様を取り囲むかのように、輪になった(かわず)がうな()れた。

 と、蛙鳴群掌記録課の平治さんが、ぬっと(こうべ)をもたげて、

「いやいや、そう簡単に引き下がる訳には行かん!」

 蛙鳴群会席課の苅屋実往さんも呼応して、

「そうだ! 地方官の多くは、民会の何たるかを分かっていない」

 平治さんが、我が意を得たりと、

「その通り! 地方官は何も分かっていない。

どこかの県令は、自分は県令だが、地方官会議で議員を務めている。県会も同じようにすればよい。そんなことを平然と言っている。

 そんな流儀なら、県会では、県令が議長になり区長が議員になり、区長が戸長の中から独断で傍聴人を選ぶ。大区会では、区長が議長になり戸長が議員になり、戸長が組頭の中から独断で傍聴人を選ぶ。小区会では戸長が議長になり組頭が議員になり、組頭が伍長の中から独断で傍聴人を選ぶ。組では組頭が議長になり伍長が議員になり、伍長が戸主の中から独断で傍聴人を選ぶ。伍では伍長が議長になり戸主が議員になり、戸主が家内の中から独断で傍聴人を選ぶ・・・」

 蛙は、天井を仰いで苦笑(にがわら)い。

 蛙鳴群権群監の私が付け加えた。

「平治さんの言う通りだ。県令や区長や戸長が議長になり、議長の配下の者が議員になる。それでは、為政に過ちがあっても、議員は追及できない。民の声も遠慮して言えない。為政と議政は明確に分けるべきだ。

議員が配下の者から独断で傍聴人を選び、召し連れるのも問題だ。傍聴人は議員の顔色を(うかが)い、思うことを言えない。傍聴人も民選するべきだ」

 平治さんは得意顔で、

「その理屈が分からない、阿房(あほう)ばかりの地方官だ」

「そうだ、まったくだ。地方官じゃなくて、阿房漢(あほうかん)の会議だ」

「あっははは・・・」

 考えてみれば、政府の高官が議長で、その配下の地方官が議員で、議員の地方官が独断で選らんだ区長が傍聴人では、期待するのが無理なのかも・・・。

 

 そこへ、いつも冷静な蛙鳴群会席課の甲斐修さんが、

「いや、良く心得た県令もいる。中島信行、安場保和、岩村高俊、関口隆吉そして岡山県(ごん)参事(さんじ)の西毅一・・・後から付け加えた神田孝平も」

 それを受けて、蛙鳴群権群長の坂田丈平さんが、

「その神田孝平の兵庫県のことだが、二月の東京日日新聞で、兵庫県の民会は『実際ニ功績ノ証』があると評価された。民選の民会だと物事がすんなり決まり、よく守られる。官選民選混合のようだが、民選の意義をよく御承知だ」

 

蛙鳴群掌会席課の苅屋実往さんが、

「ところが、どうだ。山口県は腰砕(こしくだ)けだ。山口県も民会をやって『実際ニ功績ノ証』があると評価されたが、一転して公選民会に反対している」

「民会が紛糾したのだろう、山口県は。民会で俸禄の問題を取り上げて、士族と平民が衝突したに違いない」

 

実は我々も、それを心配した。心配したから、俸禄廃止の議題を県の臨時民選議院へ持ち出さなかった。俸禄廃止の議題を上程しても、士族や県官に反対されるのは分かり切っているからだ。

「やはり、俸禄の議題を県に上げなくて良かった」

誰かがそう言うと、皆は一斉に平治さんを見た。

さすがの平治さんも、しかめっ(つら)だ。

「遠慮せずに、士族の俸禄反対を決議せよ」

第六大区の臨時民選議院で、平治さんは傍聴席から声を上げて、その時の副議長の苅屋実往さんと甲斐修さんに制止された。結局のところ第六大区は、俸禄反対の決議を遠慮し、華士族の名称廃止と華士族に寛大な閏刑(じゅんけい)の廃止を決議して県へ上程した。

しかし、それさえも、県の臨時民選議院で否決された。

 

    私会を開き私議する

公選議員による地方民会を反対した千葉県令柴原和(しばはらやわら)の発言の中に、気になる一節があった。

「現に勝手に私会を開き、私議をして、県令に迫るような弊害を起こしている県があるのは衆人の知るところだ。このような弊風が流行する時期に公選民会を開けば、民会の権限に限度があることを忘れて公然と政府を批判するだろう。」

 

これは、どこの県を指しているのだろうか。

「皆さん、どう思う。ひょっとして我々第六大区のことだろうか?」

「うーん。第六大区の決議を新聞に載せたから、衆人の知るところと言われればそうだ」

「うーん。政府批判と言われれば、そうだ。決議した『万民一族ノ事』、『国債ノ事』、『台湾征討ノ事』、『工部省ノ事』は、政府に注文を付けたものだ」

「政府がやることは御無理御尤(ごもっと)もでは、議会を開く意味がない。批判があって当然だ」

「それが気に食わないのよ、役人は」

「要するに『刺衝(ししょう)』を(きら)う訳よ」

「そう。諭吉さんがおっしゃる通りだ。役人は刺衝が(いや)なのよ」

「しかし、勝手に私会を開いた訳ではない。権令が区長を集めて『区会議概則』を示し、その通りにやった」

「そうだ! 私会ではない。正々堂々の立派な公会だ」

 蛙は皆、思案顔だ。

 

 蛙鳴群権群長の坂田丈平さんがつぶやいた。

「千葉県令は、てっきり民会に賛成と思ったのだが・・・」

「丈平さんは千葉県令を知っているのか?」

「ああ。千葉県令の柴原和は朗廬先生と親しい。民会に御理解がある方と聞いている」

「しかし、現に民会に反対している・・・」

「千葉県では民会をやっている。官選民選が一緒に・・・しかし、そこまで達しない県がある。官選さえも無理な県があるとおっしゃっている」

 

平治さんが、ぽつりと言った。

「もはや、粟根村の代議人選挙はできないということか?」

「そう。代議人藤井平治は一代限りよ」

誰かが、平治さんをからかった。

平治さんは、(にら)み返した。平治さんは、次に選挙をやる時には、ああしよう、こうしようと思いを持っていた。

傍聴人が分かれば、詳しいことが訊けるのだが・・・

蛙も恋の季節が終わったような、張り合いのない会合になった。

 

その後も、新聞は『地方官会議日誌』を伝えている。しかしそれは、官選区戸長会を前提とした議問の審議だ。もう、読む気がしない。

 七月十九日の新聞が、十七日に天皇御臨幸のうえ閉院式が行われたと報じている。勅語の中に、地方官会議の答議を元老院に送り、元老院の議を経て天皇が裁可するとある。

 そして、議長木戸(たか)(よし)は、太政大臣三条(さね)(とみ)へ通知した。

「既に民選の民会を開設している府県は直ちに民会を止めて、この度、制定された官選区戸長会の準則に従うよう各府県に指令すること。」

何とも手際(てぎわ)の良いことか


 

     恩師の手紙

八月下旬の夕刻。

残暑が厳しく、風もない。

ぐったりしていると、突然、興譲館館長の坂田丈平さんが粟根にやって来た。

何事か。

手に阪谷朗廬先生の手紙を持っている。

最初は、丈平さんが言うことが飲み込めなかった。

「ちょっと待て。順を追って話してくれ!」

「そうか。それでは・・・倉敷村の林(じゅん)(ぺい)という者の投書を読んだか 東京日日の」

「ああ、読んだ」

 七月三十日の東京日日新聞だ。内容は、

讒謗(ざんぼう)律や新聞紙条例が制定されて以来、新聞記者の筆鋒(ひっぽう)は鉛が火中へ投げられたようにトロトロと溶けてしまった。新聞は利益を得るためにあるのではない。万民が幸福を追求することを保証するためにある。いかに法令が厳しくとも、罰金が高くとも、避けて楽な方へ行くべきではない。真の志士(しし)仁人(じんじん)は、我が身を殺して国家のために尽くすものだ。       

小田県下倉敷邑 林醇平」

 

 丈平さんは、八月十日気付の朗廬先生の手紙を開いて、

「ここに書いてある。『此節 (あけぼの)新聞、()イテ(いて)日報 報知呼出シナリ』 先生も心配されている。東京日日の編集長代理が、お尋ねの(すじ)ありと警視に呼び出された。曙新聞の編集長は、東京裁判所刑事課に吟味(ぎんみ)(あずか)りとなった」

「・・・」

「ほどなく、曙新聞と東京日日が新聞紙条例違反で逮捕された。ほら、この新聞だ。林醇平の投書を載せた東京日日の編集長代理甫喜山(ほきやま)(かげ)()が罰金十円、禁獄三十日の刑を申し付けられたとある。政府は本気だ」

 

そして、八月九日の郵便報知新聞に、曙新聞の編集長の末広重恭(しげやす)が罰金二十円、禁獄二カ月の刑に処せられた、とある。曙新聞の編集長の刑は(ばい)も重いが、摘発の対象になった記事は分からない。

それにしても、厳しいことになったものだ。

 先生の手紙を読み返す。

『此度ノ令』・・・讒謗律や新聞紙条例のことだ。『抵抗スルハ オトナ(大人)ゲナシと申説ニ定り候。(しか)筆端(ひったん)ハ暫時(にぶ)り可申乎。』

先生は、執筆に慎重になっておられる。事態が飲み込めた。

 

 丈平さんは我が家に泊まり、じっくりと腰を据えて話し合った。そして、新聞紙条例の布告が載った六月三十日の郵便報知新聞を見せた。

『第十二条 新聞紙若くは雑誌雑報に於て 人を教唆して罪を犯さしめたる者は 犯す者と同罪・・・禁獄五日以上三年以下 罰金十円以上五百円以下を科す・・・。

第十三条 政府を変壊し 国家を転覆するの論を載せ 騒乱を煽起(せんき)せんとする者は 禁獄一年以上三年・・・。

第十四条 成法を誹毀(ひき)して国民 法に(したが)ふの義を乱り 及(あら)はに刑律れたるの罪犯曲庇(きょくひ)するの論を為す者は 禁獄一月以上一年以下 罰金五円以上百円以下を科す。』

 

我が身を振り返った。

私の投書はどうか。

確かに、政府を批判した。

地方官会議を『政府の私会』、『(ばん)()酋長(しゅうちょう)の会合』に過ぎない、『上下隔絶の形状』と言った。そして、『時尚ヲ梅天』だ、『秋陽の晴朗』を待つしかないと言った。

新聞紙条例が公布されたのが六月二十八日。私の投書が新聞に載ったのは七月十九日。新聞紙条例違反かどうか、政府に検閲されたに違いない。

 

朗廬先生の手紙に、讒謗律や新聞紙条例の取り消しや改正を求めて、元老院議官の秋月(あきづき)種樹(たねたつ)柳原前光(やなぎわらさきみつ)に働き掛けいるとあるしかし、ここに至ってはどうしようもないだろうと、丈平さんは言う。

先生は、地方官会議で地方民会が官選区戸長会に決定したことにも疑問をお持ちのようだ。手紙に、両元老院議官へ『民選・区戸長ノ二ツハ 地方適宜タルベキノ説』を申し添えたとある。ただ、一旦決まったこと故、先々の問題として取り組めばとのお考えのようだ。

 

丈平さんの話では、東京日日新聞に新聞紙条例違反の記事を投書した林醇平は、小田県の傍聴人と思われる林()(いち)さんの息子だそうだ。血気盛んな若者と聞く今は大坂にいるのか。当年二十歳。倉敷にも、勇ましい若者がいるものだ。

 

     傍聴家森田佐平

この朗廬先生のお手紙に、『傍聴家森田佐平』に時計を(ことづ)けたとある。森田佐平さんは、東京で先生に会った。間違いなく、森田佐平さんが傍聴人だ。

その森田佐平さんが、八月二十四日の郵便報知新聞に投書した。

「八月七日に東京から帰り、七月十九日の新聞に掲載された窪田次郎さんの演説を熟読した。演説の中で、台湾出兵の凱旋は些細なことと言っているが、そんなことはない。平和裏に解決していただいた。誠に有り難いことだ。そして窪田さんは、この度の地方官会議は『政府の私会』、『蛮夷酋長の会合』だと断じている。そのような無茶なことを言っていると、新聞紙条例違反で罰せられる。

地方官会議における官選区戸長会の決議は、将来の公選民会の端緒を開くものだ。まだまだ不十分なところはあるが、これをもって『上下隔絶』と言うのはいかがか。

傍聴人は矢野権令から直接、命じられたもので、県民から選任されたものではない。なんでいちいち県民に報告しなければならないのか。なぜこのような非難を受けるのか、疑惑と恐懼(きょうく)を感じる。」

 森田さんとは、よく知る間柄だ。それが、このように厳しくおっしゃるとは・・・

 

 この森田佐平さんの新聞投書に対して、東京在住の大川本(おおかわもと)松聴(まつとし)さんが『森田君に質する書』と題して、九月二日の郵便報知新聞に投書した。私の演説を弁護していただいている。

「窪田氏は、台湾問題を些細なことと言っている訳ではない。それほど地方官会議は重要で、傍聴人の役割は大きいと言っているのだ。公選民会は先のことだと森田氏は言うが、その考えは四月十四日の詔旨に反している。御上(おかみ)は早急な公選民会を期待されている。

傍聴人は県民に選任されたものではないから、県民に報告する義務はないと森田氏は言うが、矢野権令の上京を布告したように傍聴人についても布告すれば、窪田氏のような疑念は湧かないはずだ。そのような秘密主義の姿勢が『上下隔絶』を招き、政府と人民の間に雲霧の境界を作る。窪田氏と自分は相知る仲だ。そんな無茶なことを言う人ではない。窪田氏が、なぜそこまで厳しく言うのか、よくよく考えていただきたい。自分は今、東京にいるが、郷里小田県の出身者として黙っておれないのだ。」

 

 その後も、新聞は民会のことを取り上げる。その多くが民選賛成論だ。その都度、平治さんは記事を持ってやって来て、

「まだまだ(あきら)める訳にはいかん」

「我々に理がある。引き下がれない」

 朗廬先生の手紙の話をすると、

「朗廬先生も、これではいかんと思っておられる。いろいろと政府へ働き掛けておられるようだ。我々も頑張らなければ・・・」

 平治さんは負けん気だ。

 

 そして九月四日の郵便報知新聞が、『明六雑誌』の廃刊を伝えた。

明六社の社員集会において、福沢諭吉先生が『明六雑誌ノ出版ヲ止ルノ議案』を提案して、賛成九名、反対四名で廃刊に決定したとある。廃刊の理由は要するに、讒謗律と新聞紙条例は学者の自由な発論と両立しないというものだ。

この社員集会で、朗廬先生は廃刊に反対されたそうだ。論調を(やわ)らげてでも続けようとのお考えだろう。

 

「平治さん。情勢は厳しい。新聞社も、次々と摘発されている。我々も、思い切ったことを書けなくなった」

 それでも平治さんは、

「熊が出たら、死んだ真似(まね)をするのか。顔を()められても、じっと我慢するのか」

 平治さんは蛙鳴群の記録課だ。前回の定例会の会議録を持ち出して、

「この前の話をまとめて、新聞社に送る」

「この前の話とは?」

「この前の光行寺の話。県令が議長で、区長が議員で、戸長が傍聴人。区長が議長で、戸長が議員で、組頭が傍聴人。しかも、議員が傍聴人を独断で選び、召し連れる話だ・・・次郎さんが嫌なら、私の名前で出す。次郎さん、まとめてくれないか?」

 

後日、文案を見せると、平治さんは、

「表題は、『阿房(あほう)(かん)会議』とする」

 原稿の冒頭に朱書きした。

「おい、おい。そんなことを書いて、大丈夫か?」

「大丈夫だ。この前の東京日日の社説に『()(ほう)館快議(かんかいぎ)誌 末松(すえまつ)(のり)(ずみ)戯書』とあった。あれが大丈夫だから、これも大丈夫だ」

 平治さんは東京日日新聞に投稿したが、新聞に掲載されなかった。

 

    矢野権令辞職

 そして、九月の蛙鳴群の定例会。

 と言っても、集まった蛙はわずか五、六人になってしまった。

 そこへ、菅波序平さんが、届いたばかりの郵便報知新聞を持ち込んだ。

驚いたことに、その新聞の「公聞」の欄に、

『 依願免 本官ならびに兼官 但し位記返上の事

     小田県権令兼五等判事 矢野(やの)(みつ)(よし) 』

 

矢野権令が、依願免職とある。

権令は五十三歳。そろそろ退任のお年齢(とし)だ。その上、病気がちと聞く。お辞めになっても不思議はない。しかし・・・しかし、賜った位記まで返上とは、どういうことか。矢野権令に何か落度(おちど)でもあったのか。

 

蛙鳴群権群長の坂田丈平さんが、

「うーん。こういうことではないかと思う・・・政府は、小田県を要注意とみた。昨年の第六大区の決議を新聞で見て」

「我々の決議を見て?」

「そう。政府はあの決議を見て、矢野権令を呼びつけたのではないか」

 蛙鳴群掌会席課の苅屋実往さんが、

「呼びつけたと言っても、矢野権令は知らないことだ。権令も県官も第六大区の会議に出席されなかった」

 平治さんも、

「そうよ。せっかくの第六大区の決議が、県会では否決された。悔しいが、政府批判のほとんどが否決された。矢野権令が政府にどうこう言われる筋合いはなかろう」

 

 権群長の丈平さんが、さらに続けて、

「それでも、政府は気に食わないのよ。勝手に民会をやると、あのように政府を批判する。政府批判は困る。だから、公選民会はよろしくない。矢野権令は政府にきつく言い含められたのではないか? 公選民会に反対するように」

 蛙は固唾(かたず)を飲んだ。

 

 さらに、権群長の坂田丈平さんが、

「だから、民選に賛成とは言えず、さりとて官選に賛成とも言えず。地方官会議で発言がなかった訳よ」

「それで権令は、公選、官選のどちらに?」

「恐らく、官選賛成に廻られたのでは」

「それでか。新聞に矢野権令の名前がなかった!」

 郵便報知新聞が八月九日の社説で、公選民会に賛成した十七名の地方官の名前を載せた。その中に矢野権令の名前はなかった。

 蛙は顔を見合わせ、口を真一文字に結んだ。

 

 堪り兼ねて、平治さんが、

「傍聴人はどうした。傍聴人は! 傍聴人が権令に御注進申し上げたのではないのか、公選民会を!」

「傍聴人がいればの話だ。本当に傍聴人はいたのか?」

「傍聴人はいた。確かにいた」

「それなら、なぜ教えてくれない、傍聴人を?」

 再び、権群長の坂田丈平さんが

「傍聴人を教えると都合が悪かった。小田県民選議院の決議とは逆の、公選民会反対に回るのだから・・・だから権令は、公然と傍聴人を募集できなかった」

「だから、内々に森田と林を連れて行った」

「そういうこと。だから、留守を預かる益田参事に口止めした」

蛙は天井を見上げ、()め息を()いた。

 

 そうか。なるほど、そういうことだったのか。

 一連の謎が一気に解けた。

 そういえば、昨年の秋に東京から帰られて以来、権令の様子が変わった。

権令は開明的と言われ、臨時民選議院の開設を積極的に支援していただいた。その矢野権令が、一転して我々を遠ざけるようになったのも、そのためか。

御病気のためかと思ったが、それだけではなかったのか。

 

そのような事情を知らない我々は、県が傍聴人の名前を教えてくれないと、新聞紙上で小田県を批判した。そして、傍聴人が知らされない地方官会議は『政府の私会』、『蛮夷酋長の会合』に過ぎないと政府を批判した。そして、森田さんや大川本さんが新聞に投稿した。政府は、再三、新聞を騒がす小田県に疑いの目を向け、矢野権令の責任を追及したのだろう。

その上、新聞紙条例違反の記事を東京日日新聞に投書した林醇平は、矢野権令が傍聴人に命じた林()(いち)さんの息子だった。

 

地租改正の件も気に(かか)る。予定通りに進んでいない。隣の岡山県に比べて随分遅れている。医学校兼病院の設立のことでも、政府に心配を掛けているらしい。

もし、これらが罷免の原因なら、我々の所為(せい)だ。

権令を悩ませ、追い詰めた。済まないことをした。

お帰りになったら、お詫びに行こう。

しかし、矢野権令はそのまま笠岡にお帰りにならなかった。

 

これから小田県は、どうなるのだろう。

当面は、参事の益田包義が代行するとのことだが・・・。

大事(だいじ)な地租改正の問題が残っている。農民の死活問題だ。隣の岡山県のような鬼県令が来ては困るが・・・

 

        時雨降ルナリ

がっくりとして言葉も出ない。

蛙は途方に暮れ、再び冬眠に入ってしまった。

しかし、このままでは申し訳ない。

十月十五日。

『在東京大川本君に謝する書 小田県医生窪田次郎』と表記して、郵便報知新聞に投稿した。

「先般の私の寄稿に対して、森田佐平さんから御指摘をいただいた内容は誠に理論明快にして順法精神を尊ぶもので、敬服の至りです。県官をはじめ官選の区戸長のお考えも、これと同じでしょう。

その後、私は一人の民間医師として日々働いています。多くの民は貧しくて学問をする余裕もなく、自主自由とは無縁で、税金を納めても納税者として政治参加の権利があることを知りません。そうした愚民も、この国の国民の一人であることを、官選給禄の士君子は御承知いただきたい。

森田さんには、いつか、地方官会議の傍聴の土産(みやげ)をお聞かせいただきたいものです。大川本さんには、愛県の心で新聞に投書していただき感謝しています。

私ども蛙鳴群は、(まさ)しく井の中の(かわず)であったと反省しています。

これまで私どもが論じたことは、いずれその可否がはっきりする時が来るでしょう。それにしても、民の声を聴くと期待を持たせ、私どものような荒村の民心を惑わすようなことは、二度と止めていただきたいものです。

私は、先輩の厚い説諭に従い、言行を慎み、これを最後に新聞への投稿を止めます。そして小民の限界を守り、医術の研究に専念したいと思います。

 

『 三日月ノ光ヲ添ヘテ苅ル稲ニ ナオ()ツレナクモ ()(ぐれ)降ルナリ 』」

和歌で結んだ。その心は、

「詔勅を賜り、民情を反映する政治を実現しようと頑張りましたが、つれなくも時雨(しぐれ)が降り、(こころざし)(なか)ばで終わってしまいました」

 

文中に『愚民(おも)フニ 十数年ノ後ハ 強兵散シテ田圃ニ帰ル者 幾千万ヲ知ラズ』の文章を挟んだ。

国民に相談もなく戦争を始め、国民に相談もなく借金を重ねると、「国敗れて山河あり」というようなことになりはしないか。

あからさまには書けない。その意を読み取っていただいた方があったかどうか・・・。

 

 寄稿はこれが最後だ。

これは、十月二十五日の郵便報知新聞の「投書」欄に掲載された。

掲載後、特段の事はなかった。

 

        宵の明星

この春以来、村人の関心事は、民選議院や地方官会議よりも何よりも、検地のことだ。元禄以来の検地だ。しかも、村人の手で検地を行う。戸長の藤井平太さんの心労は並大抵なものではない。検地が終われば、田圃ごとに収穫の多少や耕作の利便性を勘案して等級を決める。これも村人で行う。また、ひと()めもふた揉めもするだろう。村人は盛んに他人と比べて、それに目を奪われている

問題は、他人との比較ではない。今までの年貢と比べて高いか、安いか、それで農民が生きて行けるかどうかなのだ。

税は、農地の評価額に、百分の三の地租と百分の一の地方費が課せられる。農地の評価で基準となる米価をどう決めるか。粟根のような山間は、どの程度勘案するか。そして、稲作の経費や農民の生活費をどう見積もるか・・・

 

十月の末。

 久し振りに、五匹の(かわず)神辺(かんなべ)(こう)行寺(ぎょうじ)に集まった。苅屋実往さんに甲斐修さん、菅波序平さん、それに藤井平治さんと私だ。

思えば、いろいろなことがあった。話題に事欠かない。しかし、もはや過去の思い出話になってしまった。

県会は官選の区長が議員になり、大区会は官選の戸長が議員になる。

区戸長は為政の者だ。県の指揮下にある。区戸長が議員では、政府批判の意見など、到底、出ないだろう。これでは、上から下への一方通行になり、下から上への道は閉ざされる。井戸の中の蛙が、さらに井戸に(ふた)をされたようなものだ。

頼りの新聞も慎重になった。蛙鳴群の投稿を取り上げてくれない。蛙鳴群は、どうしてよいか分らなくなった。

「それではまた」と言って別れたが、この先、どうなることか。

 

(こう)行寺(ぎょうじ)の門を出る。

向かいの黄葉山(こうようざん)紅葉(こうよう)が夕日に()えて美しい。

平治さんと私は、高屋(たかや)(がわ)を渡り、とぼとぼと粟根へ帰る。

物悲しい。まるで敗残兵だ。

これまでの活動は何だったのか。

政治が遠のく。

一緒に頑張った人たちが寄り付かなくなった。

医師仲間も離れていった。

努力すればするほど、追いやられる。

何もかも、押しつぶされ、かき消される。

私は、何をやっているのか。

 

 (はる)か向こうの山の()で、太陽()(あけ)燃え大きく膨らんで沈んだ

 その少し左に一番星が・・・。

(よい)明星(みょうじょう)か。

その星も、たちまち消えた。

 



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<ご参考>

 ・参考史料
     山下五樹・編著「阪谷朗廬先生書翰集」・・・明治八年八月十日気付の阪谷朗廬から坂田警軒宛の書簡
     『・・・此度ノ令(新聞紙条例)ニ抵抗スルハ オトナゲナシ・・・然シ筆端ハ暫時鈍り可申乎。
        此節曙新聞、ツヾイテ日報報知呼出シナリ。小子深憂ニ付・・・
        且民選・区戸長ノ二ツハ 地方適宜タルベキノ説・・・認メ差出候・・・』


     「東京日日新聞」明治八年七月十三日付第一〇六六号(日本図書センター)
        同     明治八年七月三十日付第一〇八二号( 同 )
     「郵便報知新聞」明治八年六月三十日付第七一〇号(郵便報知新聞刊行会/編・柏書房)
        同     明治八年八月九日付第七四五号(同)
        同     明治八年八月二十四日付第七五八号( 同 )
        同     明治八年九月二日付第七六六号( 同 )
        同     明治八年九月四日付第七六八号( 同 )

     「続阿房漢会議」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社・広島県立歴史博物館蔵)





  「続阿房漢会議」冒頭の頁
  (蔵・広島県立歴史博物館)



  藤井平治の名前で新聞社へ送ったが、
  掲載されなかった


  冒頭枠外の朱書き『続阿房漢会議』は、
 平治さんの思いで追記されたものと思われる。
 この末尾に『明治八年九月 藤井平治』とある。

 同年七月十三日付け東京日日新聞の社説に
 『○阿芳館快議夜誌 末松謙澄(東京日日新聞記者)
 と題して、仮想の地方官会議が掲載された。
      Wikipedia末松謙澄
















    「在東京大川本君ニ謝スル書」草稿(同)




 「在東京大川本君ニ謝スル書」
   最後の頁
   (蔵・広島県立歴史博物館)


 「三日月ノ 光ヲ添ヘテ 苅ル稲ニ 
      猶アヂキナク 時雨降ルナリ」


  日新真事誌には掲載されなかった。
  明治八年十月二十五日付け郵便報知新聞へ
  掲載された。
  その紙上では、

 「三日月の 光を添へて 苅る稲に 
      猶つれなくも 時雨降るなり」
 




     「郵便報知新聞」明治八年十月二十五日付第   号(郵便報知新聞刊行会/編・柏書房)
           


 「在東京大川本君に謝する書 
       小田県医生窪田次郎」

  投書を載せた郵便報知新聞
   (最後の部分)

  中ほどに、
 「・・・十数年の後ハ強兵散して
  田園に帰る者幾千萬を知らぬ・・・」
  とある。

  (青の印は筆者)










 ・参考文献
     有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
     渡辺隆喜著「明治国家形成と地方自治」吉川弘文館
          その171頁に、公選民会案に賛成した21名の一覧表がある。
          その中に、小田県令矢野光儀はない。

     大島美津子著「明治のむら」(歴史新書116・教育社)
     「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館(平成九年度春の企画展)
   「広島県史・近代1」編集発行広島県
   「福山市史・下巻」福山市史編纂会


 ・登場人物
     林醇平     Wikipedia林醇平
     秋月種樹    Wikipedia秋月種樹
     柳原前光    Wikipedia柳原前光

 ・参考ホームページ
     位記返上・・・・Wikipedia位、勲章等ノ返上ノ請願ニ関スル件
     宵の明星・・・・宵の明星、明けの明星


 ・舞台となった場所の今日



  小田県庁の表門

  手前に堀があり、橋が架かる

  都宇郡妹尾村の元戸川陣屋の長屋門を移築したもの