「窪田次郎が遺した 日本の宿題」
序章
私は、窪田次郎と申します。
明治維新の年に、三十三歳でした。
御誓文の『広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スヘシ』に新しい日本を夢見て、我武者羅に頑張りました。今にして思えば、日本の進路を方向づける大事な時でした。
ところが私は、活動の半ばで行く手を阻まれ、隠忍自重しました。
しかし、その後の日本は、私が心配した通りになってしまいました。
残念でなりません。
何々? 残念、心配した通りになった・・・大袈裟なことを言うな。
お前が、いったい何をしたと言うのだ?
私一人の思い上がりかもしれませんが、近年ますます、その思いを強くしています。
そう言う私が何をしたか、お聞きいただけますならば、お話します。
さて、どこからお話しましょうか。
忘れもしないのが、慶応四年(一八六八年)正月の、あの大騒動です。
「カン カン カン・・・カン カン カン・・・」
正月八日の冬空に、早鐘が響き渡る。
薬を調合していた私は、庭に飛び出し、谷を見下ろした。
既に、火の見櫓の周りに大勢の人だかり。
谷の奥や丘の向こうから、村人が転がるように駆け下りる。
私も、奥座敷の父に一声掛けて坂を駆け下りた。
悲壮な空気が漂う。
「ついに来たか、長州め!」
慶応二年の長州遠征では、大軍で長州へ押し寄せた。その時、福山藩は幕府軍の一隊に過ぎなかった。ところが今度は、逆に長州軍に攻め込まれる。幕府軍は来ない。援軍も来ない。既に前方の芸州は長州方につき、背後の備前も長州方と聞く。福山藩は孤立無援で戦うのか。
長州遠征に敗れて以来、藩は軍事強化に躍起になった。村からも頑丈な若者を選抜して訓練した。そしていよいよ、長州軍が東上を始め、尾道まで攻めて来た。この辺りの兵は、猟師も徴発され、神辺に集結している。
庄屋で粟根村の総代の藤井平太さんが、火の見櫓の前に立った。
「皆の衆、お聞きのとおりだ。平治が知らせてきた。長州軍は既に芦田川を渡り、八幡山に陣を構えたそうだ。寅蔵、神辺からもお城の援護に向かうのか?」
「へえ、その支度に」
寅蔵さんは、握り飯と衣類を担いで、再び平治さんの所へ走った。平治さんは、村総代の平太さんの弟。兄に頼まれて、粟根村の従軍兵の後方支援に就いている。
長州軍が尾道に駐屯して以来、見張り番を出して村の入口を固めている。そこへ、若い者がふらつきながら帰って来た。可笑しな格好を見れば直ぐ分かる。見張り番と一悶着があり、苦情が村総代のところへ来た。
尾道の方では、「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂っているそうだ。何が面白いのか。長州軍が尾道に駐屯した頃から流行り始めた。今年になって、備中の井原でも始まった。長州軍が後ろで操っているという噂だ。毒入りの酒でも飲まされたのだろうか。
村総代が皆を諭した。
「いまだに、うろつき回る者がいる。脇道から出入りしているようだ。何を考えているのか。家の者も、きつく言って聞かせるように」
誰もが去り難く、ひそひそと話している。
私の傍へ、松葉杖の源次さんが近寄った。源次さんは、先の長州遠征に御用人足として駆り出された。不運にも敗走の途中で足を撃たれ、やっとの思いで帰ってきた。今も足が痛み、私の診療を受けに来る。
源次さんが小声で言った。
「とても、かないっこありませんよ。第一、打ち物が違いますよ」
長州遠征で先陣を張った福山藩は許せないというのか。譜代は残らず潰す積りか。藩士は決死の覚悟で籠城。城を枕に討死だと勇み立っているそうだ。
我が家に帰り、父に報告すると、父は、
「何とかならんものか・・・」
父とは思うところを話せる。
既に幕府は、朝廷に政権を返上したという話だ。もはや戦うこともなかろう。長州軍は錦の御旗を押し立てているそうだ。逆らえば賊軍になる。
「カン カン カン・・・カン カン カン・・・」
翌九日の朝、父の祈りも空しく、再び早鐘が鳴った。開戦の知らせだ。村総代が悲壮な声で皆に告げた。当て所もない沈黙が漂う。
再び源次さんが傍に来て、小声で言った。
「今度負けたら、どうなるので・・・」
長州遠征の時は、退却で事が済んだ。今度は、本城が攻められる。
傍で聞きつけた組頭が叱った。
「源次、馬鹿なことを言うな!」
源次さんは屈強な若者として知られた。ところが、こんなに弱気になってしまった。よほど恐ろしい思いをしたのだろう。足をやられて百姓ができない。以来、藩から何がしかの補償の扶持をいただいている。負けたら、それがどうなることか。
「カーン カーン カーン・・・カーン カーン カーン・・・」
夕方に鐘が鳴った。ゆっくり打つのは、鎮火や終結の合図だ。
従軍兵と一緒に、平治さんや寅蔵さん達が帰ってきた。
「終わった。終わった」
「負けたのか?」
「負けたとは聞いていない。どなたも御無事のようだ」
「休戦か?」
「休戦? いや、終わったということだ」
長州の軍門に下ったのか、それとも長州方についたのか、譜代の福山藩が・・・いや、ひょっとしたら、それもあり得る。
長州が、福山藩を勤皇と認めてくれたのかもしれない。
それが本当なら、この度も関藤藤陰先生のお陰に違いない。
関藤先生は勤皇の論者として知られる。藩内でも、先生の論に傾くものは多いと聞く。先年、福山藩主の阿部正弘公が幕府の老中首座にあって鎖国の禁を解いた折に、関藤先生は尊王攘夷の水戸藩との間を取り持たれた。そしてこの度は、長州藩との間を・・・
やはり、そうだった。後日、私の恩師の江木鰐水先生にお尋ねしたところ、その通りだと言われた。長州軍と一戦の後、正使三浦義建殿と副使関藤藤陰先生が和睦の交渉に当たった。勤皇の志が熱い藤陰先生の誠意が長州軍に伝わり、和睦を承知してくれたのだそうだ。
関藤先生は、頼山陽の愛弟子だ。『日本政記』は頼山陽の絶筆となったが、最後には、病の床に臥された頼山陽の口述を、弟子の関藤先生が代筆されたそうだ。この『日本政記』は、徳川幕府が開かれるまでの歴代の天皇の事蹟と望ましい政治のあり方を綴った書だ。長州で盛んに読まれているらしい。特に、長州の要職にある伊藤博文や井上馨の愛読書で、欧州留学の際に肌身離さず持っておられたとのことだ。
正月二十六日、長州軍は錦の御旗を押し立てて福山城へ入った。近くの神辺にも駐屯した。その華々しい進軍は、王政復古の御世を予感させるに十分だった。
そして三月、福山藩は、亡くなられた正方公の後継に、芸州藩主の弟を迎えた。そのお方が阿部正桓公である。福山藩は廃藩を免れた。
しかし、それだけで事は済まなかった。
その年の九月に、新政府から箱館出兵の命が下った。断れば藩が吹っ飛ぶ。岡田吉顕を総督に、江木鰐水を軍師参謀として出軍した。福山藩には慣れない、厳寒の地での戦いだった。犠牲者が出た。
その箱館戦争も、ようやく明治二年五月に集結した。
そして六月に版籍奉還。
正桓公は藩知事に任命され、東京から帰藩された。
さあ、藩知事を迎え、藩の建て直しだ。
新政を先取りして、福山藩の存在を示さなければ・・・。
福山藩は、岡田吉顕大参事を先頭に藩政改革に着手した。
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<ご参考>
・参考文献
高木俊輔著「ええじゃないか」教育社歴史新書
「広島県史・近代現代資料編1」編集発行広島県
「広島県史・近代T」編集発行広島県
「福山市史・中巻・下巻」福山市史編纂会
「茶山・朴斎・鰐水ー福山藩の儒者たち」財団法人ふくやま芸術文化振興財団
田口義之著「人間シリーズ・クローズアップ備陽史」福山商工会議所発行
・参考ホームページ
福山藩・・・・・Wikipedia備後福山藩
頼山陽著「日本政記」・・・・・国立国会図書館デジタルライブラリー「日本政記」 同「安藤英男著『頼山陽 日本政記』」
粟根の半鐘・・・・・日本すきま漫遊記「粟根の半鐘」
・登場人物
窪田次郎 誠之館人物誌「窪田次郎」(誠之館同窓会)
三浦義建 誠之館人物誌「三浦義建」(誠之館同窓会)
関藤藤陰 誠之館人物誌「関藤藤陰」(誠之館同窓会)
江木鰐水 誠之館人物誌「江木鰐水」(誠之館同窓会)
岡田吉顕 誠之館人物誌「岡田吉顕」(誠之館同窓会)
・舞台となった場所の今日
粟根の里
中央の山裾に、窪田次郎の家があった
手前に石垣が見えるのが加茂川
粟根村の半鐘
粟根東集会所の敷地内にある
かっては約100メートル上がった川端の消防屯所の傍にあった
福山城 天守閣
空襲で焼失し、1966年に再建された
福山城・・・・・福山城博物館公式ホームページ Wikipedia福山城(備後国)
福山城天守閣より北西を望む
左手のビルの向こうの緑の丘辺りが八幡山
その後ろが、芦田川
長州軍は芦田川を渡り、八幡山に陣を敷く
円照寺辺りから城に向かって大砲を放ち、一発が天守閣に命中したとか
「ときめき夢見びと」幕末の福山の史跡を訪ねて