「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
第一章 啓蒙所 その3
啓蒙所
今度は、藩庁から直接、呼び出しがあった。私一人でよかろうとのことだ。
別室に通されると、佐沢太郎教授と杉山少属がいた。
「先日は御指導ありがとうございました」
私は、二人に丁重にお礼を言った。
そして、浜野章吉少参事と横山光一大属が入室された。
浜野少参事から、
「佐沢教授や杉山少属から聞きました。御提案いただきましたことを直接、お伺いしたいと存じまして・・・」
私は、まとめた綴りを提出して説明した。
横山大属から質問があった。
「授業料は取らないのですよね・・・どういう計算ですか?」
「そうですね・・・啓蒙所一ケ所につき師匠一人、二人扶持、米三石六斗を支給します。それから、畳の表替や修理代として約四斗。筆、紙、墨等の雑費に約一石。以上、入費は年間五石となります。
これを三十口に分けて、秋にお米を出してもらいます。一口を何人かで分割してもかまいません。事務や会計は、庄屋や村総代にお願いします。お米は、一旦、村のどなたか裕福な方に預けます。月番や年番をお願いして、月に三度、啓蒙所へ出掛けて様子を見ます」
「なるほど」
「そして藩にお願いがあるのですが、教科書や算盤が揃えられない家があるかと思います。良い方法はないでしょうか?」
「誠之館には沢山あるでしょう。当たってみましょう」
横山大属が首を傾げて、
「名称は『啓蒙所』と言うのですか?」
私は、向かいに座っている佐沢教授に会釈して、
「はい、『啓蒙所』です。文明開化のこれからは、無知ではいけません。教育して目を覚ますのです。そのため、すべての子どもに教育を施して・・・」
上手く言えないが、佐沢教授は頷いてくれた。
近々に、藩内の有力者を招いて意見を聞く。その場で私に説明して欲しいとのことだ。
それから間もなく、同仁館教授の辞退は認められた。
藩命に背いた者が藩庁に出入りするのはまずい。そんな者を有力者の前に出すのは不都合だ・・・というような理由で、遅ればせながら辞退が認められたらしい。一旦決めた人事を覆すのは異例のことだと言われた。
父へ伝えた。父は、当たり前という表情だ。
早速、村総代の平太さんと一緒に参庁してお礼を述べた。
このことは口伝てに村中に広がり、会う人、会う人から、「良かった、良かった」と言っていただいた。
以下は余談だが、扶持米三十五俵と官金は、既に辞令の通り手配しているので受け取るようにとのことだ。勤めてもいないのに申し訳ないと、返納を申し上げた。しかし、何とも返答がない。改めて書面をもって、同仁館の書籍の購入に充てていただくよう申し出た。それでも返答がない。藩財政は火の車だというのに。一旦、決めたことを覆すのに抵抗があるのか。武士は食わねど高楊枝とはこのことか。その後、何回かに分けて、米や藩札をいただいた。
発起人会議
藩内の有力者が、藩庁の大広間に集められた。互いに挨拶して、今年のまずまずの豊作の祝意を述べ、賑やかだ。
お静かに願って、浜野少参事が挨拶し、教育改革の方針と子どもの教育の大切さについて話した。そして横山大属が啓蒙所の概要を説明して、私が詳細説明に立った。
その間、隣同士でごそごそ話をする。目が虚ろな人もいる。用足しに行くのか、途中で席を立つ。本気で聞いているのだろうか。
説明が終わると、どなたかが、
「早い話が、米を出せと・・・」
私語でざわつく。浜野少参事が、
「御承知のように、藩の財政はあのようなことでして・・・」
再び、ざわつく。
ややあって、あの翠松館の石井英太郎さんが、
「これは面白い。窪田さん、あなたのお考えで?」
私が返事に戸惑っていると、代わって杉山少属が、
「ええ、そうです。窪田さんのお考えです。村の子は村で教育という考えです・・・家々で少しずつお米を出して」
するとまた、どなたか、
「今年のように豊作なら良いですがな」
また、ざわつく。
「米を集めるのに苦労しますよ。小作料でさえ、ままならない者がいますから」
堪り兼ねて、私が、
「だから、皆様におすがりするのです」
「足りない時には、わしらに出せと言うのか?」
「いいえ、そうではありません。皆様方に音頭を取っていただきたいのです。将来を担う子どもの教育は大切です。思い切ってやらなければ、いつまで経ってもこの苦難から抜け出せません」
ついつい声が大きくなった。
「もう少し、状況が良くなってからでも・・・」
「いいえ、急ぐのです! 一年でも早く! 子ども達は日に日に成長しますから」
私の必死の形相に尻込みされたのか、
「分かった、分かった。分かりました」
他の方々は、にやにやしながら聞いておられた。
それ以上の質問は出なかった。浜野少参事が、
「このようなことで進めさせていただいて、よろしゅうございましょうか?」
良いとも、悪いとも返事がない。
どこからともなく、「次、次」と声が出る。酒、肴の催促だ。
酒肴が出ると、途端に元気になった方もおられる。賑やかに談笑が始まった。私の所へも徳利や盃を持ってにじり寄り、どこの村か、近くの誰々を知っている、漢方か、蘭方かと質問攻め。教育のことはほとんど話に出ない。早々に退散した。
会議に酒を出してはだめだ。真面目に話し合えない。教育のことを話すには、学府の誠之館がよい。
会議中の私語は慎む。途中で部屋を抜け出すのも困る。
その他、気が付いたことを書き添えて、杉山少属にお見せした。
「杉山さん。酒肴はいけません。子どもの教育のことですから。お金も要ることですし・・・」
「会議の後に酒肴は付き物です。少々ということで」
仕方ないか、少しばかりは。
「多くの方のお力をいただくのですから、公明正大に運営しなければなりません。毎年、定期的に会議を開きます。それから、私利私欲、依怙贔屓があってはなりません。小さなことも、できるだけ会議で決めます」
「・・・」
「集まっていただいた方は、すべて同等です。ですから、会議は輪になってはと思います。そして、上下分け隔ての物言いはしないことに」
「ははは・・・窪田さんらしい」
「そして、誰でも自由に会議を傍聴できるように」
「ははは、それも、かまわないでしょう」
この頃に人事異動があり、学校掛の浜野少参事と民事局の河村少参事が入れ替わった。
普通学
そしてまた、誠之館の佐沢教授を訪ねた。
「どうでしょう、佐沢さん。啓蒙所へ入る年齢ですが、『西洋事情』には六、七歳とあります。そんなものですかね?」
「そうですね。あまり早く政教を教え込み、凝り固まるのもいかがかと思います。五、六歳までは人の真似をしながら自然に育つものです。その方が、先で伸びます。藩の『学則幷序』は七歳からとしています」
「修業期間はどうでしょう。十歳まで?」
佐沢教授は、指を折りながら、
「四年間・・・そうですね。取り敢えず、そのくらいから始めますか。すでに九歳、十歳になった子も一緒に。年隔てなしに」
何を教えるか。教科について、佐沢教授の力を借りたい。
「教科のことですが、寺子屋や漢学塾とは違う訳で・・・岡田大参事がおっしゃっている普通学を」
「そうです。これからは実践的なものが大切です。そうでないと、文明開化について行けません。誠之館も改革中です。従来の漢学の授業は随分少なくなりました」
「何よりも親の理解を得なければなりません。そのためにも、日常で役に立つものを・・・読み書き計算はもちろんですが、商売のことや農業のことや地理のことも」
「そうです。親が子どもを出してくれないことには始まりません。基礎的なものから段々と。子どもの能力に従い、三段階に分けてはと思います。そして上の段に進むときには進級試験をします。試験は誠之館が手伝います。優秀な子は師弟共に褒美を出し、先では誠之館へ進学、藩への登用もあります」
「それはありがたいことです。どうでしょう、佐沢さん。三段階として、段階別に教科をまとめていただけないでしょうか。今のような考えで・・・」
佐沢教授は快く引き受けてくれた。
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<ご参考>
・参考史料
福沢諭吉著「西洋事情」
「啓蒙社大意・啓蒙所大意並規則」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社)
「啓蒙社周旋方」(同)
・参考文献
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
清水久人著「福山藩の教育と沿革史」鷹の羽会本部発行
久木幸男・山田大平著「郷学福山啓蒙所の一考察」
鈴木敏夫「近代学校制度の成立と身体教育」北海道大学教育学部紀要1984ー03
「誠之館百三十年史・上巻」福山誠之館同窓会
「日本教育史資料・2」文部省
「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県
「広島県史・近代1」編集発行広島県
「福山市史・中巻下巻」福山市史編纂会
・登場人物
杉山新十郎 誠之館人物誌「杉山新十郎」(誠之館同窓会)
浜野章吉 誠之館人物誌「浜野章吉」(誠之館同窓会)
横山光一 誠之館人物誌「横山光一」(誠之館同窓会)
・参考ホームページ
「西洋事情」・・・・・Digital Gallery of Rare Books & Special Collections デジタルで読む福沢諭吉(慶応義塾大学メディアセンター)