「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第一章 啓蒙所 その4
粟根の寄り
村総代の平太さんに相談して、いつもの主だった方に集まっていただいた。許しを得て、例の勉強熱心な勘三君を誘った。
村総代は・・・子どもの教育のことで話がある、詳しいことは若先生からと、私に話を振った。
私は、丁寧に説明した。
文明開化のこれからは、子どもの教育が大切だ。貧しい家の子も学べるよう、授業料は取らない。そのため、各戸で少しずつお米を出し合って・・・。
静かに聞いていただいた。
一通り話し終えると、
「うーん、そうだな」
いつもはたちまち賑やかになるのだが、今夜は妙に静かだ。お互いに顔を見合わせている。
いつものように平治さんが口火を切った。
「可愛い我が子のためだ。良いことではないか」
夜な夜な遊びに出かける息子に手を焼いている組頭が、
「遊びたくて逃げ回るのに、勉強するだろうか?」
「それは、勉強する習慣が身に付いていないからです」
そこで、勘三君を紹介した。
「今夜は、勘三君にも来てもらっています。皆さんも御承知かと思いますが、勘三君は幼い頃から本を手元に置いて・・・」
皆は、尊敬のまなざしで勘三君を見た。
今夜ここにいる者は、庄屋か自作農。村の中でも恵まれている者だ。誰かがつぶやいた。
「貧乏人の子沢山と言うからな」
「だから、無償にするのです。村全体で経費を持つのです」
「藩は何も出さないのか?」
村総代に答えていただいた。
「いや、実はこれは若先生のお考えで。藩とも相談したが、藩はそれどころではない。藩校の誠之館がやっとのことらしい・・・要するに、村の子は村でということだ」
さらに私が、手順を話した。
「これをやるには、各村から周旋方を出します。粟根村からは、村総代になっていただければと思います」
それは当然といった雰囲気。
そこへ、誰かが、
「平治さんは勉強家だ。是非、平治さんも周旋方に」
「おだてても、わしは乗らんよ」
「新し物好きだから、黙っておれないだろう」
皆がどっと笑った。
平治さんは、小さいながらも小作を持つ庄屋。村総代の平太さんの弟だが利発な性質が認められ、田畑を分けてもらって分家したのだ。
村の正月
明治四年の正月。
元旦に、妙永寺の檀家は寺へ年頭参りをする。その後、村人は寺の横の坂を上り、我が窪田家へ。足が不自由な父のために年賀においでになる。
しかし、今年は少し調子が違う。年賀の挨拶の後、村人は口々に、
「学校のことは、本当か?」
「既に決まったのか?」
「藩がやれと言うのか?」
「組内で話が出た。どうせ、銭が要る話だろう?」
私は村総代の藤井平太さん宅へ年賀の挨拶に行き、村人にどう答えるか相談した。平太さんも、同じように質問されるそうだ。近々、村で話し合いの場を持つと答えることにした。
正月十四日は、村のとんど祭り。
日暮れ時に、加茂川の川原から、子ども達がはしゃぐ声が聞こえる。コトリを始めたようだ。
「子取ろ、子取ろ」
「どの子が欲しい?」
「泣く子が欲しい」
「泣く子はおらん」
「一番後ろの子が欲しい!」
わっと囃し立てる。
先っぽに餅を挟んだ青竹と注連縄を手に、類を負んぶして坂道を下る。逃げ回る子ども達に取り囲まれた。類は身体をよじらせて、右を見たり、左を見たり、大喜びだ。
お世話されている大人衆に注連縄を渡す。そしてほどなく、とんどに点火。勢いよく燃え上がり、辺りがパッと明るくなった。子ども達が歓声を上げる。温かい。背中やお尻を暖めた。
ひとしきり燃えると、燠を掻き出して餅を焼く。類から手が離せない。近所の子に餅を焼いてもらった。
その頃、大人衆の話し声が聞こえてきた。酒が入っているのか、私に聞こえよがしに大きな声で、
「字が読めなくても、このとおり百姓はできる」
「そうよ、わしらに字や算盤は要らん。要る者がやればよい」
「わしの子は、わしがちゃんと教える」
「やりたい者が勝手にやればよい。わしらは知らんぞ」
夜な夜な騒ぐ若者の一団がやって来た。焚き火を取り囲み、盛んに火をつつく。何が面白いのか、わっと笑い、騒ぎ立てる。
後日、私は、診察の合間をみて家々を訪ねた。
茅葺の屋根に草が生えている。壁の土が剥がれ、露わになった格子状の竹の隙間から外の光が漏れる。これでは寒い。親が帰ったと思ったのか、ぞろぞろと子どもが出てきた。
畑仕事をしている人に、子どもの教育のことを話したが・・・ただ、「お世話になります」と繰り返すだけだ。
周旋方初会議
御城下も十四日は、とんどの祭り。
屋根より高いとんどがいくつも街中を引き回され、芦田川の河原で燃やされる。
そして十六日は、誠之館の始業。
続いて十九日に、誠之館の講堂で啓蒙所設立の初会議が開かれた。
藩内から周旋方が集った。
蒼々たる顔ぶれだ。総勢約四十名。
深津郡の石井英太郎さんはもちろん、安那郡から箱田村の細川貫一郎さん、安那郡からは隣の芦原村の安原勝之助さん、そして粟根村から藤井平太さんと藤井平治さん。
藩からは、特に岡田大参事が御出席。学校掛から新任の河村少参事に横山大属と杉山少属。そして誠之館から佐沢太郎一等教授。
互いに新年の挨拶。正月気分も覚めやらぬ様子だ。
岡田大参事が新年の御挨拶と、出席していただいたお礼を述べ、
「教育が大切なことは申すまでもありません。当藩には素晴らしい教育の伝統がございます。古くは弘道館、そして正弘公の代に誠之館が創立され、新しい学問に取り組まれました。御維新に及び、我々も新しい時代を切り開くべく、藩士に限らず、すべての子に実用の普通学を施さんと存じます。本日は、御当地を支えておられます皆様に、是非ともお力添えを賜りたくお願いするものでございます」
続いて佐沢教授が、子どもの教育の必要性や西洋の状勢を講釈した。私が誠之館で、彼から聞いた話だ。
そして建議者の私が、『啓蒙社大意』と『啓蒙所大意並びに規則』を読み上げ、若干の説明を加えた。
一通り説明が終ると、隣同士が小声で話し始めた。
「車座もよいものですな。お互いに顔が見えて」
「はい、上下同権の世になりましたから・・・」
と言ったものの、藩庁の役人は床柱を背に座っている。
「空いた座もありますが?」
「はい、お見えになっていない方があります。その方には、後日お集まりいただきます・・・これからは、規則にもありますように、御出席いただけない場合、必ず代理の方の御出席をお願いします」
「酒肴のことまで決めて。まいった、まいった」
「はい、何と申しましても教育のことでございますから。後で少しはお出ししますが。時節柄のこともございますので」
「奥の方から出て来られたのに、残念ですな」
笑いがこぼれた。
また、隣同士でこそこそと話し始めた。新しいことだ。皆がどう思っているか、互いに探りを入れている。
ある村総代が、石井英太郎さんに質問した。
「石井さんは、寺子屋を御支援されているとか・・・」
「ええ。寺子屋ですが。少しは新しい学問ができればと思いまして」
「そういうのをどんどんやれば?」
「いや。私のところは授業料をいただいています。ですから、どの子もという訳には。この案は無料にして全員ということですから」
「なるほど」
納得の様子だ。
「無料にしても、来ない者は来ない。学問に縁遠い子もいる」
「そこが問題でして・・・貧しいから学ばない、学ばないから貧しい。その繰り返しでは、いつまでたっても貧しさから抜け出せません。そこのところをしっかり啓蒙しなければなりません。文明開化のこれからは」
「けっこう難しいことも教えるのですね」
「はい、基礎ができました子には、中段、上段と」
上段の子が素読に使う『世界国盡』と『窮理図解』は福沢諭吉先生がお書きになったものだ。「窮理」とは「理を窮める」、広い意味で物理のこと。『万国歴史』や『皇国地理略』は誠之館の教科書だ。
「初段と中段で使う『明倫撮要』は、河村少参事がお書きになりました。漢文を読む通りに書き下しまして、父母の恩、長幼の序など修身を解り易く教えるものです」
出席者が、一斉に河村少参事を見た。
「誠之館で使っている漢文の教科書をいきなり幼い子にはどうかと・・・いろいろな子がいますから、取り付き易いものにしまして」
「それは良いことだ・・・良いことだが、なんでわしらに? 藩がやれば良かろうに」
「御承知のように藩は財政が苦しゅうございまして。正直に申しまして、藩が始めますと年貢が増えると反対され兼ねません。そこで、皆様方のお力添えをお願いする次第でございます」
「また御用金ですか」
「いえいえ、御用金とは違います。集めたお米はすべて村の子どものために使うのですから。皆様には、多くの方に御参加いただきますよう、周旋方をお願いするものでございます」
先が見えない、暗い話ばかりの昨今だ。しかし、これは夢のある話だ。正月気分も手伝ってか、雰囲気は悪くない。
「周旋方の会議は、定例として年に二回、正月と七月の二十一日午前九時から開きます。臨時の会議は適宜に。会場は誠之館のこの講堂で・・・」
お互いにぐるりと顔を見合わせた。
「いかがでしょうか? お願いできますでしょうか?」
お昼近くになった。規則どおり、少々の酒と肴一品が出た。
早くも翌月六日に、啓蒙所の第一号ができた。
深津村の石井英太郎さんは、長尾寺の翠松館を啓蒙所に切り替えた。自らも十五口を出資して八十七口を集めた。新たに教師となった坪井金三郎さんや誠之館の出張教師も出資した。計画は三十口だから、倍以上が集ったことになる。専用の建物を急ぎ建設するとのことだ。
正月の初会議に出席しなかった周旋方には、再度、招集状が送られた。そして、同じように会議を開き、朝十時から夜十時まで丁寧に説明して協力をお願いした。
市村の庄屋の土屋吉太さんもその一人で、再度の招集に息子の惣太さんが代理出席した。土屋吉太さんは自らも出資して三十三口を集め、民家を借りて三月十二日に啓蒙所を発足させた。教師が二名。算盤を誠之館から借りての出発だ。土屋家は田畑五十町を所有する大庄屋だ。さすが、やると決めたら早い。
寝酒一勺
さあ、粟根村も・・・
周旋方になった平太さんや平治さんも本気だ。しかし、村内には、賛成、反対といろいろな意見がある。
従来の村の問題・・・例えば道や水路の改修とか、辻堂や火の見櫓などの修理は、多少の反対があっても押し切ることができた。押し切っても、後で何とかなった。ところが啓蒙所の場合、これまでとは事情が異なる。今までに類のない案件だ。村の中から出た要望ではない。藩の要請でもない。火災や事故のように、助け合うというものでもない。やるとなれば、村民に米を出してもらわなければならない。そして、肝心の子どもを送り出してもらわなければならない。
村総代は、いつもの主だった者を集めた。
「強引に進めたら、村が割れる」
「しこりを残してまで、やることはない」
「組内で反対が出たら、説得できない」
組頭が弱々しく言う。
正月の年賀の時に、改めて皆に相談すると約束をした。ともかく、村の衆を集めて話をしよう。
二月半ばの晴れた日に、家々の戸主が妙永寺の境内に集った。
村総代の藤井平太さんが、皆を静めて、
「皆さん方に、いろいろな御意見があることは承知しています。とにかくもう一度、若先生の話を聞いてください」
私は、精一杯、話した。
「子どもの教育は、藩士だろうと、百姓だろうと必要です。しかし、豊かな家の子は学ぶことができますが、貧しい家の子は目の前の仕事に追いまくられます。七、八歳の子どもに牛馬を飼わせ、粟根村の田圃は砂地で痩せているから堆肥の足しにと落葉を掻き集めさせ、小間使いに走らせ、子守をさせる。これでは少しも学ぶことができません。
教えを受けない子は、似たような者が集まって悪い遊びに熱中し、悪知恵ばかり働き、父母や友達を騙し、揚句の果ては博徒盗賊の仲間になり、乞食になって、どこかへ行ってしまいます。
文字や算用を習い、忠孝や礼儀を心得、智恵を磨けば、能力次第では藩庁への登用もあります。学問をしておくと、交際も広がり、手紙や証文が読め、帳簿が解れば騙されて損をすることもなく、奉公や嫁、養子の口も多くなるでしょう。子どもに教えもしないで賢くなれと願うのは、稲や綿の手入れもしないで豊作を祈るようなものです。
この趣旨に御賛同いただけますなら、古衣一枚を売り、寝酒一勺を我慢し、肴一切れを始末し、あるいは蒟蒻一枚、割木一本を余分に働いて、啓蒙所の計画に御協力をお願いします」
いつになく静かに聴いていただいた。しかし、話が終わると再びざわつく。周りの者と小声で話している。
「子どもがいない者は、関係ないのか?」
耳に入ったので付け加えた。
「子どもがいない者は関係ないのかという話がありましたが、そうではありません。村の子どもが賢くなれば、大きくなって村のために尽くし、村を助けてくれるでしょう。いずれ、どの家にも子どもが生まれます。先の先まで見据えたものです」
子どもは大切だ。子どもがいなければ、養子をもらって家を守る。子どもが大切なことは誰も承知だ。
「家の子は、読んだり書いたりが苦手だ」
自嘲げに言う者がいた。
「それは、一番物覚えが良い、七、八歳の時に始めなかったからです。遅くなればなるほど、覚えにくいものです。今からでも、コツコツやれば大丈夫です」
アチコチでコソコソ、ヒソヒソ・・・。
村総代が、
「どうでしょう、皆さん。粟根村も話を進めてはと思いますが・・・」
いまひとつ、反応が鈍い。
いきなり質問が出た。
「豊作の年は良いが、不作の年は庄屋が米を出してくれるか。それとも、その年は止めか?」
村総代は答えに窮した。何時の年でも、年貢や小作料の取り立てに苦労する。ましてや不作の年は大変だ。小作料のうわに、出資のお米を集める自信がない。誰もが一昨年の冷害を思い出した。
再び、ざわつき始めた。
突然、後ろの方から大きな声がした。
「子どものこともよいが、堰のことはどうしてくれるのだ?」
一瞬、静まり返った。言い出したら後に引かない貞市さんだ。
「上の堰で水を全部取ってもらっては、下が困る。ほどほどにしてもらいたい!」
そうだ、そうだと相槌を打つ。
堰は、春先のこの時期に補修する。水利の受益者が総出で川に入り、石を並べ、稲藁や枯れ草で水漏れを塞ぐ。冷たい水で足が赤くなる、辛い作業だ。
「いつ、やる?」
「どこの堰からやる?」
「一度ではだめだ。水が減ったら、またやる!」
それぞれの発言に野次が飛ぶ。水の問題は、ちょっとしたことで争いに発展する。水路の水が漏れる、土砂が堆積した、路肩が崩れる、橋が老朽化した。それらの補修が、一昨年の冷害や昨年の旱魃で先送りになっている。今年は何とかしなければならない。
近年、そうした話し合いが難しくなった。事ある毎に物議を醸す者がいる。藩が頼りないからか。それとも『万機公論』を勝手に解釈しているためか。
特に粟根村は、十数年前まで、加茂川とその支流の鯉谷川を境に、西側が天領、東側が福山藩と分断され、何かに付けて藩の東側は天領の西側に譲らなければならなかった。その恨みが今も影を落として、いざと言うときには二手に分かれる。啓蒙所の問題は吹っ飛んでしまった。
結局、いずれも結論が得られないまま解散となった。
粟根村公議局
村人が集っても決まらない。
それなら、いつもの主だった者で決める。
これには、組頭が及び腰だ。組内で責められたら、説得し切れないと言う。特に啓蒙所の場合、強引に進めると後で困る。啓蒙所を開いても、お米が集まらない、生徒が集まらないではどうしようもない。然りとて、何度も集まるのはいかがか。もう直、春だ。忙しくなる。
どうしたものかと悩み、またも誠之館の佐沢教授を訪ねた。
「このような場合、仏国ではどうしている?」
佐沢教授は、「うーん」としばらく考え込み、
「五十川がいれば、どう言うか・・・」
「基君が?」
「ええ」
五十川基君は医師を志したが、藩から洋学の修業を命じられ、独語や英語を学んだ。
「五十川が言いますに、独国や米国の村では、村人全員が集まって話し合うそうです」
「それで上手く行くの?」
「昔からのことですから、上手く行くのでしょう」
「仏国はどうなんだ?」
「仏国の場合、小学校のことでお話しましたように、村に議院があります。村の議院の建言を聴いて、文部卿が小学校を認めます。このように、村のことは何事も議院で決めます。議員を選んで」
「議員を選んで?」
「ええ。村で選挙をします」
「選挙?」
「ええ。これはと思う人の名前を札に書いて出します。村人全員で」
「・・・」
「そして、名前が多い人が議員になります」
「・・・」
「そして、議員に諸事の判断を委ねます」
「なるほど。藩の公議局のようなものだね」
「まあ、そうですね」
政府が公議所を設けた。これに続けと、福山藩は公議局を設けた。一昨年の四月のことだ。
もともと福山藩には話し合いの伝統がある。先の藩主正弘公は幕府の老中首座にあって、ペリー来航の際には衆議を尽くして開国の道を開らかれた。それを機に西洋に関心を持ち、他藩に先駆けて洋学の研究に取り組まれた。我々福山藩の自負するところだ。御誓文の『広ク会議ヲ興シ』の向こうを張り、公議局設置の目的を『博ク公議を興シ』とした。
この公議局設置の準備に当たったのが、五十川基だ。藩は、誠之館の洋学世話取りを務めていた五十川を督事に抜擢した。
五十川によると、欧米ではすべての国民が政治に参加し、社会の一員として智力を尽くす。それに対して日本は、政治はもっぱら藩士が司り、下々の民はそれに従う。そのため、藩士は身分に安住し、下々は不満があっても何も言えず諦めてしまう。これでは、藩は発展しない。士農工商の垣根を取っ払って、人間本来の『自由自主天理当然ノ権』を発揮するべきだ。
このような理念から、公議局下局の議員は、身分にかかわらず識見に長け、下情に通じた人を各郡や市から選出することとした。啓蒙所のことで御指導をいただいた石井英太郎さんは、深津郡選出の下局議員だ。そしてこれを推し進めた五十川基が、藩を代表して議長に就いた。その時、若干二十五歳だった。
太郎君は続けて、
「これからは、百姓であろうと商人であろうと、政治に参加すべきです。五十川がいたら、そう言うでしょう。粟根村にも議院を設けてはどうですか?」
「そうだなあ・・・」
岡田大参事に相談した。大参事は、なるほどと頷いて、
「それは良いことだ。果たして、どこまでできるか、試にやってみるのも面白い。藩士では無理だ。村に住む君だからできることだ」
やるのなら、規則を作成して、藩へ伺いを立てるようにとの御指示だ。藩の『公議局下局議員選定規則』を参考に、粟根村の『代議人取立規則』を作成して、藩庁へ提出した。
何分にも初めてのことだ。規則通りに選挙ができるかどうか、不安があった。
いつものように、村の主だった者を集めた。
「え! 村に公議局下局?」
「そうだ、粟根村公議局下局だ。村総代や組頭が集まるこの場が上局とすれば、別に代議人を選んで下局を設ける。我々上局が考えた案を下局に諮って決める」
「なるほど・・・しかし、大袈裟な気もするが」
「手間なようだが、自分たちが選んだ人が決めたとなれば、皆も納得するだろう。急がば回れだ!」
「選挙となると、名前を書く・・・字を書けない者がいるが?」
「うん、確かに・・・これも勉強だ。練習して字を憶えてもらう」
「面白い。やってみよう!」
この度も、新し物好きの平治さんが後押ししてくれた。
粟根村代議人選挙
選挙の規則はこうだ。
代議人は、概ね十戸に一人の割合で選出する。
任期は一年。
代議人は、自分の考えを述べ、村人の意見を聞き、貧しい者の救済や啓蒙所の運営はもとより、村のいろいろなことに気を配り、指導するのが役目だ。そして、会議に欠席しないこと。やむを得ないときは相応の代理人を出す。
村総代の藤井平太さんと藩庁顧問の私は、政務にあたる上局の立場だから代議人にならない。
早速、村の皆を集めて話を持ち掛けた。
「皆の衆、水のことやら啓蒙所のことやら、問題が山積している。早々に解決しなければならない。そこで、藩の公議局に倣って新しい方法を考えた。藩もよかろうということだ」
村総代の藤井平太さんが、私に説明を求めた。
「皆さん、『広ク会議ヲ興シ 万機公論に決スヘシ』を御承知でしょう」
「ああ、子どもでも知っている」
「それです。徳川の世とは違う、新政の基本です。藩では、御誓文に則り公議局を設置されました。議員の話し合いで物事を決めます。我が粟根村も、藩の公議局を倣ってはと思います」
何を言い出すのかと、皆は神妙に聞いてくれた。
「そのため、村で選挙をします。信頼できる方を代議人に選んで、代議人の会議で決めるのです」
「・・・・」
「私利私欲の人は困る。この人こそはと信頼できる人の名前を札に書きます」
「名前を書く?」
「そう、札に名前を書いて、この箱に入れます」
「名字がはっきりしない者がいるが?」
「それはこの際、はっきりしてもらいます」
「字が書けない者が多いが?」
「練習すればできます。教えますから」
字の練習には、お盆の中に灰を入れて、書いては消し、書いては消す。
「言うから、書いてもらえば?」
「それはだめです。必ず自分で書きます」
とても全員が書けそうにない。書ける人だけでやるしかないか。
「大切なのは、誰の名前を書くかです。人に言われて書くのではなく、自分でよくよく考えて」
いよいよ三月の中旬に、選挙が実施された。
妙永寺の本堂に入札箱を置き、村総代の藤井平太さんと私が、一日中、張り付いた。
一人で十人までの名前を書く。
組頭を通じて全戸に選挙を呼び掛けたが、選挙に来たのは三十四人だった。村の戸数は百二十戸だから、四分の一か。思ったより少ない。しかし、集会であれこれ言う人は選挙に来た。
夕方に、妙永寺の本堂で開札した。
あらかじめ名前を書いた紙を壁に張る。そして、札に書かれた名前を読み上げ、該当の名前の紙に墨で点を打つ。
その結果、
粟根東右衛門 二十五枚
瀬良友七 二十枚
山根泰助 十七枚
井伏吉次郎 十七枚
吉田荒次郎 十七枚
水草利市 十七枚
瀬良勘右衛門 十四枚
藤井平治 十四枚
藤井喜市 十四枚 以上、九人を代議人とする
吉田直次郎 十二枚
山根芳太郎 九枚
藤井又三郎 七枚
今井利右衛門 六枚
山根小吉 五枚
重久福松 五枚
粟井喜代七 三枚
山根喜七郎 三枚
佐藤清十 二枚
佐藤治平 二枚
藤井五藏 二枚
井伏膳三郎 二枚
山根廣次郎 二枚
藤嶋嘉右衛門 一枚
金尾熊次郎 一枚
山根柳兵衛 一枚
山根徳八 一枚
佐藤茂助 一枚
鎌苅松右衛門 一枚
金輪今蔵 一枚 以上入札総数 二百二十二枚
当選者九人のうち、一町以上の田畑を有する庄屋や本百姓が五名。自作地が一反や三反の小作人も二名いた。粟根東右衛門さんの得票が多いのは庄屋ということもあるが、村の年寄格で、村の誰からも尊敬される方だからだ。一昨年の凶作には、炊き出しの先頭に立たれた。
三月二十日に、村総代の藤井平太さんが選挙の結果を報告書にまとめ、私が藩庁へ提出した。
そして早速、代議人の議会を開いて懸案の難問に取り組んだ。
たちまち急ぐのは、堰の問題だ。田植えの準備をする前に解決しなければならない。そして、啓蒙所の問題も・・・
代議人になった者の中にも啓蒙所に難色を示す者がいたが、これは説得できた。代議人の全員賛成で啓蒙所の設置が決まった。
啓蒙所は、取り敢えず妙永寺の本堂をお借りする。できれば、専用の建物が欲しい。しかし、新たに建てるのは大変だ。空いた部屋はないか。軒先を伸ばすか、庇を設けてもよい。いろいろ物色したが結局、我が家の東側にある薬草の作業場を使うことになった。
もともと村の皆さんのお世話で建てたものだ。何の異存もない。しかし、窓を取り付け、座を張る必要がある。改造工事は秋の稲刈り後に行う。工事は各戸の出扶で行い、材料を持ち寄る。教師の当座の給料を支払い、文具や教科書を揃えるには、例の藩からいただいた米三十五俵で余りある。
教師は勘三君が常勤し、妙永寺住職の日將さんと私が随時に手伝う。
勘三君は三男だ。家族に異論はない。早速、石井英太郎さんにお願いして、深津村の啓蒙所へ見習いに行くことになった。
出米の分担について、周旋方の平太さんと弟の平治さんから思い切った額を提示していただいた。私も踏ん張り、残りを各農家にお願いした。
子どもの入学については、これから代議人と組頭で説得する。
四月から、粟根村の啓蒙所が始まった。
生徒は、村の子が全員という訳には行かない。これから段々と増やす。
診察の合間に、妙永寺へ様子を見に行った。
勘三君が張り切っている。その声が境内に響き渡る。親や祖父母がどんなことかと心配そうにやって来て、障子の隙間から本堂を覗き、にこにこしながら帰って行った。
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<ご参考>
・参考史料
河村重秀著「明倫撮要」近代デジタルライブラリー書誌情報(国立国会図書館)
「深津小学校沿革史」(『翠松館』深津小学校百二十年史・資料)
「代議人取設けにつき伺」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社
・参考文献
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
久木幸男・山田大平共著「郷学福山啓蒙所の一考察」
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館(平成九年度春の企画展)
「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県
「広島県史・近代1」編集発行広島県
「福山市史・下巻」福山市史編纂会
「誠之館百三十年史・上巻」福山誠之館同窓会
・登場人物
河村重秀 誠之館人物誌「河村重秀」(誠之館同窓会)
阿部正弘 誠之館人物誌「阿部正弘」(誠之館同窓会)
・参考ホームページ
とんど・・・・・「福山とんど復活へ」asahi.com朝日新聞記事2011.12.28
・舞台となった場所の今日
深津小学校の校庭にある「翠松館」の記念碑
(御覧のように「翠」には艹くさかんむりがありますが、活字がなくて済みません)
翠松館は長尾寺にあった。
誰もが学べるようにと、啓蒙所の第一号となった。
その後、啓蒙所は石井英太郎さんの屋敷の隣に移った。
石井さんの屋敷は、現在、福山市農業協同組合深津支店がある場所にあった。
1870(明治3)年創設の翠松館から数えて140周年の式典が、
2011(平成23)年11月19日に深津小学校で行われた。