「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第五章 蛙鳴群 その3
地方警察の事
以下、新聞の『地方官会議日誌』から・・・。
会議は、議問ごとに三段階で進む。
第一次会で提案と質疑、第二次会で討論、第三次会で決議。
まず、『地方警察の事』の議問。
その第一次会だ。
議長が議問の趣旨を述べ、書記官が議問を読み上げた。この議問は三つに分かれる。
第一の議問は、警察費の負担割合。官費が三分の二、民費が三分の一とする。
第二の議問は、警察官の配置。人口十万人をもって一つの出張所を設置する。官員一名邏卒五十人、七屯所八分屯所を置く。県庁には警察事務の官員二名を置く。
第三の議問は、警察官の募集方法。年齢や身長などの条件の外、病気や酒癖等がない、保証人二名が必要などの規則を定める。
この政府案に対して、地方官が質問し、主務係官が答える。
午後に第二次会。
第一の疑問の警察費の負担割合について、地方官が次々と意見を述べた。
意見を要約すると、
豊岡県参事田中光儀「負担に耐えられない県もある。官費四分の三、民費四分の一にしていただきたい。」
新潟県令楠本正隆「官費は三分の二の定額とし、残りは民費で適宜に。」
新川県権令山田秀典「先に租税の法を立てて、歳出全体を見たうえで考える。」
兵庫県令神田孝平「租税が重いので、すべて官費にして欲しいところだが、すべてを官費にすれば、警察はまったく官吏のごとく人民を抑圧する恐れがある。租税を減じて民費を三分の一とするのがよい。」
大坂府権知事渡辺昇「官費と民費を混同するのはよくない。官費の警察と民費の警察を別々に置く。官費の警察は他郷へ行くことも可。民費の警察は必ず本地にあって本地の人民を保護する。」
神奈川県令中島信行「三分の二は官費。残りの民費分については納税者の資力に応じて徴収する。」
京都府参事槇村正直「租税はすべて官に上がる。官は民を保護するのだから、警察の費用はすべて租税から出すべきだ。」
福島県令安場保和「官費民費の分担の問題は、警察のことだけではない。道路橋梁堤防のことなど多岐に亘る。全体としてどうするかを考えなければならない。」
飾磨県権参事岡崎真鶴「殺人のようなものは官費の警察。軽微なものは民費の警察。比率を一定にしない。」
議長が討論を打ち切った。
続いて第三次会。
議長の裁定で、新潟県令が主張したように、官費は三分の二の定額とし、三分の一を民費で適宜とするに決した。
翌日は、議問第二の警察官配置の基準と議問第三の募集方法へと進む。次々と地方官が質問し、討論する。それらが逐次、新聞に載った。
どこどこの県令は、どう言った。どこどこの県令が言うのが正しい。自分はこう思う・・・蛙鳴群だけではない。日本中が、新聞を囲んで沸きかえった。
しかし、矢野権令の発言が新聞に出てこない。
次の『道路附橋梁の事』の議問も、官費民費分担の問題だ。
国道、県道、里道の区分と、それぞれの改修費について官費と民費の負担割合を決める。
第一次会で政府案が示された。
国道の一等は東京から各開港場まで
二等は東京から伊勢神宮及び陸軍の鎮台まで
三等は東京から各県庁までと鎮台へ接続する道路
県道の一等は他県に接続する道路と鎮台から分営まで
二等は県本庁から支庁まで
三等は著名な区から府県までとその区から便宜の海港まで
里道の一等は数区を貫通するものと甲区と乙区を結ぶ道
二等は用水、堤防、牧畜、坑山、製造所等に通じる道
三等は神社仏閣へ通じる道及び田畑耕転のため設けた道
橋梁は、その道路の区分に従う。
そして、国道、県道について道幅の基準を示す。
同じように、第二次会、第三次会へ進む。
その議事の経過が、次々と新聞に掲載された。
新聞紙条例
書記官が『地方官会議日誌』にまとめて、新聞社に渡すまで数日を要する。新聞社が紙面にして郵便に託す。それが神辺へ届くまで数日。それを粟根に持ち帰る。新聞は誠に有り難いが、手元に届くまでにおよそ八日が掛かる。
七月八日。
六月三十日の郵便報知新聞が届いた。
その「公布」の欄に、二十八日付けで太政大臣三条実美が『讒謗律』と『新聞紙条例』を布告したとある。
讒謗の「讒」とは「人を陥れるための作りごと」。「謗」とは「あばいて悪口を言い広めること」。「律」とは法律のこと。要するに、人を謗り、人の名誉を汚す者は罰するという法律だ。
意味は解る。
郵便報知新聞が新聞紙条例のことを察知して、六月十九日の「論説」で取り上げた。
「政府が新聞の自由な論議を抑制してはならない、云々。しかし、朝野新聞が福沢諭吉を殺すとか殺さぬとかの論を掲げ、評論新聞が大臣を殺すべきという投書を載せた。このような暗殺をそそのかす思想や悪事を賞賛する意見を載せるのは良くない。」
それはもっともなことだ。いくら自由だからといって、言いたい放題、書きたい放題では困る。我々にも苦い経験がある。新聞に載った備前の世良田譲庵の投書のことが頭にあり、我々は被害者くらいに思った。政府が新聞社に地方官会議の傍聴を許さないのも、そのためか。この法があれば、新聞社も法を守る。そうなれば、次回からは新聞社の傍聴が許されるだろう。
地方官会議の最中の新聞紙条例や讒謗律を、そのように受け止めた。
「地方民会」が先
粟根の我が家で、診察が一段落。
七月二日の東京日日新聞を読む。
社説で、東京日日新聞の記者の末松謙澄が、地方官会議の議問の中で一番重要なのは『地方民会の事』だと論じている。
そして、諸府県の傍聴人が二十六日に銀座の幸福安全社で総集会を開き、さらに二十九日に数人が小集会を開いた。その小集会で、次のような話が出たと報じている。
「傍聴人としては、地方民会の議問を先に決議していただきたい。公選議員による地方民会が認められたら、他の四議案は一旦、府県に持ち帰り、府県ごとに民会を開いて一年間議論する。そして、その決議を来年の地方官会議に持ち寄れば、正に県民の声を代表した会議になる。」
なるほど、そうだ。それが一番だ。これに優るものはない。
四議問なら簡単だ。小田県が昨年の臨時民選議院でやったように小区会、大区会、県会と決議を積み上げる。
傍聴人の中にも、しっかりとした考えを持つ者がいるものだ。何県の何者だろう。もしかして小田県の者か。我が蛙鳴群の者なら、そう言うだろうが・・・
「先生、患者さんですよ!」
奥の部屋にいた私に、診察室からトメさんが声を掛けた。
診察をしていても、このことが頭から離れない。
確かにそうだ。民会さえ開かれれば、民意は確実に伝わる。
地方官会議で公選議員による地方民会が決まれば、小田県も昨年と同様に民選議院を開く。そうなると、もはや臨時ではない。正規の民選議院だ。現行の官選区戸長による県議事所に替わるものになる。県の議事所の議員に気兼ねなく、大威張りで民選議院を開くことができる。
『地方民会の事』を是非とも決議して欲しい。矢野権令は、もちろん賛成に廻っていただけるだろう。
秋陽ノ晴朗ヲ待ニ如カズ
七月十一日。
雷鳴が轟き、大粒の雨が降る。
蛙が肩を窄めて、光蓮寺へ駆け込んだ。その喧しいこと。
そこへ、七月三日の新聞が持ち込まれた。
その新聞を、第六大区の臨時民選議院で誦読を務めた別所春沢さんが、議会の時のように大きな声で読み上げた。
「七月一日に、主上が浜の離宮へ御臨幸。延遼館で慰労の宴が催され、議長、議員、書記官、そして傍聴人も招待された。
参加者は勅語を賜った・・・熱い時節に御苦労である。朕の初意に達する。
さらに議長木戸孝允は、議員や傍聴人を御前に進めて、地方の土産話などをさせた。主上がお帰りになり、三時から別室に府県傍聴人を集めて酒肴を給わり、禁苑を縦観させていただいた。」
ますます、小田県の傍聴人が誰か気になる。
「傍聴人が誰か分かったか?」
「区長の森田佐平と林孚一が上京したらしい」
「地方官会議のために上京したとは限らん」
「そうよ! 矢野権令も上京したという話だが、地方官会議日誌にまったく名前が出ない」
興奮気味な蛙を前に、私が演説した。
「前回の龍城院における会合で、傍聴人は将来の国の民選議員に繋がる重要な役割を果たすとお話した。ところが、小田県では、地方官会議が終わろうかというのに、今もって傍聴人が誰か分からない。これでは、傍聴人から会議の様子を聞きたくとも聞けない。傍聴人は上下を繋ぐ要になると期待したが、誠に残念なことに、『上下隔絶の形状』だ。このような地方官会議は、『政府ノ私会』、『蛮夷酋長ノ会合』と言われても致し方ない。かの四月十四日の詔書をいただき、民情が反映する政治の実現を目指して船出したが、途中で向かい風に逢い、押し戻されてしまった。
我々蛙鳴群は他人と抗争する積りはない。日本の人民が協和一体となり、子々孫々まで栄えることを願ってのことだ。ここは無理をして言行が過激になり、蛙鳴群の品行を損なってはならない。『時尚ヲ梅天』だ。今は静かに自主自愛の精神を守り、『秋陽ノ清朗ヲ待ニ如カズ』。
そしてつくづく思うに、東京の実情を地方に伝え、地方の実情を東京に伝えるには新聞が一番だ。新聞に勝るものはない。この度の地方官会議もそうだ。詔書、開院、会議日誌などいろいろな情報を新聞で知った。新聞がなかったら、まったく分からないだろう。
同僚の坂田、苅屋、甲斐、滋野、北村の諸君も同じ意見だ。
御心配をお掛けした全国の皆さんに深くお詫びする。」
帰る頃も、空は厚い雲が垂れ込め、皆の心も晴れない。
私の演説の原稿を権群掌記録課の平治さんが書き写し、郵便報知新聞へ投稿した。それが、七月十九日の新聞に掲載された。
おそらく、小田県の傍聴人の一人は、第十五大区窪屋郡の区長の林孚一さんだろう。倉敷の薬種商で、なかなかの論客と聞く。昨年の十二月と今年の二月に、道路修築のことで郵便報知新聞の「諸県報知」欄に投稿した方だ。
もう一人は、第一大区小田郡の副区長の森田佐平さん。矢野権令の勧めで小田県新聞を創刊した人だ。博聞会を始めた時に粟根までやって来て、我々の活動を小田県新聞に紹介していただいた。細謹社の出資者でもある。
お二人とも矢野権令の信頼が厚い人だ。権令から直々に、傍聴人を命じられたに違いない。
傍聴人集会
七月中旬。
七月七日の東京日日新聞が届いた。その「雑報」の欄に、傍聴人が再び小集会を開いたとある。
「六日は地方官会議が休みというので、島根、酒田、岡山、岐阜、千葉、熊谷、磐前、名東、高知、広島、足柄、筑摩、栃木の十三県の傍聴人が銀座二丁目の幸福安全社に集まって小集会を開いた・・・地方官会議で最も渇望する議問は『地方民会の事』であるが、会議の期限が迫っているのに、いまだ会議の俎上に上がらない。明日七日に、傍聴人はそれぞれの県の県令へ書面を出して、早く『地方民会の事』の議問に入るよう催促することになった。」
この十三県の中に、小田県の名はない。
龍城院における私の演説が、傍聴人が会合した日の前々日の、七月四日の東京日日新聞に載った。集まった傍聴人は、その新聞を読んだはずだ。傍聴人の中で話題に出たに違いない。その演説で、傍聴人は将来の国の民選議員に繋がる重要な役割を持つと激励した。彼らがどう思ったか・・・
七月八日の郵便報知新聞に、地方官会議の『議事堂座列之図』が載った。
矢野権令の席はどこか・・・議事堂の奥に皇族席。その前に木戸議長。議長を囲んでコの字型に二重に並び、議員六十二名が座る。小田県権令矢野光儀は十二番議員で前列向かって右側。兵庫県令神田孝平は五十九番議員で前列向かって左側。議員を囲んで、両側に各省庁事務官、正面入口に府県傍聴人百二十四名とある。
「民選」否決
七月も半ばを過ぎて、七月九日の東京日日新聞が届いた。
『地方官会議日誌』は、三日前の道路堤防橋梁の審議を伝えている。
ところが、その新聞の「雑報」欄に速報が・・・なんと、『地方民会の事』の議問は官選の区戸長会に決したとある。
この速報は、東京日日新聞の記者が、会議の直後に傍聴人から取材したのだろう。
地方民会の議員は官選の区戸長に決定。
愕然とした。
これでは、郡で議員を選んだ福山藩の公議局下局に劣る。
選挙をした粟根村の代議人にも劣る。
私が描いた下議員結構にも劣る。
小田県臨時民選議院にも劣る。
御誓文の『万機公論ニ決スヘシ』を忘れてしまったのか。
いたたまれず、庭に飛び出た。東の空が恨めしい。
新聞によると、地方民会を官選の区戸長会に決した七月八日の東京は、雨天だったとある。今日の粟根もどんよりと曇って、今にも泣き出しそうだ。私も泣き出したい。切ない。
加茂谷の奥を見渡すと、平治さんの家の前に人影が・・・。
確か、平治さんだ。
「おーい、平治さん!」
聞こえないのか、振り返る様子もない。坂道を駆け下り、加茂谷を上った。
「平治さん! 地方民会は、官選の区戸長会に決まった。東京日日のここに!」
喘ぎながら言うと、平治さんは、
「と言うことは、選挙はだめ?」
「そういうこと!」
しばらく二人は声が出ない。ようやく息が整った私は、
「神田県令や多くの県令の発言があったようだ。いずれ地方官会議日誌に載るだろう。矢野権令はどうおっしゃったか・・・新聞が届いたら、皆で集まろう」
次の日の新聞に、速報の続きが載った。
『・・・一昨日の決議にて、
○区戸長会を可とするもの 四十一人
内 区長に公選を兼ぬる 三人
民会開く可からず 止を得ざれば姑らく区戸長を用ゆる 一人(大山君)
○公選民会を可とするもの 二十一人
内 公選を可として姑らく区戸長を用ゆる 八人
右の通りで御座りました 又東京府の知事公は公選民会がよいと決議に朱書せられた趣なり』
公選議員による民会は否決された。
矢野権令は公選民会を可とされたと思うが・・・。
東京日日新聞は、この結果を評して同日の新聞の社説に、
「・・・官選の区戸長を議員とする民会は、『官吏ノ為メニ耳目ヲ為ス』ものとなるだろう。人民にとって何の益があろうか・・・」
その通りだ。これは「官」のための民会だ。「民」のためのものではない。
数日経って、『地方民会』の論議を伝える新聞が届いた。
その『地方官会議日誌』の概要は次の通りだ。
七月八日午前十時十五分に開議。
第一次会。木戸孝允議長が議問の趣旨を述べた。
「昨年五月二日と今年四月十四日の詔書にあるように、御上は人民の進歩を望んでおられる。既に民会を開いている県もある。しかしその通法がない。そのため、この地方官会議で審議することになった。維新以来、日が浅く、地域格差が大きい。全国各地の府知事・県令の御意見をいただき衆議を尽くしたい。」
そして議問を書記官が朗読した。
「地方民会を開設するに当たり、まず初めに、地方民会の議員を公選とするか、官選の区戸長とするかを決する。」
木戸議長は、さらに付け加えた。
「小区においても議会を設けるべきという意見がある。しかし、昨年の調査によると、全国の人口は三三、三五七、三八八人、戸数は 七、〇八三、八九八戸、そして町村の数は八〇、三七二、町村の平均戸数は八十八戸となる。選挙権は戸主二十一歳以上として財産制限を加えると、選挙をできる者はさらに少人数になる。このような状況だから、小区に議会を置くことは見送る。町村合併を考えざるを得ない。今回は、県の議会と大区の議会を取り上げる。」
大坂府権知事渡辺昇が質問した。
「県と大区に議会を開くかどうかを議論するのか。それとも議会を開くことを前提に、公選か官選かを議論するのか。」
この質問に対して木戸議長は、
「国内の状況を見るに、府県で民選の議会を開くのが七県、区戸長による議会を開くのが一府二十二県、議会を開かないのが二府十七県。その他不明な県もある。このように府県は様々な状態にある。従って、必ず議会を開くというものでもない。何が適当か御検討をいただきたい。」
討論
第一次会は十一時三十分に切り上げ、午後一時から第二次会へ。
地方官が次々と討論に立つ。その要旨を一通り並べると、
最初の発言は、兵庫県令神田孝平。
「公選か官選かと問われても困る。すべて公選にしたいところであるが、我が兵庫県では区戸長が議事に慣れているので、県が区戸長から選んだ議員に公選の議員を加えて官選民選混合の議会を開いている。例えて言えば、東京へ行くにも、一旦は途中の大坂に止まるようなものだ。」
次いで、大坂府権知事渡辺昇。
「理論的には公選民会に賛成だが、適切な者が選ばれない場合、害を及ぼす。徳川三百年の弊害を一気に矯正するのは無理だ。民選議会によって県政を牽制するというが、心配されるような圧政をしていない。我々も行政官でありながら、こうして議員の役を務めている。区戸長も行政官ではあるが、議員の役を果たせばよい。」
千葉県令柴原和が、
「我が県では、私が議長になって議会を開く。民選の議員に県官の議員を加えて官民混合の議会を開いている。しかし、民選の議員は事の次第が解らない。事務に精通した県官の議員が演説をすれば、民選の議員は唯々、雷同するばかりだ。県によって状況が違う。人民が進歩していない県では、官選区戸長会を開くことさえ、いかがかと思う。」
神奈川県令中島信行が、
「昨年五月二日の地方官会議開催の詔勅や今年四月十四日の地方官召集の詔書からして、公選民会を設けることは既に決まっている。
諸氏は、人民が民会を開くほど進歩していないことを口実に反対している。しかし、考えてみなさい。徴兵で入営する時に、最初から調練に慣れている者はいない。それと同じで、公選民会も慣れれば大丈夫だ。このまま何もしないなら、何十年経っても人民は進歩しない。公選民会は急務だ。」
新潟県令楠本正隆が、
「日本人民の多くは公選民会の何たるかを知らない。形だけ公選民会にすると弊害を招く。」
福島県令安場保和が、
「四月十四日の詔勅に則って、公選民会の大綱領を確定するのがこの会議の役目だ。」
白川県権令安岡良亮が、
「今の状況では、公選民会は益よりも害が多い。人民が義務を知り権利を知ってからのことだ。」
鳥取県権令三吉周亮は、諸説を聞いて判断したいと言いながら、
「詔勅に則って公選民会を実施したいところであるが、三千余万人の国民の中で道理が分かっている者は百分の一もいない。我が国には憲法がないので、権限を越えて勝手に走る弊害がある。」
愛媛県権令岩村高俊は、
「四月十四日の詔勅は、漸次立憲の政体に移行し、立法・行政・裁判の三権に分立する趣意である。そして立法は、地方の民会に始まり国の議院に及ぶ。公選民会は急ぐ。」
山形県権令関口隆吉が、
「公選民会をやると弊害があると言うが、規則で権限を定めればよいことだ。」
山梨県令藤村紫朗は、
「神奈川県令中島信行は徴兵を例に挙げたが、いかがなものか。学校を例に挙げれば、わずか四、五歳の児童を学校に入れると、学問について行けず、重荷になって病気になる。会社制度もそうだ。日本に導入されたが、経営能力が未熟なので会社は破綻している。これと同じだ。公選民会もまだ適度に達していない。」
それに同調して、京都府参事槇村正直が、
「公選民会を実施しながら人民が権利や義務を学ぶと言うが、民会は現に直面する重要な問題を議するところだ。練習気分では困る。その前に学校を盛んにして、人民に智識を付けることが先決だ。」
三重県参事鳥山重信が、
「区戸長が官選なら、昔の庄屋と同じだ。人民の代表ではない。そのような官選の区戸長が決議しても、政府の命令に過ぎない。それでは、人民は服従しない。詔勅の厚い御趣旨に従って、急ぎ公選民会を始めるべきだ。字の読み書きができない僻地の場合は官選も止むを得ないが、一応は、選挙をしたらどうか。」
岡山県権参事西毅一が、
「日本人民は公選民会をする適度に達していないという説は、人民を蔑視している。公選民会を可とする。」
相川県権参事磯部最信が、
「我が佐渡は僻地で、人民は民会を開く域に達していない。民会を開いて区費を浪費するのは御免蒙りたい。
佐渡から上京の途中、五月五日の端午の節句になった。アチコチで幟を立て、鐘馗様を飾り、鯉幟を翻していた。東京に来て見れば、昔ながらの五色の紙を繋いで七夕を飾っている。佐渡に限らず、日本中が同じようなものだ。」
山口県令中野梧一が、別の角度から、
「官選の区戸長会を可とする。公選民会を可としたいところだが、問題は人民の側よりも政府の側にある。士族の兵役を解いたのに、今なお俸禄を払っている。一方では人民に租税を課し、その上、徴兵を課す。民会でこの点を追及されたら、県として答弁できない。」
滋賀県権令籠手田安定が、
「政府も人民も、公選民会を開く適度に至っていない。ようやく歩くようになった幼児を放置するようなものだ。成長するに従って、権利を与え、自由を与えるべきだ。」
青森県参事塩谷良翰が、
「青森は公選民会の適度に至っていない。民会を設ける時には、その趣旨、権限、規則を定めて公布すべきだ。」
そこで、兵庫県令神田孝平が議長の許可を得て再び、
「区戸長は俸給を得て県庁に付属する行政吏だから、その議するところが世論とは言えない。公選の議員を入れて決めれば、住民も課税を納得する。公選の議員が賛成したにも拘わらず税を払わないなら、人民の側の約束違反になるからだ。このようにして人民に権利や義務を知らしめることが必要だ。一つの区から官選の区戸長と公選の議員の二人を出すのがよい。」
そういうことだ。区戸長は行政吏だから、県側に立つ。人民の意見を代弁できない。人民に選ばれた議員が必要だ。行政と議政を混同してはならない。
鹿児島県令大山綱良は、
「民会を開くと、妨害が多い。官員の良し悪しや政治の損得を言い、この県令は辞めさせろ、あの判事は殺せ、さらには大臣や参議の進退のことまで論じ、国家騒乱の恐れがある。讒謗律ができたとはいえ、制止することができない。」
その間、理由を述べず、ただ単に民選を可とする、官選を可とすると発言した地方官も多数あった。
議長は、ここで第二次会を打ち切った。時に午後三時四十分。
そして、四時から第三次会を行い、採決した。その結果は新聞の「雑報」にあった速報の数字と若干違うが、「官選」の決定に変わりはない。
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<ご参考>
・参考史料
「公文録」収録関係公文書「第一回地方官会議書類」
「東京日日新聞」・「郵便報知新聞」明治八年六月二十二日付〜「地方官会議日誌」
「郵便報知新聞」明治八年六月十九日付第七〇〇号(郵便報知新聞刊行会/編・柏書房)
同 明治八年六月三十日付第七一〇号( 同 )
「東京日日新聞」明治八年七月二日付第一〇五六号(日本図書センター)
東京日日新聞の「社説」
その冒頭と末尾。(中間略)
日報社は、東京日日新聞の発行元
「東京日日新聞」明治八年七月七日付第一〇六一号( 同 )
同 明治八年七月九日付第一〇六三号( 同 )
「東京日日新聞」 明治八年七月十日付第一〇六四号( 同 )
東京日日新聞の「雑報」欄に
速報として載った
「東京日日新聞」明治八年七月十四日付第一〇六七号( 同 )
「備後安那郡神辺駅光蓮寺蛙鳴会演説」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社・広島県立歴史博物館蔵)
「備後安那郡神辺駅光蓮寺蛙鳴会演説」
原稿の冒頭
(蔵・広島県立歴史博物館)
文中に『・・・上下隔絶ノ形状ヲ生ジ
下民ヲシテ 蛮夷酋長ノ会合ノ如ク
看做サシムルハ
・・・自愛自守 以テ我根本ヲ培養シテ
徐ニ秋陽ノ清朗ヲ待ニ如カズ・・・』
とある。
明治八年七月十九日付け郵便報知新聞
に載った。
「郵便報知新聞」明治八年七月十九日付第七二六号(郵便報知新聞刊行会/編・柏書房)
光蓮寺で開催された蛙鳴群における窪田次郎の演説(最後の部分)を載せた郵便報知新聞
文中に、「蛮夷酋長の会合」、「秋陽の清朗」・・・とある。
「東京日日新聞」明治八年七月十五日付第一〇六八号(日本図書センター
・参考文献
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
渡辺隆喜著「明治国家形成と地方自治」吉川弘文館
「広島県史・近代1」編集発行広島県
「福山市史・下巻」福山市史編纂会
・登場人物
林孚一 kotobank林孚一
末松謙澄 Wikipedea末松謙澄
渡辺昇 Wikipedia渡辺昇
岡崎真鶴 Wikipedeia岡崎藤吉にある岡崎真鶴
柴原和 Wikipedia柴原和
中島信行 Wikipedia中島信行
楠本正隆 Wikipedia楠本正隆
安場保和 Wikipedia安場保和
安岡良亮 Wikipedia安岡良亮
岩村高俊 Wikipedia岩村高俊
関口隆吉 Wikipedia関口隆吉
藤村紫朗 Wikipedia藤村紫朗
槇村正直 Wikipedia槇村正直
西毅一 オープンエア・おかやま「西毅一」
中野梧一 Wikipedia中野梧一
籠手田安定 Wikipedia籠手田安定
大山綱良 Wikipedia大山綱良
・参考ホームベージ
飾磨県・・・・・Wikipedia飾磨県
鎮台・・・・・Wikipedia鎮台
新聞紙条例・・・・・Wikipedia新聞紙条例
讒謗律・・・・・Wikipedia讒謗律
曙新聞・・・・・kotobank東京曙新聞(朝日新聞社)
朝野新聞・・・・・Wikipedia朝野新聞
浜の離宮・・・・・浜離宮恩賜公園
飾磨県・・・・・Wikipedia飾磨県
盤前県・・・・・Wikipedia盤前県
足柄県・・・・・Wikipedia足柄県
白川県・・・・・Wikipedia熊本県
相川県・・・・・Wikipedia相川県