「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第二章 報国両替会社 その3
大参事の参謀
報国両替会社が運営を開始して間もない七月上旬のこと。
緊急に呼び出されて、民事局会議が開かれた。
岡田大参事も御出席だ。浜野少参事が恐る恐る切り出した。
「福岡藩の件は御承知かと思いますが、遂に判決が下りました。藩知事黒田長知公は罷免閉門、大参事三名他二名が斬罪に処せられたとのことであります」
まさか。政府の厳しい処断に言葉を失った。
福岡藩は、太政官発行の天札を偽造して発覚した。偽の天札二万五千両を使って米を買い付けたとか。
「広島藩の件は、その後どうなりました?」
「いまだ、取り調べを受けているようです」
広島藩は、贋金を製造して一昨年に発覚した。藩士の中に政府へ訴え出た者がいるらしい。昨年来、藩の重役が政府の取り調べを受けている。その間、鋳造業者が捕えられ、糾弾後に病死したという噂だ。藩の重役については、まだ判決が出ていない。この分では、相当重い刑罰が下されるに違いない。
岡田大参事が、
「正桓公には御心痛にあらせられます」
これには二重の意味があった。面々には分かっている。顔面蒼白だ。
福山藩主阿部正桓公は、広島藩主浅野長勲公の弟君。もちろん、里の広島藩のことが心配だ。
そして、当の福山藩も大変な心配の種を抱えている。例の政府に無届の金札のことだ。『明治二己巳発行』と表示した壱朱、弐朱、壱歩の三種の金札は、政府に無届のままになっている。もしもこれが発覚したら、広島藩のように密告されたら、大変な事になる。
何とかしなければと思いつつも、回収となれば大金が要る。昨年の夏に、三万一千両を用意して回収を試みたが、失敗に終わった。思い切って政府へ届け出ようという話もあったが、いざとなれば尻込みして、ずるずると今日に至った。
しばし、沈黙が流れた。
そして毅然と、浜野少参事が、
「私が参ります!」
再び、沈黙が流れた。
そして判然と、岡田大参事が、
「少参事の気持ちはありがたい。しかし、せっかくの君の申し出が、訴え出たと思われては不味い。私が参る。政府にはいくらか伝手もある」
「・・・」
「少参事には済まないが、しばらく謹慎ということにしてもらえないか?」
謹慎を頼むとは変だが、それによって藩なりに処置を講じ、政府に理解を求めようというお考えだ。
「ついては誰か。そうだ、窪田君。一緒に行ってくれないか?」
もはや、ぐずぐず言える雰囲気ではなかった。
後で、私だけが大参事の部屋に呼ばれた。
「正桓公がおっしゃるに、阪谷朗廬さんが上京されたのは、広島藩の贋金事件のためらしい。阪谷さんは、漢学はもとより洋学、文芸と交友が広い。いろいろ手づるを探して政府に働きかけておられるそうだ。阪谷朗廬さんは君の恩師・・・まあ、そういう訳だ。一緒に行ってくれないか?」
恩師の朗廬先生は、今は広島藩の藩政顧問の職にある。
その昔、朗廬先生が興譲館館長の頃、後の将軍徳川慶喜公から京都二条城へ招かれた。後月郡内の興譲館がある一帯が、一橋領だったからだ。その時、師は慶喜公に尊王開国論を講じられた。尊王攘夷論が吹き荒れている最中のことだった。
同じように儒学者で、藩主阿部正弘公の開国政策に従った関藤藤陰先生や江木鰐水先生と交流が深い。鰐水先生と朗廬先生は共に学び、共に旅されたこともある。しかし、関藤藤陰先生や鰐水先生は御高齢だ。大参事がお二方と相談されて、私に行かそうということになったらしい。上京中の朗廬先生の指導を受けて、大参事を補佐するように。
大蔵省へ参上する手前、藩の民事取調掛の職を拝命した。
後で江木鰐水先生にお会いして、
「昨年、五十川基君が集議員の岡田大参事を立派に補佐しました。彼がいれば、彼が行くべきでしょうが・・・」
と言うと、鰐水先生から、
「君は藩札の問題をよく承知している。それに君は、朗廬先生の弟子。朗廬先生の御指導を仰ぎ、大参事を補佐して欲しい。君は、岡田大参事の参謀だ。お国のために頑張って来い」
と励まされた。箱館出兵では、岡田大参事が総督で、江木鰐水先生が参謀だった。この度は、私が参謀・・・身に余るお言葉だ。
廃藩置県
東京へ出立前の、確か七月十一日だ。
備中は井原へ行き、興譲館館長の坂田丈平さんを訪ねた。
坂田館長は、前館長の朗廬先生としょっちゅう手紙を遣り取りしている。朗廬先生の東京での所在や近況を教えてもらおうと思った。
丈平さんは、恩師の阪谷朗廬先生の甥になる。私より四歳年下。朗廬先生の桜渓塾で一緒に学んだ。朗廬先生が興譲館の館長になられ、丈平さんも興譲館へ進んだ。丈平さんは学業が優秀でたちまち都講になった。その後、江戸などへ遊学したが、四年前に朗廬先生が広島藩に招聘されたので、その跡を継いで興譲館館長になった。その時、わずか二十九歳だった。
興譲館には、朗廬先生の御長男の礼之介君がいた。丈平さんに学業の指導を受けている。経緯を話したところ、東京の朗廬先生に手紙を書くと言う。しばらく待って、二人の手紙を託った。
我が家での旅支度。
いつになく、父がそわそわしている。
「この便に、堅三に持って行ってやれ・・・そうだ、着る物をありったけ持って行け。冬物を入れて」
「堅三が、また兄貴のお下がりかと言いますよ」
「大きめの行李に入れて。中味をそのまま置いて帰ればよい。帰りは帰りで、また荷ができる」
父も、旅慣れている。
七月二十一日には、定例の啓蒙社周旋方会議が誠之館の講堂である。岡田大参事が出席される。もちろん、私も出席する。この会議を終えて出立の予定だった。
ところが・・・ちょうどその頃、東京から重大な知らせが届いた。
政府が、七月十四日に廃藩置県を発したのだ。
その知らせが福山藩に届いた。大変革だ。藩がなくなり、藩知事をはじめ藩士はお役御免。そして藩の替わりに県が置かれ、政府任命の県令や官員が県を治める。
藩庁では、あちこちでひそひそ話や喧々諤々。廃藩置県の意味が解るに従い、上を下への大騒ぎになった。ちょうど藩庁に居合わせた私も、最初は事態が呑み込めなかった。
藩がなくなると、藩士は平民になるのか?
藩士の禄はどうなるのか?
そして、藩札はどうなるのか? ただの紙切れになるのか?
政府は抜かりなく手を打った。藩札をすべて天札に両替すると発表した。廃藩置県を命じた七月十四日の藩札の相場で天札に両替するとのことだ。混乱を回避するためか、廃藩置県に反感を持たれないためか。ともかく、それなら一先ず安心だ。
しかし・・・しかし、福山藩の金札はどうなる。政府に無届だ。無届の金札が天札に両替してもらえるか。両替してもらえないとなると、一大事だ。今となっては、手遅れか。
とにかく、政府にお願いする外ない。大参事と私の東京行きはますます重要な任務となった。
廃藩置県の話が、粟根の村にも広まりつつあった。郡役所が村総代を集めて伝えた。それを村総代の藤井平太さんが村人へ伝えた。藩がなくなり、殿様もいなくなる。世の中がひっくり返る話だ。村人には何が何だか解らない。しかし私には、腰を据えて村人に説明する時間がなかった。
村総代の平太さんの話では、郡役所に勤める藩士も弱り切っていたそうだ。彼らにとって何よりも心配なのは、我が身のことだ。今さら、お役御免と言われても。
「百姓でもするか、と言う藩士がいましたが。遊んでいる田畑なんか、ありませんよ」
東京行きは、予定より遅れて二十九日の出立となった。
この時期に慌ただしく東京へ出立する私を、村人は不思議に思ったに違いない。しかしその説明は、村総代の平太さんにさえ憚れた。「岡田大参事のお供で東京に行きます」と言う外なかった。
前日に粟根を発った。家族や平太さんら村人に見送られた。娘の類は母に抱かれて手を振った。
勘三君が行李を背負って私に続いた。
賀茂神社にお参りして、深々と拝礼した。
その夜は御城下で一泊。そして翌朝、ひとまず鞆の港へ向かう。
お堀の外から海に通じる入江がある。その入江に架かる天下橋の近くの船着き場に集結して、そこから手漕ぎの船で鞆の港へ向かう。両岸から、江木鰐水先生をはじめ多くの方々にお見送りをいただいた。
鰐水先生から、暇を見て読めと、五十川基君がニューヨークで学修中に訳したドイツの軍事書『林戦要録』を渡された。そして金子十九両を托された。
後日、東京から帰って石井英太郎さんから聞いた。鰐水先生はお見送りの後、私たちの無事と任務達成を祈願して深津王子神社に詣でられたそうだ。もったいないことだ。
海路東行
鞆は、潮待ちの港だ。
港は瀬戸内海の中程に位置し、東西の潮が鞆の浦でぶつかる。そのため船は、東西から上げ潮に乗って鞆へ向かい、引き潮に乗って西東へ向かう。その間を利用して港で商をする。鞆の港は大いに賑わった。北前船が上方へ米や消費財を運び、帰り荷にこの地域の海産物や木綿などを積み込む。鞆の町は御城下を凌ぐほどの勢いがあった。
勘三君に土産物を買ってもらった。恩師の阪谷朗廬先生へのお土産に中村家の保命酒を。息子が病死した時にお世話になり、今は堅三がお世話になっている小林達太郎君には大坂屋の米酢を・・・行李の着物の間に挟んだ。
明治四年七月二十九日の午後。潮が引き始めた鞆の港を出航した。
岡田大参事は、昨年の春にも、こうして鞆の港から東京へ向かわれた。その時は政府の集議院議員として、藩政改革の審議に臨むことになっていた。藩はまだまだ続くものと思っておられたことだろう。
ところが一転して藩は消滅。藩札無届の失態をどう釈明するか。ひたすらお願いする立場の、気の重い船旅だ。もしも、新政府に金札が認められなければ、阿部家の財産で払うのか。一方の多額な藩債はどうなるのか。阿部家が裸同然になっては、阿部家の重臣として申し訳ないことになる。
思えば、厳寒の地で苦労した箱館出兵は何だったのか。犠牲者が出た。軍備のため多額の借金をした。藩札も多量に発行した。そして、今はその後始末・・・しかし、どうもがいても、敗者は敗者。慶応四年の正月に、お城を明け渡した時から敗者なのだ。
甲板に出た。日差しは強いが、瀬戸を渡る潮風は心地よい。日陰を探した。と、岡田大参事がひとり、海を眺めておられた。
「失礼します」
「窪田さん、この度は御苦労をお掛けします」
「お役に立ちますかどうか」
「なあに、戦争に行くのではありません。島々を眺めながら、のんびりと行こうではありませんか」
岡田大参事とは、この七月二十一日にお会いしたばかりだ。
啓蒙社周旋方の会議が規則通り定例日に開かれ、岡田大参事も出席された。会議では、啓蒙所教師への扶持米の支給日を翌月五日に統一することなどが決定された。そして、大参事から周旋方を慰労していただき、異例の酒や食事を賜った。私にも、大層なお褒めのお言葉をいただいた。
「先日は、たくさんの方にお集まりいただきましたね。廃藩置県になっても、啓蒙所は大丈夫。今の勢いなら、藩がなくてもやって行けますよ」
確かに啓蒙社は藩とは別のものだ。藩がなくても・・・しかし、いまだに立ち上がっていない村がある。師匠や教科書が足りない啓蒙所もある。今年も出米を協力していただけるか、秋の収穫次第では分からない。
瀬戸内の島々を見やりながら、岡田大参事は、
「昨年、細川貫一郎さんと一緒に提出された『叱正』は立派なものでした」
「ありがとうございます。恐れ多いことです。細川貫一郎さんとは阪谷朗廬先生の漢学塾で一緒に学びました。今もいろいろとお世話になっています」
「ところで箱田村の細川貫一郎さんは、榎本武揚の従兄になるそうですね」
「はい、貫一郎さんの父親の弟さんが、東京の榎本家に養子に入られまして。その子が榎本武揚です。ですが、東京生まれで、箱田村にはまったく・・・」
箱館出兵のことに話が及んだ。
箱館出兵には、岡田大参事が総督、鰐水先生が軍師参謀として三年前の秋に出帆された。そのときは下関に下り、日本海を北上した。荒れた海をやっとの思いで箱館に上陸したが、榎本軍に押し返され、青森まで敗走した。翌年の春に、新政府軍の一翼を担い、ようやく五稜郭を攻め落とした。
榎本武揚は降伏を前に、愛読のオルトラン著『万国海律全書』が焼失しないよう、政府の海陸軍総参謀黒田了介に送った。それを意に感じた黒田了介は、榎本の助命活動を行った。榎本は一命を取り留め、丸の内の辰の口の獄に繋がれている。そのうち獄も許されるのでは・・・貫一郎君が話していた。
「箱館出兵には、鰐水先生にも御心労をお掛けしました。二十五名の勇士が北の地に眠っておられます」
「・・・」
榎本武揚は、福山藩に大迷惑を掛ける、憎き敵だった。ところが今は、岡田大参事も榎本武揚も同じ敗者の立場だ。
幕臣の意地を通した榎本武揚。
福山藩は長州軍の城攻めに屈して恭順を示したが、結局は同じ敗者。敗戦処理を迫られている。
大海原へ出た。
ここは駿河の沖か。はるか向こうに富士の頂が見える。晴れ晴れと富士を仰ぎたいものだ。しかし、そんな気分になれなかった。
昨夜、岡田大参事から忠告があった。大蔵省の出方には厳しいものがあるだろう。とにかく平身低頭。当面は質問にのみに答えるように・・・私の性分を御承知の上だろう。
横浜沖辺りから江戸湾は大賑わい。大きな船、小さな船、和船に洋船。それらの間を擦り抜けるようにして隅田川の河口に着いた。
小船を降ろして知らせに走る。ほどなく藩邸の船が横付けされた。隅田川を遡り、福山藩の下屋敷を右目に、左手の神田川に入る。既に昌平橋の袂の船着き場には、留守居役が人力車を従えて出迎えに来ていた。大参事は颯爽と人力車へ。車夫が私にも乗れと言うが、どうも痴がましい。大きな行李を乗せてもらい、徒歩で続いた。
本郷の丸山中屋敷は高台にある。広い敷地には小さな森があり、畑があり、桑が植えてあった。
その中屋敷で、弟の堅三に会った。小林達太郎君と同じ長屋に住んでいる。達太郎君が誠之館教授の時、息子の林太郎の病気でお世話になった。達太郎君は、今は大学東校の少助教。今度は堅三がお世話になっている。お土産の大坂屋の米酢を渡した。
大蔵省
丸山中屋敷には、政府から七月二十四日付けの布告が届いていた。藩札に続いて、藩債を処理するというものだ。諸藩に対して、藩債を一件ずつ取調帳に記入して報告するように命じている。その書式も付いている。そして、東京と藩の往復の日数に十五日を加えた日限で提出するように。提出する際には尋問するので、即答できる者を同行せよとある。
『尋問』とは言葉がきつい。政府は強腰だ。まさに取り調べだ。尋問して、不適切な債務は容赦なく切り捨てる積りか。政府の姿勢に容易ならざるものを感じた。
既に福山へ伝達した。追っ付け、取調帳を作成して上京するとのことだ。
丸山中屋敷も、廃藩置県で騒然としていた。藩の重鎮の岡田大参事には諸事が待ち受けていたが、何はさて置き大蔵省へ向かった。
大蔵省は、江戸城大手門前の旧姫路藩邸にあった。既に、近場の藩が藩債の取調帳を提出に来たのか、それらしき藩士でごった返していた。官員も忙しそうだ。藩札の係官は、急に言われても手を取れないと言う。この廊下の奥が大蔵卿の部屋かと思われたが、近寄り難いものがあった。
翌日、留守居役が交渉して大蔵省の係官にお会いすることになった。
岡田大参事は、若い係官に廃藩置県の祝意を述べ、
「藩札のことにつきましては、たいへん御心配をお掛けしております。我が藩は、藩を挙げて藩札回収に着手したところであります。これは年数が掛ることでございまして。この度は、政府におかれまして、全額を一挙に両替していただくことになり、誠にありがたく安堵いたしているところであります」
「・・・それで?」
「実は、たいへん申し訳ないことをしておりまして・・・」
恐縮の態で金札無届のお詫びを申し述べると、係官は藩札の帳簿を取り寄せて頁を捲っていたが、
「福山藩に金札? 福山藩にそんなものはない!」
我々の前に帳簿を放り投げた。
私はその帳簿を拾い上げ、当藩の箇所を見た。確かにない。
係官の剣幕に怯むことなく、岡田大参事が切々と説明された・・・新開地が完成したら払い下げて金札を回収する計画だったが、この四月の大風で堤防が決壊して払い下げができなくなった。
私も、報国両替会社を興し、藩を挙げて藩札の回収に取り組んでいると申し添えた。
若い係官は、むっとして聞いていたが、
「回収できれば済むという問題ではない! 明治になって新札を発行、しかも無断で発行したことが問題なのだ! 政府をないがしろにしている。我々の段階ではどうにもならない!」
吐き捨てるように言った。
あわよくば藩札の名簿に書き添えてもらおうと思ったが、そんな甘いものではなさそうだ。すごすごと引き下がった。
自炊の朗廬先生
大参事は、思いがあってか、外出された。
私も、朗廬先生にお会いして相談しようと、留守居役に広島藩の藩邸の場所を訊くと、既に広島藩の藩邸は政府に召し上げられ、浅野家は浅草寺の向こうの橋場町に移られたとのことだ。
橋場町を探して浅野家を訪ねたところ、朗廬先生は、そこから二、三丁ほど下がった三河屋という料理屋におられるとのこと。言われたように三河屋へ行くと料理屋は休業中で、先生は奥の小座敷に仮住まい。しかし、先生はお留守だった。やむなく、興譲館で託った坂田丈平館長と礼之介君の手紙、それにお土産の保命酒を家主に預けた。
朗廬先生は、それを知って私に連絡を取ろうと、小林達太郎さんや堅三がいる神田和泉町の大学東校に来られたそうだ。遠く丸山中屋敷まで行っても私がいないかもしれない。東校なら、達太郎さんや堅三が確実にいると思われたらしい。
そのことを堅三から聞いて、再度、橋場町の朗廬先生を訪ねた。
今度は、朗廬先生がおられた。
早速、上京の経緯や福山藩の金札無届の件についてあらましを述べた。
「福山藩にもありましたか。申し出たのなら、その方が良い」
「その積りでしたが、今となっては仕方なく申し出たようで」
廃藩置県で藩札が天札に両替されることになり、慌てて申し出たと思われても致し方ない。
「福岡藩は悪質だ。政府発行の天札を偽造したのですから。それは、怒りますよ。広島藩は、禁止された後も贋金を造り、報告にも偽りがあり、しかも情けないことに藩士から訴えられた。その点、福山藩は藩札ですから。裁判に持って行く程のものでもないでしょう。ひたすら大蔵省にお願いされれば」
「・・・」
「そうだ。岡田大参事も御承知と思うが、廃藩置県を前にして、大久保利通殿が大蔵卿になられた。そして井上馨殿が大蔵省に戻され、大蔵大輔になられた。つい最近のことだ。それから伊藤博文殿は、先々月に米国から帰国された。貨幣制度の調査に行かれたそうだ。お二人とも、関藤藤陰先生をよく御存知のはずだ」
維新の前夜、長州軍の東上で福山城が砲撃を受け、藩は存続の危機に晒された。その時、正使三浦義建と副使関藤藤陰が交渉して、すんでのところで落城を免れた。藤陰先生の熱い勤王の志が長州側に伝わったからだ。藤陰先生は頼山陽の愛弟子で、頼山陽の『日本政記』の記述を助けた。その書は、今は大蔵省高官の井上馨や伊藤博文の愛読書だ。
他にも、政府の仕組みや御存知の政府の要人などをいろいろと教えていただいた。
お昼近くなった。
先生は、「済まんが手伝ってくれるか」と言って調理室へ向かわれた。料理屋の調理室だ。広い土間で器具が揃っている。笊の中に、胡瓜、茄子、葱があった。
「ここら辺りは田畑が多くて助かる。味噌はこれだ。私はちょっと魚を買って来るから」
と言って出掛けられた。
私は竈に火を熾し、土瓶をかけた。そして野菜を刻み、味噌汁と酢の物の支度。黒い味噌は辛そうで、加減が分からない。少しずつ足した。
ほどなく先生は、秋刀魚を買って帰られた。
「これこれ、秋はこれに限る。川岸にも近くてね」
先生は七輪に熾火を移して炭を乗せ、外に持ち出して団扇でパタパタ。鉄器を熱して秋刀魚を乗せて・・・手付きが少々おぼつかない。
「久し振りの自炊でね、ははは」
焼けた秋刀魚に醤油を掛けた。お窯の御飯は水っぽかったが、美味しい昼食だった。
先生の御家族は広島におられる。しかし、廃藩置県だ。もはや浅野家に仕えることはない。家族は早々に備中へ引き上げるよう指示された。
ところが先生御自身は迷っておられるようだ。まずは広島藩の贋金事件を片付ける。それから先は備中へ帰るか、東京に留まるか。
興譲館のことや学問のこと、塾友のこと・・・先生との話は尽きなかった。
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<ご参考>
・参考史料
「広島藩贋金製造の員数等上申」以下の贋金事件関連史料(「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県・芸藩志ほか出典)
山下五樹・編著「朗廬先生宛諸氏書簡集」
山下五樹・編著「阪谷朗廬先生書翰集」・・・明治四年十一月二十一日気付の阪谷朗廬から坂田警軒宛の書簡
『去冬 参り候(広島藩贋金)事件、(明治天皇)大嘗会(十一月十七日)前 可済趣ニ候処、
不相済候。因て当年内ハ最早逗留と一決致候・・・』
「興譲館百二十年史」昭和48年発行・・・・興譲館初代館長阪谷朗廬の子の阪谷芳郎の『自分ノ見タル朗廬』に、
『・・・広島藩ノ偽札事件ニ関シテモ 其善後策ニ就テ 余程奔走シタヨウデアリマス・・・』
「大日本古記録・江木鰐水日記・下」東京大学史料編纂所・・・・その明治4年7月29日の日記に、
『朝 大参事東行・・・旧門生窪田二郎 参謀東行・・・林戦校刻本及金子十九両托之・・・送二郎暫無事、詣王子祠、訪英太郎・・・』
「明治前期財政経済史料集成」大蔵省編・大内兵衛・土屋喬雄校(改造社)
・参考文献
坂本忠次著「犬養毅と小田県庁時代ー自筆記録『家記大要』を読んでー」岡山大学経済学会雑誌23(2)1991
田口義之著「人間シリーズ クローズアップ備陽史」
・参考ホームページ
福岡藩贋天札偽造事件・・・・歴史の勉強「筑前福岡藩」 近代史のファイル続・はかた学贋札事件(朝日新聞西部本社版朝刊)
広島藩贋金事件・・・・・可部南原屋贋金事件(可部カラスの会)
福山藩丸山中屋敷・・・・江戸歴史散歩の会
行李・・・・・行李(府中家具木工資料館)
保命酒・・・・・Wikipedia保命酒 豪商/中村吉兵衛・生玉堂{保命酒の歴史}全国一斉鞆の浦検定
大坂屋の米酢・・・・・豪商/上杉平左衛門の偉業・鞆の浦二千年の歴史を紐解く・全国一斉鞆の浦検定
・登場人物
阿部正桓 誠之館人物誌「阿部正桓」(誠之館同窓会)
榎本武揚 Wikipedia榎本武揚
・舞台となった場所の今日

天下橋(本・元橋)跡
(福山市宝町)
左の歩道に記念碑がある

深津王子神社
高台の突端にある
昔は、直ぐ下まで海が迫っていた