「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
   第二章 報国両替会社  その4


      井上薫大蔵大輔

 岡田大参事に報告すると、

「そうか。井上(かおる)大蔵(おおくらの)大輔(たいふ)になったのは幸いだ。長州軍との和平交渉の際に、長州側の席にいた。藤陰先生をよく知っているはずだ。彼なら、話せば分かる。何という(めぐ)り合わせだ。ここら辺りから糸口を

 福山城が攻められた時、井上馨は今出頑(いまでがん)(ぱち)と名乗り、長州軍の兵隊長だった。

 

 朗廬先生にお願いして中屋敷へおいでいただき、大参事に引き合わせた。大参事は、朗廬先生のお知恵を借りて、井上大蔵(おおくらの)大輔(たいふ)にお会いできるよう手配されそして大蔵省に参上し、大蔵大輔丁重挨拶をしてお詫びを申された

井上大蔵大輔は、

「貴藩の金札のことは聞いております。御心配なことでしょう。事が事でございまして、私の一存では処理し兼ねます。他にも似たようなことがございますので、大蔵卿の御判断を仰ごうと思っております。

ところで、関藤先生はお元気ですか。お幾つになられました?」

「その節には誠にありがとうございました。大輔(たいふ)様のお陰で助けていただきました。その時の関藤(おう)当年六十五歳になられました。一昨年に隠居されまして本来ならば関藤参上いたすべきところでございますが

「いえいえ、もったいないことでございます」

「その代わりと言っては誠に恐縮でございますが、弟子の窪田次郎が参っております」

 

 私は、姿勢を正して大輔に一礼した。

「窪田次郎でございます」

「福山藩には立派な方が沢山・・・」

 言い掛けて止められた。廃藩で福山藩がなくなったことに気付かれたのか。それを仕掛けた政府の要人たる者が・・・

井上大蔵大輔は言い換えて、

「師のお導きで今日を迎えました。なお心を引き締めて、国造りに努めなければと思っています」

同じ師を持つ者同士と言わんばかりに、親しみを込めた目で私を御覧になった。私は大輔(たいふ)の目を見て頭を下げた

「関藤先生、それから三浦義建殿に宜しくお伝えください。金札の件は、阿部殿が上京されて、御一緒に大蔵卿へお話しされてはいかがでしょうか?」

 その後、大蔵省の担当官から、金札発行の経緯や発行量、相場などの質問があった。井上大蔵大輔とは違い、高飛車な物言いだ。私は、ひたすら我慢して質問に答えた。

 

 岡田大参事は、昨年、集議員の時に、藩政改革の指針を上申して内閣や太政大臣から大層なお褒めの言葉をいただいた。大参事は、その時の方々を頼って陳情された。しかし、廃藩となった今日、藩に対する姿勢は一変して冷たいものがあった。わざわざ私邸に呼んで励ましのお言葉をいただいた太政大臣三条実美には、会ってもいただけなかった。

 結局、藩札の問題は解決できなかった。岡田大参事は肩を落とされた。如何(いかん)ともし難い。箱館出兵や集議員の活動で苦労して築き上げた福山藩の信頼が一気に崩れて、疑惑の目で見られるようになった。がっくりされた御様子に、お言葉を掛けることもできなかった。

 

 その頃、福山から藩債の取調帳を持参した一行が到着した。

大蔵省には二百以上もある藩が次々と押し寄せ、混雑していた。ようやく順番が来て、岡田大参事を先頭に所定の部屋に入った。

大参事が挨拶をして取調帳を手渡すと、大蔵省の係官は頁を(めく)りながら、

「福山藩・・・そうですか、福山藩ですか・・・間違いはないでしょうね?」

 意味有り()に言葉を濁す。福山藩の不祥事大蔵省内に知れ渡っているのだろうか

大参事は、これを察して、

「いろいろ御心配をお掛けします。藩債も沢山ございまして、誠に恐れ入ります」

 いやが上にも、腰を低くせざるを得なかった。

 

 さらに係官は、長州遠征の頃の藩債に目をとめた。

「この頃のものが割と少ないですね?」

 正直に申し上げた。

「後に減額書き換えをしました。商人に無理を言いまして」

この係官は長州出か?

長州に刃向った時の藩債を、政府が引き受けてくれるだろうか。

我々は、身を強張(こわば)らせた。

 

係官はざっと取調帳を点検して、

「大参事殿。結構でございます。(あと)は我々で約定書と照合しますので」

 『尋問』とあったが、それ程のものでもなさそうだ。大参事と私は退席した。

 

 それから岡田大参事は、正桓公から事務を引き継ぐため、急ぎ福山へ帰られた。大参事は、折り返し、正桓公に随行して上京され、大久保利通大蔵卿へお願いに上がることになる。

 私の役目は終わったように思えた。本来なら、大参事に従って帰るべきところだ。しかし私には、弟の堅三の病気のことがある。大参事に事情を話して東京に留まることにした。

私は民事調査掛の辞表を大参事に手渡した。預かっておくとのことだった。

 

       大一揆

 程なくして、福山から急報が入った。

 城下は大混乱。正桓(まさたけ)公の上京は取り止めになった。何事だろう。

 広島藩では、旧藩主の上京を阻止して大騒動になった。それと同じことが福山藩でも起きたらしい。

「お殿様が直々に説得されたが、静まらなかったそうだ」

「やむなく大手門で発砲。死人や怪我人が出た」

「打ち壊しや焼き討ち。それはもう、大変なことらしい」

「庄屋や、商家や、質屋がやられた」

「藩士もやられた。元郡奉行の浜野徳蔵さんや津川右弓さんが焼き討ちにあったそうだ」

 浜野徳蔵さんは少参事の浜野章吉さんの父だ。浜野章吉さんは大丈夫か。

「岡田大参事のお屋敷はお堀端(ほりばた)だ。軍隊が駆け付けて助かったらしい」

「石井英太郎さんもやられた。あれほど地域に尽くされた方なのに」

「炊き出しをしたり、酒を出したり。土間(どま)に手を付いて(あやま)り、打ち壊しを免れたそうな」

数日遅れで、次々と情報が入る。

「黒船が攻めてくる。異人が女をさらう。子どもの生血(いきち)をすする。お殿様を引き止めて、守っていただかなければ・・・まだ、そんなことを言っているらしい」

「牛や(にわとり)を異人に売り渡しては百姓ができない・・・牛や鶏の調査を誤解している」

「電信機はキリシタンの魔法だ。電線が病魔をうつす。そんな(あぶ)ないものをやらせてはいけない・・・測量に異人が立ち会ったためらしい」

「福山にいては、分からないのよ」

 東京では考えられないことが原因になっている。

「お殿様が藩内を説諭して回られ、ようやく収まったそうだ」

 粟根村はどうなったか。庄屋の藤井平太さんや平治さんは大丈夫か。細川貫一郎君は、安原勝之助さんは・・・

 

 長州軍の東上に前後して起った大騒動の時にも庄屋が襲われ、土足(どそく)で座敷へ踏み込まれたが、酒肴(しゅこう)持て成し炊き出しで事は済み、後は「ええじゃないか、ええじゃないか」であやふやなことになった。ところがこの度は家屋敷(いえやしき)の打ち壊しや焼き討ち。それも、庄屋や商人から村総代や藩の役人まで。

あれから三年。何が、そこまでさせたのか。

 

以下は、翌年の三月に粟根に帰り、家族や村総代の平太さんから聞いた話だ。

九月十八日の朝、芦原村の総代から継ぎ()れで、御城下が大事(おおごと)だと知らせてきた。続いて郡奉行から、村人を静めるよう指示があった。前回と同じようにの入口に見張り番を配置した。

騒動は拡大しているようだ。村総代は、村人を火の見(やぐら)に集めた。とにかく平静にと言うほかない。しかし既に、かなりの者が村を抜け出た。年前に味を占めた奴らだ。例の若い連中はとっくに出払っていた。

 

 夜になると南の空が赤々と燃え上がり、この谷へ(せま)るかと思われた。見晴らしが良い高台のが家に、村人が集まった。異様な雰囲気に、娘の(るい)が泣いたと言う。

 もはや、唯事(ただごと)ではない。村総代の平太さんは半鐘(はんしょう)を鳴らして村人を集めた。そして、勝手な行動は慎むように諭した。しかし、次から次へと入る情報は、打ち壊し、焼き討ち、炊き出しや酒肴の持て成し。それを、帰ってきた者が得意そうに話す。元気な者はじっとできない。平治さんも様子を見に行くと言って、若い頃の仲間を連れて出て行った。

村の見張り番も用をなさなくなった。

 翌々日に鎮撫使(ちんぶし)村々を回り正桓(まさたけ)公の説諭書を読み上げ、ようやく事態は沈静化した。

 

大一揆は収まり、正桓公から岡田大参事への引き継ぎも終わった。

十一月三日、旧藩主正桓公は家族や家臣を従え、洋式帆船(はんせん)(かい)(よう)艦で東京へ出立(しゅったつ)された。

鞆の港から手漕ぎの船で、沖の快鷹艦へ。元藩士や庶民は港の岸壁に(ひざまず)き、涙して見送った。そして政府の迎えの使者は粛然として艦を発した随行の家臣から聞いた。 

 正桓公は、福山にわずか二年余りの在住だった。住み慣れた東京へ帰るのだが、その行く末は不安なことだったろう。

 

福山藩は、福山県になった。県令の着任まで、岡田大参事が代行を務める。ほどなく備中の隣接部を加えて、深津(ふかつ)県に改められた。その後、県庁が備中の小田郡笠岡村に移され、翌年の六月に小田県と改称された。

 

       大久保利通大蔵卿

 岡田大参事は、大一揆の後始末で忙しかったのだろう。ようやく十二月になって、浜野少参事を伴い上京された。正桓(まさたけ)公にお出ましを願い、岡田大参事と浜野少参事、それに私も随行して大蔵省へ参上した。

そして、井上大蔵(おおくら)大輔(のたいふ)の引き回しで、大久保利通大蔵卿にお会いした。

「もっと早く参上致すべきところ遅参しまして・・・」

 遅れた理由を言いそびれていると、大蔵卿から(ねぎら)いの言葉があった

「御無事で何よりです。阿部殿自ら御出馬され、鎮圧に当たられたとか。お(いさ)ましいことで」

「御心配をお掛けしまして、重ね重ね申し訳ございません」

正桓公と岡田大参事は藩札の無断発行を幾重にもお詫びして、ひたすら善処のほどをお願いされた。浜野少参事も藩札発行の理由を述べて、新開地が完成すれば売却代金が政府の収入になると力説された。

 

大久保大蔵卿は、

「貨幣は国の基本であり、国の信用に関わるものです。列国はどうしているか、皆様も御承知の伊藤博文君が米国に渡り、調査してまいりました。文明国の紙幣は、(きん)兌換(だかん)を保証するものでなければなりません。これには金の準備が必要です。紙幣はやたら発行できるものではございません。藩の債務の方も、集計しますと大変な額になりました。果たして財政が舞えるかどうか、慎重な(かじ)()を迫られております」

「御もっともなことでございます」

 我々、福山藩の失敗を(とが)められているようで、それ以上のことは言えなかった。

 

やや沈黙の後、係官が、

「本来は、藩の責任で回収すべきものです」

 政府が引き受けなくとも致し方ないと言わんばかりだ。

「政府としては、予算があってやることです。どこまでできるか、見当がつきません。問題のある藩札は後回(あとまわ)しにせざるを得ません

 後回し・・・政府発行の紙幣に交換しないということではないようだ。福山藩に落ち度がある。(むべ)ないことだ。

 

維新の戦乱は収束して新政府の足固めができた。もはや藩は、幕府と同様、消え去る運命にあることを思い知らされた。

岡田大参事と浜野少参事は、しおしおと福山に帰られた。

広島藩の贋金事件は、その年の暮れに判決が出た。贖罪(しょくざい)(きん)十二両二歩とのことだ。朗廬先生は、軽い刑で済んだと安堵(あんど)された。

 

      藩札相場

そして同じ十二月に、各藩の藩札を政府の新貨幣に交換する「価格比較表」が公示された。

その中から抽出すると、

津藩   藤堂三十二万石 銀札百(もんめ) = 一円六十銭

佐賀藩  鍋島三十五万石 銀札百匁 = 一円三十三銭

米沢藩  上杉 十四万石 金札一両 = 一円

松江藩  松平 十八万石 銀札百匁 = 五十銭

萩藩   毛利三十六万石 銀札百匁 = 三十六銭

鹿児島藩 島津七十七万石 銀札百匁 = 三十三銭二厘

 

 しかしこの中に、福山藩の藩札はない。

 ついにこの問題が世人(せじん)の知るところとなり岡田大参事浜野少参事は責任を追及され針の(むしろ)。藩札はどうなるのか、ただの紙切れになってしまうのかと責められ、身の置き所もなく自宅謹慎された。

 

 政府発行の紙幣への交換は、翌明治五年四月から始まった。しかし、福山藩の藩札は置き去りだ。このままでは済まされない。その後も、政府に粘り強く働き掛けた。

贋金作りで問題があった広島藩の交換比率は、約一年遅れて明治五年十月に公示された。

   浅野四十二万石 銀札百匁 = 三十六銭

 

福山藩の藩札はさらに遅れて、やっと明治六年三月に公示された。

     阿部 十一万石 銀札百匁 = 六十二銭

金札一両 = 五十九銭二厘

 ようやく、福山藩の金札を交換の対象に加えていただいた。

この交換比率を逆算すると、一円が金札一両二()(しゅ)、銀札百六十一匁一()に相当する。

 

この年の五月から、新紙幣への交換が開始された。

その間、公示を待ち切れずに、銀札二百匁で一円と交換する者が出た。中には、不安に(かこつ)けてさら安く買い叩く奸商(かんしょう)も現れた報国両替会社は廃藩置県によって藩札が政府発行の紙幣に両替されるというので休業状態にあった。その会社が八月に解散したため、さらに不安らせたそのため小田県では布達を出して注意を喚起するととともに、特に事情があると思われる者には評議の上、一日千を限度に、銀札二百匁で一円に引き換えた。

 

 かくして藩札六十万両は新紙幣に交換され、回収された藩札は焼却処分された。

しかし、それだけで事は終わらなかった。藩札を発行する切っ掛けになった新田開発は未完成だ。災害復旧工事が重なり、さらに多額の投資を必要とした。そのため八万両の出費を太政官に願い出た。それが認められ、浜野章吉元少参事は新開修築掛の監督となって岡田元大参事らとともに完成に努められた。

 新開地は明治八年にようよう完成したが、農地の売却価格が見込みよりも格段に安く、会社を清算すると更に八千円の欠損が生じた。その補填(ほてん)何とか大蔵省に認められ、一連の藩札処分の問題は落着となった。

 

    古借・旧借・新借

藩債はどうなったか。

 政府の方針決定には時間が掛った。取調帳に載せた藩債のすべてを、政府が引き受けてくれるとは思えない。破産する商人が出ると、もっぱらの噂だ。

 

藩債処理の大綱は、私が福山に帰った直後の明治五年四月十二日に公表された。

その骨子は次のとおりだ。

一、天保十四年(一八四三年)以前の幕府や藩の債務を『古借』と言い、政府は古借を引き継がない。

二、弘化元年(一八四四年)から慶応三年(一八六七年)までの債務を『旧借』と言い、新政府が引き継ぐが、五十ケ年賦・無利息で償還する。

三、明治元年(一八六八年)以降廃藩までの債務は『新借』と言い、新政府が引き継ぎ、三年据置二十五ケ年賦・利息年四分で償還する。

 

二百七十七藩の藩債総額は、七千八百万円余り。

その内、『古借』として切り捨てられたものが、半分の約四千万円。このことは、利息だけを払い、返済を繰り延べる、いわば塩漬け状態の藩債がたくさんあったことを物語る。ペリーが来る前から、藩財政は不如意な状態に陥っていた。藩札に頼らざるを得なかった訳だ。

 

『旧借』の中には、黒船の来襲に備えて沿岸を防備した時の債務があるが、諸藩が寄って(たか)って長州を攻めた時債務あるしかし、無利子で五十年と償還年数が長いとは言え、切り捨てなかった。度量が大きいのか、政治や経済混乱避けるためか、私には分からない。

福山藩の藩債総額は、およそ二十四万円だった。

 

 
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<ご参考>

 ・参考史料
     「大日本古記録(江木鰐水日記・下)」東京大学史料編纂所・岩波書店発行
     「元福山県人民暴動」(岡山県史・資料編「小田県史」)
     「芦田郡戸手村信岡祐臣の記録」ほか旧福山領の一揆の史料(「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県)
    「明治前期財政経済史料集成」大蔵省編・大内兵衛・土屋喬雄校(改造社)

 ・参考文献
     藤井正夫著「新涯開発百年史及び資料編(四)旧福山藩財政始末」発行門田武雄
     藤井正夫著「備後福山社会経済史」児島書店
     山本有造著「両から円へー幕末・明治前期貨幣問題研究(備後福山藩の藩札整理と円の普及)」ミネルヴァ書房
   大森徹著「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」日本銀行金融研究所「金融研究」2001.9
   富田俊基著「明治維新期の財政と国債」野村総合研究所発行「知的資産創造」2005.1
   「広島県史・近代1」編集発行広島県
   「福山市史・中巻・下巻」福山市史編纂会

 ・登場人物
    井上馨・・・・・Wikipedia井上馨
    大久保利通・・・・・Wikipedia大久保利通

 ・参考ホームページ
   藩札の円への交換比率・・・・・「コインの散歩道」しらかわただひこ明治維新の交換レート 新貨幣旧藩製造楮幣価格比較表

    芦田川河口の新田開発・・・・・ 「ときめき夢見びと」備後福山藩の干拓物語
    両・・・・・Wikipedia両  1両=4分=16朱 ∴ 2分=0.5両  3朱=0.1875両 よって 金札1両=59銭2厘6歩