「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
    第一章 啓蒙所  その5


       勘三君とトメさん

 その年の七月に廃藩置県となった。藩札処理の問題に携わっていた私は、大蔵省へ折衝のため岡田大参事に随行して上京した。そしてそのまま半年余り東京に滞在し、翌明治五年三月に帰郷した。

 

啓蒙所が発足してちょうど一年になる。

東京から帰った夜のことだ。お茶を飲みながら、妻から留守中の家族や村のことを聞いた。

「実は、勘三君とトメさんが・・・」

「そうだろう」

「御存知だったのですか?」

「勘三君が、たった一つの字が読めないと()きに来た。(ひる)日中(ひなか)

「東京にいらっしゃる間、ここにトメさんがいなくて寂しそうでした」

「そうか」

「トメさんも時々、遊びに来て。まんざらでもない様子ですの」

「そうか」

「それが、両家とも反対で困っていますの」

「そうか」

「トメさんの方では、次男坊のところにやりたくない。嫁の口がたくさんあるそうで」

「そうか」

「勘三さんの方も、読み書きができて(かしこ)いので、婿(むこ)の話があるとか

「そうか」

「二人が一緒になっても、第一、住む所がないでしょう」

「そうだな・・・」

 

翌朝、勘三君の大きな声で、目が覚めた。

 啓蒙所は、申し合せ通り、我が家の薬草小屋を改造して移転した。生徒も増えた。他の村から見学があると、勘三君は張り切っている。

「おはようございます」

 間もなく教室は子ども達で一杯になった。一緒に暗唱する元気な声が、屋敷中に響き渡る。

三一(さんいち)が三 三二(さんに)が六 三三(さざん)が九 三四(さんし)十二 三五(さんご)十五 三六(さぶろく)十八 

三七(さんひち)二十一 三八(さんぱ)二十四 三九(さんく)二十七・・・」

 

 啓蒙所はお昼まで。医院も、久し振りの診察が終わった。

トメさんと診察室の後片付けをしていると、勘三君が診察室を覗いた。

「若先生、子ども達に東京の話をしてもらえませんか」

 東京の話を聞く子ども達の目は輝いていた。その後もせがまれて、何度も話してやった。

 

 東京から帰って半月余り経ち、やっと落ち着いた。

東京疲れか、春の所為(せい)か、ぼんやりとして何をする気しない。

 啓蒙所に入り、壁にもたれて子ども達の作品を見ていた。

 そこへ、勘三君がやって来た。

「どうした、忘れ物か?」

「ええ、ちょっと」

「ああ、ちょうど良い。勘三君!」

「はい」

「あのな、勘三君。思い切って聞いてみるが、トメさんのことはどう思っているのだ?」

「はい」

「はい、とは?」

「はい」

「世帯を持ちたいということか?」

「はい」

「それで?」

「はい」

 いつもテキパキと言う勘三君が、はい、としか言わない。

「まあ、ここに座れ・・・どちらの親も反対と聞いたが?」

「はい」

「私の方から、両家に話してみようか?」

「はい・・・はい、お願いします」

 

 妻と相談した。

「勘三君はその気だよ。トメさんはどうなのだろうね」

「トメさんもきっと・・・昨日も二人は、戸口のところで・・・」

「戸口のところで?」

「話していただけですよ」

 

 先に勘三君の親を訪ねた。

「三男坊が嫁を(もら)っても・・・」

 自作農だが余分の財産はない、山も田畑(でんばた)も分けてやれないと言う。

「啓蒙所は、村で力を合わせて守ります。トメさんの給金もあることですし」

 俸給で生活するのは、粟根村では初めてのことだ。不安に思うのも無理はない。給米のことで教師に迷惑を掛けないよう、啓蒙社で申し合わせていると話した。

 

 トメさんの親を訪ねた。

 嫁の話がいくつも来ていると言う。

診療所でトメさんに親切にしてもらった。優しい娘だ。村の内外で評判になっている。

「トメが若先生にお世話になっているので申し訳ないが、二人だけの好き合いだけで事を決めてくれても困る」

 困る、困るの連発だ。

田畑や山がすべて。それを少しでも増やせば、生活が安定する。百姓の常識だ。田も畑もない、小作地もない、そんな者が生きて行けるか。

果たして、啓蒙所で食って行けるか。啓蒙所がいつまで続くものやら。凶作で米を出せないとなれば、たちまち食い(はぐ)れる。親の身になってみれば、もっともなことだ。

 そのうち、嫁の話があるという家はどこか分かった。一山(ひとやま)向こうの村のお婆さんが治療に来て、トメさんに迫っていた。これは手強(てごわ)

 

 思い切って、トメさんに聞いた。

 トメさんは、勘三君と一緒になりたいと言う。よしよし・・・。

その後も何度か、トメさんの親を訪ねた。親がトメさんに、一山向こうの村の嫁の話をしたら、トメさんは泣いて断ったそうだ。どうしたものか、村総代の藤井平太さんに相談した。

 平太さんからも、トメさんの親に話していただいた。二人のために、平太さんの家の離れを貸してもよいとのこと。ほどなく平太さんから、トメさんの親が了解したとの知らせがあった。二人でやって行けない時には、平太さんがなんとかすると言っていただいたそうだ。

そのようなことで、仲人(なこうど)は平太さんにお願いすることになった。早いほうが良い。早速、結納(ゆいのう)をして、稲刈りまでに結婚式を挙げる。

 

その勘三君が言うに、自分が東京にいた今年の正月二十六日に、啓蒙所の師匠が集まって話し合いがあったそうだ。そして、年々の出米について、有志のほか、各戸が持高一石につき五合以上を出してもらうことになったとか。

それは良いことに違いない。出米をしていない家の子が、気兼ねをしなくて済む。しかしそれでは、税と同じことになる。有志の出米で営む啓蒙社の趣旨にそぐわない。私がいたら反対したかもしれない。

 

    『学問のすゝめ』

ところで私は、東京に滞在した約半年の間、再々、日本橋品川町裏河岸の丸善へ行った。

店主は丸屋善七だが、本名は早矢仕(はやし)有的(ゆうてき)。緒方洪庵先生の師の坪井信道先生と同じ美濃の出身で、早仕有的も坪井先生に蘭医学を教わったと聞く。さらに彼は福沢諭吉先生のもとで英語を学んだことから、慶應義塾の出版物を販売する。洋書をたくさん置いている。店主自身が医者だから、医関係の書籍が多いのも有り難い

 

その丸善に、出版間もない『学問のすゝめ』があった。福沢諭吉先生の著作だ。今日も来たかと、店員は迷惑そうな顔をしたが、立ち読みで一気に読んだ。

『天ハ人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云へり』

さすが、緒方洪庵先生の門下生。洪庵先生が『()()医戒之略でおっしゃっていることと同じだ。患者も、人間も上下はないということだ。

そしてこれは、五十川基(いかがわもとい)君が言っていることとも同じではないか・・・士農工商は人を駄目にする。藩士は身分に安住して虚勢を張り、下々は屈従して命じられるまま。それでは双方とも、人たる所以(ゆえん)を尽くせない。士農工商の垣根を取っ払らい、誰もが人間本来の『自由自主天理当然ノ権』を発揮する。そのような社会にするのが政治の役目だ。

その五十川は今、ニューヨークの学校で素晴らしい成績を修めているという話だ。

 

もちろん、『学問のすゝめ』を買い求めた。その頃の私に、銀三(もんめ)は痛かった。行李(こうり)の奥に入れて大事(だいじ)に持ち帰った。

帰ると、勘三君に見せた。勘三君は例の如く大き目に書き写して、啓蒙所で読み聞かせた。

そうだ、たくさん欲しい。印刷して、他の啓蒙所でも使おう。

 『学問のすゝめ』の末尾に、次の内容の端書(はしがき)がある。

「著者の福沢諭吉は、故郷の中津(なかつ)に学校が開かれると聞いて、学問の意義を書き留めて送った。それが『学問のすゝめ』の元だ。するとある人が、中津だけではもったいない、広く世の人に読んでもらえば・・・というので、慶應義塾で活版刷りにした。」

この本は、できるだけ多くの人に読んでもらうべきだ。それが福沢先生のお気持ちだ。大きな字で印刷して、啓蒙所へ配った。

 

 それがどこでどう伝わったのか。福沢先生が激怒されたそうで、著作権の侵害だと法廷に持ち込む勢い。その頃、慶應義塾で学んでいた福山の出身者が心配して、小田県に知らせてくれた。

小田県とは、廃藩置県後にできた県だ。備後と備中にまたがり、県庁を備中の小田郡笠岡村に置く。

 驚いた小田県は、たまたま上京中の学務課長の杉山新十郎さんへ連絡した。杉山課長は、福山藩の時代の学校掛の力量を見込まれ、四月に小田県に任用された。そしてちょうどその頃、教師採用の件で文部省に出向いていた。杉山課長は県から連絡を受けて、慶應義塾へ何度も足を運び、福沢諭吉先生にお()た。

 

杉山さんは研究熱心な方だ。明治二年に発行された福沢諭吉先生の『世界国尽(せかいくにづくし)』を精読して間違いが三点あることに気付き、福沢先生に書簡で知らせた。福沢先生は間違いを認め、第二刷で修正した。そして杉山さんのところへ、礼状と『世界国尽』第二刷を送ってこられたそうだ。

杉山課長が、福沢先生に会ってそのことを話すと、

「ああ、あなたが杉山新十郎さんですか。その節はありがとうございました・・・しかし、あれとこれと話は別です。あなた方は、著作権があることを知らないのですか?」

福沢先生の怒りは収まらない。既に東京府へ訴えたと言って取り付く島がなかったそうだ。

 

その頃の小田県の権令(ごんれい)は、矢野光(やのみつ)(よし)殿だ。そして、矢野権令の御長男の矢野文雄さんが、慶應義塾の助教授だった。恐らく父親の権令に頼まれて、矢野助教授に御尽力いただいたのだろう。福沢先生に啓蒙所のことを御理解いただき、三百部の印刷が認められた。

その上、福沢先生は啓蒙所の取り組みに感心し、土産(みやげ)学問のすゝめ百部を寄贈していただいた。啓蒙所は『天下に先立ち 天晴の功名を挙げたり』と繰り返し賞賛されたそうだ。

 

      心算茫然

小田県から出張の杉山課長が、文部省で英語教師の招聘(しょうへい)をお願いしていると、

「杉山さん。小田県ですよね。県下に学校が。確か啓蒙所という名の・・・今、どうなっています?」

 文部省の係官が唐突(とうとつ)に質問する。

啓蒙所のことをなぜ知っているか尋ねると、佐沢太郎君から聞いたと言ったそうだ。実は、太郎君は廃藩置県で誠之館を失職したが、今年になって文部省に採用され、編輯(へんしゅう)寮に勤めていた。

「ああ、ちょうど良かった。ここに啓蒙所の資料が一式ありますよ」

その時、福沢諭吉先生に見てもらった啓蒙社大意や啓蒙所の名簿、教員や生徒の数などの謄写(とうしゃ)持ち合わせていた

「わあ、沢山の学校が。村に一校ずつですね。これはすごい。すごいことですよ!」

 その場に居合わせた文部省の係官が資料を取り囲んだ。

「杉山さん。この資料を二、三日、お貸しいただけませんか?」

そしてさらに三日後、杉山課長が泊まっている旅館へ文部省の係官がやって来て、借りた資料はそのまま文部省で貰い受けたい、文部省のお偉方(えらがた)が啓蒙所に感心していると言ったそうだ。

杉山課長からその話を聞いた時には、誇らしくもあり、国のために役立ったと嬉しく思った。

 

それから間もない、明治五年八月三日に『学制』が公布され、全国に小学校が整備されることになった。

それは、二年前に誠之館を訪ねた時に、佐沢太郎教授から聞いた仏国の学制に似ている。政府が指導して全国の村々に小学校を設立し、すべての子どもに教育を受けさせるというものだ。

この文部省の方針に基づき、各県が小学校設置の準備に取り掛かった。

ところが小田県では、既に啓蒙所が発足している。その年の十月に、矢野県令の『今ヨリ啓蒙所ヲ(ただ)チニ小学校ト見ナシ・・・』の告諭ひとつで啓蒙所は小学校となり、県の管轄下に置かれることになった。

その時の県内の啓蒙所 八十三所  生徒 五千九十五人

        貯蓄積立金 合計 三万四千四百六十三円余り

 

 啓蒙所は、それぞれ頑張っていた。

教師は教え方を工夫し、子ども達の学習意欲を高め、好成績を上げる啓蒙所があった。親や町や村の声を聴き、町場では商いのこと、農山村では稲作や特産のことなどを学習に取り入れ、後継者作りの一役を担っていた。そうした啓蒙所は生徒が増え、村の出米も楽に集まる。

 

第三章でお話しますが、私が東京に滞在中に、『西洋聞見録』の著者の村田文夫先生や文部省編輯寮に就職した佐沢太郎君から欧米の教育のことを聞いて思った。

・・・学校は、単に読み書き計算を教えるだけではなく、新しい理論や技術を教え、世界に視野を持ち、世界に通用する人を育てる。

私なりに、啓蒙所の将来を思い描いていた。いきなりの小学校転換は、私から啓蒙所を取り上げられたようで、『心算(しんざん)茫然(ぼうぜん)』たるものがあった

経費の負担を戸別一律年二十五銭というのもいかがか。これでは税と同じで、貧しい者に負担だ。

 

後に杉山新十郎さんから聞いた話によると、翌明治六年に文部省から視察があって、係官が『啓蒙所には、文部省も(いささ)か先手を打たれたる感あり』と言ったそうだ

 全国的には、この時から小学校設立の準備に入った。実際に小学校が創設されるのは、二、三年後の明治七年から八年にかけてだった。



      兵役 

いつものように啓蒙所が引けると、勘三君が報告に来た。

「最近、五郎君が来ないのです・・・」

「ああ、あの大きな子?」

 五郎君は、身体(からだ)が大きくて活発だ。年上の子と喧嘩(けんか)しても引けを取らない。

「お盆に、若連中と一緒のところを見ました。家を訪ねたのですが、奥に引っ込んで、出てきません」

 若連中に引きずり込まれたのだろうか、勉強を嫌がってはいなかったと言う。

 

 五郎君の家を訪ねて、父親に話した。

夜になると仲間が誘いに来て、夜半に帰ってくる。朝は眠気(ねむけ)(まなこ)でぼっとしているが、なんとか仕事を手伝ってくれると言う。父親に頼んで、五郎君を呼んでもらった。

「五郎君、どうしている。また大きくなったね。啓蒙所はどう? 先生や友達が待っているよ」

 五郎君は、下を向いたまま黙っている。肩へ手を掛けようとしたら、後ずさりした。

「勉強は(きら)いかい?」

 わずかに首を横に振る。父親が、

「はっきりせんか。男の癖に!」

 五郎君は走って逃げた。父親は申し訳なさそうに、

図体(ずうたい)ばかり、大きくなってみませんね、若先生

 仲間から離れられないに違いない。しかしこれからも、啓蒙所を止める子が出ては困る。彼らと話してみるか。

 

 喧嘩も平気な奴らだ。躊躇したが、彼らが何をしているのか、興味もあった。彼らが集まる頃を狙って、新屋敷の作業小屋へ行った。

 軒から煙が出ている。臭いで分かる。肉を焼いているようだ。

「なんや!」

 彼らが一斉に私を見た。私も、どきっとした。

焚き火の炎に浮かぶ少年の顔は色黒で、不気味(ぶきみ)

「いやあ、こんばんは」

 じろっと見返した彼らの鋭い目が、強烈な返事をしている。

大将らしい青年が立ち上がって、

「若先生、何か御用で?」

「いやあ、君たちと少し話をしたくて」

「何をですか? 説教なら御免ですよ」

 言葉に詰まった。

「東京の土産話(みやげばなし)ですか?」

大人(おとな)の私をからかう。

見ると、白い柔らかそうな肉を焼いている。山椒魚(さんしょううお)の肉に違いない。

「ああ、そうそう。東京の博覧会に山椒魚が展示してあった。このくらいなのが」

「珍しくもない」

「いや、関東にはいないみたいだ。珍しそうに観ていた」

 積み上げた藁束(わらたば)の陰に、五郎君がいる。

「東京はすごいぞ、どんどん進んでいる」

「異人がたくさん?」

「ああ、いるいる」

「強そうか?」

「ああ、強そうだ。大きい」

 彼らは、思わず肩を強張(こわば)らせた。

「日本人は、()けるのか?」

「いや、別に食いつきはせん。同じ人間だ」

 彼らは不服そうだ。彼らには、まだまだ攘夷(じょうい)の志がみなぎっている

「長州軍はそのまま、お(かみ)の兵隊になったのか?」

「そうだろうよ・・・そうだ、日本もやがて徴兵が始まる」

「徴兵?」

「そう、徴兵だ。長州だけでなく、日本中の元気な者は百姓であろうと漁師であろうと皆、兵隊になる」

目を輝かせて聞いている。いくらか打ち解けた。

 

「ところでだ。啓蒙所のことをどう思う?」

 彼らは、再び沈黙した。一番よく(しゃべ)る青年に目配(めくば)せしたが、何も言わない。

 大将らしい青年が、面倒臭(めんどうくさ)げに、

「そのことならいいよ、若先生。わしらは別に邪魔している訳ではないから。五郎のことでしょう」

 五郎君の家に私が説得に行ったことを、ここで話したようだ。

どう言おうか、次の言葉が出ない。

「どうだ、君たちも勉強しないか?」

「勉強?」

「そう」

 青年達を見渡した。五郎君を見たが、迷惑そうに顔を(そむ)けた。

 大将らしい青年は、これ以上言うことはないといった(ふう)で、わざとらしく仲間内で話を始めた。他の者も火を(つくろ)い、ごそごそと動く。話し掛けても、まともに返事をしない。帰れと言わんばかりだ。やむなく退散した。

 作業小屋を出て数歩行くと、わっと賑やかになった。苦々(にがにが)しい奴らだ。

 

 日本も、近いうちに徴兵制が布かれる。朗廬(ろうろ)先生がおっしゃっていた。

そのとおり、明治五年十一月二十八日に『全国徴兵に関する(みことのり)が発せられ、翌年一月十日に太政官から『徴兵令が布告された。

 そのためだろうか、戸籍簿が整備されつつある。

 

 三々九度

 ある朝、トメさんが下駄を両手に医院に駆け込んだ。途中で若者に取り囲まれたと言う。勘三君も困っているらしい。夜中に家の周りで騒ぐ。会えば、冷やかす。外出を控えているとのことだ。

 

 このようなことは、勘三君とトメさんの場合に限ったことではない。若者にとって、結婚ができれば、この上ない幸せだ。次男や三男が結婚できるとなれば、なおさらだ。その点は、女性にとっても同じだ。娘に比べて家の数が少ない。親が勧めれば、否応(いやおう)なく受けるそして里へ戻されないよう、ひたすら夫に従い、(しゅうとめ)に従う。

とりわけこの二人は、恋愛で結ばれた。村中が二人の噂で持ち切りだ。トメさんは医院の手伝い。勘三君は同じ敷地内で啓蒙所の教師。若者にこのような出会いの場はない。毎日、毎日、田圃や山で黙々と働く。男の子が夜なべをさぼって(たむろ)するのが関の山。二人を(うらや)ましく思うのも無理ない。このような嫌がらせは、形は悪いが、彼らなりの祝福かもしれない・・・がしかし、しかし物には限度があるというものだ。

 

 結婚式は勘三君の家で。

大安で末広がりの八月二十八日に挙行。

 三男の結婚だ。できるだけ質素にやる。

 トメさんの家から勘三君の家に、嫁入り道具の荷送りがあった。披露して、住み()となる平太さん宅の離れに運ぶ

 前日の出立(でだ)ちの宴も終わり、いよいよ嫁入りの日になった。

 夕刻になると、仏壇にお参りして両親に感謝とお礼の挨拶をする。家の前に灯明(とうみょう)()かれ、仲人の平太さん先導で出発。平太さんの奥さんがトメさんの手を引いて静々(しずしず)と歩を進める。

「今日はなーあ、()出度(でた)ーやー・・・」

 嫁入りの唄が加茂谷へ響き渡った。文金(ぶんきん)高島田(たかしまだ)にツノカクシのトメさんが一段と美しい。提灯(ちょうちん)に照らされて、(しろ)無垢(むく)花嫁姿()える。はにかみながらも、嬉しそうだ。

 

 そこでまた、若者達の嫌がらせだ。

雨も降らないのに、道がぬかるんでいる。水を()いて踏みつけたに違いない。奴らの仕業(しわざ)だ。草履(ぞうり)下駄(げた)が汚れる。やむなく(わら)を敷いて渡った。さら行くと、道端(みちばた)の柿の木に肥担(こえた)()がぶら下がっている。現物が入っているのか、糞尿の匂いがする。鼻を(つま)むようにして通り過ぎた。さらに土手(どて)を回ると、若者が(たむろ)して道を(ふさ)いでいる。今さら引き下がれない。酒を振舞(ふるま)い、ひたすらお願いして通り抜けた。わずか道行(みちゆ)きで日はとっぷり暮れた。

 家の(かど)提灯(ちょうちん)の出迎え。やっと三君の家に着いた。その夜、加茂の谷を(かみ)(しも)へ明かりが走り、高らかな笑い声で華やいだ。

 

 勘三君の家では、奥の納戸(なんど)で仲人の媒酌により三々(さんさん)九度(くど)(さかずき)が交わされ、高砂(たかさご)が謡われた。そして、表座敷で披露宴が始まった。

その頃から戸外が騒がしくなった。勘三君の家を遠巻きに若者が気勢を上げる。

「ええのう、ええのう、勘三・・・わー、わー・・・はっははは」

犬の遠吠(とおぼ)えのような声が夜更(よふ)けまで続いた。

 

翌日は午前中に、花嫁が近所の子ども達にお菓子を配る。啓蒙所の生徒はもちろん、大勢の子どもが集った。夕方には、御近所を招いて披露宴が催されるのが慣例だが、二人は谷の向こうの平太さん宅の離れに住む。ごく簡単に行われた。

 

若連中・講中等禁止の建白

文明開化の新しい時代だ。昔ながらの無用な風習は改めるべきだ。御誓文に、『旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クヘシ』とあるではないか。

村の中にも、改めなければならないことが沢山(たくさん)ある。その一つが、あの無謀な若連中だ。夜な夜な集まって騒ぎ、(わる)ふざけ喧嘩(けんか)、そして風紀を乱す、どうしようもない(やから)だ。彼らを何とかできないものか。

 

それから今一つ改めなければならないのは、講中(こうじゅう)組内(くみうち)と称して集まり、飲み食いや遠出(とおで)をして浪費する村人のことだ。講中は、本来、仏教の教えを学ぶ場だ。近隣で講を組み、月に一度、家々を廻ってお経を(とな)え、お師匠さんの説法を聴聞(ちょうもん)する。そして事故や火災あるいは家の普請(ふしん)の際に助け合う。講中は、そういう真面目(まじめ)な会のはずだ。

ところが四季折々の行事や結婚式、葬式などで飲食が出ると様相を変える。酒を飲み、腹一杯食べ、奴はどうだ、こいつは悪い、けしからんと悪態をつく。そして、日頃の鬱憤(うっぷん)が一気に噴出し、喧騒の場と化す。せっかくの仏の教えもあったものではない。

 

このようなことでは、だめだ。

東京は日進月歩。田舎は旧態依然。狭い村で無為に過ごしては、将来がない。子ども達は啓蒙所で勉強を始めた。大人も負けずに勉強しなければ・・・。

しかし、いくら言っても改まらない。執拗(しつよう)言えば嫌われる。県が本気になっていただかなければ・・・九月の夜半、谷の向こうで騒ぐ若者を忌々(いまいま)しく思いながら、『若連中講中等禁止奉願をしたためた。

「若連中が乱暴したり、喧嘩をしたり、(みだ)らな風俗を流行(はや)て、せっかく啓蒙所で学んだ若者を引きずり込んでしまう。また、講中の行事に事寄せて飲み食いをし、遊びほうけ、無闇(むやみ)遠出(とおで)をする。密かに集まって、県の命令や規則に反することを(たくら)んでいる。そのような風習は欧米に対して恥ずかしいことだ。そんな暇とお金があれば、村の入費(にゅうひ)に充て、村づくりに協力させるべきだ。」

 

風俗改良

私が提出した『若連中並講中等御禁止奉願』を御検討いただいたのであろうか。小田県は、翌明治六年二月に風俗取り締りの布告を発した。

その布告のあらましは、

「御一新以来、学問を興し、風俗を改め、万民が生業に就けるように努力してきたが、依然として旧来の悪習が蔓延(はびこ)っている。

そこで、次のようなことをした者には、懲戒のため相当の罰金を申し付ける。

(一)十五才から三十五、六才までの者が若者と称して集まり、三日も五日も宴会をする。氏神(うじがみ)の祭りに暴飲放食をする。

  婚姻は一生一度の大礼(たいれい)なのに、新婦の往来を妨げ、宴席に(つぶて)を投げ込み、戸外に墓石を並べるなど悪戯(いたずら)をする。養子を迎えるとなると、近所へ振舞(ふるま)わさせ御馳走(ごちそう)が粗末だと言って文句を付け、時には騒いで怪我をする者も出る。

(二)病気を治すためと、祈祷(きとう)呪咀(じゅそ)に惑わされる。落命の際には死者をこの世に呼び戻すのだと大勢で名前を呼び、裸にになって名号(みょうごう)を唱え街道を奔走する。

(三)葬式には手伝いに事寄せて数日間も飲食し、さらに礼呼びと称して御馳走を出させる。弊害が大きいので、手伝いは親類、近隣、朋友に限るべきだ。」

 

新聞を読むと、このような悪習は、福山藩に限らず全国的に問題だったようだ。

 



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<ご参考>
 ・参考史料
     福沢諭吉著「学問のすゝめ」岩波書店
     「啓蒙社及啓蒙所設立の由来」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」に掲載の「福山学生会雑誌」第五十八号)
     「若連中・講中等禁止の建白」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社)

 ・参考文献
     有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
     石井吉馬著「加茂谷風土」
     「岡山県史料・四(小田県史・上)岡山県立記録資料館
     「岡山県史料・五(小田県史・下)岡山県立記録資料館

 ・登場人物
     矢野光儀・・・・歴史が眠る多磨霊園「矢野光儀」
     矢野文雄・・・・歴史が眠る多摩霊園「矢野龍渓」

 ・参考ホームページ
     兵役・・・・・Wikipedia徴兵令
     丸善・・・・・丸善株式会社「日本橋店の歩み」   Wikipedia丸善
     「学問のすゝめ」・・・・・Digital Gallery of Rare Books & Special Collections デジタルで読む福沢諭吉(慶応義塾大学メディアセンター)
     「世界国尽」・・・・・Wikipdia世界国尽
     深津県・・・・・Wikipedia小田県

 ・今に伝えられる「啓蒙所」




  水呑啓蒙所跡

    水呑町土井
    水呑啓蒙所は、やがて水呑小学校となり、移転して今日に至ります。
    水呑小学校の「学校要覧」の「沿革の概要」に、
      「明治5年(1872年)水呑啓蒙所創設」とあります。














 神村啓蒙所跡    神村町の石井家旧宅      ネット上の「ゴエモンのつぶやき」に、神村啓蒙所跡が紹介されています。