「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第三章 下議員結構 その1
第三章 下議員結構
大学東校
私は、廃藩置県直後の明治四年七月に上京した。
藩札の問題で大蔵省へ参上する岡田吉顕大参事に随行した。
これで東京は、三度目だ。
最初は、安政五年(一八五八年)の二十三歳の時。江戸と言われた時代だ。当時、緒方洪庵先生の適々斎塾と並び称された下総の佐倉順天堂を訪ね、佐藤泰然先生に学んだ。佐倉順天堂は開腹手術や乳癌手術など最先端の外科医療を施し、広く世に知られていた。粟根村で父の跡を継ぐ前に、是非、学んでおきたかった。その道中に江戸に立ち寄って数日を過ごした。
そして十年前の文久元年(一八六一年)に、十七歳の弟堅三を連れて、再び佐倉順天堂を訪ねた。堅三に、順天堂の外科を学ばせたかったからだ。その際にも江戸へ立ち寄った。
堅三が佐倉順天堂の門下生になった頃、高和介石君という少年がいた。同じ年頃の二人は友達になり、良き競争相手でもあったようだ。
そして佐藤泰然先生の養子になられた佐藤尚中先生が長崎から帰られると、佐倉順天堂の勉強は俄然、厳しいものになった。尚中先生は、門人の成績により等級を付けた。一等級から四等級、無級まで。介石君は二等級になり、自分は三等級になった、悔しいと堅三が手紙を寄こしたこともある。その介石君は尚中先生の養子になり、名前を佐藤進と改め、一昨年にドイツに留学されたそうだ。
その佐藤尚中先生は大学東校に招かれ、校長になられた。
大学東校は、安政五年に始まった種痘所に由来する。
漢方医の抵抗があった種痘が幕府に認められ、西洋医学所となった。その後、西洋医学所の頭取に緒方洪庵先生が就かれたが、在任中に亡くなった。そして維新後は、新政府の医学校兼病院となった。湯島の大学本校から東の神田和泉町に在ることから、大学東校と呼ばれる。
大学東校は、緒方洪庵先生の流れを汲み、福沢諭吉先生の指導もあって英国の医学を講義した。ところが、明治二年に、当時盛んになりつつあったドイツ医学に切り替えた。そして、早くからドイツ医学を学び、最新の医療を施す佐藤尚中先生が校長に招かれたのだ。
この大学東校へ、弟の堅三が入学を認められた。この六月のことだ。昨年の秋に粟根を発ち、東校少助教の小林達太郎君の指導を受けて頑張った。嬉しかったのだろう。興譲館の恩師の阪谷朗廬先生がおられた広島藩邸へ報告に来たそうだ。
弟の堅三と従弟の哲蔵
ところが、どうも気になる。
堅三は、私より九歳下。二十七歳になる。村人に見送られて粟根を発って一年振りだ。大学東校に入学して落ち着いたのか、大人になったような。
いや、やつれたようだ。顔が青白い。毎日、机にしがみ付いている所為か。
夕食後、話でもしようかと、堅三の部屋の戸口に立った。いつもならドイツ語を暗誦する声が聞こえるのに、今夜はひどく咳き込んでいる。医者の私には、咳の区別が付く。そっと引き下がって、達太郎君を訪ねた。
「私も気になっていました。涼しくなって、余計、堪えるのでしょう。昼間も、人目を避けて咳き込んでいるようです。診察を受けるよう勧めたのですが」
診察を受けるよう、堅三を諭した。堅三は大丈夫と言うが、兄の私の頼みと言って東校の病院で診察を受けさせた。堅三から結果を聞くと、労咳の疑いがあるとのことだ。少助教の達太郎君に本当のところを聞いてもらうと、労咳に間違いないと言う。
堅三を説得した。話している間も咳込む。悲しくなった。
身体が弱っている。労咳であろうとなかろうと、身体が一番。今の体力では、厳しい勉強を続けるのは無理だ。身体を壊したらお終い。休校して加療に専念するように。親代わりの兄の説得だ。うつむいた堅三から涙がこぼれた。私の目も潤んだ。
父に、どう伝えれば・・・筆を執る気になれない。
情けないが仕方ない。佐藤尚中校長へ報告した。
「・・・」
しばらく校長の御返事がなかった。
佐藤尚中先生には、佐倉順天堂でお世話になった。やっとここまで育てていただいたのに・・・。
「そうですか。堅三君には、今度は、当校でお手伝いをお願いしたいと思っています。しっかり養生して。待っているとお伝えください」
「私がついて看てやろうと思います」
「それは心強い。小林君もいることですし」
「ありがとうございます」
「阪谷先生も御心配でしょう」
阪谷朗廬先生は腹痛で、佐藤校長の診察を受けられたそうだ。診察の時に、堅三は自分の教え子だとおっしゃったのだろう。
朗廬先生にもお伝えしなければ・・・
橋場町を訪ねた。
先生は、「そうか」と悔しそうに言われた。そして、
「ドイツ伝来の新しい治療法はないものか、佐藤校長に訊いてみよう」
朗廬先生の所からの帰り路に、浅草寺にお参りして、医薬の仏の薬師様に手を合わせた。小さな御堂の『一言不動』があった。願い事一つに限って叶うとある。すがる気持ちでお祈りした。
参道を下がり、通りに出ると、鰌屋があった。『駒形どぜう』とある。そうだ、粟根にいれば、小川で鰌をすくって食べさせるところだ。鰌の蒲焼三人前を買った。
高台にある丸山中屋敷は風を真面に受ける。その風も次第に冷たくなった。堅三が弱って行くのが傍目で分かる。このまま東京に置いて帰る訳には行かない。然りとて、粟根に連れて帰るのもいかがなものか。堅三が承知しないだろう。堅三の夢を断つ。東京にいれば、最新の医療を受けることができる。西洋から次々と新しい医術が入ってくる。何か手立てがあるかもしれない。
十一月になって、従弟の山成哲蔵が上京した。
哲蔵は母方の従弟だ。朗廬先生が広島藩に招聘された時に、先生に従って広島に行った。その朗廬先生が昨年に上京された際、哲蔵は先生の御家族とともに広島に残った。ところが廃藩置県で御家族が備中の与井に帰られたので、哲蔵は朗廬先生の後を追って上京したのだ。朗廬先生のお宅に近い、本所亀沢町の山本少貞さんのお宅に住み込む。
山本少貞さんは、朗廬先生や哲蔵の郷里と近い備中は梶江村の出身で、徳川家の典医を務めた。朗廬先生を師と仰ぐ。
哲蔵は再々、堅三の見舞いに来てくれた。堅三は、年頃も同じ哲蔵となら喜んで話す。しかしその頃から、堅三の病状が目に見えて悪くなった。木枯らしが堪えるのだろう。日に何度も咳き込む。顔が赤らみ、熱が出るとぐったりする。吐血も何度か。目が離せない。見兼ねて、達太郎君が大学東校の病院を手配してくれた。
以来、神田和泉町の病院へ見舞いに行くのが私の日課になった。
『西洋聞見録』の村田文夫先生
山成哲蔵は志学旺盛だ。朗廬先生のお世話で、村田文夫先生の塾に入った。村田先生は政府へ出仕の傍ら、塾を営む。その塾は、昌平橋の近くにある。堅三の見舞いに行く途中に、何度か立ち寄った。
村田先生は、広島藩の藩医だった。そして、緒方洪庵先生の門下だ。話が合う。
「先生は、何年のお生まれですか?」
「天保七年(一八三六年)です」
「私と一つ違い。私は天保六年です」
「福沢諭吉先生は天保五年。ちょうど一つずつ違いますね」
「福沢先生が欧州へ渡られたのは、確か文久二年(一八六二年)?」
「そう。私は、二年後の元治元年でした。是が非でも渡りたくなりまして、禁制を破って船に乗りました」
「向こうに何年?」
「四年になりますか。幸い、維新となり、帰ることができました。藩のお咎めもなく」
「四年も! それで、お詳しい」
哲蔵の所で、村田先生がお書きになった『西洋聞見録』を読んだ。英国のことが、事細やかに紹介されている。
「英国には、いろいろな学校がありますね?」
「それは、いろいろと。一様ではありません」
「英国人は、百姓であろうと、誰であろうと、本を読み、新聞を読むとか?」
「単に読むだけではありません。わずか十二歳の小娘も日本に関心を持ち、あれこれ質問しました。学校では、読み書きだけでなく、世界の地誌や歴史を教えます。そして、世界に通用する人を育てます」
さすが、五州第一の英国。
開国した日本も世界を見開いて・・・啓蒙所も、次の段階で考えなければならない。
「先生の御本に、倫敦にある大政議堂のことがありました。何でも、室が千もあり、廊下をすべて繋げると一里もあるとか?」
「そう。それは大きなものです。それも石積みで、がっしりとしたものです」
「石積みで?」
粟根の石切り場や福山城の城壁や石橋を思い浮かべた。想像がつかない。
「これが、その写真です・・・手前は、テムズ川。隅田川のようなものです」
「柱や壁はともかく、屋根も石で? そんなに長い石が?」
「いやいや・・・屋根は鉄で。床もそうだと思います」
「そんなに、ふんだんに鉄が?」
「それはもう、製鉄所でどんどん。煙で空が曇るほど・・・鉄橋や鉄塔や鉄車や鉄道や鉄船や鉄管や、何もかも鉄で」
驚くばかりだ。
「大政議堂と言うからには?」
「そう。そこで公会を開き、法を立て律を定めて、国を治めます。公会には上院と下院があって、下院は百姓院とも言い、全国の州や郡から才学兼備の議員を選んで送ります。私も公会を傍聴しました」
「外国人でも、傍聴できるのですか?」
「ええ、できます。傍聴席があります。もちろん、英国人も全国各地から」
「・・・」
「議員は、向き合って盛んに議論していましたよ」
「国王がおわしますとか?」
「ええ。往昔より連綿とする王統一族がおわします。それ故に、『合衆王国』とも言います」
話は尽きない。
英国は日本と同じ島国。その島国が世界に先駆けて文明を開化させ、発明を競い、世界に冠たる勢力を誇る。
哲蔵も英語を勉強すると張り切っている
その年も十二月。
例の藩札のことで、旧藩主正桓公を先頭に大蔵省へ陳情したが、藩札の問題は解決しない。岡田大参事は私に、一緒に福山へ帰ろうと言われた。しかし私には、堅三のことがある。事情を話して東京に留まることにした。
朗廬先生の御家族
それからというものは、神田和泉町の東校の病院に行き、堅三の身の回りの世話をした。そして時には、足を延ばして隅田川を渡り、哲蔵の様子を見たり、朗廬先生のお宅へお邪魔した。
先生は既に四十八歳。お年齢から言えば、これを機に隠居されてもおかしくない。しかし、まだまだお元気。お話は斬新だ。漢学のことや洋学のこと、政治情勢から子育てのことまでいろいろと教わった。機会があれば、新政府の職に就くお積りだ。
朗廬先生が東京滞在を考えておられる理由の一つに、子どもの教育のことがあるようだ。長男の礼之介君は、父の期待を一身に受けて勉強している。今は、備中の興譲館の坂田丈平館長のもとにいる。朗廬先生がいろいろと勉強を指示されているようだ。大学東校を目指すなら算術が必要だ。私にも、理化学校の大坂舎蜜局はどうか、相談があった。慶應義塾へ入れることも考えておられる。
その年の末、朗廬先生は仕官の見込みが立ったのか、東京滞留を決意され、哲蔵がお世話になっている山本少貞さんの紹介で、本所緑町 天大津軽西通 割下水角の元大友氏屋敷に居を構えられた。
年が明けて明治五年。
先生の御家族が備中の与井から上京された。奥様の恭さん、長男の礼之介君をはじめ昌蔵君、芳郎君ほか総勢七人。本所緑町のお宅はいきなり賑やかになった。朗廬先生は子沢山で、勢の良いことだ。
そして正月も幕の内。榎本武揚が特赦で出獄したとの噂だ。確かめると、なんと新政府に召し抱えられるというではないか。あの、新政府に刃向った榎本が・・・早速、貫一郎君に手紙を書いた。
そして私のことも書き添えた。帰郷はいつになるか分からない。粟根村のことや我が家のことを改めてお願いした。近在の医師にも、宜しく伝えてくれと申し添えた。
慶應義塾
礼之介君は慶應義塾へ入ることになった。
そして、興譲館館長の坂田丈平さんの弟の実君も慶応義塾へ入ることになり、丈平さんは実君を連れて上京した。
丈平さんの上京には、もう一つ目的があった。興譲館の運営に参考にするようにと、朗廬先生から、『慶應義塾社中之約束』を送ってもらった。先生は、慶應義塾の規則が一番良い、運営は規則通りで、感心すると言っておられた。
慶應義塾は前年の明治四年四月に、芝新銭座から三田に移転した。旧島原藩の中屋敷で、海が見える高台にあり、街の喧騒から離れ、学問の場として絶好の地だ。
この移転を機に塾の規則を見直し、入社、入塾、塾生活、通学生徒、門、応対掃除、書籍出納、金銀出納、食堂、営繕、塾僕使用、童子局と多岐に亘って規則を定めた。細々としたものだ。
とかく塾生といえば、束縛されるのを嫌い、規則を破り、豪快に振る舞って大人ぶる輩がいるものだ。慶應義塾はどうか。全国から集まる生徒の中には、手に負えない奴もいるだろう。
丈平さんは、実際にどのように運営されているか、見学して確かめたかったようだ。
二月八日。
朗廬先生と礼之介君、丈平さんと実君、そして私も同行をお願いして、五人が慶應義塾を訪問した。ゆるやかな坂を上り、冠木門をくぐろうとすると、門監に呼び止められた。
「入社のことで参りました。四屋純三郎教授にお願いしています」
朗廬先生は既に何度かおいでになっている。先生の後に続く。
元は中屋敷だ。福山藩の丸山中屋敷と同じような建物が並んでいる。教室や宿舎に活用しているようだ。建築中のものもある。沢山の塾生を収容できそうだ。入り組んだ建物の間を奥に進み、塾監局へ。要件を言うと応接室へ通された。
ややあって、塾監局の職員と四屋純三郎教授が来られた。
朗廬先生が挨拶して、興譲館館長の坂田丈平さん、入社希望の礼之介君と実君、そして私を紹介していただいた。
四屋純三郎教授は、
「阪谷先生には、英語が大切なことを御理解いただきまして・・・近々、政府にお勤めになられるそうで」
入社の手続きは難なく済んだ。二人とも朗廬先生のお宅から通う。
それではと興譲館館長の丈平さんが、『慶應義塾社中之約束』を取り出して質問すると、
「そうですね。御案内しながらお話しましょう」
四屋教授に続く。
「この隣は、食堂です。寮の私席での飲食は禁じられています。もちろん、酒はどこであろうと禁止です」
自信を持って話される。
「ここは図書館です」
三階建てのしっかりとした建物だ。洋書も沢山ある。羨ましいことだ。
寮を案内してもらった。部屋はとても綺麗だ。私席も整理整頓されている。そして、身形もさっぱりしている。変な格好の者はいない。学生寮と言えば、髭面でドテラ姿。本に囲まれ、いかにも学者然とした者がいるものだが・・・
なるほど、何もかもが規則通りだ。丈平さんは感心している。
そして気付いたことだが、生徒に出会ってもわずかな会釈で通り過ぎる。こちらは、礼之介君や実君がお世話になると思えば、思わず丁寧にお辞儀をするのだが。四屋教授も一緒なのに、さらさら気遣う様子はない。そう言えば、礼儀正しくとか、朝夕の挨拶とか、教授や先輩を敬えとか、そんな規則はないようだ。たいていの塾にはそういう規則があるものだが。
福沢諭吉先生は授業中と聞いた。その教室の前を通ったが、教室に入る訳にも行かない。一目だけでもお会いしたいところだが・・・
丈平さんはしばらく東京に滞在して、朗廬先生のお宅に厄介になる。
丈平さんは昔、江戸に遊学したことがある。彼に連れられて東京のあちこちを見学した。そして本屋を手当たり次第に見て回り、欲しいと思う本を書き留めた。この中から欲しい本があれば、東京の佐沢太郎君や小林達太郎君に頼んで送ってもらえばよい。
九一堂万寿
二月の半ば。
本所の朗廬先生のお宅を訪ねた。
先生は御不在だ。丈平さんとしばらく話し込んだ。
そして、丈平さんが言い出した。
「どうだ。東京の記念に写真を撮らないか。評判の写真館がある」
「遠いだろう?」
「いや、近い、近い。隅田川を渡って直ぐの浅草大代地だ。行けば分かる。九一堂とか言う」
「写真は魂を抜かれると言うが?」
「そんなことは迷信だ。次郎さんらしくもない」
写真は、なぜ写るか解せない。不思議だ。一度、写真に写ってみたかった。なぜ電信は伝わるのか、これもよく解らない。目で見るだけでは理解できないものが多くなった。これも文明開化か。
慶應義塾が休みで家にいた礼之介君を誘った。
「あれだ。あの写真館だ。九一堂万寿と看板が出ている。万寿と言うからには、大丈夫だ」
写真館の前に人力車が停まっていた。
しばらく玄関で待つと、先客が満足そうに写場から出てきた。口髭をはやした恰幅の良い御年配だ。その道で功を成し遂げたお方か。お供があり、身形も良い。自分たちは思いつきで来てしまった。着の身着のままだ。出直すか。
写場には、立派な椅子や小机があった。
「お待たせしました。どうぞ」
写真師が義理のお愛想をした。
「いかがです。貸衣装もありますが・・・」
なるほど。こんな格好では写真を撮らないとみえる。
丈平さんは、憧れの東京というのでまあまあの旅姿。礼之介君は、新調したのか、いいものを着せてもらっている。私はと言えば、昨年末に藩の用務が終わってからは、普段着の着た切り雀。しかし、貸衣装とは癪だ。お金も要るだろう。
「いや、結構です」
今度は、椅子を勧める。
「こんな立派な椅子に座れるような柄じゃあない、なあ!」
「このまま突っ立って写るのも面白くないな。まるで田舎者だ」
「じゃあ、僕はこれでも持つか」
丈平さんは、隅の机の上にあった算盤を持った。さすが教師だ。読み書き算盤というところか。
「そうすると僕は」
入口の床に風呂敷包みがある。洗濯に出す貸衣装が入っているのか、包みの上に洗濯帳と書いた綴りがあった。近頃は洗濯も商売になるらしい。礼之介君は長着の裾を捲り上げ、風呂敷包みを肩にかけ、洗濯帳を手に持った。なかなか芸が細かい。
さて、私はどうするか。部屋の中を見渡した。
「これでも持つか」
「箒に紙か? 次郎さんは」
「そう、箒。これからは刀より箒。世の中を掃き清める。それから、紙で学問」
三人は大笑い。
写真師が渋い顔で待っている。
「よろしいですか? 動かないでください。いいですか!」
命令するかのように言う。三人は笑いを堪え、役者気取りで写った。
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<ご参考>
・参考史料文献
山下五樹・編著「阪谷朗廬先生書翰集」
明治四年八月十五日気付の阪谷朗廬から坂田警軒ほか宛の書簡
『・・・東校ハ和泉橋通り藤堂屋敷ニ付・・・因て小林と堅三を訪、二(次)郎の事承り候・・・』
明治四年四年十二月十一日気付の阪谷朗廬から備中の家族及び郷里の諸氏宛の書簡
『・・・堅三ワルク心配ニ存候。二(次)郎カヘラレズ候。
哲(蔵)も右ニ付・・・近き昌平橋内村田文夫の塾ニ入・・・』
『・・・福沢塾規則の通りヨク行レ候。感心ナリ。』
山下五樹・編著「朗廬先生宛諸氏書簡集」・・・明治四年一月七日気付の江木鰐水から阪谷朗廬宛の書簡
『・・・窪田賢蔵(堅三)ハ丸山邸ニ在、小林達太郎と云洋医生と同居なり・・・』
「慶応義塾社中之約束」慶応義塾福澤研究センター発行
村田文夫著「西欧聞見録」前編・巻之中「英国地理」の「諸学校」の節「うわずらをblogで」seiyoubunnkennroku.pdf
『皇国(日本)ニ於テ此学典欠ケタリ、稍々(しょうしょう)学者ト称セラルヽモニハ
徒(いたずら)ニ文辞ニ従事スル者多ク、其自国ノ国体、天下ノ形勢、外国ノ事実ニ至テハ
茫乎トシテ顧ミザルモノ多シ 歎ゼザルベケンヤ
(私が)英国ニ在リシ時、十二歳ノ一少嬢 (私に)向テ諄々トシテ 本邦(日本)ノ事ヲ語リ 且質問セリ。
(私は)其博識ニ愕然タリ・・・』
『〇英国ニ於テ(国民は誰でも)読書シ、新聞紙ノ如キモ之ヲ読テ時政ノ得失ヲ評論ス・・・』
井上角五郎著「小林先生小伝」(誠之館同窓会)・・・山成哲造(蔵)が小林達太郎先生の友情に感謝して、
『余(哲造)の従弟窪田堅造は先生と同国同学の友なりしが 明治四年の秋 病ありて東京大学病院に在り
時に先生 下谷徒町に寓し 毎日必ず一回従弟を訪ひ 縷々甘旨を[斎]して病苦を慰籍し 且つ時々
其夫人に命じて来問せしむ 此の如くすること九箇月の久しきに渉りて 一日も廃せず 従弟没後
余を助けて後時を経理し 着々として遺漏なし・・・』
浅草大代地の九一堂万寿で撮影した写真
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館
「平成九年度春の企画展」の冊子の表紙から転写
右が、窪田次郎
中が、坂田丈平(警軒)
左が、阪谷礼之助
写真家石黒敬章さんの研究により、
写真の背景から、「九一堂万寿」と判明した
参考
石黒敬章ほか著「内田九一写真鑑定術」
(日本写真芸術学会誌第14巻第1号)
Wikipedia内田九一
・参考文献
「順天堂史」上巻
「慶応義塾125年」慶応義塾発行
坂本忠次著「犬養毅と小田県庁時代ー自筆記録『家記大要』を読んでー」岡山大学経済学会雑誌23(2)1991
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館(平成九年度春の企画展)
「日本と欧米の医療文化史」藤田俊夫(京都府立医科大学客員講師)
・登場人物
佐藤泰然 Wikipedia佐藤泰然
佐藤尚中 Wikipedia佐藤尚中
村田文夫 Wikipedia野村文夫
坂田丈平 井原市文化財センター「古代まほろば館」いばらの偉人「坂田警軒」 Wikipedia坂田警軒
阪谷芳郎 Wikipedia阪谷芳郎
・参考ホームページ
「大学東校」・・・・Wikipedia東京大学 Wikipedia大学校(1869年)
川原晃の旅行見聞録「開成所の科学者たち」講演・芝哲夫大阪大学名誉教授
駒形どぜう・・・・・駒形どぜう
大坂舎密局・・・・・Wikipedia舎密局
芝新銭座・・・・・義塾草創期にみる塾舎の移り変わり[慶応義塾]
・舞台となった場所の今日
浅草寺の
「一言不動尊」
薬師堂の右隣にある
あさくさかんのん浅草寺
英国の「大政議堂」
ウエストミンスター宮殿を
国会議事堂として使用している
右端の時計台が、ビックベン
宮殿との間にテームズ川がある
村田文夫らが渡英した4年前の1860年に完成した
『西洋聞見録
○公会堂・・・・室房一千一百アリ。毎室ノ間ニ回廊
アツテ・・・直線ニスレバ其長サ一里ニ達スベシ・・・』
Wikipediaウエストミンスター宮殿
中央の男が小生
昭和51年の若かりし頃
建物の床も石かと思ったのは、私