「窪田次郎が遺した日本の宿題」
第一章 啓蒙所 その1
第一章 啓蒙所
村の医師
暑い、蒸し暑い。梅雨の中休みか。
涼しいうちに家を出たが、一日がかりの往診になった。
後ろから、私を追い駆ける者がいる。作太郎さんだな。道下の田圃で田の草を取っていた。
「若先生、お持ちしましょう」
「やあ、作太郎さん。いつも済まないねえ」
医療器具が入った鞄はけっこう重い。谷に沿って上る道はそんなに急ではないが、疲れた身には応える。作太郎さんの申し出を遠慮なく受けよう。
「妹さんのお加減はどうですか?」
田圃から上がったばかりの作太郎さんは、泥で鞄を汚すまいと難しそうに持っている。
鞄を持ち替えて、
「ありがとうございます。お陰さまで。今朝も離れからにっこりと」
作太郎さんは、昨年の冷害にやられた。前々から、庄屋に年貢を立て替えてもらっていた。不作で食べる物にも事欠き、どうしようもなく田畑を手放して小作になった。そのうえ妹は肺を患い、嫁ぎ先から返された。辛いことが続いている。妹さんの薬代も溜まっている。こうして鞄を持ってくれるのも、それを気遣ってのことだろう。
明治も、早や三年。
私は、三十五歳になった。疲れが取れにくい。
子どもの頃から弱かった。十歳になるまで歩くことができず、母の背で育った。そして二年前に、わずか二歳の我が子の林太郎を死なせてしまった。その看護の疲れで風邪をこじらせ、今もって肺や肝臓が思わしくない。
我が家は、谷を見下ろす高台にある。屋敷への上り道は急だ。さすがの作太郎さんも声が出ない。
門をくぐると、茅葺きの母屋、裏に別棟の土蔵や納屋、風呂がある。母屋には、患者用の玄関に続いて待合室、診療室、薬局。家族は奥の部屋に住んでいる。前庭は萍寄園と呼び、築山と池があり、薬草が植えてある。そして裏庭には、樹齢数百年の大きなエノキがそびえ立つ。
我が家に着くとほっとする。つるべ井戸から水を汲み上げて喉を潤した。その物音に気付いたのか、妻のツギが娘の類を背負って、裏口から出て来た。
「作太郎さん、いつも済みませんね。妹さん、いかがですか?」
「ありがとうございます。お陰さまで・・・あらら、類ちゃん。こんにちは」
「ほんと、暑いのに、しようがないのです。這うようになって、目が放せませんの」
類は、母の髪を掴んで笑っている。
「作太郎さん。暑いと言っても、病人に夜風は禁物。夜は雨戸を閉め、布団もしっかりと。それから、貰い物で失礼ですが、妹さんには栄養が一番です」
往診先でいただいた鯵の干物を何枚か、庭の蕗の葉に包んで渡した。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
作太郎さんは何度も腰を曲げ、坂を下って行った。
待っていたかのように、妻が私に伝えた。
「使丁さんが参られまして。近いうちに、同仁館の寺地館長さんのところへおいでくださいとのことでした」
医師の研修のことで藩に願い書を出した。きっと、そのことだ。
「ああ、そう。じゃあ、明日、出掛けるよ」
入れ替わりに、男の子の一団がやって来た。
広い屋敷は西の山を背にして、陽が早く陰る。大きなエノキが風を呼ぶのか、涼しい。夏の夕暮れ時は、子ども達の格好な遊び場になる。
「タン、タン、タン・・・タン、タン、タン・・・ミニエー銃だ、まいったか!」
「なにくそ、長州め! 引け、引け!」
「チャーチャーラ ラッチャチャ チャーチャーラ ラッチャチャ・・・」
錦の御旗の積りか、竹棒を押し立てて裏庭を練り歩く。
大将が、庭石の上に立ち、
「万機公論に決すべし」
難病
医局に入ると、トメさんが部屋の掃除をしていた。妻が幼子や父母の面倒を見るようになってから、近所の娘のトメさんに医院を手伝ってもらっている。
「小六さんがおいでになりまして。息子さんの熱が下がりました、ありがとうございました・・・それから、甚助さん。お婆さんが来られまして。明日にでも、診てもらいたいそうです」
「ああ、そう。明日は藩庁へ伺う。今日のうちに行って来よう。そうそう、トメさん、もういいよ」
私は一息ついて、薬の調合を始めた。往診先から薬を取りに来ることになっている。
医院は、父亮貞の後を継いで七年になる。父は六十九歳。高齢のうえ中風を患い、手足が麻痺している。足を引きずりながら薬局へ入って来た。
「御苦労、御苦労。どうだった。やっぱり腹水が・・・」
「はい、もうかなり進んでいます。お姑さんがなかなか診せてくれなくて。親父さんが帰られて、やっと・・・祈祷にかかっているようで。枕元に何やら置いてありました」
粟根村から嫁いだ娘が病気らしい。親が心配して、父に往診を頼んだのだ。
「伝染る病気とも思えないが。なぜか、あの片山の辺りが。症状からして、肝か腎だと思うが」
「私もそう思います。既に黄疸が。取り敢えず、薬もそのように」
吐き気がしたり、血便が出るのもおかしい。肝臓がやられ、胃腸がやられる。ほかの家族には、そのような症状は見られないのだが・・・
父と私は、この病気について何度も議論したが、結局、解らない。とにかく事例に当たってみようということになっている。
「親御さんに、どう言えばよいものやら。しかし、何でそうなるのか。やっぱり水が悪いのか。それにしても、誰彼という訳でもないのだが・・・」
父は、一人呟きながら奥へ入った。
母のタカも奥の部屋にいる。夏でも床を上げられない。這うのがやっとだ。
そして、弟の堅三がいる。二十六歳になる。裏の小部屋にいる。関東は佐倉の順天堂で医学を学んだ。次は、大学東校を目指して勉強している。
往診
夕刻、甚助さんの往診に行った。
納屋から、木綿を織る高機の音が聞こえる。
「トントン カタ・・・トントン カタ・・・」
高機は、息子の嫁が嫁入り道具と一緒に持ってきた。仕事も、嫁の里から回してもらう。
綿作は、温暖で雨の少ない瀬戸内の気候に合う。そして福山産の木綿は繊維が強くて暖かいと東北で人気があり、鞆の港から北前船に乗せる。農家にとって年中できる仕事で、現金収入になる。
軒下に女の子がいた。まだ小さいのに、幼児を背負わされている。私を見て奥へ告げた。
お婆さんが戸口に出て、
「これは、これは、お忙しいのにありがとうございます」
高機の音が止まり、嫁がやって来て、甚助さんを寝床から起こした。
甚助さんは十年近く前に脊髄を痛め、以来、半身不随で寝込んでいる。この二、三日、衰弱して食べ物を口にしないと言う。
「お爺さん、若先生においでいただきましたよ。この暑さにまいったのでございましょう」
診察を始めた。甚助さんは何か言いたげだが、興奮気味で聞き取れない。子どもが呼びに行ったのか、息子の甚平君が田圃から帰ってきた。汗を拭きながら、縁側から中の様子を見ていた。
往診を終えて、我が窪田家の夕食。
夏場は、居間の畳を上げる。板の間は黒く光り、冷たくて気持ち良い。父を上座に、それぞれが箱膳を持ち寄って輪になる。食事中の娘の守は私の役目だ。この九月で一歳になる娘の類を膝に抱く。類は何かを掴もうとして、じっとしていない。
母がいざりながら、奥座敷から出てきた。頻りに類を呼ぶ。
「類ちゃん、類ちゃん」
しかめ面の父亮貞も、微笑みながら類を見守る。勉強中の堅三も息抜きになる。一家団欒の楽しいひと時だ。妻が御飯やおかずを配り、合掌で食事が始まった。
同仁館
谷を下ると、隣の芦原村に賀茂神社がある。
この地がその昔、京都の賀茂神社の荘園だったことに由来する。粟根村と芦原村と中野村の三つの村の鎮守だ。今も、三カ村が総出でお祭りをする。秋祭りの羽踊りや神輿は賑やかだ。ところが昨年は、冷害で中止になった。今年こそは、威勢の良い神輿を見たいものだ。
境内の入り口に、石の鳥居がある。その柱に、
『 正徳四年寄進 窪田吉兵衛健寛
出原仁右衛門包舊 』と刻まれている。
「正徳」は徳川中期の年号だ。その頃、窪田家は庄屋として大いに栄えた。鳥居は、芦原村の庄屋の出原家と窪田家が寄進した。しかしその後、窪田家は没落して田を売り、山を売り、広い屋敷に大きな家とわずかな田が残った。
私は、神社の前を通る度に、鳥居の前で拝礼する。
福山の御城下まで三里八町。一気には行けない。途中で辻堂や石垣に腰を掛け、ひと休みも、ふた休みもした。千田大峠を上る頃には汗だくだく。ようやく右手にお城が見えた。
お城の東北の吉津橋を渡り、賑わう街を抜けてお堀端へ。
『見たか見てきたか福山の城を 前はお堀でチョイと鯔がすむ』
とんど祭りのお囃子に唄われるように、もともと城の堀は海に繋がっていた。その海に繋がる入江とお堀を仕切る築切を渡ったところに、同仁館がある。藩校誠之館の医学部門として、昨年九月に開設されたばかり。医学校だが、医学生の研修を兼ねて診療や施薬もする。
寺地強平館長は、藩主で幕府老中首座の阿部正弘公に蘭書を講じられた藩の大御所だ。その寺地館長がお呼びとは・・・。
実はこの春、私は医薬の件で藩に願い書を提出した。
その願いとは・・・西洋医学が普及しつつあるが、医師や薬司が不勉強なため薬を間違って使い、不幸な事故を起こしている。そうした市井の医師や薬司が西洋医学を学ぶ教場を開設して欲しい、というものだ。
寺地館長の部屋に通された。
「やあ、窪田さん。暑い時にお呼び立てしまして」
「ちょうど、お忙しい時に済みません」
「いつもこの調子ですよ。医学生が増えました。患者も多くなりました」
「先生のような方がいらっしゃれば、遠くからも」
「いやあ、私がすべてを診るわけではありません・・・ところで、窪田さん。お出しになった願い書。読ませていただきました。おっしゃるとおりですよ」
やはり、そのことか。
「窪田さん、どうでしょう。同仁館をお手伝い願えませんか?」
「はあ?」
「同仁館も発足したばかりで、先生方がお若くて。現場の経験が豊富な窪田さんのお力をお借りしたいのです」
願い書を提出した手前、即座に断ることもできない。
「私がお願いしたのは、町場の医師や薬司の研修のことですが・・・」
寺地館長は、少し声を上げて、
「もちろん、それも考えています。医師や薬司がいい加減なことをしてくれては困ります。しかし、漢方に凝り固まっている者は、なかなか大変です。その点、若い者は、飲み込みが早い」
確かにそうだ。医師も薬司も己が正しいと思ってやっている。新しいものに抵抗があることも分かる。しかし中には、妙薬と言って患者の弱みに付け込んで儲けている輩もいるらしい。
たじろいでいると、寺地先生は続けた。
「しばらく、現場を見てもらえませんか?」
先ほどから、診療所の方が騒がしい。子どもが泣き叫んでいる。寺地館長は、何事かと席を立たれた。私もそちらを覗いた。医師や医学生が右往左往。母親らしい女性がおろおろ。お女中が子守をしていたのか、しきりにお詫びを言っている。そのうち、御家来と思われる者がやって来て、館長と話し込んでいる。
館長は振り返って、私に、
「この有様です。とにかく頼みますよ、窪田さん」
水争い
汗疹が痒いのか、娘の類がぐずって寝ようとしない。抱いて庭に出た。
蛍が飛んでいる。
「ほう、ほう、蛍来い。こっちの水は甘いぞ・・・」
背戸の山から下りる風が涼しい。
突然、谷から甲高い叫び声。
「もう、我慢ならん!」
「我慢ならんとは、なんだ。もう一度、言ってみろ!」
「ああ、言ってやる・・・・」
後は早口で聞き取れない。女性の泣き叫ぶ声も聞こえる。
「堪えてください。堪えてください」
私は、類を妻に預けて坂を下った。
数人が水路を跨いで、言い争っている。
「太陽が陰ると、堰戸を外す約束だろうが!」
「・・・」
「夜になると、水を盗む」
「盗むとは何だ。家の田を見てくれ。乾上っている」
「だからと言って、夜、コソコソするな!」
「コソコソとは何だ!」
上から下から加勢が来た。
「まあ、まあ。堪えて、堪えて・・・」
「いや、もう、堪えられん! わしらはいつも泣き寝入りだ!」
仲裁もだめか。
「なにもかもそうだ。お前らは勝手過ぎる」
「なに!」
今にも、取っ組み合いになりそうだ。
片方の妻が泣き声でお詫びを言っている。
「堪えてください、堪えてください」
そこへ村総代の弟の藤井平治さんが駆け付け、大声で皆を静めた。
「今夜のところは、帰った、帰った。帰れと言うのが分からんのか!」
平治さんは堰戸を少し外して、水が半々に流れるようにした。
「明日、双方の組頭を入れて話そう」
喧嘩には手慣れたものだ。平治さんの一声で収まった。
加茂谷は奥が浅く、川の水が少ない。限られた水をどう分けるか、村の大きな問題だ。
昨年は冷害。今年は旱魃。自然の気紛れに悩まされる。
二等教授兼薬局司
私は、村の診察や往診の合間を見て同仁館に出向いた。若い医師や医学生と診察する。そして、後で若い人と話すのも結構、楽しい。同仁館の新しい医術にも興味があった。
そのようなことで半月くらい経った頃、医学生の質問に応じていると、寺地館長から呼ばれた。
館長室へ入ると、寺地館長はおもむろに腰を上げ、姿勢を正して、
「窪田さん。ようやく辞令が下りました。
同仁館二等教授兼薬局司を命ず
但し、扶持米三十五俵並びに官金を給す
窪田さん。宜しくお願いします」
辞令を渡された。
いきなりのことで唖然として、言葉が出ない。
さらに、寺地館長は、
「窪田さん。窪田さんの診立ては好評です。学生も勉強になると言っています。涼しくなったら、本腰を入れてやってもらえませんか?」
「私は、唯、町場の医師や薬司の研修のことで協力できればと・・・」
「それも、いずれ考えます」
「粟根から通うのは、とても・・・」
「でしたら、こちらへ出て来られませんか?」
「それは困ります。粟根のことがございますから」
「粟根は弟さんが?」
「弟はまだまだ。これからまた、東京へ行くと言っております」
「そうですか・・・そこを何とか、なりませんか? 頼みますよ」
寺地館長は強腰だ。
どうしたものか。
私のあやふやな態度がいけなかったのか。
ひとまず帰るしかない。暑い日差しの中、とぼとぼと粟根に向かった。
賀茂神社に着いた。鳥居の前でいつものように拝礼した。境内には老木が茂り、木漏れ日が揺れて涼しそうだ。吸い込まれるように鳥居をくぐった。木陰の石は、冷たくて気持ちが良い。馴染みの石に腰を掛けた。
それにしても、父に相談しなければ・・・。
思えばその昔、似たようなことがあった。
私が遊学中の二十二歳の時、福山藩主で幕府老中の正弘公が御病気になられ、藩医の一員に推挙された。藩医になれば、幕府の医学校に通える。将来も万々だ。貧しい我が家にとって願ってもない話だ。
私は、父に手紙を書いた。父は喜んでくれるか。息子の栄達を望まない親はいないだろう。
しかし・・・しかし、窪田家には、特別な事情があった。
父亮貞が養子に入った頃、窪田家は没落して貧しかった。どうしても蘭医学を修めたかった父は、粟根村をはじめ隣の芦原村や北山村の方々にお願いして助情講を作ってもらい、そのお陰で長崎へ行き、オランダ商館医シーボルトの鳴滝塾で蘭医学を修めた。その上、医院の建設も村人のお世話になった。その御恩を忘れてはならない・・・これが父の口癖だ。それは、父の代で終わるものではない。一旦、藩医となり、主の御恩を被れば、以後は主命に従うほかなくなる。父の思いを察して断った。
その後、父から手紙が来た。済まんが断るように・・・。
今にして思えば、その時が私の人生の分れ路だった。
我が家には、弟の堅三がいる。
父は、私に粟根の医院を継がせ、弟には医学の道を進ませたいと考えている。弟は、父の期待を一身に受けて勉強中だ。大学東校へ入り、本腰を入れて勉強したいと思っている。粟根を継ぐのは、私しかいない。
つい、ウトウトした。気が付くと、境内の木陰で幼児が遊んでいる。長男の林太郎が生きていれば、このくらいか。男の子の中に、我が子を探した。
医院には、数人の患者が待っていた。
一段落した。ふう、疲れた。
さて、父に・・・
父は何と言われるか。あのお年齢で、また心配を掛ける。
そうだ、井伏さんに相談しよう。父が長崎へ行くことができたのも、井伏さんのお陰だ。井伏さんの発起で助情講を組んでいただいた。その後も何かとお世話になっている。
井伏家は、我が家の下の道をわずかに上った山裾にある。永助さんと息子の民左衛門さんがおられた。永助さんは、
「ともかく、老先生にお話しなければ・・・村としても困ることだ。村総代にも相談しなければ」
父に話した。父は、いつものように肘をついて、手の平に頬を乗せ、しばらく机上の本に目をやっていたが、やがて、悲しそうな眼で私を見上げて、
「わしに、またやれと言うのか?」
吐き捨てるように言った。よい年をして頼り甲斐のない奴だと言いたげだ。
娘の類に授乳をしている妻にも話した。最近、私がよく出掛けるので心配していた。
車座
井伏民左衛門さんと一緒に、村総代の藤井平太さんの家へ向かった。村総代の家は、加茂谷のやや奥まった所にある。
村総代は、直ちに動いた。粟根村にとって大変な問題だ。その夜、組頭など主だった者を自宅へ招集した。粟根東右衛門さん、井伏民左衛門さん、そして村総代の弟の藤井平治さん、それに各組の組頭等いつもの面々だ。
この会合はしばしば持たれる。随時に集まって村の問題を話し合った。そして、村総代が郡役所で書き写した布達などを読み合わせ、私が藩庁で聞いたことなどを伝えた。時には夜遅くまで議論することもあった。会合では車座になる。車座になると、お互いの顔が見れる。皆が理解しているか、賛成か、反対か、よく分かる。暗くなると、真ん中に灯明を置く。
私が、細かく経緯を話した。
「もっと早いうちに御相談しなければならなかったのですが・・・・」
次々と意見が出た。
平治さんは、血気盛んだ。
「お上は、粟根のような山の中をどうでもよいと思っているのか?」
反骨の組頭が、声高に、
「三十五俵とは沢山な米を! 米を餌に先生を釣る気か!」
長老の粟根東右衛門さんが、冷静に問い掛けた。
「村の大事な先生だ。藩は、村の事情を御承知なのだろうか?」
「寺地先生は、父や私のことを御承知と思います」
「そのところをはっきりと申し上げなければ・・・」
「村には現に、若先生に掛っている患者が・・・」
井伏民左衛門さんが、指を折って患者の名前を挙げた。その中に、甚助さんや作太郎君の妹さんの名前もあった。
「偉い人には、そんなことはどうでもよいのよ!」
いつもは温顔な組頭の顔が引きつっている。
村総代の藤井平太さんは、役目柄、藩を気にした。
「下手に動くと、事が大きくなる。大騒ぎをすれば、どんなお咎めがあるやも知れん」
直訴は御法度。昔からの禁制の掟が染み付いている。
粟根東右衛門さんが、
「とにかく、藩に事情をお話しすることだ」
これを受けて、村総代が、
「私が藩に参ります。村の事情を詳しくお話してお願いします」
私も同行を申し出た。
捕まるという意見もあったが、逃げ果せるものでもない。とにかく私が招いた問題だ。私からよくよくお願したいと・・・
若連中
村が寝静まる頃から、虫の音に混じって若者の話し声が聞こえてきた。呼び合う声や笑い声、時には喧嘩腰の言争いも・・・酒が入ったのか、夜が更けるにつれて声が大きくなった。
話し合いも一段落。余計に耳に衝く。誰ともなく、
「村の一大事だというのに、呑気なものだ」
「どうせ、良からぬことを企んでいるに違いない」
いつもの新屋敷の作業小屋だ。
彼らは元気が余って夜な夜な屯し、巣食うように集る。愚痴を言ったり、喧嘩をしたり、いじめたり。そして、食べ物や酒を掠めて持ち寄る。遠出もする。そこには、それなりの掟があり、先輩から良いことも悪いことも習う。
「奴らにも困ったものだ」
口では迷惑そうに言っているが、今夜、ここに集った者も大半がその経験者だ。中には郡内に広く鳴らした者もいる。平治さんもその一人で、近在でその名を知らない者はいない。経験がないのは、幼い頃から粟根村を離れて備中の塾に預けられ、その後も遊学した私ぐらいかもしれない。
教授辞職願
翌日、私は部屋に篭って辞職願を書いた。
その中で、山村僻地の医療問題はもとより、家庭の事情や私の健康状態なども丁寧に書き添えた。
そして八月十八日の早朝、村総代の藤井平太さんと私は加茂谷を下った。この話は既に村中に広まっていた。道すがら走り寄って、励ましの声を掛けていただいた。
同仁館に着いたが、寺地館長はお休みで、御出勤は明日になるとのこと。やむなく同仁館の先生や近在の医者仲間を訪ね、その夜は桜馬場の弘宗寺へ宿泊した。
翌十九日。
寺地館長に会い、辞職願を提出した。
村総代の藤井平太さんが、恐れながらと村の事情を話した。
寺地館長は、村総代の話を聞いて、
「だから、医師の養成を急ぐのですよ。なんとか、協力していただけませんか?」
「村の衆が承知しません。若先生が頼りですから」
「そのうち、良い医者を送れると思いますが・・・」
「若先生だから、粟根のような山の中に。ほかに、あのような山村僻地に来ていただける医者がありましょうか?」
辞職を認めるとも、認めないとも言っていただけない。
既に藩命の辞令が下りている。寺地館長とて、簡単に「はい、そうですか」と言う訳には行かないだろう。これ以上、館長に迫るのもいかがか・・・切り上げざるを得なかった。
いかがしたものか。学校掛の浜野章吉少参事にお願いに上がろうか。藩庁を訪ねたが、少参事は既に帰られた後だ。御自宅に押し掛けようか、どうしよう。
このままでは粟根村へ帰れない。とにかく暑い。もう一晩、弘宗寺に宿泊して考えよう。
恩師の江木先生
弘宗寺で早めの夕食をいただき、村総代と相談していると、恩師の江木鰐水先生がお越しになった。藩の重鎮がわざわざ・・・申し訳ないことだ。
私は、備中の阪谷朗廬先生の桜渓塾で学んだ後、朗廬先生の勧めで江木鰐水先生の久敬舎で学んだ。江木先生は藩士の出ではない。同じように藩士でない私に期待を掛けていただいた。
江木先生は京の頼山陽に学んだ後、福山藩にお勤めになった。
そして早くから西洋の兵法や語学を学ばれた。そのため、ペリー艦隊が来航した折には、福山藩主で幕府老中首座の阿部正弘公から、関藤藤陰先生とともに洋書の研究やペリー艦隊の調査を命じられた。日米和親条約が締結された時には、ペリー提督主催の祝宴が開かれたポーハタン号へ乗り込まれたそうだ。
正弘公は開国に当たり、洋学の大切さを痛感された。そのため、幕府には洋学所、そして後の蛮書調所を設けるとともに、福山藩では藩校の誠之館を江戸と福山に創立された。以来、福山藩は他藩に先駆けて多くの若者が洋学に取り組むことになった。江木先生はその先頭に立たれた。
江木先生は、思いを溜めて来られたのか、矢継ぎ早に話された。
「次郎君、寺地館長から聞いたよ」
「寺地館長は、是非とも君が欲しいと言っている」
「君の実地の経験は貴重だ。それを後輩に教え、広く世のために尽くしてはどうか」
「西洋医学はどんどん進歩している。学問ができる君に、もっともっと学んで欲しい」
「君も藩のために、いろいろと活躍しているようだ。御城下に住んだ方が何かと便利だろう」
「これから年をとれば、村々を駆け回るのも辛くなる」
私は改めて、親子二代にわたり粟根村で医師を務めている事情を話した。そして村総代の平太さんも、恐縮の体で村の実情を話した。先生には、そうか、そうかと耳を傾けていただいた。
「私にも田舎がある。田舎の実情はよく分かる。村で大切に思っていただくことはありがたいことだ。師としても嬉しい」
話が和んできた。
「自分も死ぬまで、藩のために尽くす積りだ」
江木鰐水先生は、藩の治水・利水や殖産政策を推し進めておられる。久し振りに恩師の元気なお話を聴いた。
村総代の平太さんは、御住職の誘いで別室に移った。気を利かしていただいたのだろう。
「ところで、堅三君は元気でやっているか?」
「はい。東京へ行きたいと申します。小林達太郎君を頼って・・・」
「そうか、達太郎君は東校の准少助教。頼りになる」
一息おいて、江木先生は、
「知っているだろうが、堅三君と同い年の五十川基は元気になって福山を発った。高遠と一緒に亜米利加へ渡る。高遠は華頂宮博経親王の随員。基は盛岡藩知事の弟の南部英麻呂様の随員・・・藩として誠に名誉なことだ」
高遠君は江木先生の四男。大学南校に在学中に、親王の随員に選ばれた。
そして五十川基君は、江木先生の奥様の兄の子だ。もともと医師を志したが、藩の命令で洋学を学び、幕府の蕃書調所へ通った。福山に帰っては、誠之館の洋学世話取りになった。そして若くして公議局下局の議長を務め、同仁館の設立に尽くした。彼とは、江木先生の久敬舎でよく議論したものだ。
「君と話しているときは楽しかった、勉強になったと五十川は言っていたよ」
「私の方こそ、基君に西洋のことをいろいろ教わりました。今度は亜米利加で実地に学ぶことになり、念願が叶いましたね」
「ああ、岡田大参事にたいへんお世話になった」
基君は、洋学を通して知る欧米を是非一度見てみたい、欧米で直々に学びたいと言っていた。
息子や甥の渡米を、先生はたいそうお喜びの御様子だ。さらに学友や藩政に話が及び、師と弟子の会話は夜半まで続いた。
儒教は、学問をして徳を積み、官に就いて善政を施すことを最善のことと教える。儒官の江木先生が弟子の私に仕官を勧め、出世を願って当然だ。
「出藍の誉と言うこともある。教え子が出世してくれると、師としても嬉しいものだ。君もよくよく考えて・・・」
私のことを心配してくださる。この度の同仁館教授の拝命も、江木先生に御推薦をいただいたようだ。
しかし、素直に「はい」とは言えなかった。
村の緊急集会
翌二十日の朝、寺地館長が弘宗寺に来られた。浜野少参事の言伝で、考え直すようにとのことだ。私が提出した辞職願も突き返された。藩の姿勢の並々ならないものを感じた。どうしよう。浜野少参事のところへ行こうか・・・行っても、無駄だろう。
こうなると、お咎めを覚悟しなければ・・・。
ぐずぐずしていると日が落ちた。二人は、日も暮れ、途方にも暮れて、粟根へ向かった。
その帰りの道すがら、思いつくままに詠んだ和歌一首、
『 野に置いて見れば美しげんげ花 吹くや尽さん夜嵐之音 』
滝野瓢水の俳句に、『 手に取るな やはり野に置け 蓮華草 』がある。蓮華草は野にあるから美しい。私の心も同じだ。粟根の山村で医師の使命を果たそうと頑張っているのに、無理矢理、引っ張り出して官に就けようとする。
村では、二人の帰りを待ち侘びていた。出発した日に帰らない。翌日も帰らない。今夜も遅い。さては、藩命に背いた罪で召し捕られたか・・・
雨戸を叩いて、井伏民左衛門さんへ報告した。
翌二十一日の朝、村総代は主だった者を我が家に集めた。ところが、話は既に村中に広がっていた。大勢が医院の庭へ押し掛けた。私は藩のお咎めを受けるのか、藩に召し捕られるのかと口々に問う。そのうち、村の一大事と気勢を張る者も出た。
村総代の平太さんが皆を鎮め、一昨日からの経緯を説明した。しかし、村人が静かに聞いている間もわずか。口々に問い詰める。
「村総代は、むざむざと引き下がったのか?」
後ろの方で、声を張り上げる者もいる。
父の亮貞が障子を開けて縁側に出ると、一瞬静まった。
村総代が父の前に進み、
「皆の衆、聞いてのとおりだ。藩庁にお願いに行った。しかし、良い返事がない。対策を練っているところだ・・・・」
またもや話が終わらないうちに、村総代の声は掻き消された。
村人は、集って話し合うことがめったにない。あるとすれば、緊急事態や揉め事がある時だ。そのような時、発言は荒っぽくなる。日頃の鬱憤が爆発する。怒り、責める。そのような話し方しかできないのだ。
「藩の言いなりになることはない!」
藩に押しかけよう、筵旗だ、と言う者まで出た。
高齢の井伏永助さんが父の前へ出て、父と言葉を交わした。それを見た村人は、永助さんに注目した。
「老先生がおっしゃるに、皆さんに御心配を掛けて申し訳ない、若先生をもう一度藩庁へ行かすと・・・」
するとまた、どっと声が上がった。
「今度行ったら、帰れない!」
村総代が長老の粟根東右衛門に相談した。そして大声で、
「だから、だから! 静かに! どうだろう、嘆願書をこしらえて、何人かでお願いに上がろう」
藩庁へ押し掛ける者は、十人に留める。人選は村総代に任す。行く者はお咎めを受けるやも知れない。皆で責任を持つ・・・ということになった。
村の嘆願
嘆願書を、粟根東右衛門さんがしたためた。
翌二十二日の朝、村総代ら十人が妙永寺の境内に集合した。道々で村人が見送った。中には病人もいた。私も賀茂神社まで見送った。直訴は重罪。命懸けだ。少なからず、お咎めがあるだろう。送る方も送られる方も、決死の覚悟だ。
十人は、昼過ぎに粟根に帰った。
村人は道に出て迎え、妙永寺の境内に集った。村総代の話では、藩庁の庭で、学校掛の浜野少参事に嘆願書を受け取っていただいた。浜野少参事は皆の前で嘆願書を読まれたが、特段の返事はなかったそうだ。
「山の中の粟根では、窪田先生が頼りでございます」
「貧乏人であろうと親切に診ていただけます」
「どこであろうと、誰であろうと、足軽に往診していただけます」
十人は口々にお願いしたが、やはり答えがなかったそうだ。
「とにかく、若先生が同仁館に行かなければよいのだ・・・」
「捕らえに来ないか・・・」
村人は口々に思いを述べたが、どうすることもできない。
以来、ビクビクしながら日々を過ごした。
塾友の佐沢太郎君
数日後に、佐沢太郎君が粟根にやって来た。
さては、寺地館長から頼まれて来たな・・・と直感した。
太郎君は少年の頃、何度か我が家に遊びに来た。玄関で「はあ、はあ」と喘いでいる姿を見て、餓鬼の頃を思いだした。「上がれ」と言うと、太郎君は「ちょっと」と目配せする。私も下駄を履いて庭に出た。
佐沢太郎君と私は、江木鰐水先生の久敬舎で机を並べた仲だ。私が十八歳、彼が十五歳の嘉永五年(一八五二年)の頃だ。その後、彼は寺地先生に医学や蘭学を学び、さらに緒方洪庵先生の適々斎塾で学んだ。それから出府して、幕府の蕃書調所・医学所、さらに開成所へ通った。今は、誠之館で洋学と兵学の教授を勤めている。同仁館の立ち上げにも努力したと聞いている。
勝手知ったる他人の家。太郎君は裏に回って井戸端に行き、手拭いを冷やして汗を拭く。そしてしばらく、加茂谷を眺めていた。
「変わりませんね」
「ああ」
「先生はお元気ですか?」
「ああ、奥にいますよ。すっかり弱って、もう七十になる」
「患者さんは?」
「大丈夫だ。今は空いている」
屋内に入って話すのも気が引けたのだろう。エノキの木陰で切り出した。
「寺地先生に頼まれました」
太郎君は正直に打ち明けた。
「分かっている。済まんな」
「やはり、遠いですね、粟根は」
暑い中、距離を実感したようだ。
「村の人にじろじろ見られました。それで、つい急ぎ足に」
「どこのどなたかと思ったのだろう」
彼のように身形の良い者は、この山奥までめったに来ない。それに、この度の一件もあることだ。
「やはり、無理ですか?」
「ああ」
「村を離れる訳には行きませんか?」
「ああ。」
「確かに、医師にもいろいろな在り方があると思います」
「そう」
「緒方洪庵先生もおっしゃっていました。病める者は皆同じ。御城下であろうと、山村であろうと」
「そう、そう。それは、フーフェランドの教えだね」
太郎君は、適塾で洪庵先生から直接、教わっている。
扶氏医戒之略
フーフェランドは、ドイツの医学者。彼は医師のあるべき姿を説いている。それを緒方洪庵先生が『扶氏医戒之略』にまとめられた。「扶氏」とはフーフェランドのことだ。
『医戒』は、十二カ条ある。その内容は、冒頭の第一条からして推して知るべしだ。
『一、人の為に生活して 己の為に生活せざるを 医業の本体とす。安逸を思わず 名利を顧みず 唯おのれをすてて 人を救わんことを希ふベし。人の生命を保全し 人の疾病を復治し 人の患苦を寛解するの外 他事あるものにあらず』
緒方洪庵先生は、医に臨む医師の心の在り様を大切にされた。その理念は、人間としての在り様に通じるものだ。この先生の教えを受けて、医師のみならず幅広く人材が育った。『西洋事情』を著した福沢諭吉先生も、洪庵先生の門下生だ。医療とは別の道で活躍しておられる。佐沢太郎君も、今は医から離れて洋書の研究に励んでいる。
私は洪庵先生から直接学んでいないが、私の医学の師の緒方郁蔵先生は洪庵先生と兄弟の契りを結ばれた仲。そして同じく私の師の播州の村上代三郎先生は、洪庵先生の御高弟。私にとっても、洪庵先生は尊敬して止まない方だ。
太郎君も、同じ思いに違いない。
「同仁館の『同仁』にも、そのような願いが込められていると思います。寺地館長と緒方洪庵先生は同門です。お二人とも、坪井信道先生のもとで学ばれました」
太郎君は分かってくれた。
話が途切れると、蝉の声が一際、耳に染みる。
庭の私たちに気付いたのか、妻が出て来た。
「済みません。御近所の方かと思いまして」
互いを紹介して、太郎君を屋内へ案内しようとした。その時、加茂谷が急に騒がしくなった。そして、先触れが背戸口から駆け込んだ。
「先生、山野屋の大将が石切り場で。大怪我です!」
ほどなく、戸板に乗せられた患者が運ばれて来た。
「石が捲れかかって!」
引戸を外し、戸板ごと土間へ入れて台に乗せる。脛当てから血が滲み出る。弁慶の泣き所か。痛い痛いと大の男が涙を流す。弟の堅三も駆け付け、太郎君と二人で患者を抑えてもらった。脛当てを解き、綿で傷口の血を吸い取った。異物はないようだ。しばし出血に任せた。仰向けに寝かせているが、右足の爪先が力なく横になる。膝と踝に異常はない。脛骨が折れている。骨を接ぎ、木型で固定して晒で締めた。そして、布に軟膏を塗り、傷口に当てて包帯を巻いた。それから身体中を診て、打ち身や切り傷を処置した。
その間、太郎君と堅三が戸板の向かい側でテキパキと介助してくれた。さすが二人とも、医学を修めただけのことはある。
診察室の後始末をトメさんに任せて、三人はやれやれと表の間に腰を下ろす。
「助かったよ、太郎君」
「いやあ、久し振りですから。堅三さんこそ、外科を勉強していますね」
「いえ、まだまだ修行の身ですから。兄にしょっちゅう叱られます」
「堅三さんは、これからどうされます?」
堅三は思いを述べた。
「佐倉順天堂の恩師が大学東校へ行かれました。佐藤尚中先生です。先生は、ドイツ医学に学ぶところが大きいとおっしゃっています」
「堅三は、そこへ入りたいと考えているようですが・・・」
「大学東校なら、小林達太郎君が・・・」
誠之館教授だった小林達太郎君は、昨年、大学東校の准少助教に転身した。達太郎君も佐倉順天堂で佐藤尚中先生に学んだ。成績優秀な達太郎君だ。佐藤先生から招かれたのだろう。
二年前に、息子の林太郎の看病に疲れ、私までも病に倒れた。その時、達太郎君はわざわざ粟根村まで来て息子や私を診察し、数日間、看病してくれた。本当に助かった。
「ええ。堅三は達太郎君を頼って東京へ行きたいと・・・」
「そうですか。それは頼もしい。頑張ってください」
「ありがとうございます」
「ところで太郎君は、今も仏語を?」
「はい。藩に命じられたのですが、良かったと思っています。日本は、英国や米国よりも、仏国が参考になると思います」
「ほう。どういった点が?」
「多くの点で。中でも政治や教育が・・・」
それから、塾友のことや誠之館のことや・・・太郎君とこんなに長話をするのは何年振りだろうか。堅三も楽しそうに話している。太郎君に泊まってゆっくりするように勧めたが、そうもできないらしい。太郎君は、カラカラと鳴く蜩に急かされて加茂谷を下った。
弟の堅三は、その年の十月末に東京へ発った。沢山の餞別をいただき、多くの方のお見送りを背に、勇んで加茂谷を下って行った。
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<ご参考>
・参考史料
「医学教場設置願」(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究・資料編」渓水社)
「医院教授兼薬局司辞退につき救米金返納願」(同)
「納米金願不受理の旨権少参事より学校監事宛書状」(同)
「井伏鱒二の森鴎外宛書状」(「井伏鱒二全集・第二巻」の「月報4」)
『正弘公病気の時、地方医窪田次郎老先生・・・をめし抱へんとせしも、先生は農民を救はん目的にして、
確く其の栄達を度外に置き辞され申し候と、小生(井伏鱒二)の祖父申し居り候』
「乍恐以書付奉歎願候」(井伏家文書「御用状写書帳面 粟根村」)
『当村医師窪田次郎儀・・・辺鄙之村方近辺ニ可勝医師無之候処・・・
近辺村々足軽ニ駆廻り 不拘貴賤貧富誠実ニ治療いたし呉・・・』
「扶氏医戒之略」めかたホームページ「扶氏医戒之略」 独立行政法人国立病院機構「大阪医療センター」適塾「扶氏医戒之略」
「大日本古記録(江木鰐水日記・下)」東京大学史料編纂所・岩波書店発行
「医院教授兼薬局司辞職願」(同)
「医院教授兼薬局司辞職願」の原稿の最後の頁
(蔵・広島県立歴史博物館)
原稿用紙八枚の及ぶ長い文章
その最後の部分に経緯と和歌がある。
帰宅して書き添えたものだろう。
<経緯>
十八日に弘宗寺に宿泊し、医師仲間へ別れを告げた。
十九日十一時に寺地医長の嘆願書を差し出す。
その晩、江木先生が弘宗寺へおいでになった。
夜半まで説諭・・・とある。
<和歌>
『野に置て 見れば美し げんげ花
吹や盡さん 夜嵐之音』
もう一句ある。心配する妻へ宛てたものであろうか。
(□の字は不明)
『待ちわひて 夫ハか□ねを さしすと□
しらてむすハん 春の夜の夢』
(有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」資料編から)
窪田次郎の父
窪田亮貞の油画肖像の写真
(広島県立歴史博物館蔵)
明治十年頃、亮貞七十六歳頃か
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館
「平成九年度春の企画展」の冊子から転写
・参考文献
有元正雄ほか著「明治期地方啓蒙思想家の研究」渓水社
井伏章典著「黎明期の先覚者 窪田次郎」
菅波哲郎著「医師・窪田次郎と四民平等・資料」人権と平和ふくやま・創刊号(福山市人権平和資料館)
岩崎博・園尾裕共著「明治の開業医 窪田次郎」(「備後春秋」第64号)
田口義之著「人間シリーズ・クローズアップ備陽史」福山商工会議所発行
「医師・窪田次郎の自由民権運動」広島県立歴史博物館(平成九年度春の企画展)
「広島県史・近世資料編Y」編集発行広島県
「誠之館百三十年史・上巻」福山誠之館同窓会
・参考ホームページ
粟根村・・・・・清水凡平「路傍の詩」(第57回)粟根・窪田次郎・四川・生家にて(毎日新聞連載)
片山病・・・・・「日本人の気概 片山病撲滅に向けて」(小学校6年生社会・歴史)福山@HOME気概 杉原進
日本住血吸虫発見100年桂田富士郎先生の顕彰
賀茂神社・・・・・日本すきま漫遊記「賀茂神社」
扶氏医戒之略・・・・・めかたホームページ「扶氏医戒之略」
独立行政法人国立病院機構「大阪医療センター」適塾「扶氏医戒之略」
福山とんど・・・・・仁伍町内会ホームページ「とんど火祭り」福山とんどの由来
華頂宮博経親王・・・・・Wikipedia華頂宮博経親王
和歌の中の「げんげ花」・・・・・Wikipediaゲンゲ
・登場人物
寺地強平 誠之館人物誌「寺地強平」(誠之館同窓会)
佐沢太郎 誠之館人物誌「佐沢太郎」(誠之館同窓会)
小林達太郎 誠之館人物誌「小林達太郎」(誠之館同窓会)
五十川基 誠之館人物誌「五十川基」(誠之館同窓会) Wikipedia五十川基
江木高遠 誠之館人物誌「江木高遠」(誠之館同窓会) Wikipedia江木高遠
・舞台となった場所の今日
窪田次郎の屋敷跡
左に母屋
今は倉だけが残る
中央がエノキの巨木・・・2011年に幹の途中で折れた
右に、啓蒙所の跡がある
右に背戸山が迫る
山の裾に、池がある
屋敷の南に門
道から階段を上がり、門をくぐると、母屋の正面に出た
窪田次郎の家
移築されて現存する
ただし、屋根や居間、台所、建具などは改造されている
賀茂神社
鳥居の左の柱に
窪田家が寄進したとある
手前が旧道
同仁館の跡地
藩士の屋敷を借りた
お堀端で、海に通じる入江と交わる場所にあった
今の福山駅を出て左側
誠之館歴史資料 寺地強平院長 同仁館 (誠之館同窓会)
加茂川には、何段もの堰がある
弘宗寺
門に「福山城鬼門守護処」とある
(廃藩直前福山城下地図・広島県立福山葦陽高等学校蔵)
北(上)に吉津川が流れ、北東(右上)に吉津橋が架かる
東(右)から、川のように堀へ繋がっているのが、「入江」。海に繋がる。
堀と入江の仕切りが「築切」。
堀切の西(左)の青木勘右自衛門屋敷を借りて、「同仁館」を設立。
南(下)に「誠之館」
誠之館の西北(左上)の角の道の向かいに「江木繁太郎(鰐水)」の屋敷
城の三の丸(御屋形)と堀を挟んで、東向かいの堀端に、「岡田伊衛門」の屋敷