「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
  第一章 啓蒙所  その2


   お葬式

 甚助さんが亡くなった。

村中へ()()れが回った。村人は数珠(じゅず)を手に、甚助さん宅へお()やみに参

 葬式は組内(くみうち)で行う。窪田家は、甚助さんの家と同じ下郷地(しもごうち)の組の同じ班だ。窪田家として葬式を手伝う。各戸から男女二人が出る。秋の取り入れを前に、なけなしの白米三合を持ち寄った。白米がない者は、収穫を(かた)に前借りした。

 

甚助さん宅に全員が集ると、喪主の甚平さんは父の生涯のお礼を述べ、葬儀をお願いした。早速、組頭を中心に組内(くみうち)で話合いがたれた。

葬儀の役割を分担する。

お寺への連絡や式の進行、親戚への飛脚(ひきゃく)、造花や祭壇の準備、棺桶(かんおけ)作り、墓の穴堀り、(まかな)の準備、帳場や会計などの役がある

急ぐのは親戚への飛脚。不幸を伝えることを「ソウヲイウ」と言う。二人一組で行く。親戚に着けば、白い御飯に漬物の持て成しがある。村人は滅多(めった)村を出ることがない。誰もが行きたがるさんの娘の荷送りに行ったのは誰かさんの嫁を世話したのは彼だその人なら家を知っているから行ってもらおう

祭壇の飾り物や棺桶を作る人は、技術が要るのでだいたい決まっている。帳場は、字が書け、計算ができる者に限られる。一番嫌われるのは、()(かん)を埋める墓の穴掘りだ。野山(のさん)の共同墓地に穴を掘る。(かん)(かつ)ぎの役も楽でない。これらの辛い役は順番に回ってくる。(まかな)いの準備は女性。その補助や火炊きのため、三人の男性が付く

私は帳場の役になり、甚平さんから当座のお金を預かった。

 

賄いの献立は、だいたい決まっている。煮物や()(もの)、酢の物味噌汁(みそしる)・・・直ちに豆腐(とうふ)作りの準備に入る。そして、組内で持つ大きな鍋で湯を沸かす。その中に一升徳利(とっくり)()けて、棺桶作りや墓穴堀りの現場へ景気付けの酒を届ける。

 

 その夜はお通夜。

翌日は、出棺のお(つとめ)野辺(のべ)のお葬式。組内の者が掲げる先燈(せんとう)(ろう)四本旗(しほんばた)を先頭に、甚助さんの孫が()()(ばな)を持ち、親族が仏具やお(そな)えを持ち、甚平さんが位牌を持つ。近親は頭に法冠と白衣、足に(わら)草履(ぞうり)。そして役方が棺を担ぎ、その後を参列者が続く。長い列が粛々と墓地へ。

 

埋葬して一連のお葬式が終わり、後片付けに入る。

 しめやかなお葬式も、その頃からあれこれと騒がしくなった。

「式に手間取った。手順が違う」

「縁類なのに、焼香(しょうこう)の呼び出しがなかった」

「墓穴が浅い」

「帳場の計算が合わない」

「甚平さんの嫁の里では、御苦労を掛けました言うて、酒が出た」

 後片付けが一段落すると、仕上げの御斎(おとき)になる。酒がどんどん入る。酔いが回り、あからさまに大声で話し始めた。平素は無口な人が、よく(しゃべ)る。大袈裟(おおげさ)に言う。人を責めるくどくど説教する

 白い御飯や豆腐は御馳走(ごちそう)だ。(むさぼ)ように食べる喜怒哀楽そのまま喧騒の場になった。仕舞(しま)いには「ええじゃないか、ええじゃないか」と(はや)し立て、狭い部屋でり狂った

 

 甚平さん夫婦と親戚は、ひたすらお礼を言い、酒を()いで回る。

 日はとっぷり暮れた。悲しい場のはずが、なぜ、こんなことになるのか。恥も外聞もない。

翌日も、後片付けに集まり、酒が振る舞われた。さらに初七日に、組内の者へお礼の持て成しがあった。

 

      寺子屋

 よちよち歩きを始めた娘の(るい)陽だまりで遊ぶ

 さて、この()先々、どうするか。

 息子なら、遠くても塾に入れる。遊学もさせる。しかし、娘の類はどうしたものか。このまま傍に置いて、粟根で育てるか。それにしても、村は文明開化とほど遠い。

 

水争いや葬式で見せつけられた、人間の本性(ほんしょう)丸出しの姿。その日暮らしで好き勝手な若者浅ましい恥ずかしい御誓文の『旧来ノ陋習(ろうしゅう)リ 天地ノ公道ニ基クヘシ』に申し訳ないのままでは、だめ・・・やはり教育だ。教育が急がれる

 

実は私は、昨年、藩内広く教育を普及すべきと藩庁に建言した。

藩校誠之館は改革に取り組んでいる。従来の漢学の教則を改めて実用の学問を取り入れ、士族に限らず人民一般の入学を認めるということだ。そして昨年、粟根村より(ひと)山奥(やまおく)(やま)()村に、誠之館の支校が設置された。同じように、支校を藩内広く設置していただきたいと建言したのだ。

しかし、藩から財政的に無理と言われた。

 

この粟根には寺子屋すらない。せめて寺子屋でもあればと思い、(みょう)永寺(えいじ)の御住職の日將(にっしょう)さんに相談した。

「甚助さんのお葬式にはありがとうございました」

「若先生も、お役目御苦労様でした」

「皆さんに教えていただきまして、なんとか」

「立派なお葬式でした」

「いやあ、後でいろいろありまして。あれほど、毎月、御法話をいただいておりますのに」

「酒が入るとお決まりのことで・・・困ったものです」

「甚平さんは、せっかく貯めたお金を使い果たしたようです。高機(たかばた)をもう一台入れようと貯めていらしいのですが

「そうですか・・・甚助さんも頑張りましたが、身体(からだ)を壊してとうとう田畑を取り戻すことができませんでしたしかし、息子の甚平さんは頑張り者ですし、嫁さん良く働きます

「ええ。娘も一日中、手伝っているようですが・・・しかし、どうでしょう。育ち盛りの大事な時期です。できれば、子どもには勉強をさせてやりたいものです」

「そうです。そうです。私もそう思います」

「お寺で教えておられるようですが?」

「幼い子を二、三人。庄屋のお子さんとか。先々、読み書きが必要なお子さんを、特に頼まれまして」

「・・・」

「御城下には藩士の子弟や御商売をされている方とかいろいろおられますが、粟根のような山奥は百姓ばかりで。親は子を使おうとします。紙や墨も要ることですし・・・」

 

 聞くところによると、寺子屋に子どもを通わすには、月々の月謝のほか、盆暮れに米を一斗か二斗。筆、墨、半紙も用意する。『千字本』、『伊呂波(いろは)(うた)』、『消息(しょうそく)往来(おうらい)』、『庭訓(ていきん)往来(おうらい)商売往来などの教科書を次々と買い(そろ)

「お寺だけでは、とても。御支援をいただける方があれば、ありがたいのですが・・・そうそう、宗派は違いますが、深津(ふかつ)村の長尾寺(ちょうびじ)さんでは、庄屋の石井英太郎さんの特段の(きも)入りで」

「噂に聞いています。(すい)(しょう)館でしょう。誠之館の指導も受けておられるとか」

「御城下に近い、あの地域だからできることでしょうが・・・」

「そうですか。石井さんなら藩庁でよくお会いします。一度お伺いしてみましょう」

 

    翠松館

長尾寺の翠松館は、寺子屋の域を超え、新しい教育に取り組んでいると聞く。それを、庄屋で村総代の石井英太郎さんが支援しておられるそうだ。早速、深津村の長尾寺を訪ねた。

御城下へ入る手前で東へ山裾(やますそ)を進み、深津(ふかつ)嶋山(しまやま)の丘を南へ、墓地を抜けると長尾寺(ちょうびじ)境内(けいだい)に出た。本堂から教師の声が聞こえる。いきなり本堂へ上るのもいかがか・・・庫裏(くり)へ回った。

 

御住職へ見学をお願いすると、

「そうですか。さあ、どうぞ、どうぞ」

 重い障子を開けて、本堂に入る。

子ども達は論語の勉強中だ。

(もう)()(はく)、孝を問う」 「孟武伯、孝を問う」

()(いわ)く」 「子曰く」

「父母は()だ」 「父母は唯だ」

「其の(しつ)をこれ(うれ)う」 「其の疾をこれ憂う」

大きい子も小さい子も一緒に暗唱する大きな声が、本堂に響き渡る。観音様も、何かしら微笑(ほほえ)んでおられるようだ。

 教師がその意を説く。

子ども達は私に気付いたはずだが、じっと前を見て先生の話を聞いている。後から聞くと、見学者が多いので、脇見をしないように指導しているとのことだ。身形(みなり)もきちんとしている。

 

 廊下に出て、小声で話す。

「御住職も、お勉強の方を?」

「ええ、私も教えます。今は全体でやっていますが。もう少ししましたら(した)の子を

「それじゃあ、お二人で?」

「いえ、今日はお見えになっていませんが、同仁館の藤井塵外先生にもお手伝いいただいています。それから、時折、誠之館から先生に御出張いただいております」

「子どもさんはこの辺りから?」

「いえ、いえ。市村(いちむら)引野(ひきの)や、(やぶ)()千田(せんだ)の方からも」

 深津村だけでなく、アチコチの村から来ている。

 

休憩になった。教師の藤間月石さんから、子ども達の年齢や教科、授業時間などをざっと教えていただいた。

長居(ながい)はいけない。

庫裏(くり)渡る廊下で住職から聞いた寺では参りや仏事がある。専用の建物を検討中とか

「これから、石井様のお宅へ伺ってみようと思います」

「ああ、そうですか。いらっしゃればよいですが・・・」

長尾寺は高台にある。門に立つと、眼下に海と田園が開けた。急な石段の先に、石井英太郎さんの広い家屋敷が見える。

 

石井英太郎さんは庄屋で村総代だ。藩の公議局下局の議員も務めておられる。藩庁でしょっちゅうお会いする。これまでにも何度か、藩政について御意見を伺った。今日は藩庁に上がり、お昼に帰られるとのこと。広い土間の椅子に腰を掛けて待たせていただいた。

土間を見渡すと、一抱えもある大黒柱。その上に黒々として、牛かと見紛(みまが)うほどの大きな(こう)(りょう)が乗る薄暗い屋根裏の(すす)(だけ)が鈍く光り、整然と巻かれた白く浮かぶ頑丈な造りだ。

 

「やあ、窪田さん。わざわざ家までどうも。最近は藩庁でお会いしませんね。お元気ですか?」

「石井さん。突然、済みません。実は、子どもの教育のことでして。先ほど、長尾寺の翠松館を見せていただきました」

「それはどうも。子どもらは勉強していましたか?」

「ええ、たいへん熱心に・・・私どもも何とかしたいのですが、何分にも山の中でして」

「この辺でも、来ない子は沢山いますよ。授業料を安くするよう努力しているのですが」

「石井さんのようなお方がいらっしゃれば、ありがたいのですが」

「藩の実情は、窪田さんも御承知の通りです。私たちが頑張らなければと思っています」

 

 石井家は、代々、地域に貢献しておられる。藩も頼りとする『福府(ふくふ)義倉(ぎそう)』は、英太郎さんの四代前が(のこ)された銀六十貫目が始まりと聞く。お陰で、飢饉の度に多くの人が助かった。昨年の冷害には、私たちも救援米をいただいて(かゆ)の炊き出しをした。この『福府義倉』は教育にも取り組み、誠之館の施設整備や教育費を助成、あるいは医師の育成や図書の購入、講演会なども支援している。英太郎さんが教育に熱心なのも分かる気がする。

「誠之館では、藩士に限らず、一般の者にも門戸を開いているとのことですが?」

「ええ、ここからも優秀な子を推薦していますよ。しかし、それはほんの(ひと)(にぎ)です誠之館は生徒を増やす訳に行かないようで

 奥さんが出て来られた。

「皆さん。お食事になさっては。有り合わせのものですけど」

 英太郎さんにも勧められ、遠慮なく御馳走(ごちそう)になった。


     啓蒙

 さてと、どうするか・・・。

そうだ、誠之館へ行ってみよう。佐沢太郎君に相談してみたい。

 誠之館は、お城の南。

お城を背後に門をくぐる。そして正面玄関の前を右に、脇玄関から入る。

 

「佐沢教授でございますか。いらっしゃいます。どうぞこちらへ」

丁重(ていちょう)に案内していただいた。

「教授。お客様でございます」

実に丁重だ・・・それもそのはずだ。彼は一等教授。権少参事並だ。人前では、兄貴面(あにきづら)軽々(かるがる)しく話せない。

一室へ通された。二人切りだが、誠之館だと思えば緊張する。

「この前は、お邪魔しました。家に着いた頃には、日もとっぷり暮れました」

「いや、今日は相談したいことがありまして・・・。実は子どもの教育のことです。粟根のような山の中では、寺子屋さえもありません。そのまま大人(おとな)になってしまうかと思うとそれでは、いつまで経っても変わりません」

私は、本能がなせるままに明け暮れる村人の姿を話した。

 

 太郎君は、さすが教授。教授然として淡々と話し始めた。

「窪田さん、おっしゃるとおりです。このままではいけません。例えばです。猫を御覧なさい。母猫が尾っぽを振り、子猫が(たわむ)。何でもないことのようですが、実は(ねずみ)を捕ることを教えているのです。獅子(しし)は子を千尋(せんじん)の谷へ落とすと言います。それも親の愛です。人間(ひと)も、子どもを放ったらかしにしてはいけません」

(フラ)(ンス)はどうしていますか? 子どもの教育を・・・」

「仏国も、長い間、教育は上層の一部の者に限られていました。日本が藩士に限られていますように・・・そのため多くの国民は無知で貧しく、生活に(あえ)いでいました。それではいけないと改革を断行したのです。まずは文明の何たるかを啓蒙して・・・」

「啓蒙?」

「そう、啓蒙です。無知な人々の目を覚ますのです、今では、すべての子どもに教育を施すことを国是(こくぜ)としています。どんな山村にも学校があるそうです」

「粟根のような山村にも?」

「もちろん、あります。教育は村の責任、国の責任と考えています」

「それは、どのようなものですか?」

「そうですね・・・小学校と言い、下等小学校と上等小学校があります。下等小学校は六歳から。十四歳から上等に進みます。小学校に入る前に育幼院もあります。それは、主として女性に任せます」

「・・・」

「小学校には、公立と私立があります。村には必ず公立の小学校一校を設けることになっており、村の議院の建言を聴いて文部卿が認めます。小学校の管理は、戸長がします。税とは別に運上(うんじょう)(きん)を取ります。租税の百分の三を超えてはならないことになっています。それから、生徒は謝金を払います」

「誰もが運上金や謝金を払うのですか?」

「そのようです。但し、貧しくて謝金を払うのが無理と村の議院が認めた者は払わなくてよいそうです・・・それから、私立の小学校の場合、生徒は月々、納金を払います。納金は高いそうですが、豊かな者は私立へやるようです」

 うーん・・・我が藩では、新たに税を取るのは無理だ。生徒から謝金を取るのも無理だ。昨年、藩に建言したが、取り合ってもらえなかった。分り切っている。

 

     平人ニテ社中ヲ結ヒ学校ヲ建テ

それから何日か、悶々(もんもん)として過ごした。

税は無理。謝金も無理。それが仏国に出来て、なぜ日本に出来ない。文明開化は掛け声だけか。粟根のような寒村ではどうしようもない。私一人で寺子屋でも始めるか・・・。

堂々(どうどう)(めぐ)飽きた。秋の日差(ひざ)しが(まぶ)しい。診察室の椅子にもたれて、うつらうつらしていた。

そこへキョロキョロしながら、勘三君が入ってきた。

「先生、ありがとうございました、これを」

「読んだかい、(しま)いまで

「はい。全部書き写しました」

 

勘三君は、七、八歳の頃、宝物を見せると言ってやって来た。見ると『消息(しょうそく)往来(おうらい)ではないか。寺子屋で使っている教科書だ。兄が神辺(かんなべ)の親戚から(もら)ってきたと言う。並んで座って数行を四、五回読んでやった。すると三君は翌日にやって来て、ほとんど間違いなく読めた。そこで今度は、地面に棒で書いて書き方を教えてやった。また翌日に来た時は、ほとんど見ずに書た。飲み込みが早い。私は嬉しくなって、次々と新しい教科書や本を貸与えた

今日は、先月に貸した福沢諭吉の『西洋事情』を返しに来た。

「どうだった、西洋のことは?」

「はい・・・学校ですが、田舎にもあるのですか?」

「あるらしいよ、国中の村に」

「皆、学校へ?」

「そうだよ。六、七歳になれば」

「男も女もですね。それも、昼間に学校へ。仕事は何時(いつ)するのですか

「いやいや、子どもは学校が仕事だ。学校が終わった後に、家の手伝いをする」

「・・・」

 村は稲刈りの最中だ。勘三君は何か理由を付けて、仕事を抜けて来たに違いない。

 

「日本も、そうならなければならない。藩士に限らず誰でも皆、学校へ行けるように。昨年、誠之館の総督になられた浜野少参事は、百姓や商人にも入学の道を開かれた」

 そうだ、仕事中の勘三君を引き留めてはいけない。君も頑張ってと言うと、勘三君は、「はい。分かりました」と言って元気よく坂を下って行った。

 何気(なにげ)なくパラパラと『西洋事情』をめくると、『学校』の頁が()いたこの頁を、三君何度も読んだに違いない。

『西洋各国ノ都府ハ(もと)ヨリ 村落ルマテモ 学校アラサルナシ 学校政府ヨリ 教師給料エテ ヘシムルモノアリ  平人ニテ社中()ヒ 学校ヲ建テ 教授スルモノアリ 人(うま)レテ六七歳 男女皆学校ニ入ル・・・』

 

これだ、これだ。こうすればよい。藩がやらないなら、平人がやればよい。社中を結んで・・・。

 石井英太郎さんほど多額でなくとも、力を貸していただける方は粟根村にもおられるだろう。農家なら少しずつお米を出して。秋の収穫時に、一升や二升はなんとかなるだろう。子どもの教育が大切ということを、よくよくお話しすれば・・・。

 思い付くところを書き留めた。

 教師の扶持米が年間三石六斗。百戸で割れば、一戸当たり三升六合。もっと出していただける家もあるだろう?

他に教科書や紙、墨はどうする?

第一、何を教えるか? 太郎君に相談しよう。

 新たに建物を建てるのは大変だ。どこかの部屋を借りる。お寺に頼むか?

この計画を、誰が進めるか?

村総代や庄屋に、本気になってもらわなければ・・・。

  

     学校掛の杉山新十郎さん

 思いついたら、()ても立っても()れない。再び、誠之館へ(かけ)った

私の案も一つの方法だ、英国や米国では、これに似た方法を採っていると太郎君は言う。太郎君の意見を聞き、教科、入学や卒業の年齢、教師の育成などの構想を練った。

 

 それから、さらに日が過ぎた。

 その間、出来立ての構想を、村総代の藤井平太さんや弟の平治さんに話して意見を求めた。平太さんは、我が子を神辺(かんなべ)の塾に通わせている。平治さんには、私と同じような幼子(おさなご)がいる。平太さんや平治さんは、お米を出すのなら踏ん張ると言ってくれた。

 妙永寺の御住職の日將さんに教場のことを相談すると、皆さんの寺だ、使いなさいと言っていただいた。まるっきり(ただ)という訳にと言うと、子どものオシッコが溜まる、それでいいよと笑っておっしゃった。糞尿は農家の大切な堆肥だ。今も、周りの農家が寺に(だい)を払って汲み取っている。しかし、元気な子どものことだ。畳が(いた)む。それまで甘える訳に行かない。

 

 稲刈りもたけなわの頃、神辺(かんなべ)郡役所から呼び出しがあった藩庁から学校掛がお見えになると言う。

さては、教授辞退の件か・・・。

村総代の平太さんに相談して一緒に出向いた。心配して平治さんも同行してくれた。

 ところが、話は違った。

藩庁の学校掛から、少属の杉山新十郎さんがお一人だけ。

佐沢教授から進言があった。私が考えている学校の構想について、話を聞かせて欲しいとのことだ。

 

 構想の粗方(あらかた)を説明した。

 天井を(にら)んでいた杉山少属が、ぼそっと言った。

「なるほど。面白そうですね。寺子屋とも違いますね。佐沢教授がお話の仏国の小学校とも」

 三人が杉山少属の顔を見詰めていると、さらに、

「御承知の通り、藩ではとても・・・税を増やすと言えば、聞き入れてもらえないでしょう。これは、皆さんの(ほう)

 平治さんが援護してくれた。

「そうです。可愛(かわい)い我が子のためですから」

 村総代の平太さんも、

「村の子のためですから」

 杉山少属は、二人に向かって身を乗り出して、

「皆さんにお世話していただけますか?」

「それはもちろん。できる限りのことは」

 

 杉山少属は、年齢(とし)を聞けば、より一歳だ。話が前向きだ平治さんとも馬が合。四人はほとんど同世代で打ち解けた。

杉山少属から、構想をまとめて欲しいと頼まれた。

 行きは良い良い、帰りは(こわ)いの逆だ。三人は、学校を語らいながら加茂谷を(のぼ)った。

 

 



    
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 <ご参考>
 ・参考史料
    備後福山 佐沢太郎訳述「絵入 啓蒙訓話」丸屋善七発行・書店細謹社近代デジタルライブラリー(国立国会図書館
    佐沢太郎訳・河津裕之閲「仏国学制」文部省発行 近代デジタルライブラリー(国立国会図書館)
    「深津小学校沿革史」(『翠松館』深津小学校百二十年史・資料)

 ・参考文献
    海後宗臣「福山藩の佛蘭西学者ー佐澤太郎先生と佛國学制」帝大教育
    有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
    石井吉馬著「加茂谷風土」
    「誠之館百三十年史・上巻」福山誠之館同窓会
    西田知己著「寺子屋の楽しい勉強法―子どもたちは象をどう量ったのか?」柏書房

 ・舞台となった場所の今日



   妙永寺

   寺の裏の山手に、窪田次郎の家があった。

   日本すきま漫遊記「妙永寺」










    長尾寺






      備後西国三十三カ所巡礼案内三十番宝龍山長尾寺(エイト出版社











   財団法人 義倉
     お城の東の城見町の事務所
     今も、社会貢献を続ける
     門前の「義倉田」の碑は、かって義倉田にあったものを移転した


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  福山城天守閣から南を望む

  手前から
  山陽本線と新幹線の福山駅辺りは、三の丸と堀
  駅前の左辺りに同仁館があった
  南へ道路が延びる。その左側に誠之館があった
  中央の山の向こうに、鞆の港