「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第二章 報国両替会社 その2
輸出入
貫一郎君に紹介してもらって、干鰯を扱う商人を訪ねた。
客でもない私に迷惑そうだが、ぼそぼそと胸の内を話してくれた。
「天札も、案外、便利ですよ。これまでは金か銀でしたが、物の善し悪しがありまして。うっかり紛い物を掴まされては堪りませんから」
藩と藩との間の取引は輸出入と言う。もちろん、藩札は通用しない。これまでは、金や銀の正貨で決済した。しかし、改鋳して金や銀の含有量が少ない贋金が出回るようになった。
「天札にも偽物があるそうでうかうかできませんが、天札なら額面通り日本中で通用しますから」
「藩札の値が下がっても、あながち不利とは言えない訳でして。輸出すれば藩札がより多く貰えるでしょう。その分、安く売れる訳でして。分かります? それとは逆に、輸入の方は困る訳でして。どんどん輸入品が高くなりますから。細川さんには、干鰯の値段が上がる度に怒られましてね」
「・・・なるほど」
「ま、どこの藩もやっていることですがね」
私は羽織袴の士族とは違う。相手が田舎医師と思ってか、だんだんと口が軽くなった。そして、これ以上、藩の借金の尻拭いは御免だと本音を漏らした。
両替会社構想
その後も再々、会議が開かれたが、同じことの繰り返しだ。
その間、貫一郎君と何度も話し合った。
「八方塞がりだ!」
「昨年、藩は、藩札を天札に引き換えるとおっしゃいました。しかし、まったくの手付かず。お先真っ暗です。虎の子が紙切れになっては堪らんと金銀に走り、後生大事に貯め込みます」
日を追うごとに銀札の値が下がる。既に天札一両が銀札百二十五匁になった。信用を失うとはこのことか。奈落の底に沈むようだ。
「要は信用です。少しずつでも藩札が回収されれば安心するのですが。その姿勢が見えないから、我が身が一番と保身に走るのです」
「なるほど」
「だから・・・だから、少しずつでも藩札を回収すれば安心します」
「安心する・・・だろうか?」
「少々のお金では、だめですよ」
貫一郎君は真剣だ。考えに考えた末の考えだろう。しかし、肝心の資金がない。
「政府に頼んで、天札をどっさり借用すれば・・・」
「それはできない。こんなに藩札を発行していることが政府にばれたら、それこそ藩が潰される」
「だったら、藩の中で資金を捻出するしかありません」
「藩の中で?」
「そうです。我々も、天札を持ち寄ります」
「それができるだろうか?」
「ええ、それで藩札の値が戻るなら損はありません」
「・・・なるほど」
その理屈が解らないでもない。しかし、皆さんに解ってもらえるだろうか。
藩が藩札を天札に両替すれば、藩札の値が上がる。買い支えるということか。それをやるとすれば、誰かが資金を預かって天札に両替する。受け取った藩札の値が上がれば損はない。両替料も入る。
「それをやるのは個人ではまずい。会社を興して」
「会社?」
「そう、会社。新涯干拓の新開社もそうだ。あちこちで会社ができている・・・福沢諭吉先生の『西洋事情』にある『商人会社』だ。『大商売ヲ為スニ 一商人ノ力ニ及ハサレハ 五人或ハ十人 仲間ヲ結テ其事ヲ共ニス』とある。多くの方に出資を仰ぐ。儲かれば配当を出す」
「分かりました。庄屋の皆さんに相談してみます」
貫一郎君は、趣意書を書いて私のところへ持ってきた。いくらか、私が手を加えた。そして、貫一郎君の考えを民事局で話した。ともかく、彼の話を聞こうということになった。
後日、貫一郎君は庄屋数人と連れ立って民事局へ出向き、両替会社の構想を話した。
民事局では、貫一郎君の案を巡って議論した。
「藩札を回収すれば、本当に値が戻るだろうか?」
「少々の額では、焼け石に水だろう」
「金札を天札に替えると言えば、我も我もと殺到しないか?」
「出資金は戻る目途がない。献金と同じではないか?」
慎重論に押されて、前へ進まない。
「ある人に相談したら、その前にやるべきことがある。無駄な冗費を削減しろ。その努力が足りないと言われた」
「俸禄を云々言う者も多い。もっと減らせ。無くしてしまえと」
「軍事局の経費を削れと言う者もいる」
「新涯の干拓地を早く分譲して。藩の不要な土地も処分して」
またしても、いつもの議論の繰り返しだ。
そして再び、民事局の会議で、
「公議局から、また催促があった。何らかの対策を求められた。議論ばかりしてはおれない」
「天札に両替するのは、昨年からの約束だ」
「藩札の価格はどんどん下がる。やるなら一日でも早く」
「広く出資者を募るということだが、それには時間が掛る」
「効果さえ出れば、後からでも協力してもらえる」
「やるなら、手始めに問題の金札を。政府に無届だ。資金は藩が用意する」
回収財源は三万一千両。
両替すれば、金札の値が上がることを想定して、
最初の八月二日から十三日の間は、金札百二十匁で天札一両に両替する。
次の八月十四日から二十七日の間は、金札百十匁で天札一両に両替する。
次は百匁、八十五匁というように順次、両替する。
果たして、目論見通り上手く行くか・・・
そうこうするうちに八月になった。
その頃、私は例の同仁館教授の辞令をいただいた。その辞退の問題でごたごたして藩庁へ上がるのを憚り、その後の状況が分からなくなった。
秋になり、同仁館教授の辞退が許され、啓蒙所のことで藩庁から呼び出しがあった。その折に民事局に立ち寄り、久し振りに山岡監事から状況を聞いた。山岡監事が言うに、天札三万一千両は確かに金札と両替した。しかしその後も、金札はどんどん値を下げている。一両が百四十匁を超えた。この両替で一部の者が得をしたと不審に思う者もいる。失敗だった。
岡田吉顕大参事
一方で政府は、公議所を集議院と改称して各藩の大参事を集議員に任じ、藩政改革について諮問を求めた。福山藩からは岡田吉顕大参事が集議員となり、明治三年の春に上京された。
大参事は、追って公議局下局議長の五十川基を呼び寄せた。五十川は、福山藩の知恵袋だ。藩政改革の審議に臨むには、彼の補佐が欲しいと思われたのだろう。五十川基は、四月二十二日に早打駕籠で福山を発った。
集議院は五月に開院されたものの、議員は自藩の利益にこだわり、旧習に拘泥して藩政改革の議論が進展しない。これに業を煮やした大参事は、基君と昼夜の別なく想を練り、改革の指針をまとめて参議広沢真臣に上程した。内閣はその斬新さに感心し、さらに太政大臣三条実美に上申した。
その内容は、かねがね五十川基君が主張していたものだ。
その要点は、
「今のように士が禄をいただき遊惰・放逸・虚威を張り、農工商は賤屈して従う。それでは、双方とも人たる所以を尽くせない。士農工商の区界を破り、人間本来の『自由自主天理当然ノ権』を発揮できるようにするのが政治の務めだ。そのためには、士の俸禄は廃止すべきだ。そして人が智力を養うために、教育が大切だ。普く教育を施すためには、難解な漢文体を止めて、英語がアルファベット二十六文字で成り立っているように、仮名四十八文字を用いて誰もが読める文章にするべきだ。」
この上申書は、太政大臣三条実美から高く評価された。岡田大参事は二度も太政大臣の私邸に召され、お褒めの言葉を賜り、この姿勢で藩政改革に邁進するよう励まされた。その後の岡田大参事の集議院での活躍は想像に難くない。
集議院はようやく『藩制』を決議し、九月十日に太政官布告となった。その布告により、藩債について
『・・・支消年限之目途ヲ立・・・可償却事』
そして藩札について
『藩造之紙幣 向後 引替済之目的ヲ可相立事』
各藩は、藩債償還や藩札回収の計画を立てて、実行しなければならなくなった。
昔は譜代でも、今は外様同然。その福山藩がようやく政府に認められたと、岡田大参事は意気揚々と帰藩された。
そして藩政改革を実行に移すため、十一月に人事を一新された。 民事局の河村少参事が文武校へ、入れ替わりに文武校の浜野少参事が民事局へ。
浜野少参事は、五軒屋から銀札の版木を取り戻した当事者だ。責任を取ってやれということか。河村少参事は儒者で、文武に優れておられる。いずれも適任と思われた。
岡田大参事は、職員を集めて申された。
藩政改革は・・・万機公論の御世だ。藩庁だけで考える時代ではない。御政教の基本として上下同権同力を旨とし、広く藩民の力を結集する。そのため藩の出納を公開して公明正大に計画を立て、公議局下局に諮って実行する。
報国両替会社
明治四年。
新年早々の民事局の会議で、浜野少参事が顔を強張らせて口火を切った。
「もはや、猶予はありません! 今年こそは、しっかりとした藩札回収策を打ち出さなければなりません」
岡田大参事の熱意を感じ、前向きな発言が出るようになった。
「前回のように、一度切りの両替では効果がありません。元の木阿弥です。全額回収を目標に、両替が何年も継続されることで始めて信頼されます」
「藩札六十万両の回収を、何年掛けても遣り切る」
「そう、例えば年間四万両として十五年」
「こうなれば、藩を挙げて・・・」
「藩も資金を用意しなければなりません。藩主にもお願いして・・・」
「会社も大々的なものに・・・藩札の値が上がれば、誰もが利益を得ます。藩内広く出資をお願いして」
「そう、『衆力ヲ集メ公益ヲ興ス』・・・多くの方に出資を仰ぎ、藩の力を結集して」
「そのためには、藩内に広く周旋方を組織して出資者を募ります」
「どうでしょう。藩の浮沈を賭けた大難事。今こそお国の御恩に報いる時です。報国のため私心を捨てて」
「そうだ、報国だ・・・会社も『報国両替会社』と名乗ろう!」
藩を挙げての大事業だ。藩が直接、携わる。藩の札座を両替座として執務を行う。
そして、二度と藩札の増し摺りができないよう、藩札の版木をきっぱりと焼却処分する。
目標の出資金を集めるため郡市ごとに金額を割り当て、その人相応にお願いする。そして、御出資いただいた金額により出資者を七等に分ける。
一等 三千両以上
二等 千両以上
三等 五百両以上
四等 二百五拾両以上
五等 百両以上
六等 五拾両以上
七等 五両以上
なお、五等以上の出資者と周旋方は、御影を両替座へ飾って顕彰する。
大坂の藩御用達の商人にも別途、出資をお願いする。
その人相応の協力をいただけない方には、何らかの処置をする。
「前回のように予め交換比率を決めると、両替が殺到して早い者勝ちになります。今度は、日々の相場で両替します」
「日々の相場といっても決め兼ねます。その都度、役員の合議で公明正大に交換比率を決めます」
それでも、実施に至るまで月日を要した。
明治四年も二月中旬。
私は、細川貫一郎君のところへ印刷した啓蒙所の規則を届ける約束をしていたが、約束の日に行けなかった。岡田大参事との話が長くなり、翌日も杉山権少参事と夜更けまで話し合ったため御城下に泊まり、翌朝は疲れ切って我が家へ帰った。次の日は神辺辺りへ出向き、また次の日は御城下へと、啓蒙所のことや報国両替会社のことで東奔西走・・・そんな慌ただしい日々を過ごしていた。そしてようやく、貫一郎君の宅へ行った。彼も藩札の件で気を揉んでいた。
「時間が掛かりますね」
「そう。時間が掛かる。今度ばかりは藩も本気だ。藩内隈なく御参加いただきたい。それも、よくよく御理解いただいた上で。それが大参事の御方針だ」
貫一郎君の奥さんがお茶を持ってきた。いつものように話に入ろうとする細君を止めて、貫一郎君が、
「具体的には?」
「まずは、『報国両替会社』を設立する。出資金は、藩が三分の一、藩内の出資者と大坂商人で残りの三分の二・・・」
構想の粗方を説明した。
しかし、町場の両替商辺りから計画を危ぶむ声があった・・・相場は魔物だ。簡単に操れるものではない。終には破敗に及ぶだろう。
そのようなことを言われても、今さら後には引けない。私欲で始めるのではない。『協和ノ利益』のためにやるのだ。
その頃の私は、威勢が良かった。私が提唱した啓蒙所が軌道に乗りつつあった。岡田大参事の御威光を背に藩内を駆け廻る私に、一目も二目も置いていただいた。
報国両替会社の周旋方には、手分けして庄屋や商人へ漏らさず呼びかけた。これにも、蒼々たるお歴々に御参加をいただいた。周旋方は郡市から総勢七十九名。その中から有力者に社長や副社長の就任をお願いした。社長が六名、副社長が十七名という大所帯の会社になった。社長や副社長が多いのは、有力者に優劣を付け難いという理由もあったが、それによって責任のある方が交代で両替座に詰めて日々の相場を見極め、公明正大に運営していただくことを願ってのものだ。
そしてようやく四月に、会社設立の総会が開かれた。またも私が、会社趣意書と会社算勘見込書の原案を作成して説明に立った。そして六月から両替業務を開始した。その効果だろうか、藩札は幾分か値を持ち直し、一両が百五十匁位になった。
しかしその陰には、出資に応じなかったため取引から締め出された商人もいた。
小物成
報国両替会社のことでお会いした商人の声だ。
天札で出資しようにも、天札そのものが藩内に少ない。輸出を活発にして、他藩から天札を取り込まなければならない。しかし、旧来の雑多な税が経済活動の障害になっている。有名無実となった税や不条理な決りがある。経済活動が雁字搦めの制約を受けて、新しい産業を興せない。
例えば、商売を始めるには、業界の仲間に入らなければならない。仲間に入れていただくために、礼金や冥加金が要る。そして、品物それぞれに取り締りがあり、藩に役金や運上金を払う。
なるほど・・・どのような税があるか、民事局へ調査をお願いした。
よくもこんなにいろいろと・・・
年貢だけでは収入に限度がある。藩は、何かと名目をつけて税を課した。これらの税を総称して、「小物成」と言う。
枇杷の実の収穫に対して枇杷役
紙の材料となる楮に対して楮役
お茶には茶役
池の土手の萱を刈れば萱運上
繭の真綿を売れば真綿役
山で雉子を獲るため網を張れば雉子運上
鞆の港に碇を降ろすには碇役
そのほか、寺役、郡令帳紙代、郡中大割金、領分収納米入用、藍瓶役米など、細々とした税がある。
そして、業界仲間に入れていただく時の冥加金や礼金に、
茶座礼金
魚問屋礼金
密柑琉球芋礼金
藍玉問屋礼金
銘酒礼金
錨の製造に鞆役目錨
船持冥加金
船道具直座礼金
船には川を浚渫するための川掘金
また、制度が複雑で流通の妨げになっているものに、
薪を運ぶ船に帆別運上
鉄問屋に鉄運上
干鰯や塩鰯を輸入する際の干鰯塩鰯運上
俵綿に綿切手礼金
茶を輸入する際の茶運上
藍玉を輸入する際の藍玉運上
畳表を売買する際の畳表運上
綿類を積み出す際の綿類運上
煙草を売買する際の煙草運上
塩を輸入する際の塩運上
雑穀を輸入する際の雑穀運上
油を輸入する際の油運上
鍛冶屋用の炭を売るときは必ず問屋を通して納める鍛冶炭運上
経済活動の規制となるこれらの複雑な税は取っ払って、誰もが自由に商売ができるように・・・
そうだ、福沢諭吉先生の『西洋事情』にあった。
英国は『収税ノ法ノ簡便ナルコト』、『国内ノ産物ヨリ尽ク運上ヲ取ルニ非ス。又物ニ由テ運上ノ軽重アリ。有税品ノ大略ハ、酒類、麹、煙草・・・』、だから徴税の経費も少なくて済む。
我が藩もこれに倣って、単純かつ統一的な税制にすべきだ。
案をまとめた。
物品を区分けして一定の税率を課す。
具体的には、輸出について、
(一)五分の税を課す物・・・藺類、生綿、屑生綿、酒、綿実、竹木、米麦、炭、千徳、塩菰及び塩莚
(二)三分五厘の税を課す物・・・雑穀、操綿、端操綿、中操綿
(三)三分の税を課す物・・・甚気綿、煙草、葉藍
(四)二分五厘の税を課す物・・・綛糸
(五)二分の税を課す物・・・干鰯、畳表、編笠、木綿、刻煙草、
塩、古手丸、藍玉、醤油、酢、油、鋳物類、鱈、生魚干魚、塩魚、菎蒻玉、帆木綿
次に、輸入について、
(一)五分の税を課す物・・・砂糖、呉服物、小間物
(二)二分の税を課す物・・・塩、唐津物、塗物類、材木類、
金物類、茶、油、藍玉、葉藍、密柑、蠣
(三)無税の物・・・米麦雑穀、干鰯、塩鰯、薪、鉄、銑鉄
船については、川船、海船とも積高百石に付き年間一両を課す。
以上のことをしたためて、藩に建言した。
<ご参考>
・参考史料
福沢諭吉著「西洋事情」Digital Gallery of Rare Books & Special Collections デジタルで読む福沢諭吉(慶応義塾大学メディアセンター)
福山藩大参事岡田吉顕の「藩治本論」(「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県・国会図書館蔵)
「岡田吉顕之伝」岡田純次郎編輯・発行
「藩制」 Wikisource藩制
報国両替会社の趣意書および勘定書(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社)
窪田次郎より細川貫一郎あて書簡「細川貫一郎様 御直披」(同)
「雑税廃止および輸出入税附加の建言」(同)
・参考文献
藤井正夫著「新涯開発百年及び資料編(四)旧福山藩財政始末」発行門田武雄
藤井正夫著「備後福山社会経済史」児島書店
山本有造著「両から円へー幕末・明治前期貨幣問題研究(備後福山藩の藩札整理と円の普及)」ミネルヴァ書房
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
大森徹著「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」日本銀行金融研究所「金融研究」2001.9
富田俊基著「明治維新期の財政と国債」野村総合研究所発行「知的資産創造」2005.1
「広島県史・近代1」編集発行広島県
「福山市史・中巻・下巻」福山市史編纂会
「新市町史・通史編」
「誠之館百三十年史・上巻」福山誠之館同窓会
・登場人物
広沢真臣・・・・・Wikipedia広沢真臣
三条実美・・・・・Wikipedia三条実美
・参考ホームページ
公議所・・・・・Wikipedia公議所
集議院・・・・古屋哲夫著「帝国議会の成立ー成立過程と制度の概要ー」(明治初年の議事制度ー公事所と集議員)
藍玉・・・・Wikipedia藍玉
銑鉄・・・・Wikipedia銑鉄