「窪田次郎が残した 日本の宿題」
第三章 下議員結構 その2
桃の節句
病院の庭に梅や桃の花が咲き、幾分か温かくなった。
今日は、堅三の調子が良さそうだ。
「類ちゃん、いくつになります?」
「そうだな、ふたつ半か」
「可愛い盛りですよ。お雛さんを飾ってやったかなあ・・・確か、蔵にありましたね。お雛様の箱が」
「ああ、ある、ある。昔の物だ。よく知っているなあ、堅三は・・・そうか、堅三はよく入れられたからなあ、蔵に。ははは」
一瞬、堅三に悪戯小僧の面影が蘇った。
「親父は怖かった、本当に!」
「ははは。お前はよく叱られたからな」
久し振りに兄弟で笑った。
「親父はどうしているだろう?」
「そうだなあ。まあ、大丈夫だ」
そうは言ったものの心配だ。頼りの息子が二人ともいなくなった。無理をして診療を始めたかもしれない。堅三も同じ思いだろう。
そう言えば、蔵のお雛様も気になる。去年は忙しくて飾る間もなかった。一昨年は飢饉でそんな段ではなかった。今年はどうしたかな? 妻一人では、蔵から出せないだろうなあ・・・。
洗い場で洗濯をしていると、朗廬先生がお見えになった。
「おはよう。堅三はどうか? まあまあか?」
私は洗い物を片付けて、堅三の部屋へ急いだ。先生と堅三が何やら話している。しかし、私の足音に気付いてか、話を止めた。
そして堅三が、にわかに咳を始めた。背中を擦ってやるしかない。またも、堅三の手の平に真っ赤な血があった。
先生を見送って外に出た。
堅三は先生に、私を粟根に帰して欲しいと頼んだそうだ。それはもう、粟根のことが心配だ。年寄りと女子どもだけで困っているだろう。しかし、こんな状態の堅三を残して帰れない。連れて帰るか。
今も堅三は、医学書を取り寄せて熱心に読んでいる。東校少助教の小林達太郎君が毎日のように見舞いに来て、励ましてくれる。そして達太郎君と、テーベーがどうのこうのと、ドイツ語混じりで話し込んでいる。ドイツ医学に一縷の望みを繋いでいるようだ。その気持ちは痛いほど解る。粟根に帰ろうと言っても、うんとは言わないだろう・・・
いつものように、朗廬先生からお金をいただいた。済みませんと言って受け取るほかない。部屋に帰ると、隅にお米と野菜があった。
従弟の山成哲蔵も五日置きに見舞ってくれる。そして、上京の際に持参したお金を回してくれた。東京に長居をする積りがなかった私の財布は、とうに底を突いていた。
文部省の佐沢太郎君
啓蒙所のことで助けてくれた佐沢太郎君が、この正月に文部省に採用され、編輯寮に勤務となった。私と同じ丸山中屋敷の長屋に住み、文部省へ通う。以来、毎夜のように彼と話す。
太郎君は維新の前、この中屋敷から蕃書調所・医学所、そして後の開成所に通った。その頃の先輩に加藤弘之という出石藩士がいた。その方は独語を学んだが、太郎君は仏語を学んだ。現在、加藤弘之先生は大学大丞となり、皇族へ学問を講じる侍講を務めておられる。その後も、太郎君が仏国の教育を研究していることを知っておられたようだ。そのような縁で、太郎君は文部省に採用されたらしい。
「加藤先生がおっしゃるに、普国は仏国に立ち遅れた。普国は列邦に分かれて、まとまりがなかったからだ。ちょうど日本が、幕府や列藩に分かれて争ったように・・・そこで普国は非的利二世が政治の先頭に立ち、列邦を率いて遂に昨年、普仏戦争に勝った。普国に学ぶところが大きいとおっしゃる」
「日本も尊王開国で統一したことに間違いないと・・・」
「そう」
「問題はこれからだ。バラバラでは困る。日本も力を合わせて」
「そう・・・しかし、普国の教育は今もって列邦でバラバラ。その点、仏国の教育制度が整っているとおっしゃる」
太郎君は、仏国の教育制度について訳本を出すそうだ。
その他、外国の教育や政治についていろいろと教えてくれた。
今夜も「今晩は」と言って、太郎君が私の部屋にやって来た。
そして、「この新聞、条野伝平が、また!」と言って、東京日日新聞の創刊号を見せた。
「条野伝平が、また?」
「そうです。福山藩の江戸詰なら、条野伝平を知らない者はいませんよ」
「・・・」
「条野伝平は、上屋敷に出入りの呉服屋でした。なかなか文才がある人で、正弘公に認められて物書きになりました。以来、その道で随分、鳴らしたものです」
「・・・」
「その伝平が、『江湖新聞』という新聞を出しました。頑張っていたが、維新になって止めさせられました。幕府寄りというので」
「・・・」
「ところが、ほら、この東京日日新聞。ここに『江湖叢談』という欄があるでしょう。もしやと思って聞いてみたら、やはり条野伝平でした」
「・・・」
「発行元の浅草茅町へ行ってもらってきました。毎日、出すと意気込んでいました」
「毎日?」
「そう! だから『日日』と言うのだそうです・・・毎日、出る新聞がないようでは、列国の仲間入りはできません」
「そんなものか?」
「ええ。文明国になるには必要不可欠です!」
太郎君は自信たっぷりに言った。
「そう言えば、五十川が知らせてきた。米国では、今日あったことが翌日の新聞に載る。親王御一行がサンフランシスコに着いたら、翌朝の新聞に載ったと驚いていた」
華頂宮博経親王御一行に随行して渡米した五十川が、ニューヨークに落ち着くまでの紀行文を藩へ送ってきた。
「問題は、読む側です。どれだけの人が新聞を読めるか?」
「その通り・・・村田文夫先生の『西洋聞見録』には、英国人は誰でも本を読み、誰でも新聞を読んで時政の良し悪しを評論するとあった」
「日本人は何割が読めるだろう?」
「東京ではかなりの人が読めるだろうが、福山では・・・粟根では・・・」
太郎君に相談して実施した粟根村の代議人選挙で、名前を書ける者は戸主の四分の一だった。
「そのうち、啓蒙所で学んだ子どもが大人になれば・・・」
「そうよ。だから、だから啓蒙所が大切なのだ!」
今度は、私が自信たっぷりに言った。
「しかし、新聞を取るにはお金が要る。一枚百四十文。一カ月分銀十目。貧乏人は取れないな」
声が小さくならざるを得なかった。
その頃、太郎君と話す度に話題になるのが、東京と福山、そして太郎君も知っている粟根村との格差だ。
「東京はすさまじい。こちらに来てからも、どんどん変わる」
「・・・」
「見たか?新橋ステンショ!」
「ええ、駅舎や車庫。柱や梁はすべて鉄で、英国からの輸入物だそうです」
英国は有り余るほどの鉄を造っていると、村田文夫先生がおっしゃった。遠く日本にまで輸出しているのか。
太郎君は政府のお役人だ。建設現場を案内してもらったそうだ。
「線路の工事も順調に進んでいるそうです」
「線路の先は海を渡して。それは大工事だ!」
「用地を買収できなかったためらしいですよ」
「大金を使っているな」
「お金も英国の世話になっているそうです」
「そんなことまでして!」
「藩の借金の肩代わりで予算がないとか」
それを言われると辛い。藩債を引き受けてもらわなければ困る。
「これからは、金が政府に集まりますから。それを当てにしているのでしょう」
そうか、税金はすべて政府に集まる。税金を取るのも使うのも、政府の思いのままか。それが廃藩置県ということか。
「窪田さん。どうかされました?」
「うーん。まあ、そういうことだね」
「政府は、まだまだやる気ですよ、新しいことを」
「しかしこれでは、まるで高天原だ!」
「高天原?」
「そうだ。天上の高天原だ、東京は。すべてのことが東京で決まる。我々が知らないうちに。そんなことだから、電信機は魔法だ、異人が女をさらうと言って騒動が起きる」
「ええ。ですから、そこのところをどうするかです」
藩の時代なら、藩庁へ行けば良かった。政府だと、どうする。いちいち東京まで来るのか。
「列国は、どうしている?」
「国に議会があります。県から議員を出す。仏国なら、各県から巴里の議会へ。英国なら倫敦へ。米国なら華盛頓へ」
「・・・」
そう言えば、村田先生のお話にあった。
あの石造りの大政議堂へ、全国各地から議員が・・・。
「そして、県の議会には郡から、郡の議会には村から議員を出す」
「なるほど。そのように繋がれば、村の意見や願いが県へ、政府へと伝わる訳だ」
村から郡へ、県へ、政府へと連関する。
話していると、小林達太郎君がやって来た。達太郎君は、近いうちに福山から妻と娘を呼び寄せる。佐沢太郎君も、妻と弟を呼び寄せる。話は借家のことになった。二人とも前途洋々・・・二人の声は弾んだ。
博覧会
明治五年三月中旬。
佐沢太郎君が、博覧会を観に行かないかと観覧券をくれた。
博覧会は文部省博物局の主催で、湯島の聖堂の大成殿で開催される。
会場は朝早くからごった返していた。
正面の大成殿や左右の廊下に、展示の棚やガラスの箱。大学南校の物産会の資料を中心に、皇室の御物や古来の文化財、記念物、楽器、織布、陶器、木工品、鉄や銅の道具、穀類、果物、鉱石、動物の標本、舶来の品々、印刷や紡績の機械など、古今の珍物が所狭しと並んでいる。
中央の参道に人だかり。噂の金の鯱だ。「尾張名古屋は城で持つ」と唄われる、あの名古屋城の金の鯱が展示してある。頭が異様に大きくて凄味がある。同じように凄味のある番人が睨んでいた。
観覧客の話が耳に入った。
「帝に献上するという話だ」
あの徳川御三家の尾張藩が、天守閣の鯱を帝に献上する。
大判が千枚も取れるという話だ。尾張藩にも多額な藩債があるはずだが・・・。
なんと、山椒魚が展示されていた。大きな桶の中でじっとしている。粟根には沢山いるが、東京では珍しいのか。和服やら洋装やらが立ち止まって、不思議そうに観ていた。
行き交う人の服装は和風に洋風、それらの折衷型。草履、下駄に靴。髪型も月代にちょん髷、坊主頭に散切り頭。大八車や人力車。人は足早、会話も早口だ。
堅三を残して
桜も咲き、めっきり暖かくなった。しかし、堅三の病状は進む一方だ。食欲がない。すっかり痩せた。頻繁に咳込み、夕方には熱が出る。寝汗を掻くので、再々、下着を換える。いつ喀血するか分からない。
丸山邸のお屋敷は正桓公を迎えたが、長屋は藩士が一人抜け、二人抜けしてすっかり寂しくなった。小林達太郎君も佐沢太郎君も、長屋を出て新居へ移った。私には、話す相手もお金もない。病院と往復してひたすら看護の日々を過ごした。
その頃から、堅三は直接、私に、粟根に帰れと言うようになった・・・医師不在で迷惑を掛けている。粟根を出る時に沢山の餞別をいただいた。粟根の皆さんに申し訳ない。親父も困っているだろう。
泣き声で言って咳込み、ぐったりする。
朗廬先生は、「堅三が言うようにしてやっては」とおっしゃる。「こんな弟を置いて帰るなど、とてもできません」と言うと、先生は、「人の気持ちに沿うのも人の道だ」とおっしゃった。
昼食が出た。しかし、堅三は煮物に箸を付けようとしない。
「堅三、食べろ!」
と言うと、堅三が、
「兄さん、粟根に帰って!」
と言う。
「食べろ!」、「帰って!」、「食べろ!」、「帰って!」
押し問答の兄弟喧嘩になった。そしてついつい、
「分かった。分かった。分かったから食べろ!」
と言ってしまった。
朗廬先生に改めて相談した。
哲蔵は、備中の叔父と手紙の遣り取りをしたようだ。哲蔵は涙声で、自分が堅三の面倒を見ると言ってくれた。小林達太郎君や佐沢太郎君も、夫婦で世話をしてくれると言う。
とにかく、一旦、福山へ帰ろう。我が家が心配だ。岡田大参事に報告することもある。廃藩置県で福山はどうなったか。啓蒙所がうまくいっているか。福山藩の藩札は、いまだに新紙幣との交換比率が示されない。報国両替会社はどうしたか・・・。
思い切って、堅三に別れを告げた。
「用事が終わったら、今年のうちにまた来る。それまでに元気になって」
これが今生の別れになるかもしれない。堅三は力を振り絞って、玄関まで見送ってくれた。薄暗い廊下に立つ堅三の顔は、青白くて怖かった。
暁の明星
瀬戸内を下る。
船の後方に暁の明星が輝き、ほどなく朝日に消えた。その朝日も雲に隠れた。
三月二十四日の朝、上げ潮に乗って鞆の浦へ。
父亮貞のことを思い出した。
長崎出島のオランダ商館医のシーボルトは、商館長の江戸参府に随行して鞆の港へ立ち寄り、土佐屋や猫屋に泊った。その折にシーボルトが蘭医学のことを話したのだろう。父亮貞は、鞆の医者仲間からシーボルトのことを聞いた。もともと漢方医の父が長崎に行く気になったのは、それが切っ掛けだった。
それにしても、父に堅三のことをどう話せばよいか、上陸を前にして気が重い。
小舟に乗り換えて港へ。
船先に見える灯籠塔が無性に懐かしい。船着き場の雁木を踏むと、ほっとした。
粟根村に使いを走らせ、待合で一休み。
お昼頃に、迎えが四人やってきた。
小雨が振る中、ぞろぞろと賑やかに鞆街道を上る。
鞆は、いくらか変わりつつあるようだ。しかし、御城下は昔のまま。出立前と変わっていない。たった半年だから、そんなに変わるはずもないのだが、東京の日々変わり行く有様を見たので、余計そう感じる。
行き交う人の頭髪や服装も昔のまま。羽織に袴、髷に刀。会えば丁寧にお辞儀する。その都度、何処の誰かと思ってしまう・・・東京では、道で会っても知らん顔。きびきびと忙しそうに歩く。まるで調子が違う。東京は盛事、田舎は沈滞。このままでは、格差が拡がるばかりだ。
廃藩置県後のことは、東京で聞いた。
福山藩は福山県になり、間もなく、阪谷朗盧先生や坂田丈平さんらの備中と一緒になって深津県になった。そして県庁を備中の小田郡笠岡村に移した。
福山城を仰ぎ見る。城主がいないと思うと、高くそびえる松も空しい。「城春にして草木深し」とはこのことか。
何はともあれ、岡田大参事へ報告しなければ・・・
三の丸の旧藩庁はガランとして、数人がぼんやりとしていた。岡田大参事は笠岡の県庁で執務中。夕方には帰宅されるとのこと。
それまでに、江木鰐水先生へ報告しよう。
江木先生のお宅を訪ねた。先生のお宅は、誠之館の真向かいにある。その藩校誠之館は、廃藩のため存続が危ぶまれている。門の前は人影もなく、心なしか寂しそうだ。
江木先生は御在宅だった。
「ただ今、帰りました」
「お、お、お・・・御苦労であった。上がれ、上がれ」
客間に通された。
「藩札の件は解決に至らず、申し訳ありません」
「いやいや、大参事から聞いた。金札は無届だ。回収の対象から外されても致し方ないところ。遅くはなるが、いずれ回収していただけるだろう。君たちのお陰だ。これからも粘り強く大蔵省へお願いして」
堅三のことを話した。
師の前だ。年甲斐もなく、袖で涙を拭いた。
江木先生も、しばらく声がなかった。
「次郎君。君が気を強く持たなければ・・・お父上もお待ちのことだろう」
「はい。ありがとうございます」
「いやあ。こちらも大変だった。聞いているだろうが、藩士も打ち壊しや焼き討ちに合い、家族で城へ逃げ込んだ者もいる。五十川基の家も危ないところだった。基が異人を連れて来て、電信機を持ち込んだ。家に隠れているに違いない。火をつけろと乱民が言い出した。近所の者が、そんなはずはない。基は今、六千里の彼方にいると言っていたところへ兵隊が来て助かった」
「佐沢太郎君も言っていました。門の外で乱民が、この家は異人の学問を教える。焼いてしまえと叫ぶのを聞いた。どうなることか、生きた心地がしなかったと」
「そうそう。その話を聞いた洋学者は、急いで門の表札を外した。私も基のところに使いを出して、表札を外させた」
「・・・」
「以来、城下は様変わりだ」
「ええ、元の藩庁は寂しいものでした」
「初めは、そこに県庁があったが・・・周りを藩士の屋敷に取り囲まれて、やりにくいと思ったのだろう。藩士は禄を減され、職がなく、苛立っている。今年になって、県庁は備中の笠岡に移された。浄心寺という寺が仮庁舎だ」
「・・・」
「笠岡の県庁には、政府選抜の官員がどんどん送り込まれている。山口県、大分県、置賜県、埼玉県、東京府から・・・矢野権令に伴ってやって来た葛飾県の士族もいる」
「福山藩からも?」
「いや。もっともっと官員に引き立てていただかなければ。有能な藩士が沢山いるのだから」
「・・・」
「実のところ、例の藩札の失態が応えている。政府は福山藩に冷淡だ。岡田大参事もあのようなことで、政府に掛け合っても、思うようにならない」
「米国へ渡った基君や高遠君が政府に就いてくれれば」
「それを待ってはおれない。ともかく藩士に仕事を・・・今朝も何人かを連れて、小丸山の開墾地に桑を植えた。竹刀を鍬に替えて。はっはっは、老体に鞭打って頑張っているよ」
先生は、藩の時代から引き続き、治水や灌漑の事業に取り組んでおられるそうだ。
一旦、元の藩庁へ戻ると、粟根村の村総代の藤井平太さんがいた。所用で御城下に来て、街で私の帰福の噂を聞いたのだそうだ。
ほどなく、岡田大参事が笠岡から帰られたとの連絡が入った。旧藩庁とは外堀を挟んで真向いの、東堀端にある大参事のお屋敷を訪ねた。
大参事は、「や、や、や。お帰り、お帰り」と言って奥から出られた。
帰福が遅れたことをお詫びして、経過を報告した。
大参事のお話では、土地や人民関係の書類の引渡しが近日中に終わり、引き続き十数名で大一揆の後始末や新開地の事務処理を行うとのこと。いまだ、福山藩の藩札と新紙幣の交換比率が示されないことに気を病んでおられた。政府を説得するには、建設中の新開地を分譲して資金を作るほかないようだ。藩の失態を一身に背負っておられる。
他にお話しすることもあるが、外で平太さんや迎えの者が待っている。話もそぞろにお暇した。
東京土産
粟根に着いた頃には夜になった。
妻や娘の類、そして父も母も、今か今かと待っていた。井伏永助さんや水草利市さんなど近所の方も集まっておられた。
家に入る前に、啓蒙所を覗く。私が東京にいる間に、薬草の作業場を改造した。提灯の明かりに、壁の紙が浮び上がる。カタカナやひらがな。大きく書かれた漢字がたどたどしい。勘三君は頑張っているな。
娘の類が、母の裾を掴んで怖そうに私を見る。傍に寄って抱くと、「わっ」と泣いた。皆が大笑い。
「お父さんですよ! お父さんですよ!」
妻は何度も言った。
迎えに来ていただいた方や近所の方に酒を振る舞い、お結びや香の物を出した。ひとしきり話が弾み、長旅の疲れを忘れた。
しかし、喜びも今一つの父の様子が気になる。父の後を追って、父の部屋へ行った。
父は、堅三の病状を詳しく聞いた。
「最新の医学でもだめか」
父は寂しくつぶやいたまま、顔を上げなかった。
今では、啓蒙所が集会所になっている。次の日の夜、組頭や代議人など村の主だった者が集った。
何よりもまず、村の皆さんにお詫びを申し上げなければ・・・。
去年の夏、急に村を出たきり、半年余りも村を開けたのだ。その間、病人や怪我人があったことだろう。加療中で、気になる患者もあった。聞けば、帰りの坂道で鞄を持ってくれた作太郎君の妹さんは、この冬を乗り切れなかったそうだ。あの大騒動の時に怪我人があったようだ。村人は何も言わないが、幾多、迷惑を掛けたに違いない。
「若先生、東京はどうですか。異人がうようよいる話ですが?」
「正桓公は御壮健でいらっしゃいますか?」
「天朝様のお住まいは?」
村の者が次々と質問する。
持ち帰った福沢諭吉の『学問のすゝめ』、『東京日日新聞』、『東京絵図』その他、いろいろな書籍や最新の医療器具などを見せた。皆は手にとって珍しそうだ。
部屋の隅っこで静かに東京日日新聞を読んでいた勘三君が、
「この前の地震。浜田県がやられた!」
「ああ・・・夕方、ゴーと鳴って数日、揺れた」
「未曽有の天災。死者四百九十八人、怪我人七百二十九人、潰れた家四千五百七十五軒、半分潰れた家八千三百六十五軒とありますよ」
「どこ? どこ?」
「ここに書いてあります」
「ふーん」
新聞とは、こういうものかといった雰囲気。
「勘三君はいいな。すらすらと読めて」
私が、ここぞとばかり、
「これからは、誰もが読めるようになりますよ」
子ども達は啓蒙所で学んでいる。読めないのは自分達だけになってしまう。皆は焦りに似た、得も言えない顔をした。
話は、あっちへ飛び、こっちへ飛び、夜更けまで続いた。
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<ご参考>
・参考史料
山下五樹・編著「阪谷朗廬先生書翰集」・・・・明治五年六月一日気付の阪谷朗廬から坂田警軒ほか宛の書簡
『・・・(お金の)不足ハ哲(蔵)也。堅蔵病気ニ付、人ニ知らせぬ入用あり、一六(の付く日)必ず見舞候。
其義可感、其意可憐・・・堅蔵の難病、二郎の苦心思いやり、実に断腸いたし候。
天、トカク希八郎(阪谷朗廬)如キ、人ノ救ヒ度ものニ金をアタエズ、コマリ候・・・』
山下五樹・編著「朗廬先生宛諸氏書簡集」
佐沢太郎著「佛国学制」(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
五十川基著「東洋紀行」(広島県史・近世資料編Y)
『・・・新聞紙ノ盛ナルハ実ニ開化ノ一大助ナリ・・・華頂王サンフランシスコニ着スルハ暮方ナリ、
明朝新聞ヲ一見スルニ、来着ヲ記シ・・・』
「大日本古記録・江木鰐水日記・下」東京大学史料編纂所・・・・明治四年九月二十二日の日記(漢文)に、
『・・・乱民・・・宣言白、基密導植伝信機之材之異人来、隠在家、其家可燬、近隣者白、決無此事、今現在六千里外、
且兵隊護武田・田辺、故五十川免之、?(江木鰐水)聞之病[怖]、佐沢太郎之門外大言白、此家可燬、唱洋学、々々家頗危、
故河村・寺地撤門札、使五十川撤門札・・・』 ([ ]は活字がないため、同意の当て字)
東京日日新聞・明治五年三月六日(旧暦)付け第十六号(日本図書センター)
日本図書センター発行の「東京日日新聞」から
浜田地震の惨状を伝える東京日日新聞(部分)・・・・・Wikipedia浜田地震
「旧小田県歴史」(岡山県史料四)
・参考文献
海後宗臣著「福山藩の佛蘭西学者ー佐沢太郎先生と『佛国学制』」福山学生会雑誌・第六十六号(昭和三年)
山下五樹著「阪谷朗廬の世界」日本文教出版株式会社
藤井正夫著「備後福山社会経済史」児島書店・1974・・・・第六章第二節
『・・・この大失態(金札無届)は・・・阿部正弘以来 折角有能な藩士を多数擁していたのに、新政府の要路に参加する道を
塞がれる結果を産んだのではないかと思われる。・・・』
・登場人物
加藤弘之 Wikipedia加藤弘之
条野伝平 Wikipedia条野採菊
・参考ホームページ
遠近新聞・・・・・遠近新聞第1−20号(公開者・早稲田大学図書館)
東京日日新聞・・・・・Wikipedia東京日日新聞
日本で最初の鉄道・・・・・Wikipedia日本の鉄道開業
東京国立博物館湯島聖堂博覧会
「西洋事情」・・・・・Digital Gallery of Rare Books & Special Collections デジタルで読む福沢諭吉(慶応義塾大学三田メディアセンター)
名古屋城の金の鯱・・・・・名古屋城 紹介サイト
大八車・・・・・Wikipedia大八車
月代・・・・・Wikipediaさかやき
シーボルト・・・・・Wikipediafヒィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
小田県・・・・・Wikipedia小田県
置賜県・・・・・Wikipedia置賜県
葛飾県・・・・・Wikipedia葛飾県
・舞台となった場所の今日
鞆の浦
常夜燈