「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第二章 報国両替会社 その1
第二章 報国両替会社
藩庁顧問
時はまた、明治三年に戻る。
その年の春、私は思いもかけず、藩から権大属の官位と非常勤の藩庁顧問の職を賜った。藩士でもないのに異例のことだ。
そのきっかけは、藩に提出した献言書だった。
幕末の動乱、そして維新。なお続く戦い。まさに激動の世の中。藩の行く末を思うと心配なことばかりだ。特に昨年の冷害は酷かった。六月から長雨が続き、作物に実が入らず、河川は氾濫し、田畑が流出した。そのため冬には食べる物がなく、民は飢餓に喘いだ。
医院は、痩せこけて風邪を拗らせた患者で溢れた。村内の貧血病の患者だけで百六十七人もあった。父は病の身を押して長老の粟根東右衛門さんと話し合い、粥の炊き出しをした。私はその年の暮れに、恩師の江木鰐水先生の甥で、藩の公議局下局議長の五十川基君を頼り、権大参事三浦義建殿へ救荒を上陳した。有り難いことに正桓公には官員を派遣して処々に釜を築き、粥の炊き出しをしていただいた。そして各村へ救恤粥米を賜った。
しかし、春になっても餓死者が絶えない。乞食が巷に溢れている。何とか食いつないで、秋まで凌がなければならない。
このような事態になると、政治の大切さをつくづく感じる。
この三月、箱田村の庄屋の細川貫一郎君とじっくり話し合った。そして連名で藩政改革の献言書をしたため、郡令へ提出した。表題を『叱正』とした。おこがましいことだがそれが藩に認められ、急遽、この任に登用されたのだ。
私は、母の里の縁で、備中の後月郡簗瀬村にあった阪谷朗廬先生の桜渓塾に入り、漢学を学んだ。後から細川貫一郎君が入った。私より五歳年下になる。共に親元を離れて修行の身。以来、私を兄のように慕ってくれる。
細川家と我が窪田家は、粟根村の妙永寺の檀家だ。両家の先祖の位牌が、寺の御本尊様のお側に祀ってある。そんなこともあって、貫一郎君はお寺のお参りやお世話で粟根村に来る度に我が家に立ち寄る。そして、世の動きや藩のことなどを気軽に話し、時には熱を込めて議論する。特に前年の冷害は、庄屋の貫一郎君にとっても大きな試練だった。この事態をどう乗り切るか、貫一郎君は私に悩みを打ち明けた。『叱正』をしたためたのも、そんなことが切っ掛けだった。
お堀を渡り、北御門から三の丸の藩庁へ。
事由を告げると、岡田大参事の部屋へ案内された。
大参事はどなたかと話し中だ・・・見れば、五十川基君ではないか。彼が亜米利加へ渡る半年前のことだ。大参事の厚い信頼を得て、公議局議長として活躍している。大参事は、昔で言えば家老。その岡田大参事は二十七歳。五十川議長は二十五歳。私より十歳も若い。救荒のことでお世話になった三浦義建権大参事が二十九歳だ。三浦権大参事は、長州との和睦の際に正使として交渉に当られた。今の福山藩は、若い人に支えられている。
何はともあれ、岡田大参事に救荒のお礼を述べた。そして基君の顔を見詰めていると、大参事が、
「そうか、あなた方お二人は鰐水先生のもとで・・・」
五十川基君が、
「はい、江木鰐水先生の久敬舎で一緒でした。窪田さんにはいろいろと教えていただきました」
「そうか、それは良かった・・・ところで窪田さん。藩は今、大変なところに来ています。藩士だけで考えても、どうにもなりません。窪田さんのような見識豊かな方の力をお借りしまして。五十川議長も、郡から選ばれた議員の方々のお力を借りて頑張っています」
公議局下局は、郡から選出された有力な庄屋や商人で構成されている。藩の重要な案件は、この下局で審議される。
さらに大参事は、
「何と申しましても問題は、藩財政です。正直を申しまして、身動きが取れないところに来ています。そのうえ政府は、次々と難題を申し付けてまいります。我々が音を上げるのを待っているのでしょう・・・そのような訳で窪田さん。当面、藩債や藩札の問題に手を貸していただけませんか?」
改めて礼儀を正して辞令を受け、民事局の河村重秀少参事と監事の山岡運八大属を紹介された。
明治二年の冷害
辞令交付の後で、民事局で監事の山岡運八さんから、藩札の問題について説明を受けた。
「米が足りなくて困っています。しかし、大坂へ送る米は減らせません。有り金をはたいて米を買い付けました。藩の米蔵が秋まで持ちますかどうか」
借金返済のため、米は大坂へ優先。民は餓死寸前というのに・・・
「払おうにも米がないのです。軍事局八千石や文武校三千石の支払いは銀札で。しかも月割りで。藩士の禄米も、お米に換算して銀札で」
藩士は、いただいた藩札で米を買い漁る。米の値段が上がる訳だ。
「藩札をそんなに発行して良いものですか?」
ついつい語気が荒くなった。
しかし、山岡監事は冷静だ。淡々と話す。
「本来ならばできません。藩札を発行するには、相応の金や銀の裏付けが必要です。金や銀へ交換の申し出があれば応じなければなりません。しかし、もう、そんなことは御構いなしに銀札を増し摺りしまして・・・」
福山藩の銀札は、五匁札、壱匁札、三分札、弐分札、五厘札の五種だ。
「昨年、新たに金札を発行されましたね」
「ええ、昨年の五月から・・・これは吉田豊文様の御提案によるものでして。大坂の豪商鹿島屋作兵衛に壱分札、弐朱札、壱朱札の三種の金札を発行させ、それで藩内の畳表や木綿を買い付け、大坂に送って競売に掛けます。それで獲得した天札を藩債の返済に充てることもでき、藩は大いに助かります」
「なるほど。上手い手ですね」
「いや。これはどこの藩もやっていることです、殖産のため」
「殖産?」
「そうです。輸出を増やして金銀や天札を獲得するのです」
「なるほど・・・しかしそれで、発行した金札はどうなります? 金札が巷に溢れるでしょう?」
「そうです・・・品物を売った儲けで金札を回収する予定だったのですが、それもせずに。ところが困ったことに、新政府は昨年の十二月になって、維新以降の新たな藩札を禁止しました。金札には御承知のように『明治二己巳発行』とあります。早急に回収しなければなりません」
「・・・」
「さらに、従来からある藩札の増し摺りも禁止しました。政府としては、日本中を太政官発行の天札一本にしたいのです」
「・・・」
山岡監事も早口になった。
「実は、銀札にも問題がありまして」
「はあ?」
山岡監事の目を見詰めると、
「銀札は、従来、大坂商人の五軒屋に発行を委ねていました。それでは、藩が思うように発行できない。藩が直接、発行しようと、五軒屋から藩札の版木を取り戻しました。少参事の浜野章吉様のお考えです。銀札を使って塩田を開発し、大坂から帰る北前船に塩を乗せて天札を獲得すれば、銀札を回収できるとのお考えでした。それで止めておけばよかったのですが、折しも財政が逼迫してどうしようもなくなり、赤字の穴埋めに銀札を増し摺り・・・その後もずるずると増し摺りしまして」
「先ほど、藩札の増し摺りは禁止されたとおっしゃいましたよね?」
「ここのところは胸に納めていただきたいのですが、既に摺り込み済みということで、昔の版木をそのまま使用しまして」
溜息をついていると、お茶が入り、話が途切れた。
厠で用を足しながらも身震いがした。大変なことになっている。
姿勢を正して、山岡監事に問い質した。
「藩札に頼る前に、やるべきことがあったのでは?」
「ええ、それはいろいろと手を尽くしました。俸禄は、例えば四百石取りの方は四分の一の百石に。やむなくお暇をいただいた郎党も少なくありません。新涯干拓の新開社も、高給の方には俸給の半分を会社に御出資いただくとか、無駄を省こうと徹底的に調査しまして。いろいろと抵抗がありましたが、できることはすべて手を打ちました」
「・・・」
「藩内の有力者にお願いした調達金は、本来ならばお返ししなければなりません。それを献金とさせていただきました。特に額が大きい方には、苗字帯刀や袴着用、脇差御免の栄を差し上げまして。しかし一方では、昨年の洪水で決壊した堤防や水路の改修が必要になりました」
「救援米も、この秋まで必要でしょう?」
「ええ、これを疎かにすると、暴動にもなり兼ねません」
暴動にもなれば、餓死者も出る。
「昨年の凶作は異常でした。臨時の借金はできないものですか?」
「そうしたいのですが・・・既に藩は目一杯、借りていまして。年貢のうちから返すには限度があります。別に、担保になるものはありません。大坂の商人に無理を言って借金の減額をお願いしたこともありまして、思うように貸してくれません」
「・・・」
「既に幕末に、多額な借金を抱えていました。しかし、西国鎮衛の我が藩は、長州へ大挙、出陣。敗退後も、長州軍の東上に備えて兵力の増強に迫られました。維新後は、箱館をはじめ八方へ出陣を命じられました。そのため大坂商人に借れるだけ借り、藩内では何度も調達金をお願いしました。その上、昨年の冷害や水害です。為す術もなく藩札に頼りました」
「早い話が、藩札も借金と同じ。担保なしでいくらでも増し摺りできる?」
「そ、そういうことになります」
「それで今、藩札はいかほどに?」
「そうですね・・・古いものには、市中を回るうちに逸失したものもあるでしょうが。それにしましても、六十万両は下らないと思われます」
箱田村の貫一郎君
藩の財政は大変なことになっている。
粟根に向かってとぼとぼと歩いた。このまま重い荷を背負って我が家へ帰るのもいかがか。人恋しい。しかし、誰彼と話すこともできない。そうだ、一緒に『叱正』をしたためた、箱田村の細川貫一郎君の所へ寄ってみよう。少し回り道になるが・・・
庄屋の細川家は、山を背にした大きな屋敷だ。庭には太い松や樅の木が幾本も立ち並ぶ。
阪谷朗廬先生の桜渓塾で、貫一郎君は優秀な生徒だった。本人はさらに遊学を希望したが、その頃、彼の父親が亡くなり、母親に説得されて仕方なく庄屋の跡を継いだ。この大きな屋敷を見れば無理からぬことと思う。
貫一郎君は昼寝の後か、寝ぼけ眼で出てきた。
威勢がよいのは細君だ。いつもの大きな声で、
「いらっしゃい。窪田さん。どうぞ、どうぞ! 上がって、上がって!」
「突然、ごめんな。昼寝の最中に」
「いやあ、まあ。書類を見ていたのですが。つい、うとうとと」
「本日、権大属と藩庁顧問を拝命した。その帰りだ。ちょっと寄ってみた」
「それは、それは、おめでとうございます」
果たしておめでたいかどうか。いきなり堅い話をするのも気が引けて躊躇していると、細君が赤いガラスの筒を持って来た。
「御苦労様。これ、元気が付きますよ」
私を見ながら、
「類ちゃん、可愛いでしょう!」
自然と顔がほころび、細君と目が合った。
「窪田さん、なんか元気がないですね。無理しないでくださいよ」
「・・・」
「ねえ、お父さん、今度のお寺参り。粟根へ連れてってくださいよ」
貫一郎君も元気がない。
「そうそう、お父さんが寝ていらっしゃる間に、下の小太郎さんが参られまして。はい、はい、よく伝えておきます、と言ったのですけど」
「どうせ小作料のことだろう。秋の坪刈が終わらないと、何も言えないのに」
ため息混じりに言った。庄屋の仕事も楽ではないか。
貫一郎君が言っていた。
福山藩の庄屋は楽でない。福山藩の年貢は他藩に比べて高い。なぜかというと、元禄の検地の直前に藩主水野氏が改易になり、領地が幕府に没収されたので、幕府の指揮下で岡山藩が検地を実施した。そのような事情で検地が厳格に行われ、年貢が高くなった。そのため特に飢饉の時は苦しく、一揆が頻発した。中でも天明の一揆は激しかった。昨年の凶作も苦しく、今もってごたごたしている。
それにしては、庄屋の田畑がどんどん増えている。細川家も大した構えだ。
「ところで、窪田さん。藩の方はどうでした?」
「それがだ。大変なことになっている、藩札が!」
「そうでしょう。我々もはたはた困っていますよ。もう、紙切れ同然です。しかし、藩札を受け取らない訳にも行かず」
「・・・」
「買い物は米で。宿をとるにも米持参・・・酷い話だが、銀札では薬を売ってくれなくて。馴染みの客を探してやっと売ってもらったとか」
「けしからん。薬司ともあろうものが」
「齷齪しても、銀札が貯まるだけで」
「金銀に替えれば?」
「そうしたいものです。しかし、それでは困るのです。手にした金銀を仕舞い込む・・・それでは、死に金になってしまいます」
干鰯を買いたくとも、金銀が足りなくて買えないと言う。
「干鰯は稲によく効くのですが、また上がった、また上がったで、商人の言い成りです」
そうか。干鰯があればもっと収量が上がるのだ。
「藩札はまったくの嫌われ者です。藩の面目もあったものではありません」
「うーん。どうしたものだろう?」
「冷害の痛手から立ち直れません。農家は種籾も食い潰して。今年の分は何とか融通しましたが・・・しばらく税を引き下げていただきたいものです」
民事局会議
妻と娘の類に見送られて、朝靄の加茂谷を下る。
医療鞄を持たない手ぶらの下り道。思わず手を振り、足早に。
「若先生、お早うございます」
「お早うございます」
早朝の畔の草刈りに精が出る。天気はまずまず。今年こそは、豊作であって欲しいものだ。
途中で、幸太郎君の家の横を通る。幸太郎君は、納屋の前で真新しい犂を見ていた。
「やあ、新品だね」
「そうなのです。子牛の代りです」
昨日、幸太郎君は博労さんや親父さんに連れられて神辺の牛市に行った。彼が可愛がって育てた子牛を市に出したのだ。
「犂は来年の春まで要らないのですが、どうせ買うなら買っておいた方がよいと。楮札を持っていると損をする。そんなものですかね?」
楮札とは、旨いことを言う。楮紙に摺った銀札のことだ。銀札とは名ばかり。問題の真髄を衝いている。
「そうだね」
私は、首を縦に振るほかなかった。
三の丸の藩庁に着くと、会議室に通された。
会議室には、少参事の河村重秀さん、監事の山岡運八さん、そして今日は、過去に藩札の仕事に携わった浜野章吉さんと吉田豊文さんが臨時にお見えになった。
河村少参事が挨拶かたがた、経緯を話された。
「藩札の問題は、もはや放置できません。先般も、公議局で取り上げられ、お叱りを受けました。しかし、大金が要ることでございまして、どうしたものか思案に暮れているところでございます。今日は、先輩の方々にも御足労いただきました。皆さんの忌憚のない御意見を頂戴しまして、解決の糸口を探りたいと存じます」
すると、開口一番、現在は文武校総督の浜野章吉さんが、
「無闇矢鱈に銀札を増し摺りして、何たることか。塩田のこと以外に使ってこの有様だ。版木の管理は誰がしている?」
浜野総督は四十五歳。事態は重々解かっておられるはずだ。誰もが総督の顔を見詰めた。
河村少参事が、
「誠に申し訳ありません」
次の言葉が出ない。
今度は吉田豊文さんが、
「昨年発行した金札は、早く回収しなければ。政府に知れたら、只では済みません!」
追い打ちを掛けるように浜野総督が、
「藩札に頼る前に、やるべきことがあるだろう!」
口ごもる河村少参事に堪り兼ねて、山岡監事が、
「ええ、それはもう・・・御承知のように、藩を挙げて冗費の節減に取り組み、俸禄も大幅に削減されました」
「それは、分かっている!」
さらに続けて、山岡監事が、
「何分にも、不作で歳入が落ち込み、一方では救援米が必要となり、災害復旧のため土木工事費も膨らみまして・・・背に腹は替えられず」
「それも分かっている!」
沈黙が流れた。
誰もが分かっている。お金が足りず、否応なくやってきたことだ。
「ここに至って、もはや打つ手がございません。藩を返上して解散した国もあるやに聞きますが」
「滅相も無いことを言うものではない!」
「長年の御恩を何と心得るか!」
「藩がなくなったら最後。我々藩士はたちまち浪人だ」
藩士のために藩があるのではないぞと思っていると、河村少参事が私に、
「窪田さん。この度から新たに加わっていただきました。窪田さんはどう思われます?」
私は、炊き出しをしてつくづく感じた。なけなしの収穫を年貢に取られる。食べるものもなく、種籾に手を付ける。もはや、来年のことを考えられないのだ。貫一郎君も言っていた。
「この度の凶作は異常です。農民はまったく疲弊して希望を失っています。しばらくの間、税を軽減して農民のやる気を起す必要があります」
税収が減る私の話は、聞き流された。農民が潰れたら藩の再建は有り得ないと思ったが、新参の私はそれ以上のことを言えなかった。
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<ご参考>
・参考史料
「粟根村農民費用表」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社)
「郡令ニ奉る書・叱正」(同)
・参考文献
藤井正夫著「新涯開発百年及び資料編(四)旧福山藩財政始末」発行門田武雄
藤井正夫著「備後福山社会経済史」児島書店
山本有造著「両から円へー幕末・明治前期貨幣問題研究(備後福山藩の藩札整理と円の普及)」ミネルヴァ書房
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
大森徹著「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」日本銀行金融研究所「金融研究」2001.9
富田俊基著「明治維新期の財政と国債」野村総合研究所発行「知的資産創造」2005.1
「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県
「広島県史・近代1」編集発行広島県
「福山市史・中巻・下巻」福山市史編纂会
・参考ホームページ
福山藩・・・・・備後国 福山藩 家老 備後国 福山藩 庄屋
藩札・・・・「紙幣の関係法令」
・登場人物
吉田豊文 誠之館人物誌「吉田豊文」(誠之館同窓会)
阪谷朗廬 井原市の偉人「阪谷朗廬」(井原市) 岡山人物往来「阪谷朗廬」(岡山県立図書館) Wikipedia阪谷朗廬
・舞台となった場所の今日
桜渓塾
備中の国後月郡簗瀬村
(現在の井原市芳井町簗瀬)
当時のまま保存され、桜渓塾跡公園となっている
ちょうど桜が満開
家の裏には阪谷朗廬の顕彰碑
朗廬の実家の与井とも近い
吉津橋
北から福山城下への入口になる
吉津川が城の北側の堀の役割を果たす
橋を渡った所(南詰)に、番所があった
橋を渡ると直ぐに突き当たる
左に折れ、右に折れてお城に向かう
防備上から意図的に作られた城下特有の町づくり
福山城 北門跡
この門から三の丸へ入る
城から言えば、東側になる
北側の山陽道や神辺に通じる門のため
「北門」というようになったと思われる
前方に福山城
駐車場の中(赤白のポールの下)に石垣が見える。
三の丸の石垣で、手前は堀だった。
右のビルがある辺りから右(北)に藩庁があった。
左は新幹線と山陽本線の福山駅
天守閣から北を望む
この小高い山の向こう側を山陽道が東西に延びる
神辺宿へは右側の千田大峠を越える(神辺街道)
窪田次郎が粟根から城下へ行き来するには、
左側の峠を越えて横尾へ出るのが近い(銀山道)
遥か遠方に連なる山の中に、加茂谷がある