「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
それから
終章
一芝居
以上は、私、窪田次郎が直接、見、聞き、体験したことを綴ったものです。
今、私は仏となって、あの世とやらで気楽に過ごしています。
仏になると便利なことに、何もかもお見通しです。
その後、木戸孝允閣下の日記や書簡が残されていることを知りました。他人の日記や書簡を持ち出すなど失礼かとは存じますが、お許しをいただいて皆様に御覧に入れたいと思います。
木戸孝允は、明治六年十一月二十日の日記に、
「 伊藤博文が政体について私の考えを尋ねた・・・
欧州の政府はその形は美麗ですが、我が国に比べて人智が格段に優れている。それを我が国へ持ち込むのは難しい・・・
一 諸省や地方の官員を選挙すると、一方に偏る弊害がある。
一 日本の建国の大法は『デスポチック』に。そうでなくては、やって行けない。特に教育と兵制は『デスポチック』でなければ・・・」
『デスポチック』とは英語で「専制的」の意味です。
なぜ、ここだけ英語のカタカナにしたのでしょうか。「専制的」と日本語で書くのに気が引けたのでしょうか。
さらに、明治八年の地方官会議が閉会となった三日後の七月二十日。
元薩摩藩士で、後に滋賀県知事や京都府知事を務めた中井弘に宛てた木戸孝允の書簡に、
「 地方官会議には、図らずも私が議長になりました。
『一芝居』やりましたが、無事済みました。
千里の道は一歩からと申します。素人どもが最初から軽気球や急行列車に乗り、中途で如何ともし難くなるようなことは少なくありません。それは、その人のため、人民のため不幸なことです。」
なんと、『一芝居』・・・我々は木戸孝允の『一芝居』に踊らされただけのことだったのか。
この『一芝居』で、公選民会に賛成した県令二十一人のうち半数以上が依願免職、もしくは廃県の際に再任されず、実質的に免職になりました。
我々が注目した加藤弘之にも裏切られました。
加藤弘之の書物に矛盾がある、「国権」と「官権」を混同していると、蛙鳴群で指摘しました。我々の指摘は当を得ていました。その後、加藤弘之は学者から論理の矛盾を追及され、ついに耐え切れなくなって、明治十四年に、万民共治の理想を説く『真政大意』、『国体新論』などの自著を絶版、販売禁止にすると宣言しました。
その加藤弘之は、明治政府を理論的に擁護し、後に東京大学の総長になりました。
仮面政徒ノ奴隷
当の私はと申しますと、隠忍自重すると宣言しましたが、四年後の明治十二年に、またも我慢ができなくなって、国会の早期開設を建白しました。
その要旨は、
「家に例えると、父兄は子弟に一家の難儀を知らせるべきだ。そうすれば、子弟も頑張り、父兄を助けるだろう。国も同じだ。国民は、国の難儀を新聞で漏れ聞くだけで傍観している。国民に知らせ、国会に諮れば、国民は国の難局を理解し、国政に協力するだろう。」
ようやく明治二十二年に大日本帝国憲法が発布され、翌年に第一回の衆議院総選挙が行われ、国会が開かれました。
しかし、その選挙はというと、有権者は国税十五円以上を納める男子に限るものでした。それは、人口のわずか一パーセント程度です。啓蒙所を始めて二十年近く、小学校を始めて十五年も経ち、多くの人が字を書けるようになったのに、ごく一部の人しか選挙ができません。そんな選挙で選ばれた国会が、果たして国民の代表と言えるでしょうか。
その第二回総選挙に、既に第一回から衆議院議員を務める坂田丈平、改め坂田警軒さんから、私に立候補を勧められました。
坂田警軒さんに、私は返事を書きました。
「・・・世の政治家は、道徳や法律に口を挟み、富国強兵の檄を飛ばすが、『自主ヲ唱テ他ニ依頼シ 自由ヲ説テ自由ヲ縛シ』、党派を組んで政争に明け暮れる・・・私は『大日本国独立自主ノ一民』、なんで私が、彼ら『仮面政徒ノ奴隷』になれようか・・・」
きっぱりと辞退しました。
県や市町村の議会はどうか。
国会議員よりも早く、明治十一年に県会議員の選挙が始まりました。しかしそれも、有権者は地租五円以上を納める男子に限られました。その後、町村の長や議員の選挙が始まりますが、同じように条件がありました。
このような納税条件は大正時代も末の一九二五年に撤廃されますが、有権者は男子に限られました。粟根村の代議人の選挙や私が構想した下議員結構には、納税条件などありません。女性も選挙ができました。
戦後は、女性も選挙ができる普通選挙になりました。現代に生きる皆さんは、昭和二十年の敗戦で日本の政治は一転、変わったとお思いでしょう。自由で民主的な政治になったと・・・。
しかし、高い雲の上から見ると、あまり変わったとは思えません。「自由」の制約と放任の違いはあるが、お任せの政治という点では同じです。政治は難しい。立派な方や熱心な方に任せる。そして無関心、依頼心・・・政治家任せ、役人任せの体質はそのままです。
カリフォルニア州の住民投票
地球を探せば、お任せの政治にならないよう、絶えず工夫している国があります。
例えば、維新の頃に、福沢諭吉先生や加藤弘之先生に万民共治の理想の国と称えられたアメリカ合衆国。そして、留学した五十川基君が無事、研修を終えて帰国したら、その実際のところを聞くのを楽しみにしていたアメリカ合衆国の州のひとつ、カリフォルニア州です。
彼らは今日、住民投票を多用します。
通常のことは行政官や議員に任せますが、重要な案件は、直接、住民投票で決めます。最近の事例としては、二〇一〇年の中間選挙に併せて、多くの案件について住民投票を行いました。
州の段階で、次のような案について賛成か反対か、賛否を問いました。
野生動物保護のため新税の創設、失業率が5.5%以下になるまで温室効果ガス排出規制を一時中止、下院選挙区の変更、特定資金から州が借入を禁止など、十案件を住民投票で決めました。
同時に、同州の郡や市・町・区の段階で住民投票を行います。ある町では、消防施設を充実するため増税することに賛成か反対かを住民投票に掛けました。また同時に、学校経営を行う学校区が、教師増員のため増税することに賛成か反対か、あるいは学校の改築のため借金することに賛成か反対かを住民投票に掛けました。
次の大統領選挙の折にも、多くの案件が住民投票に付されるでしょう。
選挙項目は、首長や議員の選挙と合わせると二十、三十になります。そんなに多くのことが一般の者に判断できるのか、疑問に思われるでしょう。それでも現に、彼らはやっています。実際のところ、投票率は、然程、高くありません。高くないと言っても、何万人、何十万人で決めるのです。賛否が伯仲する議案には関心が高まり、当然と思われる議案はすんなり決まり、雰囲気に流されそうな議案には反対意見も出て、常識あるところに落ち着くそうです。
そうなると、投票した人はもとより、投票しない人も、もはや政策に不満は言えません。参加の機会を与えられたのですから・・・。
住民投票の多くは、住民発議です。議案を理解してもらわないと、賛成してもらえません。議案は簡潔にします。そして、議案を通そうと活発に運動を展開します。隣近所の草の根運動から、最新のメディアの活用まで制約はありません。寄付とボランティアです。
そうした活動に参加し、提案された事には自分なりの意見を持ち、YES、NOをはっきり言うことが自立した人としての当然の姿と思っています。それが言えない人は、主体性のない従属的な人と見做されます。そして、人任せにしていて、気付いた時には大変なことになった数々の失敗から、参加することは当然の権利であり、義務であると考えています。
「難しいことは、私のような者には分かりません」と謙虚振って判断を避け、「教えてくれないから分らない」と不満を言う。そして、住民投票は日本では無理、風説に流されて間違った判断をする、日本には向かない、国民性が違うと言う。
木戸孝允も似たようなことを言っていましたね・・・欧州は我が国に比べて人智が格段に優れている。民選議院を我が国へ持ち込むのは難しい。選挙をすると一方に偏る弊害がある。
あれから百数十年。教育に熱心に取り組み、教育水準の高さを誇る日本が、国民性の違いと言って片付けてよいものでしょうか。
漢学の教え
なぜ、「お任せの政治」になるのでしょうか。
私、窪田次郎は、今にして思うのですが、原因の一端は「漢学」の教えにあるように思われます。なぜ、今さら漢学が・・・とお思いでしょうが、私達、日本人のものの考え方に、「漢学」の精神が根強く巣食っています。
私も、漢学を阪谷朗廬先生や江木鰐水先生から学びました。正直なところ私自身は、終生、漢学から脱することができませんでした。ところが福沢諭吉先生は、早くも少年の頃に、漢学の矛盾に気付き、きっぱりと漢学と決別して蘭学を学ばれました。
その漢学の矛盾とは何か。
福沢諭吉先生は、『学問のすゝめ』の中で、解り易く、次のように言っておられます。
「漢学は、学問をして徳を積み、賢い役人となって国を治めることを教える。その結果、例えば、人口百万人の国があるとして、千人の優秀な賢者が国を治める側に立つ。そして残る九十九万人余りは、ひたすらお上の命に従うことになる。そのため、大多数の国民は国を憂うることもなく、国を守る気概もない。これでは、一国の独立は叶い難い。」
福沢諭吉先生のこの論に、「漢学者が役人になって何が悪いか」と反発したのが、あの加藤弘之先生でした。しかし現実は、福沢先生が危惧されたように、役人任せ、政治家任せの政治になりました。その結果、戦前は戦争の推進を許し、戦後は大借金を見逃し、独立の危機を招いています。
そして、なお悪いことに、この「漢学」の悪習と「選挙制度」が相乗します。
え! 何のこと? 関連がある? とお思いでしょうが・・・選挙も、御承知のように、立派な方を選んで政治をお任せする制度です。「お任せ」という点では同じです。そのために、住民一人ひとりが政策を考え、意思表示をする機会を奪っています。
地方自治は民主主義の訓練の場
この点を私は、「下議員結構」の構想を練る際に思案しました。
村人が知らない内に議会で決めると、実行段階で困ります。村民の協力が得られません。村民と共にある、開かれた議会を目指しました。そのため、啓蒙所と同一敷地にある議事所の玄関に布告や決議を掲示し、『生徒ヲシテ 一々暗記セシメ 必ズ其父母ニ告サセ』ることにしました。組頭や伍長からの誤達を防ぎ、遺漏を補い、周知の徹底を図る・・・何分にも、字が読めない、紙も印刷技術もない、もちろん放送施設もない時代です。当座に考えられる方法でした。
この方法には、もう一つの狙いがありました。その都度、親と子が話し合い、議会で何が問題になっているかを知り、親子ともども政治を学ぶことを期待しました。
英米やドイツなどゲルマン民族には、住民が直接政治に参加する住民総会の伝統があります。これらの国は、近代になって選挙によるお任せの便法を取り入れましたが、選挙による政治の欠点に気付き、それを補うためいろいろ工夫しています。
例えば、議案を早めに住民に公開する方法や、議会で議決する前に住民の意見を聞くパブリック・コメント制、あるいはタウン・ミーティングの開催など。住民自らが発議する議案も沢山あります。そして、重要案件は住民投票に付します。これらの住民発議や住民投票は、住民が一堂に会さないけれども、直接、政治に参加する点で、住民総会と同じものと言えるでしょう。ともかくも彼らは、住民が「主」の基本に立ち、いかに住民の意向を反映するか、そして信頼される行政を進めるかを絶えず腐心しています。
私も選挙による粟根村代議人制度を体験して、この問題点に気付きました。そこで『下議員結構』の構想では、村にとって重要な『格外ノ大事件』は議会で議決する前に村民全員を集めて議案を説明し、意見があれば三日以内に近場の議員へ申し出て、四日目に議決することにしました。
ところが今の日本は、出来上りの選挙制度を輸入して、民主主義はこれで事足れりとしています。
西欧には、「地方自治は民主主義の訓練の場」という諺があります。
同じ主張が、第五章で御紹介した東京日日新聞にもありました。明治八年四月十三日の「投書」欄・・・国の民選議院は後回しにして、差し向き小区や大区で民選の民会を始め、さらに民選の県会を始めて、これなら宜しいという時節が来たら国の民選議院を開けばよい。
地方官会議で神奈川県令中島信行は、民選の民会も慣れれば大丈夫だ、このまま何もしないなら、何十年経っても人民は進歩しないと発言しました。
これと同じです。日本も、地方の段階で、身近な案件について住民に直接問いかける政治が導入されれば、もはや傍観者や無関心では済まされず、自分たちで決めた政策のその後を注視し、協力や反省や責任の姿勢が醸成され、さらには国の政治についても責任を持って臨む国民参加の政治が可能になるでしょう。
地方分権
あの福沢諭吉先生の書物に、『分権論』があります。
その中で福沢先生は、国権には「政権」と「治権」の二様があり、『・・・集権論者ハ 彼ノ中央集権ニ非ザレバ 國其國ヲ為サズト云フ言葉ニ誤ラレテ 「政権」ヲ集ルハ固ヨリ 無論、 「治権」ノ些細ナルモノニ至ルマデモ 悉皆コレヲ中央ニ集メテ 同一様ノ治風ヲ全国ニ施シ 各地ノ旧俗習慣ニモ拘ハラズ 之ヲシテ真直水平ノ如クナラシメント欲スル者アリ・・・』
この書物は明治十年に出版されました。明治四年の廃藩置県後、政府は強力に中央集権化を推し進めました。それに気付いた福沢先生が、早くも警鐘を鳴らされたのです。
明治八年の地方官会議も、地方の意見を聞くと言いながら、結局は形だけのことになりました。小田県権令矢野光儀をはじめ、公選民会を是とする、中央集権化にそぐわない県令や権令が辞めさせられたのも詮無いことでした。そしてこの中央集権化の暗雲は、長い冬の到来を告げる『時雨』となり、「氷雨」となりました。
結び
福沢先生の分析手法を借用するならば、藩の時代に「政権」は殿様にありましたが、「治権」は村々にあったと言えるでしょう。年貢を納めても、藩は村のことをかまってくれません。村のことは村で・・・村人の相互扶助で村の生活を守らなければなりませんでした。
私の父亮貞が、村人の出資で蘭学を学ぶことができたのも、村で医療を確保しようとする村人の相互扶助の精神の賜物でした。だから父も私も、村人を裏切ることはできなかったのです。
村人がお米を出し合った啓蒙所も、村の子は村で教育しようという思いがあったからできたことでした。村に新たな産業を興そうと研修生を派遣した「養蚕伝習約束」もそうでした。東京に遅れまいと創業した書籍販売の細謹社もそうでした。お互いに勉強しようと集まった博聞会や蛙鳴群もそうでした。自分たちで何とかしようという熱い思いがありました。そして私達は、民意が反映する政治の実現のため我を忘れて頑張りました。
ところがそうした活動が行政に委ねられ、行政は中央集権化して、何事も政府に頼り、政府に従う国柄になってしまいました。そして、村の世話役だった村総代に次々と国の行政が押し付けられ、官僚組織の末端に組み込まれました。
歴史を元に戻すことはできません。しかし、もしも・・・もしも、私達のような実践が地道に育ったならば、日本にも国民参加・住民参加の政治が生まれ、国民や住民が誇れる納得の政治が根付いたかも知れません。
私は、雲の上で悔しい思いをしています。心配しています。
現代の皆様も、ひと工夫もふた工夫もされることを願っています。
<ご参考>
・参考史料
「木戸孝允日記・第二・第三」東京大学出版会
「木戸孝允文書・六」東京大学出版会
「坂田警軒ニ答ウル書」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社)
福沢諭吉著「学問ノスヽメ」三編
「一身独立シテ一国独立スル事」の一部(縦線は頁替え)
三行目から「假ニコヽニ人口百萬人ノ國アラン・・・」とある
(提供:慶應義塾福澤研究センター)
福澤諭吉著「分権論」の表紙(慶應義塾福沢研究センター)
窪田次郎の写真
(広島県立歴史博物館蔵)
明治二十四年(一八九一年)、次郎五十六歳の頃
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館
「平成九年度春の企画展」の冊子から転写
窪田次郎の妻
窪田次子(ツギ)の写真
(広島県立歴史博物館蔵)
明治二十四年(一八九一年)、次子四十五歳の頃
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館
「平成九年度春の企画展」の冊子から転写
・ご参考
事例・・・カリフォルニア州2010年11月2日中間選挙
(公式投票者ガイド(日本語版)
当州には日本人が多いため、日本語版があります。
もちろん、他の外国語版もあります。
他の州にも、多くの外国語版がありますが、日本語版は少ないようです。
この「公式投票者ガイド」を開いてみてください。
その内、第21の住民投票事項を例にとれば、
カリフォルニア州総選挙(2010年11月2日火曜日)公式投票者ガイド(州務長官認定)における「住民投票」
住民投票ごとに、議案説明(目的、方法、収支、効果)に対する賛成論、その反論、反対論、その反論などが載る
首長や議員の選挙も同時に行われ、全体が120頁という膨大なのもの
各世帯に輸送される
他にスペイン語、ベトナム語、タガログ語、中国語、韓国語がある
(日本語版をネットで見ることができます。シカゴ市は12ヶ国語、ただし日本語版はない)
カリフォルニア州モントレりー郡(パシフィックグロブ市・ペニンスラ学校区)住民投票議案・Monterey County Election
(これは前回の中間選挙のものです。次の大統領選挙で更新されます)
・参考ホームページ
加藤弘之・・・・戸田文明著「加藤弘之の転向」(四天王寺国際仏教大学紀要)
選挙制度・・・・・Wikipedia日本の選挙
衆議院総選挙・・・・・Wikipedia衆議院議員総選挙