「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第三章 下議員結構 その5
木ニ縁リ魚ヲ求ムル
一月二十七日の日新真事誌の「論説」欄・・・何々、これを書いたのはブラック。この新聞を発行しているのは外国人か。
その論説を要約すると、
「民選議院設立の建白のことを新聞に載せた。大きな反響があり、新聞を出す者として嬉しい。民選議院は、国としてなくてはならないものだ。これに反対する者は十人中一人に過ぎないだろう。」
ところが、同じ新聞の「投書」欄に、民選議院は十年早いという意見が載っている。
「我が国の政治の基礎はいまだ堅固でない。人々は未熟で猜忌心が強い。華士族の禄の問題で朝政を誹謗する者がいる・・・第四大区九ノ小区 谷中潜」
何県の何者か。
さらに二十八日の東京日々新聞の「投書」欄に、はっきりとした反対意見が出た。
「建白をした四氏が云々と言っているが、四氏は自ら参議の職を投げ出した者だ。今さら何をぐずぐず言うか。病気を治そうと思うなら、ころころと医者や薬を変えず、これぞと思う良医良薬に托す。政治も同じことだ。責任を持ってしっかりやってくれる人に政治を委ねる。」
旨いことを言う。この人は医者か。神田住。東京の者だ。
その後また、強烈な反対論が二月二日の東京日々新聞の「江湖叢談」に出た。
宮内省四等出仕の加藤弘之・・・驚いた。あの加藤弘之先生だ。
加藤弘之先生は、幕府の蕃書調所や開成所で、佐沢太郎君がお世話になった大先輩。著書に『立憲政体略』や『真政大意』がある。東京の丸山中屋敷で太郎君に借りて読んだ。その書の中で米国や瑞西の例を挙げ、憲法に基づく万民共治の政治を高く評価しておられた。私も、米国や瑞西の政体を理想と思った。これが、あの加藤弘之先生の御意見か。
まさか・・・どうも、解せない。
その加藤先生の記事が博聞会の話題になった。
「しかし、これはひどい! ねえ、若先生。『木ニ縁リ魚ヲ求ムルニ類セン』だと!」
「どうしたと言うのだ?」
「民選議員になるほどの才覚の者はいない。木に登って魚を求めるようなものだ。民選をしても無駄。もしやれば、『国家ノ大害』が生じる」
「ちょっと、初めから読んでみろ!」
初めのうちは静かに聴いていたが、
「人を馬鹿にしている。日本人はまるっきりだめだと言うのか?」
皆は、憤慨やるかたない様子だ。
しかし一方で、積極的な賛成論が新聞に出た。
「この馬城台二郎という人は賛成だ。ほら、二月五日の東京日々新聞の投書欄。外国では民選議院は当たり前。日本も当然、なければならない・・・鎮西馬城山とあるが、どこだ?」
「豊後の国だ。矢野権令も、確か豊後だ。そういえば、福沢諭吉先生も豊後だ」
「ほう! 豊後は偉い人が多いな」
「いや、同じ豊後だが、藩が違う。矢野権令は佐伯藩の御出身。諭吉先生は中津藩。馬城山は、確か杵築藩だ」
矢野権令は、どう考えておられるのか。もちろん、賛成だろう。
さらに、賛成論が出た。二月五日の日新真事誌の「投書」欄。
時期尚早論を唱えた谷中潜に対する反論だ。
その意見の中に、「各県にも議院を設ける。そして、県の議員の中から国の議員を選出して、国家万民のため公議する。よって、民情が上下相通じ、天下の憂楽を共にする心が生まれる。」とある。私の『下議員結構』と同じ考えだ。「東京在留 遷喬堂主人」とは、東京の本屋か。一度会ってみたいものだ。
その後も、この問題は新聞を賑わした。
馬城台二郎の賛成論に対して、例の加藤先生が反論した。それが二月二十二日の東京日日新聞の「投書」欄に載った。
この投書について、再び博聞会の話題になった。
「今度は、日本を『野蛮国』だと言っている」
「こんなことも言っている・・・議院で議決すると、十中八、九が愚論になる。愚論でも議決されたら、政府は実行せざるを得ない。そうなると、人民は、倍にも増して政府を咎めるだろう。今は何よりも教育が大切だ」
日本が『野蛮国』とは、言い過ぎではないか。しかし、教育が大切という点は同感だ。我々は粟根村で代議人の選挙を行って、教育の大切さを痛感した。
この加藤先生の反対論に対して、今度は馬城台二郎が反論。
二月二十七日の東京日々新聞に載った。
「愚論を恐れては、いつまで経っても愚論が出る」
読み上げた平治さんが、
「なるほど、粟根でもそうだった。そのうち、まあまあ良くなったが・・・」
「何が良くなった?」
「初めの頃は、文句を言ったり、自分の都合ばかり言ったり。意地を張ったり」
皆が、さっと初太君を見た。初太君は、今も時々、無茶なことを言って皆を困らせる。
「なんでわしを見る?」
皆が、どっと笑った。
しかしその後、この論争は下火になった。
いろいろ意見が出たが、民選議院は設立されそうにない。大山鳴動して鼠一匹どころか、一匹の鼠さえ出ない。
春が近づき、博聞会の話題は、稲作のことや養蚕のこと、地租改正のことなどに移った。
賞賜局創設
万民共治の政治を理想とされる加藤弘之先生が、日本を『野蛮国』だとおっしゃる。民選議院の議員に値する者がいない。日本人は『未開ノ人民』だ。だから『自由権ヲ正道ニ施行スルニ堪ヘズ』と言われる。
今の日本では、民選議院は無理ということか。
私なりに考えた。
粟根村の代議人の選挙の経験からして、今の時点で選挙をするのは、確かに無理だ。字が書けない。誰に投票してよいか分からない。そのため、粟根村では限られた人しか投票できなかった。狭い村の中でもそんなことだから、県のように広い範囲で選挙をやれば、まったく判断できないだろう。『下議員結構』のように小区、大区と積み上げるのならともかく、いきなり、国の民選議員を選ぶのは無理だ。
何よりも急がれるのは教育だ。文字を学び、人を選ぶ判断力を養わなければ・・・
小田県では既にほとんどの村で小学校が立ち上がったが、他県ではまだまだ準備中という話だ。小学校の設立が急がれる。設立資金に困っていると言うではないか。
博聞会を続けて思う。
時には、素晴らしい意見が出る。是非とも実行したい案が出る。しかし、どこへ、どう提案したらよいか分からない。せっかくの良い意見や案なのに、埋もれてしまう。
そんな思いから、その三月に『内務省中ヘ賞賜局被為開度義献言』をしたため、県に提出した。
その内容は、あらまし次のようなものだ。
「新政の日は浅く、地方の隅々まで及んでいない。山中まで、電信や郵便が及んでいない。このような地方に住む者の立場から献言します。
維新の動乱で疲弊して、経済はいまだ復旧していない。そして、『人民ノ智識未ダ開ケズ』。このような時に莫大な費用をかけて議院を開いても、山谷にあって情報の入らない人にはまったく分からない。従って議院開設は、政府も民もある程度の蓄財ができ、人民の智識が開けるまで引き伸ばすべきだ。
そして、民選議院開設の費用の半分は小学校の設立の費用に、残り半分は賞賜局開設の費用に充ててはどうか。
賞賜に当っては、いろいろな分野から献言を受け入れ、左院において公議のうえ公平に決する。これはと思われる献言は実行に移す。献言の内容を見れば、地方の『智識ノ開不開』の状況が分かるというものだ。
国で民選議院を開けば、優秀な人材が東京へ向かうことになる。今日、『才識アル者皆官ニ在リ』。官を求めて東京に集っている。これ以上、優秀な者を引き抜いて官に任じれば、小学校の先生を誰がするのか。今、大切なのは『人材ノ陶冶』だ。優秀な者を地方に引き留めて、地方のために力を発揮させることが大切だ。
そんな訳で、まずは『隗ヨリ初メヨ』・・・私は地方にあって頑張ります。」
養蚕伝習約束
桜も散り、若葉の季節となった。
往診の帰り。山裾を近道すると、青年が鍬を担いで立っている。
「やあ、朝一くん。いよいよ上毛だね」
「はい、いろいろとありがとうございました。この桑畑とも、しばらくお別れです。皆さんのお世話になります」
井伏朝一君は、近々、関東は上毛の養蚕家に、二年間の修行に行く。その間、桑畑や蚕小屋の世話を家族や近隣に頼む。
『養蚕新編』を著した上毛の田島弥平さんに問い合わせたところ、研修生を受け入れると言う。朝一君は博聞会の仲間だ。このことを博聞会で話した。
博聞会には、備中の簗瀬村の山成正平さんがいる。
彼が言うに、この春、笠岡に完成した製糸場は釜が十二もある大工場だ。生繭をいくらでも取ってくれる。しかし、養蚕は難しく、失敗して廃業する者もいる。
粟根村はもちろん、北山村も、芦原村も、備中の簗瀬村も山間の村だ。山間の村は養蚕に適している。一緒に組んで養蚕をやろうと博聞会で盛り上がった。まずは、しっかりとした技術を習得して・・・。
そのために、お金を出し合って上毛へ研修生を送る。朝一君がその気なら、彼に行かせよう。
博聞会の者が発起人になり、協力者を募った。平治さんは、平次とも書く。彼も次男だけに熱心に世話をしてくれた。備中は山成正平さんが世話をして、簗瀬村の山成理一郎さんと富岡村で細謹社主店の北村七郎さんを誘ってくれた。そして、箱田村の細川貫一郎君や芦原村の安原勝之介さん、そして坂田丈平さんなど、備中・備後の十六村、二十人の同志が集った。丈平さんが出身地の備中の九名村や山口村などの山間の村も、たいへん乗り気だ。
話し合いの結果、同志は、伝習人の費用として各々二円五十銭を出資する。二年後に養蚕技術を習って帰ったら、同志の者や同籍の子弟に無料で教える。もしも、伝習人が放蕩怠惰で浪費して義務を果たさない時は、伝習人は半額を同志へ弁償する。残りの半額は、伝習人を選んだ同志の不明の致すところと諦める。病気、怪我や災難の場合は致し方ない。
この度も、私がこの約束を書面にして、出資者の連判をもらった。
数日後、朝一君は民左衛門さんと一緒に、改めて挨拶に来た。
「関東の空っ風は肌を刺す。厚手の木綿をたくさん持って行け」
志半ばで関東に散った弟の堅三のことが脳裏に浮かんだ。弟は二十八歳で死んだ。朝一君は今ちょうど二十八歳。弟を送り出すような気持ちだ。
そして、同時に思った。
父は、井伏さんのお陰で長崎に行き、シーボルトに学ぶことができた。この度のことで、井伏さんに些かの恩返しができた。
翌朝、朝一君は出発した。村人は道に出て見送った。
博聞会の仲間は朝一君を囲んで加茂谷を下り、一同で賀茂神社に参拝して見送った。
馬耳ノ風、蛙面ノ水
私が提唱して実施に至った『田舎医生研業所兼診判所』の運営は芳しくなかった。
従来の漢方医や薬司が、我が思いのまま西洋医薬を処方して事故を起こす。何とかしなければ・・・四年前の明治三年に同仁館の寺地館長へお願いした。念願の医師や薬司の教場が、やっと実現したのだ。
しかし、肝心の研修生が集らない。医師や薬司が研修する間は、休業しなければならない。授業料が要る。漢方医にも対面があり、軍門に下る思いがするのだろう。一人ひとりを説得して歩いたが、話も上の空で『馬耳ノ風ト散シ、或ハ蛙面ノ水ト流シ』・・・私は焦った。
一方で、県は医学校兼病院設立の準備を始めた。福山藩が設立した同仁館は、廃藩置県のために頓挫した。その同仁館をもう一度という訳だ。
小田県は、昨年の十二月に『医業取立臨時議院』を開催。私も議事取締の役をいただいた。さらにこの六月には、病院兼医学校創立周旋方に任命された。そして六月二十一日に、『小田県医学校兼病院創立会議』を開催するので出頭するようにとの命令書が届いた。
本心、面白くなかった。
今は『田舎医生研業所兼診判所』の運営に全力を注いで欲しい。
それなのに県は、医学校兼病院の設立に主眼を置き始めた。医師仲間もそちらに傾きつつある。孤軍奮闘で追い詰められた。そんな私は、学校の設立に素直に協力する気持ちになれなかった。
そのうちに、これからお話しする地方官会議のことで頭が一杯になった。
思わず膝を叩く
明治七年も五月中旬の昼前のことだ。
診療を一段落したところへ、藤井平太さんがやって来た。
「次郎さん。見たか? この新聞を」
「いいえ。何か出ています?」
「政府が地方官会議を開催すると言っている。全国の府知事や県令を集めて」
明治七年五月四日の郵便報知新聞を見せた。
冒頭の「公布」の欄に、太政大臣三条実美の通達で、地方官会議を開催するとある。県令を東京に呼びつけて、何か指示するのか・・・
ところがよく読むと、単なる連絡会議ではなさそうだ。
詔勅が掲載され、『全国人民ノ代議人ヲ召集シ 公議興論ヲ以テ律法ヲ定メ 上下協和民情暢達ノ路ヲ開キ』とある。会議を進める議院憲法も載っている。その中に『可否ヲ決シテ奏スヘシ』とある。会議で議決して御上に奏上する議院なのだ。これは、かねてより論議されている民選議院に代わるものなのか。
続いて、五月九日の東京日々新聞の「投書」欄に記事が載った。東京府の会議所代理依田百川という人が、府知事の大久保一翁宛に要請している。
「地方官会議を開設する詔勅をいただいた。有り難いことだ。しかし、ただ単に出席して知事が思うままに発言したのでは、いくら立派な内容でも『地方官一人ノ私説』に過ぎない。私説を取り上げたのでは、政府独断の政治と言われても仕方ない。前々からお願いしているように、各区で代議人の集会を開いて民心を把握し、特に人民の利害に関することがあれば代議人議会に諮って、その決議を斟酌して発言していただきたい。」
そうだ。私もそう思う。
たとえ官選の地方官でも、代議人議会の決議を踏まえて発言していただくなら、『私説』ではない。詔勅にある『全国人民ノ代議人』となり、民選議院に準じるものになる。
このことを、博聞会で話した。
「本県も矢野権令に、小田県民の総意を踏まえて地方官会議に臨んでいただきたいものだ」
「そのためには、東京府のように本県も、代議人の議会を開いていただけないものか?」
それは良いことだと、皆が目と目を合わせた。
「しかし・・・しかし、県令が決議した通りに発言していただけるだろうか? 矢野権令は小田県においでになって日が浅い。県内の実情が分からないこともあるだろう」
「権令が地方官会議でどう発言されるか、我々には皆目分からない」
そうだ・・・決議と違うことを発言されても、我々には確認のしようがない。
どうしようもないかと諦めていたところ、次の記事が出た。
明治七年六月十四日の東京日々新聞の「江湖叢談」を読むと、兵庫県令神田孝平が県内へ次のような告示を出したとある。
「県令の私は、県民の代表として地方官会議に出席する。それに先立ち、県民の存意を把握したいので、どんなことでも遠慮なく申し出よ。意見を取りまとめて地方官会議に出席する。」
そして県令神田孝平は、政府左院議長の伊地知正治宛に伺いを立てている。
「地方官会議には、県民の中から一名ないし二名の傍聴人を選出して、会議を傍聴させてもらえないでしょうか。そうしていただければ、県令がどのように発言したか分かり、県民も納得すると思いますがどうでしょうか。」
「これだ!・・・これだ! これだ!」
私は、思わず膝を叩いた。
地方官会議に、傍聴人が同行する。
矢野権令は、まだまだ県内の民情がお分かりでない。しかし、傍聴人が同行すれば、権令は傍聴人と相談できる。決議どおり発言していただくよう、傍聴人が権令を補佐する。そうすれば、間違いなく地方の民情や意見が政府に伝わる。そして後で、傍聴人から会議の様子や結果を聞くことができる。
これなら、正しく民選議院に代わるものになる。これだ。これで行こう。
次の博聞会が待ちきれず、坂田丈平さんが館長の興譲館へ向かった。
歩きながら考えた・・・権令に、県民の総意を知ってもらう。そのために、我々県民の意見を集約する。
それを、どこで、どう集約するか。
そうだ、『下議員結構』がある。下議員結構の方式で我々の意見を積み上げればよい。
小区会で決議して大区会へ。大区会で決議して県会へ。そして県会で決議して県民の意見をまとめる。そのため、小区会で大区会の議員を選出。大区会で県会の議員を選出・・・これも「民選」だ。
国の民選議院は、有耶無耶になった。
それならば、先に小田県で民選議院を開く・・・そうだ、「小田県臨時民選議院」だ。
思わず急ぎ足になる。行き交う人に目もくれず、山陽道を駆け上った。小田川にかかる日芳橋から、山手に興譲館が見える。登校路を上るのももどかしい。
校門で一礼して講堂に入る。
塾生の間をすり抜けて、奥の書斎へ。
「丈平さん、どう思う? 小田県の民情を把握するため、『下議員結構』の構想を実践してはと思う。まずは、各小区会で決議する。そして、各小区会の決議を持ち寄って大区会で決議する。さらに、各大区会の決議を持ち寄って県会で決議する」
「なるほど、そうすれば小田県民の総意ということになる。県民一人ひとりの思いが込められる」
「そして、権令に傍聴人が随行する」
「なるほど、そうすれば、皆も納得する」
丈平さんも、大いに興味を示してくれた。
ここに至って、二年前に構想した『下議員結構』の構想が役に立つとは・・・
わくわくしてきた。
次の博聞会で皆に話した。
「これなら、遣り甲斐がある! 我々下々の民情が政府に伝わる」
「それは面白い! 傍聴人になって、傍聴してみたいものだ」
私と同じ思いの人がいた。
六月二十一日の東京日々新聞の投書欄に、度会県下山田出身で麹街五丁目紀尾井町に寓する内海直質という人が、
「代表を選んで会議を傍聴する・・・どうか、兵庫県令神田孝平の考えを実践していただきたい。」
<ご参考>
・参考史料
「日新真事誌」明治七年一月二十七日付
同 明治七年二月五日付
「東京日日新聞」明治七年一月二十八日付第五九四号(日本図書センター)
同 明治七年二月二日付第五九七号(同)
同 明治七年二月二十二日付第六一五号(同)
同 明治七年二月二十七日付第六二〇号(同)
「田舎医術調所兼診判所建立大意」(同)
「小田県医学校兼病院創立会議出頭命令書」(同)
「郵便報知新聞」明治七年五月四日付第三三五号
「東京日日新聞」明治七年五月九日付第六八三号
同 明治七年六月十四日付第七一五号
同 ・明七年六月二十一日付第七二二号
「内務省中へ賞賜局被為開度義献言」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社・広島県立歴史博物館蔵)
「内務省中へ賞賜局被為開度義献言」の原稿
(蔵・広島県立歴史博物館)
文中に『・・・新聞紙ヲ縦覧シ 始テ民撰議院ノ論
アルヲ知リ・・・』とある。
博聞会で民選議院の是非を議論する中で、
民選議院に替わる方法として賞賜局を思いついた。
小田県へ提出した。これが内務省へ上がったか
どうかは定かでない。
興譲館高等学校の校門
安政4年(1857年)に建てられた。
「興譲館」の扁額は、渋沢栄一の揮毫(1912年)
・参考文献
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
「広島県史・近代1」編集発行広島県
「福山市史・下巻」福山市史編纂会
・登場人物
馬城台二郎 Wikipedia大井憲太郎
依田百川 Weblio依田学海
大久保一翁 Wikipedia大久保一翁
神田孝平 Wikipedia神田孝平
伊地知正治 Wikipedia伊地知正治
・参考ホームページ
郵便報知新聞・・・・・Wikipedia報知新聞