「自治のすゝめ」(要約版)

                               
著・杉本武信



 は し が き
 地方の時代と言われて久しく、地方自治の大切さが叫ばれて年が経ち、ようやく平成十二年に、いわゆる地方分権法が制定されました。しかし、住民にとって今までと変わった感じがしません。
 それは、なぜでしょうか。
 真の分権自治の確立には、まだまだ他に必要な条件がたくさんあるからです。
 その条件とは・・・・しかし、その説明も、理解も簡単ではないようです。
 日本にとって、分権自治の歴史も経験もない、初めてのことですから・・・・

 同じ敗戦国のドイツは、伝統の自治を復活させて、地域それぞれに特色のある国づくりを進めています。
 同じようにゲルマン民族の流れを汲むイギリスやアメリカ、スイスも、自治に根ざした住民サイドの国づくりを展開しています。

 日本は戦後、新憲法のもとで、「地方自治の本旨に基いて」、地方行政を進めることになりました。
 「地方自治の本旨」・・・そうだ、地方自治は大切だ。解ったような気がします。
 しかし、この「地方自治の本旨」は、占領国アメリカから一方的にいただいたものです。
 ここらでもう一度、「地方自治」とは何か、基本を考えてみる必要があるようです。 
 
 そこで、まず手掛かりに、皆さんご承知の「ウイリアム・テル」を紹介したいと思います。
 なぜなら、「ウイリアム・テル」は、本来、自治の物語なのですから・・・・・・



序 章  ウイリアム・テル

  童話「ウイリアム・テル」 物語の背景  
 「ウイリアム・テル」を、私たち日本人にもよく知られた物語です。ところが時代によって、いろいろと語られました。
 戦前は、わが子の危険をかえりみず、国のために戦った弓の名人・・・英雄として語られました。
 戦後は、わが子の頭上のリンゴを射るとは、いかに自信があろうと、いかに理由があろうと危険だ・・・今の子どもたちは知っているでしょうか。今日、日本では、「ウイリアム・テル」の物語が次第に忘れられようとしています。
 
 その昔、スイスの人々はアルプスの谷々に思い思いに住んでいました。
 ところが、国王の名代として代官がやってきて、スイスを支配しようといろいろと難題を持ちかけます。
 スイスの人々は、この代官の挑発に応じず我慢します。スイスの人々の抵抗に業を煮やした代官は、広場に自分の帽子を掲げ、そこを通る時に、帽子を脱ぎ膝をまげてお辞儀をするように「お触れ」を出します。それが、国王への忠義の証だというのです。
 そこへウイリアム・テル親子が通りかかります。
 お辞儀をしなかったテル親子を見つけて、国王へ不敬を働いたとテルを責め、牢獄へ引き立てようとします。代官は、ウイリアム・テルは勇敢な弓の名人で、スイスの人たちに慕われていることを知っていました。この機会に、スイス人の英雄として慕われているウイリアム・テルの名声を汚して、スイス人の気力を挫こうと考えました。
 「テル、お前は弓の名人と聞くが、我が子の頭上のリンゴを射落とすことができるか。射落とせたら許して放免してやろう。」
 テルは、そんな危険なことはできないと許しを請いますが、弓を取らないなら親子ともども牢獄へ入れると脅し、勇気のない奴とけなします。
 やむなく、テルは弓を取ります。テルは見事にリンゴを射落としました。ところが代官は約束を破って、テル親子を牢獄へ引き立てようとします。それを見ていたスイス人は、代官の卑劣なやり方に我慢できず、ついに立ち上がりました。
 かねてより、谷々の村のスイスの人々は、秘かに連絡を取り合って、力を合わせ代官を倒そうと話し合っていました。この機に、スイスの人々は連合して立ち上がり、代官を追い払いました。
 そして、このことをきっかけに谷々の村が同盟を結び、協力して外部からの支配に立ち向かい、共に自由で住みよい国を造ることになりました。「ウイリアム・テル」は、村々の自治に根ざしたスイスの国の発祥を伝える物語なのです。
 ところが日本では、この本来の物語の主旨が、今もって理解されていません。
 ・・・自治を大切にする、自治に根ざした国でないから・・・・ここが、これからのお話の出発点なのです。

  ゲルマン民族  
 
同じような物語がイギリスにあります。「ロビンフットの冒険」です。
 この物語では、悪代官の横暴に苦しむ村人が、代官を懲らしめるロビンフットを応援します。
 イギリスは、元はといえば、北欧から海を渡ったゲルマン民族の一種族アングロ・サクソン人が主流です。 イギリスは、世界に先駆けて国王の権力を制約して、民主革命を成し遂げました。さらにイギリスからアメリカに移住して、自治に根ざした自由な国を築きました。
 スイスも、言い伝えによると、北欧から新天地を求めて来たと言われます。
 ある年、北欧の村は飢饉に襲われ、食料が乏しく、このままでは村人全員が冬を越せない事態になりました。そこで村人は全員が集って話し合い、食料で賄えるだけの人数が村に残りり、後の者は南へ向かって新天地を求め旅立つことになりました。だれが村に残るか、くじ引きで決め、村を出ることになった者は、南へ南へと進みました。そして、まだ誰も住んでいないアルプスの谷間にやってきたというのです。
 食料の奪い合いをせず、話合いをして解決する。強者が強引にというのでなく、くじ引きで決める・・・こうした解決方法に象徴されるように、これらの国はいずれも共通して優れた「地方自治」の伝統を持ち、今もその実態を伝えています。

 
日本人にはあまり知られていない諺ですが、「イギリスは自治の母国」、 「スイスは自治の学校」、 「アメリカは自治の実験室」 と言われます。
 そして、これらの国は、いずれも 「民主主義」という点で、世界有数の先進国です


  住民自治と団体自治

 
「自治」を考えるうえで基本になるので、初めに説明します。
 「自治」には、「住民自治」と「団体自治」の2面があります。
 住民に良く知らされ、住民が考える機会があり、住民の意見は反映される・・・・・ これが「住民自治」です。
 しかし、いくら「住民自治」を実現しようとしても、権限や財源がなければ、どうしようもありません
 国が全ての権限や財源をもっていては、「住民自治」をやろうにもできません。
 逆に、自治体に財源や権限があって「団体自治」が保障されていても、首長の独断で物事が進められ、住民に意見を問う「住民自治」の実態がなければ、「自治」成り立ちません。

 
「住民自治」と「団体自治」の実現は、「自治」の実現のための「車の両輪」のようなものです。
                                                  


第一章  古ゲルマンの自治

   ドイツの冬 
 
ゲルマン人の発祥の地、ドイツ辺りは、北海道よりも高緯度。日差しは柔らかで、冬は暗く、長い。
 その点、アジアは太陽に恵まれています。サンサンと注ぐ太陽。雨も多い。収穫は豊富です。
 ところがゲルマンの故郷は、雨が少ないので大地の侵食が進んでいない。
 広い平原や森を切り拓いて畑作。しかし、収量はそんなに多くない。


  古ゲルマンの登場
 
彼らがいつからそこに住んでいたか定かでありません。(日本のように島国でないから移動は可能です。)
 
彼らが歴史に登場したのは、紀元前1世紀の中頃、ローマ軍が北に遠征して彼らと衝突した時です。
 その時の彼らの生活の様子が、シーザーの残した「ガリア戦記」に記されています。
 さらに時代が下って紀元1世紀の末、従軍したローマの歴史家タキトウスが記した「ゲルマーニア」があります。

 
彼らは、牧畜が主で、農業は補充。何年かしては移動の生活をしていたと言います。

  古ゲルマンの森の生活
 
このような記録から推測した彼らの生活を画いたのが、右の図です。
 中央の(T)が民家。敵の来襲から守るため、中央に固まっています。 
 (U)
は畑。6区画に分かれ、一筋ごとに各戸に平等に配分さます。
 
(V)は牧場、共同で放牧します。
 そして(W)は森。狩猟や薪の採集。
 森は外に向かって無限に続きます。


         出典・秦玄龍著「ヨーロッパ経済史」(東洋経済新報社)


  マルク共同体説 

 
かれらの社会には、共同体員間において、徹底した平等の原則が貫かれていました。              
 耕地は、風向きも考慮して均等・均質に配分され、作業は一斉に行われる。 狩猟や外敵からの防御は共同してあたる。
この共同体の存在を論ずる学説を「マルク共同体説」と言い、正当な学説として長く信奉されていました。
 
しかし今日、それほどまで完璧な平等社会であったかどうか、疑問視されるようになりました。それにしても、アジアの多くの場合と比べ、まったく異質な社会であることは間違いありません。
 
森は無限に続き、土地はいくらでもある。畑作だから、土地は痩せ、連作障害もおきる。狩をするうちに周りの獣も獲りつくす。別な土地に移るのに躊躇することはない。共同作業はもとより、狩をするにも、外敵から守るにも、一人ひとりの参加が必要だ。そのため、一人ひとりが大切にされる社会ができました。

  連合・協定
 
彼らの悩みはもちろん食料の確保でしたが、もうひとつ大きな悩みは、村を襲い、せっかくの食料を略奪したりする外敵から村を守ることでした。そのため、男性の大きな役割は武器を取って戦うことでしたが、いまひとつの方法は、周辺の同じような村々と協定を結び、相互に保障し合い、連合して敵に立ち向かうことでした。

  ゲルマン流
 
ウイリアム・テルの場合もそうでした。
 アルプスの谷々の村が連絡を取り合い、機会を見て代官に立ち向かうことを決めていました。テルの華々しい活躍も、そうした村々の連合があったからできたことでした。それがスイスの国の始まりと言われますが、このような経緯からスイスは、各地域の自治体=州が連合して国を組織する連邦体制をとっています。だからスイスは、正式には Swiss Confederation スイス連邦 と言います。
 そういえば、ゲルマン民族によってつくられた国は連合組織をとっています。
 アメリカは、The United States Of America アメリカ合衆国
ドイツは、Bundesrepublik Deutschland ドイツ連邦共和国、イギリスは、私たち日本人は聞きなれませんが、正しくは、United Kingdom Of Great Britain And Northern Ireland グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国 と言います。
 
自治に基盤を置き、連合体制を組む国づくりの方法は、ゲルマンならではの流儀と言えましょう。
        
  古ゲルマンの集会
 
「ウイリアム・テル」の物語は、シラーの戯曲として世界に知られるようになりました。
 その戯曲の中で、近隣の3州から武装した村人が密かに集って議論する場面が、前半のクライマックスになっています。
 先ほど紹介した「ゲルマーニア」にも、彼らの集会の様子が伝えられています。
 「ゲルマーニア」泉井久之助訳・岩波文庫によると、連合する部族全体の集会の様子ですが、小さい事案には各首長が集り、大きな問題には部民全員が参集する。そして静かに傾聴し、意見にそぐわない時には聴衆はざわめき一蹴する、意見にそう時には剣をたたいて鳴らす、と伝えています。
 当時の先進国ローマの歴史家タキトウスにとって、個々人の自発性に基盤を置き活力あふれる古ゲルマンの社会は、奴隷の生産に頼り、身分社会に安住して廃頽の兆しさえも見えるローマの社会とは新鮮なものを感じ、「ゲルマーニア」でローマに警鐘を鳴らしているように思えます。


  住民総会
 
この古ゲルマンの集会と同じような集会が、今もスイスに伝えられているそうです。
  そのひとつ、アペンツェル州の年に一度の州民総会の様子が、NHK海外取材班「自治と民衆」(日本放送出版協会出版)に紹介されています。

                  
                     
NHK海外取材班「自治と民衆」
                    スイスのアペンツエル州の州民総会の様子

 住民は、今も剣を携えて参集し、一年間の州政報告、決算報告、予算案、法律案などが次々と議題に取り上げられる、意見のあるものは登壇して堂々と一席弁じる。意見をたたかわせば、結論は自ずから出てくると考えられている、政治を役人や議員任せにせず、有権者が直接政治に参加することを政治の基本においている、と報告しています。


  直接参政の原則
 
このように一堂に集ることは、いろいろな事情から困難になっているため、案件について資料を各戸に配布して住民投票にかける方法をとり、住民の直接参加の原則を守っているということです。
 自分たちのことは自分たちで・・・・他人に任せると裏切られる恐れがある・・・・・自分が直接参加して、理解・納得すれば
安心だ・・・・・スイス人の基本的な政治姿勢です。

  自治の原形
 
先に序章で、「自治」が成り立つにためは、「住民自治」と「団体自治」の2面が実現されることが、車の両輪のように大切と述べました。その視点でみると、彼らは、住民参加が実現され、進んで他と協定して支配されることなく両輪を働かせ、立派に「自治」を成立させています。
 この時代に、今日のような人権尊重や平等の思想や法律があった訳ではありません。それが自ずとできたのは、広い森の中に分散して自給自足できる経済基盤、そして、支配に抵抗し、支配されそうならいずこへでも逃げ延びることができる自然条件にあったと思われます。

        
  実力と友情の社会
 
「実力と友情の社会」は、熊野聡著「北の農民・ヴァイキング」(平凡社)の副題です。
 ヴァイキングは荒海に乗り出す勇ましい海賊として知られますが、ゲルマン民族の一種族で、ノルマン人とも言います。 8〜12世紀の頃、北欧を根拠地としてヨーロッパ各地に侵入し,その活発な生き方はヨーロッパ中世社会に大きな影響を与えました。
 この本によると、彼らのように己の実力によって自立的経営をする者にとって、隣人との関係は既に「外交」問題である、お互いに話し合い、保障し合って共通の外敵にあたる、それは「私的」関係に過ぎないが、そうした私的関係の総和として集団的機構が成り立っている、今日のように、あらかじめ国家が存在し、公的世界が前面に展開される社会とは異なる、従って、そうした私的関係がつながる範囲が国の領域となるというのです。
 領域は、領土ではなくて、人と人の友情でつながり、絶えず移動可能な集団と考えられていたというのです。

 
タキトウスも「ゲルマーニア」の中で、彼らは広い森の中で「相互の恐怖」によって仕切られていると述べています。私的関係や友情のつながりの限界が国の領域なのです。


第二章            アジアの「他治」
     
   ナイルの賜物
 
場面は、大きく変わります。
 紀元前5世紀というから、交通もままならない時代です。
 古代ギリシャの学者ヘロドトウスは、エジプトを旅し、ナイル川デルタ地帯の農業を見て驚きました。
 この広いデルタ地帯では、増水期に種をまき、豚を放って踏みつけさせ、渇水期に収穫する・・・・いわば「ナイルの賜物」と言うべきもので、楽々と収穫を上げている。
 ヨーロッパから見れば、誠に恵まれた条件です。
 このような農業は、エジプトに限らず、アジアの多くはこのような農業から出発しました。
 デルタや川岸の平野、谷水の出口など、灌漑が容易な土地さえ手に入れば、そこに居座って幾代にわたり、農業を続けることができます。そのような土地は川が養分を運んで肥沃です。緯度が低いから、太陽の光りにも恵まれている。
 適地さえ確保すれば・・・・・・
 しかし、そこには大きな落とし穴が隠れていました。
 そのような適地は、砂糖に群がる蟻のように人々が集り、たちまち飽和状態になります。そうなると、一人ひとりの立場は弱いものです。たとえ搾取されても、侮辱されても、日々の糧を得るため、そこにしがみついていなければなりません。ゲルマンのように、他の土地へ逃げるというわけにいかないのです。逃げ延びたところで、行き着く先が簡単に受け入れてくれるはずはありません。
 そのような弱い立場の人々を支配するのは容易いことです。
 土地を支配し、人々を土地に縛りつけ、まさにピラミッド型の支配体制が築かれました。

       
  ピラミッドの世界
 
まさに「ピラミッド」は、アジアの社会を象徴しています。
 はじめは、そこそこで土地を支配し、人々を支配する世襲の権力者が現れるでしょう。そうした支配者は近隣の支配者と対立すると、勝者は敗者の上に立ち、ちょうどトーナメント戦のように勝ち残り、ついに一帯を支配する専制君主が生まれる。敗者は滅びるか、あるいは、定期的に貢物を差し出すことにより、支配下に入る。このようにして、肥沃な適地に応じた支配体制が築かれました。
 中でも世界に先駆けて花開いた古代エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、そして黄河文明はよく知られていますが、いずれも多数の隷属的立場の人々を底辺にピラミッド型の社会が形成され、その体制下で吸い上げられた富の集積によって築かれた文明です。


  古墳
 
日本もアジアの一角にあって、稲作に適した川べりや湿地から文明が開けました。
 そして、ピラミッドに負けない大きな古墳を造りました。
 そうなると、自ずと日本の「古墳」のもつ意味がわかってくるでしょう。
 日本民族も初めの頃は狩猟や木の実などの採集が主な生活でしたが、稲作が始まると、そこそこの適地に定住して農耕を始めました。そうなると規模の大小はともかくナイルのデルタと同じで、その土地に応じた支配者が現れ、さらに各地の支配者の上に立つ支配者が現れ、さらにその上に立つ支配者が現れ、やがて一帯を統一する
支配者が現れます。そして、統一が進むにつれて古墳は大きくなり、大和朝廷の成立によって最大となりました。

  ゲルマンの墓
 
もう一度、タキトウスの「ゲルマーニア」に戻ります。
 それによると、古ゲルマンの場合、人によって弔いに差がない、火葬も質素で、勇者だからといって記念碑などを建てるようなことはしない、心から死を悲しみ、悼み、弔う、と言うのだ。
 それはタキトウスにとって驚きで、葬式や墓に「ミエ」をはり、英雄の死には記念碑を建てるローマのやり方とは異質のものに映ったに違いない。彼らには葬儀を派手にするような余裕もなかったでしょうが、派手にすることによって特定の者の権威を誇張することは、一人ひとりが参加して成り立つ共同社会では許されなかったためと思われます。


  古墳と自治
 
日本の場合も、すんなりとピラミッド型の支配体制ができたわけではありません。
 村や部族を守るため、周囲に堀をめぐらした環濠集落の存在がそれを物語っています。そこでは、村人が集って話し合い、共に武器を取って戦ったことでしょう。しかし、戦いに敗れてもそこを立ち去ることもできず、年々貢物を差し出し、命令に従うことを誓って、生きながらえるほかありません。もはや、村人の話し合いよりも命令が優先し、何事も伺いを立てなければならない状況に置かれます。そうした状況の下で、村々から人夫が駆り出され、古墳が造営されました。
 「古墳」は、自治のない時代を象徴しているように思えます。


  魏志倭人伝の世界
 
このように統一が進む過程の日本の状況を伝える資料が、中国にあります。
 「魏志倭人伝」といい、魏の使節が日本を訪れ、自国へ報告したものです。
 それは、ヨーロッパで北の古ゲルマンの様子が「ゲルマーニア」によって先進国のローマに伝えられたのと同じように、当時のアジアの先進国中国からみた日本の3世紀の頃の様子を伝える貴重な資料です。
 「魏志倭人伝の世界」山田宗睦著・教育社歴史新書によると、その昔、倭国は百余国に分かれ、漢の時代に毎年漢の王に使節を送って臣下の礼をとる国があったが、魏の時代になって使節を送っているのは三十国である・・・・・後漢の末に男子を王としたが、魏の時代になると争乱がおこり、各国が互いに攻め合い、ついに女子を王とした。名を卑弥呼と言う。卑弥呼は鬼道をあやつり、大衆を操作する能力があった・・・・奴婢千人が侍従し、ただ一人が飲食の世話をし、卑弥呼の言葉を取り次ぐ男がいる。卑弥呼の住居には物見やぐらや城柵を設け、いつも武器をもった兵士が守衛している・・・・・・・この国の北方には一大軍団を置いて、検察させており、諸国はこの軍団を畏怖している・・・・・・また、軍団は伊都国に常駐し、これらの諸国において魏の国の地方官の役割をしている・・・・・そして、上位の層はみな五、六人の妻を持つ・・・・・部族の間に尊卑の差があり、身分秩序が定まっていて、臣下の礼をとり服従している・・・・・・下位の者が上位の者に道で出会うと、後ずさりして草むらに入り、道を譲る・・・・下位の者が上位の者に伝える時は、うずくまるか膝まずき、両手を地につけ敬意を表す・・・・
卑弥呼が死ぬと古墳を造った。径が30メートルあり、殉死する奴婢が100人を超えた・・・・
  「魏志倭人伝」で伝える社会は、既に中央集権化の様相を呈しており、地方は団体自治の権限を奪われ、社会は階級分化が進み住民参加の自治など考えられない状況になっています。



第三章  世界の夜明け

  ゲルマンの王
 
ゲルマンにも王がいました。
 
広い森の中では、略奪が日常茶飯事でした。
 村を守るには、皆の先頭に立ち、、統率・指揮する者を必要としました。

 
ウイリアム・テルも、戦いの後、村を守るリーダーとして王に推挙されましたが、彼の場合は辞退しました。
 
「ゲルマーニア」に、王についての記述があります。
 これによると、先頭に立って勇敢に戦い、皆に尊敬されて王に選ばれるが、それも一種の選挙による、無限の権力が与えられるものではない、ということです。
 こんな弱い立場の王は、アジアの感覚では「王」と言えないかも知れませんが・・・・・・・この考え方はイギリスに受け継がれ、王の権力を制限して、民主革命を達成する原動力になりました。

  イギリス・自治の黄金時代
 
ドイツ辺りの森で育ったゲルマン民族の一部が5、6世紀にイギリスに渡り、アングロ・サクソン人によるイングランド王国を築きました。
 「イギリス地方自治論」後藤一郎著・敬文堂によると、中央に政府がありましたが地方への力は弱く、地方の習慣が大きな決定力を持ち、各地方団体は自由民が参加する総会があり、極めて民主的に組織されていたということで、イギリス地方政治史における「自治の黄金時代」と評されています。この時代の自治の体験が、今日の「民主政治の原則」の源流となったということです。
 その伝統は今に伝えられ、年に一度のお祭といった感じで住民が集り、法律の公布や住民の嘆願書を提出する大切な行事として開催される地域が、イギリス本島とアイルランドの間に浮かぶマン島にあるそうです。


                 
                   
平成11年8月12日放映NHKテレビ「バイキング・ロード」
                       マン島の「ティンウオルド・セレモニー」の様子

  イギリスの王の伝統 
 
ゲルマンの王の伝統はイギリスに受け継がれました。
 イギリスの王は、国民の了解なくしては権限が与えられず、アジアのように超越的・絶対的権力を与えられることはありませんでした。イギリスの歴史として中学校や高校の教科書にも出てくる「大憲章」や「権利の請願」は、国王に対してこの原則を確認したもので、国王の絶対主義化を牽制し、民主革命の道筋を開きました。


  社会契約

 
国民や住民が話し合い、約束する・・・・それを、個人と個人が話し合って約束する私的契約の延長線上に捉える、つまり、国民や住民の合意による社会契約と考える・・・・・王とても、この契約に一当事者として参加する・・・・・この考え方を理論的にまとめたのが、ジョン=ロックの社会契約説と言われます。
 人間が生まれながらにしてもっている独立して自由・平等な自然権を守るため人民が同意して国家(政府)を組織したのであるから、政府が人民の主権を侵害した時には、政府を取り替えることができる・・・これがイギリスの名誉革命を弁護するものとなりました。
 
そうした考え方は、地方自治の場において培養された民主主義の思想を発展させたもので、「地方自治は民主主義の学校」と言われる所以です。
 この点はアジアと大きく異なるところです。アジアでは自治が専制支配に抹殺され、民主的思想が育たず、王の絶対的権力が普遍化して、自力で民主化できない事態に陥りました。

  慣習
 
このような自治の体験は、いわば判例として積み重ねられ、慣習となって後々の判断基準になります。それは、住民の生活の場における良識の集積です。王とても、それに従わざるを得ず、独断で法を作り、自治を侵す訳にはまいりません。国家もこのような不文法の慣習法によって、王や一部の政治権力の専制支配を排除することができました。

  ロビン・フッドの物語
 
しかしながら、イギリスの自治も12世紀になると、ノルマン王朝の支配が強まり、アングロ・サクソン以来の自由かつ分権的な地方自治が危機に瀕します。
 王朝から派遣の県令が財政、軍事、司法、警察等に強い権限を持ち、地方政治を支配するようになったのです。 県令やその配下の代官は、人々に王への服従を要求し、増税や兵役を強いました。人々も初めのうちは抵抗するが、やがて仕返しや見せしめを恐れて従うようになる。 なおも抵抗する者は、村を離れ、森に逃れて戦う。そんな話のひとつが、「ロビン・フッドの物語」です。
 支配され、虐げられた村人が、表面上は従いながらも、陰ではロビン・フッドを応援する。勇敢なロビン・フッドの物語はバラード(民衆の小唄)として歌い継がれ、支配され虐げられる北風のときもこの唄に願いを託し、自由や自治の魂を守り伝えました。


第四章  「公」・官僚優位の思

  潅漑
 
話をアジアに戻しましょう。
 第2章でお話しましたように、アジアでは、農業の適地が限られ、いったん農地を開墾して定住すると容易に他の地へ逃れることがきないため、たやすく支配者に支配され、ピラミッド型の集権体制が構築されました。
 さらに人々を土地に縛り付けだのが「灌漑」です。アジアの農業にとって灌漑施設は不可欠です。しかし、それは個人の力でできるものではありません。水害から田畑を守る護岸工事もそうです。多くの人を動員して工事を進めなければなりません。本来、これらの建設工事は、個人が結束して取り組む共同事業に過ぎないのですが、それが単なる共同事業を超えて個人の前に超越的に立ちはだかることになります。
 灌漑や護岸工事の動員は拒むことはできないでしょう。個人の都合を優先して参加しなければなりません。そして、水の配分を受ける権利は、農地とは別のものとなり、部外者がその権利を得ることは難しくなります。だから、いったん農地を離れると、流浪の民となってしまいます。人々は、ますます農地に縛られ、支配を受けるようになりました。
 ゲルマンの場合、前章でお話しましたように、「公」といっても個人対個人の私的関係の延長線上にあり、「公」は、いわば個人の意思の総和として社会は運営されました。ところがアジアでは、「公」は明らかに私的なものとは次元が異なる超越的な存在として個人を抑圧し、支配の具として利用されることになりました。

  禹の伝説
 
文明の先駆けとなった黄河の流域は、まさに典型的なアジアの様相を呈して社会が形成されました。
 
黄河の治水は有史以来の大事業で、今も中国の重要な政策課題となっています。
 
この治水に始まる国づくりの由来を端的に物語る伝説が、中国にあります。「禹の伝説」です。この伝説は、禹が始祖となった夏王朝にまつわるものです。
 「中国の歴史・上巻」貝塚茂樹著・岩波新書からその箇所を要約すると、
 ・・・・禹の父の鯀は尭帝の命を受けて洪水を治めようと、竜王の宮殿へ行き、河の道筋を書いた「河図」を盗み出したが、発覚して竜王の罰を受けました。息子の禹は、その「河図」をたよりに河道をつけたところ洪水は治まりました。そこで一帯を九つの州に分けて、それぞれの土地に応じた貢物を中央の夏王朝に納める「禹貢」の制度をうち立てました。
 黄河が平野地帯に入ると扇状の沖積地をつくります。そこでは、河が分流していくつもの中洲ができます。中国古代の華北農民は、この肥沃な中洲に住みつき、農業を始めました。彼らにとって、いくつにも分岐した河道を整える治水灌漑が何よりも重要でした。その事業の先頭に立った禹が王となって、各州から貢物を徴収する中央集権体制を築いたことを伝える物語です。・・・・・

 
この禹の伝説は、NHK報道番組「大黄河」で紹介されました。そして、「黄河(水)を治める者が天下を治める」という諺の由来を伝えていました。
 
ゲルマンの王は、「人」の了解を得てはじめて天下を治めることができました。ところが黄河の流域では、「人」ではなくて「水」を治める者が王になる・・・・・日本もアジアの一角にあって、この諺がそのまま通じる社会になりました。

  尭舜の世
 
このように黄河の流域に始まる中国の初期の歴史について、もう少し付け加えましょう。
 この時代、徳の優れた聖人君子が五人あり、五帝と言います。その最初の帝を「黄帝」
と言い、黄河の流域に住みつき、漢民族をまとめて初めて中国を統一したと伝えられます。黄帝の名は、黄色の水が流れる黄河に由来します。五帝のうち5番目の帝は、「舜」です。「禹の伝説」でお話したように、舜は黄河の治水事業に成功した
位を禅譲しました。その舜は、親孝行に努めた立派な人ということで前帝の「尭」の大臣に抜擢され、そのとおり徳を持って人々を導いた功績が認められ、尭から位を禅譲されました。尭もまた、徳の高い人で、倹約に心がけ、人民の平安な暮らしのために尽くしたと言われます。この尭と舜は聖人君子としてあがめられ、「尭舜の世」と言えば、理想的な太平の時代の模範とみなされました。
 
しかし、この時代は「禹の伝説」と言われるように、資料的根拠のない伝説の時代です。時代が下り、殷の王朝の時代になると、史実もある程度解ってきますが、この時代でさえも、亀の甲を焼いてできた裂け目で天命を占う亀トが行われ、君子以下全てがこれに従うというような没個人的社会でした。このような時代よりもさらに前の時代に、人徳をもって秩序が保たれた社会があったとは思えません。平穏な秩序は、徳によると言うよりも、専制的な支配秩序の下で人々は奴属的な状態に置かれていたためではないかと思われます。にもかかわらず、この「尭舜の世」を徳によって治められた理想の時代と高く評価したのは、後の時代になって生まれた儒教でした。
 その儒教を興したのは、孔子でした。


  孔子
 
孔子が登場した時代は、個人の実力が発揮される社会となり、弱肉強食で世の秩序は乱れ、戦乱が相次いでいました。
 この乱れた社会をいかに秩序ある平穏な社会に取り戻すか、支配する側にとって大きな悩みでした。そこで孔子は、人のあるべき徳の道を示し、徳をもって秩序を正し、国を治めるよう、諸侯を説いて回りました。
 孔子が説いた人のあるべき道とは、「君、君たり、臣、臣たり、父、父たり、子、子たり」というもので、人にはおのずと身分に上下があり、それぞれの身分に応じて礼節を守る・・・・・これによって世の秩序や和を保つ
というものでした。

 
この儒教を学んだ有能な官僚が臣として君に忠義を尽くし、君に代わって人民を導き治める・・・儒教は、為政者にとって好都合の論理でした。そして、戦乱の世を治めるためにも好都合でした。かくして、「公」と官僚が個人を超越した優位な立場に立つ特殊な社会が生まれてしまったのです。
 このような政治思想は日本にも持ち込まれ、少なからず今も引きずっています。


  和
 
儒教は、秩序を維持するため「和」を大切に考え、我慢・忍耐を美徳として教えます。共に生活するために和が大切なことは言うまでもないことですが、和を大切にするあまりに、問題があっても提起しない・・・・とやかく言う人は我慢・忍耐のできない人とみなされる。そして、社会の問題が「誰が悪い、これが悪い」と個人の問題に摩り替えられ、問題解決を先送りする・・・・自浄能力=自治のない社会になる要因になりました。
 
もしもこれがゲルマンの場合、はっきりと意思表示して話し合い、問題解決を図るでしょう。しかし、それでも自分の意に反するときには屈せず、戦うか、離れる(今日ならば、裁判に持ち込む)・・・・・意に反しても我慢して従うことは、彼らにはできないことです。
 
このようなゲルマン(欧米)流の考え方の是非について、いろいろ意見があるところです。伝統的な日本の考え方からすれば馴染めないところです。
 ・・・・ともかくここでは、民族の伝統として双方に大きな違いがあることを理解して欲しいと思います。



第五章  古代日本

  天津罪 
 
日本の典型的な農村の風景を思い浮かべてみましょう。
               

 谷水を集めて流れる一筋の川。
 その両側に農地が広がる。
 稲作は、谷合の水を集めて水田を拓き、さらには川を堰き止めて水を引き営まれるようになりました。
 この絵図は、第一章で紹介した古ゲルマンの森の生活の絵図と比べ、大きな違いがあることにお気付きでしょう。
 このような古代日本の稲作社会にとって、灌漑施設や稲作の秩序を守ることが最大の課題でした。
 そのため、灌漑施設の破壊行為や農地の侵犯行為が最も重罪とされました。そうした罪を「天津罪(あまつつみ)」と言い、大祓の祝詞(おおはらえののりと)や古事記・日本書紀に出てきます。
田の畔を壊す「畔放(あぜはなち)」、水路を埋める「溝埋(みぞうみ)」、用水の樋を取り外す「樋放(ひはなち)」、そして他人が既に種を蒔いている田に重ねて種を蒔く「頻蒔(しきまき)」、他人の田の稲を収穫する「串刺(くしさし)」がありました。
 
これらは農耕に関する罪ですが、天津罪にはもう一種類、宗教行事を妨害したり、政治的権威や支配秩序を乱す罪がありました。生きている馬の皮を剥いで投げ込む「生剥(いけはぎ)」や「逆剥(さかはぎ)」、祭場に糞尿をまきちらす「糞戸(くそへ)」です。

  「天の岩戸」・「八岐大蛇」
 
この天津罪にまつわる神話があります。「天の岩戸」です。
 
・・・・伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神に、三人の子がありました。三人の子のうち、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は高天原(たかまがはら)の統治を、月読命(つくよみのみこと)は夜の統治を、須佐之男命(すさのおのみこと)は海原の統治を任されました。
 ところが、須佐之男命はその任が不満で・・・・・営田(つくだ)の畔をきり、溝を埋め、神殿に糞をまき散らし、さらに馬の皮を剥いで機屋に投げ込み機織女を驚死させるに及び、天照大御神は天の岩戸へお隠れになりました。
 そのため世は真っ暗になり、人々は困り果てました。そこで八百万(やおよろず)の神々は相談し、天宇受売命(うずめのみこと)に賑やかに踊らせ、天照大御神が何事かとわずかに岩戸を開けたとき、天手力男命(あめのたちからおのみこと)の強い力で天の岩戸を開かせます・・・・
畔放、溝埋、糞戸、生剥などの重罪を犯した須佐之男命は、高天原を追放されました。

           
              (蔵迫神楽団 「天岩戸」 平成19年6月16日千代田神楽競演大会)

 さらに物語は、「八岐大蛇(やまたのおろち)」の神話に続きます。

 
・・・・須佐之男命が失意のまま出雲の国の簸の川(ひのかわ)にさしかかると、川上から流れる箸を見つけました。人が住んでいるに違いないと川をさかのぼると、老夫婦と娘が嘆き悲しんでいました。
 翁が言うに、彼らは簸の川から樋を掛けて水を引き、千町万町の田畑を拓いて沢山の収穫を得たが、八人の娘のうち七人が年毎に、川上に潜む八岐大蛇に呑みとられ、今年は残る櫛稲田姫(くしいなだひめ)の番になっている。もし拒否すれば、大蛇は雷雨を起こし、洪水で田畑は流される。
 
・・・・須佐之男命は、大蛇に酒を飲ませて退治し、櫛稲
田姫をめとります。
 
八岐大蛇とは、洪水の際に平野をいくつもに分岐して暴れる川の化身で、上流で山岳民族が砂鉄を採取するため大量の土砂が田畑に流れ込み、いわば公害のように稲作農民を悩ませました・・・・

         
                 筏津神楽団 「八岐大蛇」 絵・植野精華

 高天原では重罪を犯した須佐之男命ですが、出雲の国では稲作農民を助けました。
 豊かな太陽の恵みに感謝するとともに、稲作を基盤とする社会の秩序を整え、民族を護る・・・・・日本民族の由来を物語る神話です。


  公地公民
 
農民は農地に縛られ、ゲルマンのように簡単に移動することができない状況に置かれました・・・・・ 
 そのような状況だから、班田収受の法を敷くことができました。国中の農地を公地とし、国中の成人を公民として、男子には2反、女子にはその3分の2を割り当て、五公五民というような高い税を課しました。

    
  飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
 
そのような農民の辛い生活を詠んだ歌が、万葉集にあります。山上憶良(やまのうえおくら)の貧窮問答歌です。
 (短歌)  「世間を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
 この歌は前歌(長歌)に続くものです。その意味合いは、
 ・・・・天地は広いと言うのに、自分たちは閉じ込められ、貧しい生活を送っている。税が払えないと役人がむちをもって催促に来る。飛んで逃げたいが、鳥ではないのでそれもできない・・・・


  律令
 
この時代、中国の隋や唐にならって律令制が敷かれました。
 天皇を支える官僚組織として、中央に神祗、太政の2官が置かれ、太政官のもとに中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内の8省が置かれ、弾正台が官人を監察し、衛門、左右衛士、左右兵衛の5衛府が天皇に直属して軍事や警察の任務にあたる。地方は国、郡、里の3段階に区分けされ、中央から国司が派遣され、在地の有力者を郡司、里長として従え、地方を治める・・・・・というものでした。

 
かくして地方は、このピラミッド型の中央集権体制下に置かれ、地方は中央に従うのみで地方の団体自治は乏しいものでした。
 ・・・・中央は地方から税を吸い上げることに専念します。庶民の生活や生産に関する諸問題の解決は地方の裁量でしたが、地方の社会は豪族や有力者の支配下にあって住民の政治参加の道は閉ざされ、住民自治の点でも寂しいものでした。


  道徳
 
しかしながら、そうした天皇を頂点にいただく中央集権体制が簡単にできあがったわけではありません。
 日本の統一過程で、まだまだ中央、地方の豪族の力は強く、争いは絶えず、世情は不安定でした。
 そこで導入されたのが、儒教でした。その先頭にたったのが聖徳太子でした。
 聖徳太子が定めた「十七条の憲法」の第一条「和を以て貴しと為す・・・」は、論語第一巻学而篇「有子曰わく、礼はこれ和を用うるを貴しと為す・・・」から引用したものと言われます。中国で戦乱の世を治めるため孔子が提案した儒教が、同じように政情不安なこの時代の日本に導入されたのです。
 この儒教の教えは民衆に対しても指し示めされました。
 この時代、人々は「飛び立ちかねつ」の状態にありましたが、それでも飢饉や役人の仕打ちに耐えかねて逃亡したり、山野に隠れたりする者がありました。そうした人たちに対して、儒教道徳をもって戒めています。
 山上憶良は遣唐使として長安に学び、国司として地方の政務に当たりました。山上憶良は「貧窮問答歌」の中で大君(おおきみ)から授かった農地を捨て、親や妻を捨てて山沢に隠れ住む民を、君臣、父子、夫婦の道に背くものだと儒教の教えで諭しています。
このような役人の姿勢は、山上憶良に限らず、役人共通のものとなっていました。
 このような時代の日本の人々を、イギリスのロビン・フットたちと単純に比較するのはいかがとは思いますが、同じように国司や代官の徴収に耐えかねて山野へ逃げ込みながらも、ロビン・フットたちは弓矢を取って戦い、あるいは村人は勇敢なロビン・フットの物語をバラード(民謡)として口ずさみ、抵抗の精神を守り伝えました。
 日本のこの時代、住民の側にそのような勇敢な物語はありそうもなく、惨めなものだったようです。

  東風吹かば
 
この時代、儒教は役人にとって必須科目でした。
 あの有名な菅原道真も儒学で仕える家筋にありました。その道真が、讃岐の国の国司の時、友人に送った「寒早十首」と題する詩の中で、他国に逃げたが捕らえられ送り返された人にとって、冬の寒さは厳しい、土地は痩せ、実りは乏しく、うろうろするばかりで、身体は痩せこけている・・・・・人々の惨状を伝え、慈悲の政治を訴えています。
 しかしその一方で、讃岐の国へ赴く時、中央を離れ地方に下る我が身を嘆き、地方の役人たちがつきまとうのも煩わしいと愚痴をこぼし、一日でも早く都へ帰りたいと思いを募らすのでした。
 都へ帰った道真は、次々と出世して右大臣になりますが、政敵の讒言のため大宰府へ左遷されました。その時、大宰府で詠んだ和歌「東風(こち)吹かば・・・」は、ただ単に都へ帰りたいというような生易しいものではなく、出世の道が絶たれ遠く地方へ流された・・・・必ず中央へ復帰するからそれまで梅の花を咲かせて待っていて欲しいという道真の怨念が歌に込められ、都の人々にも道真の無念さがよく分かったが故に、道真の怨念におののき「天神信仰」として後々に伝えられることになりました。

  自治の暗黒時代
 
イギリスのアングロ・サクソン人によるイングランド王国の時代を「自治の黄金時代」と呼ぶならば、日本におけるこの時代は、地方に団体自治も住民自治もない中央集権体制下にあり、「自治の暗黒時代」と呼ぶことができるでしょう。
 このような官僚支配体制のもとで、
役人は官職に就き、位を昇ることに汲々としていました。そんな役人の舞台裏をのぞく描写が、清少納言の「枕草子」にあります。
 ・・・・興ざめなものにもいろいろあるが、役人の発令の日に選に漏れた人の家もそうだ。任官を願い寺社に参拝し、任官となれば使ってもらおうと人々が集り、酒を飲みながら騒いでいるのになかなか沙汰がなく、やがて一人去り、二人去り、去るわけにもいかない古参の家来が来年に任期が来る国司を指折り数えてうろついているのも気の毒なことだ・・・・・



弟六章  ゲルマンの底力

  ゲルマンの活力
 
舞台をヨーロッパへ移します。
 北のゲルマンは、森の中を徐々に移動する生活を送っていました。しかし彼らは、好き好んで移動していたわけではありません。畑地は作り続けると痩せます。畑作は連作障害があります。周りの獣も獲り尽くしてしまいます。水田稲作のように、適地を確保して定住という訳に行かないのです。
 やがて彼らは、冬が長くて厳しい北の地から、過ごしやすい南へと動き始めました。そうした人々の中に、スイスの谷にたどり着き、スイスの源流となった人たちもいました。このことは、序章でウイリアム・テルの物語をお伝えしたときにお話しました。
 このようにして南に向かう人々は、やがてローマとぶつかります。ローマは、南下してきたゲルマンを支配下に組み入れ、貢納や奴隷の供給源にしようとしました。
そのときゲルマンと接触して、ローマとは異なる若々しいゲルマンの活力に驚き、ローマに警告を発したのが、前にも紹介したタキトウスの「ゲルマーニア」でした。
 例えば、奴隷の場合、ローマでは主人に追従して命じられるままに動き、鎖や鞭も使われました。ところがゲルマンでは、奴隷も所帯を持ち、外から見ると区別がつかないほどで、穀物や織物など一定の納付を命じるにとどまり、約束の義務を果たせば解放されることもありました。


  ゲルマンの大移動
 
ゲルマンと接触した初めの段階は、ローマが優位に立っていました。しかし、次第にゲルマンはローマに侵入します。両軍が対峙して派手な戦いもありましたが、むしろ浸透すると言う方が適当でしょうか、あるものは奴隷としてローマに連れ去られ、あるいはローマの兵士に雇われ、さらには納税を条件にローマの支配地を任され、徐々に力をつけ、ローマに浸透してゆきました。

  一群の独立国家
 ゲルマン生来の、寒い北の森で鍛え、おのれの名誉や勇気を重んじ、集権支配に抵抗し、自治の精神を護り伝え、仲間や同胞との友情を大切にする彼らのエネルギーが、ローマ帝国の支配体制を根底から覆すことになりました。
かくして、地中海に面するローマ帝国の統一国家から、太平洋側や北海側に広がる多くの独立した国家群に変え、今日のヨーロッパの基礎を築きました。
 そして、彼らの自主・自立の精神は、一方では競争してやまない近代化の波を興し、他方では行過ぎた闘争心を生み、国家間の紛争や戦争をもたらすことにもなりました。


  すべての道はローマに通じる

 
独立した国家群の時代になると、道もそこそこの国家内でクローズになり、他の国の道と必ずしもつながらなくなりました。ところが、ローマ帝国の時代を振り返ると、すべての道はローマにつながっていました。自主・自立の国家群の時代となって、改めてローマ帝国の偉大さに気づいたのでした。
 しかし、この「すべての道はローマに通じる」の諺は、我々アジア人にしてみれば少し奇異に感じます。すべての道は、東京にも江戸にも、古くは京の都にも通じているのは当り前で、中国の場合も中心となる都に通じているのは当り前でしょう。中央集権の国に馴染んだ我々アジア人には、すべての道がローマに通じても、諺にするほど偉大なこととは感じられないのです。



第七章  中世の自由

  フェーデ
 
偉大なローマの侵攻に耐えながらもじわじわとローマに侵入しゲルマンが、4世紀から5世紀にかけて大移動します。いわゆる「ゲルマンの大移動」です。その結果、ヨーロッパは大きな変革期を迎えます。
 変革の第一は、ローマ帝国の古代秩序が崩壊し、人々は古代的束縛から解放され、ゲルマン流の自助・自立の精神が注入され、人々の活動が活発になったことです。
 変革の第二は、キリスト教がローマ帝国の管理下から離れ、自由な活動により人々の生活の隅々まで行き渡り、ヨーロッパ全域に大きな影響力を持つようになったことです。
 後に歴史家はこのことを指して「ローマとゲルマンが融合して、ヨーロッパが生まれた。」と言うようになりました。
 しかし、それは人々にとって安穏としたものではなく、むしろ厳しいものでした。古代秩序が崩壊して、人々は混乱の中に投げ出されました。今日のように、法や国家がある訳ではありません。なんら頼るもののない、混沌とした世界でした。
 そのような世界で生きてゆくには、自らを守るほかありません。今日で言う自力救済権を発揮して自らを守るほかないのです。今日では法があり、自力救済は正当防衛に限られますが、その時代には、まさに実力の争いをもって決着を付け、その結果が神の裁きと考えました。そうした自力救済の権利=フェーデを主張することが、人としての名誉であり、人としての証であると考えました。

  ヨーロッパ封建法
 
しかし、このような自力救済権を主張して実に訴えると、いつまでも争いが続きます。一旦、争いが始まると、双方の血族が加勢し、負ければ敵を討つ。争いは大きくなるばかりです。
 そこで弱いものは、自分の自力救済権を、教会や貴族など他の有力者に預けてその保護に頼ります。これを、託身と言います。託身した者は主人のために労働し、主人は彼に代わって自力救済権を行使し、彼を守ります。こうして中世の農奴が生まれます。武士の場合も託身しますが、軍務につき、自力救済権の行使に制限を受けることになります。
 この中世ヨーロッパ封建社会は、私たち日本人が受け止めている封建社会と比べて、どうでしょうか。日本の近世封建社会は、滅私奉公、忠義を尽くす・・・自分を犠牲にしてまで主君に尽くすことが美徳とされました。この点はまた後で述べますが、中世ヨーロッパの場合、農民は領主に対して保護を求める権利があり、領主は農民を保護する義務がありました。だから、領主が義務を果たさない場合、逃げたり、領主と争うことは正当な権利と自覚されていました。武士の場合もそうで、主君と臣下はいわば契約関係にあり、双方に権利義務があり、例えば一人の臣下が数個の領主に仕え、知行を任されるということもありました。二君にまみえず・・・私たちが知っている封建制の常識では戸惑いを感じます。


  神の平和
 
自力救済権の預け先は、君主や領主には限りません。戦いを中止して平和な社会を造るため、教会は「神の平和」という運動を起こし、自力救済権の行使を中止する誓約団体をつくり、参加を呼びかけました。これは教会をエリアとする都市や農村を単位に行われ、都市や農村の自治獲得の運動に発展し、さらには司法、警察、行政を備えた「国家」の原型となります。そして、このような自治する都市や農村が連合してお互いに守ると言うこともありました。
 ヨーロッパ中世の人々は、君主や領主の無謀に打ちひしかれた弱い、従順な羊ではなく、いざと言うときは抵抗するたくましいやからであり、自治するゲルマンの伝統を失うことなく受け継ぎました。
 この時代は開墾が広く行われ、難を逃れた農民を受け入れる所があり、ゲルマンの森と同じ役割を果たしました。

  三圃制の普及
 
ところがヨーロッパにも十二、十三世紀を過ぎ中世後半になると様相が変わってきます。
 
託身して権利を守る集団をさらに守る上位の集団というように、集団を支配下において権利を一手に掌握する君主の時代となります。このように集権化の道をたどり、君主を支える役人が立法の名のもとに自力救済権を制限し、やがてすべての権利を掌握する絶対君主に発展します。
 その背景には、農業の生産力を飛躍的に向上させた技術の普及がありました。三圃制です。農地を夏畑、冬畑、休閑地に三区分してローテーションを組み、地力回復を図ります。初めにも申し上げたように、ヨーロッパの森は痩せていました。畑作は連作障害があります。同じ場所で作付けを繰り返していては収量が落ちるので移動しなければなりません。ところが三圃制なら、生産力が維持でき、移動が不要になるので居を構え、大きな犂などの農具を使い、計画的に作業することができました。その結果、収量は増え、生活は安定してきました。しかし、これを喜んでばかりはおれません。余剰ができると搾取が可能になります。しかも定住して身動きできません。そうした農民を支配するのは容易です。
 かくしてヨーロッパにも、集権化に好都合なアジア的条件が生まれました。


  ウイリアム・テルの時代背景
 
冒頭で紹介した、日本人におなじみのウイリアム・テルの物語は、このような時代を背景に生まれました。
 定住して生産を拡大する農民と、そうした農民の自治を奪い、武力を背景に税を要求する支配者・・・その戦いの物語です。豊かな平野部を支配下に置いたハクスブルグ家が、やがてスイスの谷合の村にまで触手を伸ばしてくる。ハクスブルグ家が送る代官と、村の自治を守る村人、その先頭に立ったウイリアム・テルの戦いの物語です。
 ウイリアム・テルの物語に類似の物語は、特に自治意識の高い北欧のあちこちに残されているそうです。前にもお話したように、スイスの人々のルーツは北欧という伝説があります。厳しい北欧の環境に耐えかねて南を指して移動した。その行き着いた先がスイスだったと言うのです。現に、スイスの自治の伝統は、北欧に通じるものがあります。

  シラー「ウイリアム・テル」
 
もともと伝説として受け継がれたウイリアム・テルの物語は、ドイツの作家シラーによって世に出ました。その戯曲「ウイリアム・テル」の中に、そうした時代背景がそのまま織り込まれています。
 ・・・・平野部は豊かだが、土地は王様のもので自由がない。自治がなくて、隣同士さえ信用できない。スイスには自由がある。自分で自分を守る。いかなる王にも屈したことはない。王の庇護も、自分たちで選ぶ。スイスは古い慣習と、自分たちで作った法律をもとに自治をしいている。

  テルの勇気
 
このウイリアム・テルの物語が伝えようとしている大事なことは、テルの勇気です。
 
実は、このところが日本人には知られていまっせん。テルは、わが子の頭上のリンゴを弓で射た・・・危険なことをする。それは真の勇気ではない。それが日本人の常識です。テルがなぜ、そのような危険なことをしなければならなくなったか。そこに至るまでには経緯があり、物語の重要なところです。
 ハクスブルグ家の手先の代官は、無理難題をけしかけてスイスの村人を挑発します。それでもスイスの村人は我慢します。あちこちの村の代表が集まって秘かに話し合い、戦いの意を決します。そうとも知らず代官はさらに挑発して、広場に代官の帽子を置き、村人へお辞儀をするよう立て札を立てます。これにお辞儀しなかったのが、スイス人として誇り高きウイリアム・テルです。代官はテルを責め、牢獄に入れる、さもなくば、我が子の頭上のリンゴを射つように迫ります。
 争いがあれば、堂々と対決し、神の裁きを受ける・・・これがこの時代の法でした。スイス人が誇る弓矢の名手として逃げることができない、逃げたら代官に屈したことになる・・・そうした状況におかれて矢を放ったのでした。矢は見事にリンゴに当たりますが、それでも代官はテルを逮捕しようとします。卑劣な代官に、遂にスイスの村人は蜂起し、力を合わせて戦います。ウイリアム・テルは、スイスの自治を守った建国の英雄として愛されるようになりました。

 ここで
重要なことは、このウイリアム・テルの物語が、その後の厳しい封建支配や絶対君主のもとでも、ヨーロッパの人々の中で秘かに語り継がれたことです。それが、次の自由で民主的な時代の「種」となりました。

 
このような場合、日本のお代官様だったらどう裁くでしょうか。
 代官とて、わが子の頭上のリンゴを射るような危険で非情な事は命じない。直ちに刑に処すか、あるいは今回だけはお慈悲で許そう。許されたテルも村人も、代官の寛大な処置に感謝して一件落着。しかしその結果、支配関係は固定します。



第八章  教区自治

  キリスト教の起源
 
このゲルマンの支配に屈しない自主自立の精神は、その後も受け継がれ、今日に民主主義をもたらす力となりました。しかし、この精神は、名誉や自由のために命を賭ける、荒々しい面がありました。これに優しさと忍耐の精神を注入したのが、キリスト教でした。
 ここで、キリスト教の起源をたどってみましょう。
 キリスト教はアジアやアフリカで生まれた、と言えば、本当?、と思う方は多いでしょう。実は、本当なのです。キリストが生まれたユダヤの町ベツレヘムや十字架の磔になったエルサレムは、アジアの西の端に位置します。さらに旧約聖書をひもとけば、アダムとイブが禁断の実を食べてしまった「エデンの園」や大洪水に命を救われた「ノアの箱舟」の物語は、今のイラク、チグリス川やユーフラテス川の流域が舞台と言われます。また、モーゼがエジプトを脱出して「十戒」を授かったのは、シナイ(半島)でした。
 これらの物語がキリスト教の中で意味するところを、かいつまんでお話します。
 紀元前の昔、ユダヤの民は、ヨルダン川の周辺に住んでいました。しかし、その土地は痩せ、厳しい生活を余儀なくされました。その点、チグリス・ユーフラテス川の流域は四大文明のひとつに数えられるように豊かです。ユダヤの民は、戦い破れて捕虜になり、あるいは豊かさを求めて、この流域にやって来ました。
しかし、土地は豊かでも、その土地は支配者に隅々まで支配され、よそ者は受け入れてもらえません。
 このことは、土地と水を支配するものが人を支配するアジアの特性として、既にお話しました。ユダヤの民のアブラハムは、豊かな土地を求めて旅します。豊かな土地を見つけては先住民にすがり、土地を得ようとしますが、結局は追い出されます。そうした寄宿の身の彼らは、時に美しい妻を娘と偽って差し出さなければ・・・もし、自分の妻と分れば殺される・・・食べて行けないような弱い立場にありました。
 「禁断の実」は、美味しそうでもうっかり食べると、止められなくなり、つらい思いをしなければならなくなる・・・ユダヤの民への戒めでした。そして、その流域が大洪水に見舞われた時、神は、清い心のユダヤの民だけを救った・・・ユダヤの清い心と誇りを失わないよう戒めたものでした。


  出エジプト記
 
そのように教えられたユダヤの民ですが、今度は豊かさを求めてナイルの流域に行き、またしても辛い奴隷の身になります。このエジプトからユダヤの民をひきいて脱出したのが、モーゼでした。モーゼの一行は、シナイの荒地をさまよい、励まし合い、助け合う内に、エジプトで染み付いてしまった、ピラミッドや肖像など権力を象徴する偶像の崇拝、自分本位で隣人を踏み台にするゆがんだ心を振り払い、ユダヤの民の誇りを取り戻します。その末に授かったのが「十戒」でした。神は彼らに、偶像崇拝を捨て、隣人愛など人が共に生きて行くために大切な戒めを約束させました。
 シナイの荒地は、ゲルマンの森のようなものでした。ゲルマンが森を移動したように、彼らも荒地をさまよう内に、ユダヤ伝来の隣人愛や連帯の大切さを思い起こしました。それは、自治の精神につながるものでした。
 この教えとゲルマンの精神が融合するベースはこの辺にあるように思えます。


  旧約から新約へ
 
この教えはイエス・キリストの出現により、さらに進展します。
 
長年にわたる苦難の末に生まれたこの教えは、非常に厳格で、戒律を守る者のみが、しかも神に選ばれたユダヤの民のみが救われるというものでした。しかし彼らは土地を追われ、生活は貧しく、絶望のどん底にあえぎ、救世主の出現を待ちます。その期待を背負って誕生したのが、キリストでした。
 しかしキリストの教えは、ユダヤの民の期待に反し、戒律を守れば救われるとか、殺す者は応報として裁きにあう、というものではなく、隣人を自からのごとく愛せよ、さらには敵を愛し迫害者のために祈れ、というものでした。このような教えは、ユダヤのみが救われると信じていたユダヤの人々に白眼視され、ついに十字架に架けられます。
 しかし、このキリストの教えは、大きな広がりを見せます。キリストの受難を分かち合い、お互いに慰め合い、助け合う教えが、何ら頼る術もない、悩み苦しむ大多数の人々の心をとらえました。

    
  教会
 
キリスト教は、パウロたちの伝道活動によって広められ、行く先々に教会が建てられました。
 やがて時の帝国ローマに伝わりましたが、三百年にわたって迫害を受けました。異教徒として差別され、さまざまな迫害を受け、時には野獣の餌食にされましたが、敵を愛せ、迫害者のために祈れの教えを守り、耐え続け、遂にローマ帝国の国教として認められました。そして、帝国の庇護のもと、帝国内を教区に分け、教区ごとに教会が建てられ、それまでの霊、精、魔といった信仰に替わって、身近な生活のあり方や同胞とともに生きる大切さを説き、人々の信仰を集めました。
 さらに進んで教会は、教区民の話合いの場となり、病人や貧しい人の救済などの行政の機能を持つようになり、時には支配者の無理な要求に対する住民の相談の場ともなりました。
 このようにして教区は自治機能を持つようになり、その伝統は今もヨーロッパ各地に残っています。


  教区自治
 
このキリスト教は、南下してきたゲルマンと融合して、ヨーロッパの新たな展開を見せます。
 話は前章に戻ります。ゲルマンの精神で自力救済権を主張していては、お互いに傷つきます。そのため、教会が進める「神の平和運動」に参加して、教区に自力救済権を預けます。
 この点を解り易く説明すれば、例えば我が身を守る場合、一人ひとりが武器を取って自力救済権を行使するよりは、その権利を教会に預けて警察や防衛の組織をつくり、団結して守るのが強力で安心です。そのために応分の負担をする、それが税でした。当たり前の話ですが、彼らのように必要に迫られて自己の問題解決のため納得して負担する場合と、日本のように国が外国から制度を導入して上から与えられる場合とは、歴史的に人々の認識が違ってくるのは当然でしょう。
 例として外敵から身を守る場合を取り上げましたが、そのほかの行政分野にも言えることで、特に病人や貧しい人のための福祉は、お互いに助け合うことによって安心を得る・・・隣人を愛するキリストの教えの実践の場として教区の重要な仕事になってきました。
 身を守ることや福祉も自治の現場から始まった・・・この辺の感覚は、自治の体験が乏しく、中央集権的な体質に染まった日本人には解り難いところです。


  自治と福祉
 
教区の仕事として始まった福祉は、その後時代が下ると国家福祉の理念のもとに国家の責任で行われるようになりますが、教区はそのまま地方自治の最小単位として存続し、小さな自治体でもできる身近な生活や福祉の問題に取り組んでいます。
 日本の場合も、明治の初めには小さな村や町が、救貧や飢饉に備えて食料の備蓄といった役割をいくらか果たしていました。しかしその後の相次ぐ合併や国家主導の政策のために自治機能を失い、人々は国に頼ることに慣れてしまいました。そしてようやく今日に至り、行き届いた施策や行政経費の節減のため、コミュニティー活動とか地域福祉、地域防災といった地域住民による自治活動が提唱されるようになりました。
   

  隣人愛と社会変革
 
今にも残されている教会の活動を、実際に体験された方の報告から紹介しましょう。
 平成四年九月二九日の中国新聞に紹介された、広島経済大学今石正人教授の記事です。マサチューセッツ大学で教鞭をとる同教授が日曜日に出かけた教会は、キリスト教の教義とともに隣人が抱える問題に目を向けさせ、ともに重荷を背負い社会の変革に参加するよう促し、貧困者の救済やエイズ患者のためのホーム建設、恵まれない子どもたちへのクリスマス・プレゼントなどのプログラムに取り組んでいるそうです。
 現代の錯綜して多忙な社会でどこまで存続可能か・・・ついついそんな視点で見てしまう自分を反省するところです。

 
アメリカでは、町づくりのはじめ、まず教会と学校を建てました。教会は自主運営を行い、学校を運営する学校区が自治体として機能して地域それぞれ独自の教育に取り組んでいます。
 イギリスでは、教区が自治体として身近な生活や福祉などに携わり、歴史の名残りをとどめています。



第九章            鎖を切る

  浮浪
 
舞台を日本に戻しましょう。
 
農地をすべて公地とし、国から農民と認められた公民に、一人当り二反、女子はその三分の二というように一律に農地を配分する・・・この公地公民制は、律令支配の下で全国一律に実施されました。
 しかし、これも行き詰まりを見せます。
 第五章で紹介しましたように、
山上憶良は「貧窮問答歌」の中で、親子や夫婦の情を捨ててまで山沢に隠れ住む民を儒教道徳で諭しています。税や徭役を課せられ、仕方なく土地を離れ、山野に逃げ隠れる。支配する側には困り者ですが、そうした流浪の民は次第に多くなります。

  僧行基
 
そうした流浪の民の中には、新たに土地を探して開墾したり、流浪の民を集めて開墾する者も現れました。
 例えば、僧行基たちによる開墾です。行基は官寺に勤めていましたが、官寺から脱して独自に寺を設け、仏法を説き、同時に人々を説得して、行き倒れの人を助けたり、橋を架けたり、開墾しました。そうした農地は、流浪の民を迎え入れ、次第に広がりを見せました。


  飛び立つ
 
支配され、管理された状態では、能率はありません。農地は定められ、夢はありません。ところが開墾地では、希望が持てました。そのため律令体制は公地公民の基本を崩し、開墾地を三代まで私有できる三世一身の法、さらには墾田永代私有令を発するまでになりました。
 このように開墾した土地の私有が認められるようになると、資力のある豪族は、流浪者や奴婢あるいは一般の農民を使って開墾し、土地を集積するようになります。そして、土地の権益を守るため中央の有力な貴族や寺院に土地を寄進して荘園の領主となり、勢力の拡大に努めます。そのような状況になると、収奪の厳しい土地の農民は離散して、待遇の良い土地に流れます。かくして、土地に縛られていた農民に逃亡の自由が与えられ、「飛び立ちかねつ」の農民は、自ら「飛び立つ」ことができるようになたのです。


  加賀郡傍示札  

 
農民が怠けたり、逃亡するるため、収穫が少なくなり、年貢が取れない。その対策のため、加賀の国司の命令を受けた加賀郡の郡司が、村役人に掲示させたお触書の木札が見つかりました。
 これによると、農民は午前四時には農作業に出かけ、午後八時まで働くように。ほしいままに酒魚を飲食しないこと。溝や堰を維持管理しない農民は罰するように。税を逃れるため土地を離れ、逃げ隠れしている農民を捜し捕らえること。そして村の役人は、これらの禁制を犯した農民を報告するように指示しています。律令体制が崩れ行く状況を物語っています。


  逃散
 
やむにやまれず逃げ隠れしていましたが、農民を迎えてくれる場所ができると、農民の立場は強くなります。我々農民あっての年貢だと思うようになり、逃げることもひとつの方法と考えるようになってきます。「逃散」は農民の反抗の手段となり、村の農民が一緒になって相談し、領主と交渉する力を持つようになりました。

  村の自治
 
日本の村にも、自治が始まりました。
 支配する領主の側は、個々の農民をいちいち管理し、逃亡を防止するため苦労するよりも、一括して村に年貢を請け負わせ、村人の連帯責任で確実に納めさせるのが楽です。これを「百姓請」と言います。そのためには、村の中で話合いが必要になってきます。村人は団結し、集会や灌漑用水、共同で利用する入会地、年中行事などの取り決めをします。
 そうした自治の高まりを示す資料が中央公論社「日本の歴史10」に紹介されています。近江蒲生郡の今掘惣の掟で、村の寄合に二度呼んでも出ない時には罰金、入会地の森の木を切ったり肥料にするため木の葉を採った者も罰金を課すというもので、文安五年(一四四八年)に定めたとあります。
 自治に無縁と思われた日本にも、このように自治の世界が生まれつつありました。農民を土地に縛り付ける鎖が解け、村人が集って村を運営する・・・村の自治が始まったのです。


  日本の中世
 
日本の中世を、私たちは江戸時代の延長と考えがちです。ところが、中世は江戸時代とは違う世界がありました。
 それは、ヨーロッパの中世に似たものでした。背景としては、あのゲルマンがヨーロッパを移動したときと同じように、日本の中世の人々が移動できるようになったことです。新しい農地を求めて、あるいは畑作なら、灌漑施設は不要で、傾斜地でも生産が可能でした。このような畑作は支配者にとって厄介で、掌握が難しく、税を課しても逃げられるとそれまで・・・畑作によって多様な換金作物が生産され、商人の活動が盛んになりました。

 
それと同時に生まれたのが、ゲルマンの世界と同じ「実力の世界」です。集権的な秩序が崩壊して自由になりましたが、反面では自分で自分を守らなければならなくなりました。
 
  伽藍仏教
 
そしてヨーロッパのキリスト教と同じ役割を、仏教が果たします。
 しかし、仏教が日本に伝わったきっかけは、政治的なものでした。第五章でお話した儒教と同様に、仏教も国を治める手段として利用されたのです。
 六世紀の半ばの律令体制が不安定な時期に、仏教を取り入れようとする蘇我氏と、反対する物部氏が争い、聖徳太子と組んだ蘇我氏が勝ち、聖徳太子によって仏教導入の詔が下され、全国に広められました。当時の先進国の中国、朝鮮から舶来の「妙法」を国教として広め、政治の安定を図りました。そのために東大寺の大伽藍をはじめ全国に国分寺が建設されました。それはちょうど、第二章でお話いた古墳の役割と同じで、国家事業として建設し、その先頭に立って仏像に額ずくことにより、国家の安定を願った・・・鎮護国家の具とされたのでした。


  仏教の由来
 
ご承知のように、仏教の発祥地はインドです。
 紀元前六世紀の頃、カピラ城の王子として生まれたシャカ族のゴーダマ・シュダルタは、人生の問題に悩み、城を抜け出し、王子の地位を捨てて、巷の生老病死や愛別離苦・怨憎会苦のさまざまな苦難に直面し、人間が生きる価値は、神から与えられたり、カーストなどの身分で決まるものでなく、人間自身に根ざす正しい生き方にあると説きます。
 この仏教の本来の教えに気づいた僧は、体制に庇護され利用される仏教に疑問を持ち、官僧の身分を捨て民衆の中に飛び込み、日々の暮らしに苦悩する民とともに仏の道を求めます。

  いはんや悪人をや
 
先に紹介した行基もそうでした。さらに時代が下がり、源信、空也、そして法然、日蓮、一遍などが新たな仏教の道を開きました。
 親鸞もその一人で、官僧として修行中の比叡山を飛び出し、すでに在野にあった法然に学びました。そして越後や関東を流浪し、生きるのにやっとの人々と生活をともにして、人間の生き方を問い続けました。
そうした修行を経て親鸞は、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・誰とて人は皆、生きるために、直接、間接を問わず、殺生をはじめ人を欺き、だまし、さまざまな罪業を重ねる。その避けることにできない我が身を素直に受け止め、お陰をありがたくいただく者に、自ずと仏の光が照らされると説きました。

 
このような教えは、前章でお話したキリスト教と通じるものを感じませんか。イエス・キリストも、ゴーダマ・シュダルタも、そして親鸞も民の苦難を背負い、救いの道を探求しました。キリストも仏も、常に私の身についていてくださる、そしてお救いくださる・・・そう感じるからこそ、民衆に広く受け入れられました。

 惣村自治
 
さらに親鸞は、生死ギリギリの世界に身を置いて人間本来のあり方を問い、信心を同じくして共に生きることの大切さを悟りました。それは「御同朋御同行」の教えと言い、日々の生活に苦しむ民衆の頼るべきよすがとなりました。
 この教えは、一人では生きてゆけないものが助け合う「自治の精神」通じることにお気づきでしょう。


 寄合談合
 
この教えは、親鸞の時代から下ること二百年、第八世の蓮如の代に一気に花開きます。
 それは、時代の要請でもありました。鎖を切り、飛び立った人々は、何かにすがろうとします。蓮如は、そうした人々の心をつかみ、村々をまわって教えを説きました。「四、五人の衆、寄合談合せよ、かならず五人は五人ながら意巧に聞くものなる間、よくよく談合すべし」、「愚者三人に智者一人とて、何事も談合すれば、面白きことあるぞ」(御一代記聞書)と、大衆自身による学習を勧めています。
 この教えは、農民自身による村づくりの機運に乗って広まりました。

 
 講 
 
そうした広まりのベースとなったのが、「講」でした。村ごとに、あるいは小集落ごとに学習の場を設け、「御同朋御同行」の実践の場としました。
 現代でも、毎月、講中が集って「お茶講」、「お寄り」を開いてお坊さんのお話を聞いたり、講中がお葬式のお世話をします。三十年くらい前までは、家の普請や災害などの場合に相互扶助の機能を発揮していました。茅葺屋根の葺き替えは、戦後も昭和三十年ごろまで、講中総出でやっていました。茅葺き屋根は二十年で葺き替えが必要です。一軒でたくさんの茅や縄を蓄えることができないので、年々順番に茅や縄を持ち寄って葺き替えをしました。このように講は,農民の共同生活を支えてきました。
 キリスト教の教区と同じ役割を見出すことができます。


 寺内町
 
講と同じような成立の由来を持つものに、「寺内町」があります。
 人々が活発に活動するようになり生産力が増すと、商業が活発になります。信仰を同じくする商人が集って町をつくり、道場となる寺を中心に結びつき、自分たちで町を治めました。守護や荘園領主の租税を免れ、治外法権を持ち、自由な取引を行いました。そして、外敵から守るため、町の周囲に堀や壁をめぐらすこともありました。
 同じ寺を中心とする町でも、いわゆる「門前町」と違う点にお気づきでしょう。 「寺内町」は、今日、確認されるだけで二十三ケ所あったそうですが、ほとんどが姿を消しました。その中のひとつ、大阪府の富田林のことが朝日百科「日本の歴史26」に紹介されていました。史料によると、紺屋十五名、大工六名、桶屋五名など二十種以上七十人余りの職人や商人が住んでいたそうです。昭和五十六年に甲子園に出場したPL学園を紹介するテレビで、古い町並みが映し出され、当時に由来する職人気質が今もなお受け継がれていると伝えていました。
                                                          富田林寺内町
 寺内町は、ヨーロッパ中世の自治都市とも共通点を見出すことができます。同じように堀をめぐらせ、城壁を築きます。その中には、教会や領主の館のほか、街の中心には市場があり、集会のための広場や市役所がある・・・この辺は、お堀の外側に町ができる日本の「城下町」とは異なるところです。


 山城国
 
このように自治の機運が高まり、ひとつの国が自治を行うようになります。
 そのひとつに山城国があります。この国は、三十六人ないし三十八人の地侍や土着の領主が結集して、月々の当番制で「衆中談合」により物事を進めていました。それは、一人の有力武士とそれを取り巻く家臣団というピラミット型の構成ではなく、各地域の代表が集って連合体を組み、話合いで国を治めるというものです。
 はじめにも申し上げたように、アジアに特徴的なのは上から下へのピラミッド型の統治形態で、自治を基本とする連合体を組むのがゲルマン流です。そのゲルマン流の連合組織が、日本にも現れたのです。

 一向一揆
 
この山城国はわずか八年で挫折しますが、加賀国は百年も続きました。
 この国を支えたのは、講でした。領主の過酷な年貢の収奪抵抗し、村々が結束して立ち上がり、自治の国をつくりました。「加賀国は百姓と坊主の持ちたる国」とさえ言われました。
 領主の一方的な税の要求に、村人が結束して領主と戦う。それは、第三章で紹介しました、ロビンフットの物語そのものです。日本にも、ロビンフットの物語と同じ舞台が現出したのです。この時代、日本にもロビンフットと同じような物語がたくさん生まれたことでしょう。しかしそれらの物語は、後でお話しするように後の時代に、為政者にとって好ましくない話として葬り去られたと思われます。


 畑作
 
この時代、畑作が広範に行われるようになった。
 稲作は、支配者から捕捉され易い。その点、畑作は開墾が容易で、多様な生産が可能だ。直接換金することもできる。さらには、戦乱を逃れて奥地に入り、畑作に専従するものも生まれました。あのゲルマンの畑作と同じように、焼畑などで移動しながら畑作を営み、独自に村を治める集団も生まれました。


 稲作強制
 
そうした畑作の存在が、近年の研究から明らかになりました。
 
民族学者の坪井洋文さんの著書に「稲を選んだ日本人」があります。これによると、日本の各地に、お正月に餅を食べない地域があることに着目します。それは、後でまたお話しますが、徳川幕府のもとで厳しい稲作強制が行われても畑作農民は習慣を守り、畑作の気概を伝え、正月のハレの日は畑作の山芋や蕎麦などを食べるというものです。
 私たちは、ついつい近世封建時代の延長線上に、そして瑞穂の国の宿命として歴史を捉えがちですが、中世は未解明な点も多く、常識として考える以上に「自由」で「自治」のる活発な社会だったと思われます。



第十章         自治の実験室 アメリカ

 西部劇
 
刀と銃の違いますが、日本のチャンバラ映画に対比されるのが西部劇。どちらも、必ずハッピーエンド。
 しかし、ストーリーは同じようでも、中味は違う。その違いを佐藤忠男さんは、著書「日本映画思想史」の中で解り指摘しておられます・・・・最近の若者は、チャンバラ映画を観たことがないかもしれませんが。
 西部劇では、登場人物の間に身分の違いがない。ただ、正義と悪、強者と弱者、勇気のある者と臆病者という区別がある。ところが時代劇は、強いのは侍かやくざ、町民は妙にへりくだって、百姓はケチで臆病で烏合の衆とみなされる。
 例えば、西部劇の「シェーン」。チャンバラの股旅物とそっくりだが、シェーンがわらじを脱ぐ開拓農民は、農民の誇りを持ち、結婚記念日には晴れがましくスピーチをする。農民の子も、一人の人としてシェーンと渡り合う。「荒野七人」もそうだ。ガンマンは、外敵を倒したが、「強いのは我々ではない、農民だ。」と言って村を立ち去る。
 西部劇は、アメリカ大陸を西へ、西へと進む開拓民の歴史です。ですから、そこには必ず、町づくり、村づくりのテーマ、すなわち「自治」のテーマがあります。無法者が町を牛耳る・・・支配、不正、横暴、卑劣、略奪・・・それに勇敢に立ち向かうヒーロー。
 それでは、チャンバラのテーマはというと、義理と人情です。これは、私たち日本人にはよくわかります。ところが、西部劇の背景にある「自治」のテーマは、日本人に解らない。

 アメリカを旅して、西部劇の舞台そのものの歴史的保存地区に出会いました。
 「My Old Kentuvky Home」の舞台で知られるケンタッキー州の バーヅタウンという、1788年に発足の古い町です。町の大通りはT字型で、町の中心となるの交点に巡回裁判所があります。裁判所の入り口には、「入場者は金属探知機の間を通らなければならない」と張り紙がありました。銃の持込を禁じているのです。裁判所の横に、保安官の詰め所と留置場の跡があり、通りに面して写真のように、見せしめの台がありました。道を挟んで、教会や学校・・・・正に、町づくりの順番どおりに、公共的な施設が配置されています。

 
ところで、西部劇のストーりーは、ウイリアム・テルやロビンフッドの物語と似てると思いませんか。それもそのはずです。
  どちらも「自由・自治」への抑圧に立ち向かい、最後に正義が勝つ物語です。







 アメリカの誕生
 
よく知られているようにアメリカ大陸は、1492年、スペイン王の援助を受けたコロンブスの冒険によってはじめてヨーロッパとの関わりを持ちました。そのため当初は、スペインの植民地になりましたが、無敵艦隊と言われたスペイン海軍がイギリス海軍に敗れて以来、北のアメリカ大陸はイギリスの植民地となりました。
 もちろんイギリスの移民にも、新大陸でひと儲けしようという経済的動機がありましたが、同時に彼らの中には、イギリスにおける政治上や信仰上の束縛から逃れ、「自由」を求めてアメリカへ永住しようという敬虔なキリスト教徒もいました。
 ここでもう一度、イギリスの歴史を振り返ってみましょう。
 第三章でお話したように、ジェームズ一世が、ゲルマンの王の伝統を無視して王権神授説をとなえますが、議会は「権利の請願」を議決して王に迫り、清教徒(ピューリタン)革命を達成します。その時、王の迫害を逃れ、新天地を求めてアメリカへ渡る者も多くいました。幸いにもアメリカには無限の土地が広がっていましたので、かってゲルマンが北ヨーロッパの森で活躍したのと同じように、思い思いの土地で自治を始めることができました。
 これがアメリカの出発です。
 彼らが最初にやって来たのは、マサチューセッツ州プリマスでした。メイフラワー号に乗り組んだ、101人の清教徒は、航海の途中、討議を重ねました。そして、個人の尊厳と権利を重んじ、すべての政治権力は自由な個人の同意に基づく社会を造ることに同意しました。メイフラワーの契約書と呼ばれる憲章です。この精神のもとに自由な個人の同意に基づく「自治」を始めたのでした。
 このような経緯から、この地方には今もなお、町や村の有権者が集って決議する住民総会( タウン・ミーティング)が開かれるという。NHK海外取材班「自治と民衆」に、モントレーという町の町民総会のことが紹介されていました。
 この本は、昭和50年ごろの出版なので、今も行われているか、インターネットで調べてみました。人口が900人余りで、ご覧のようにモントレーMontereyの町のホームページの中ほど「Government」の欄に「オープン タウンミーティングを実施している」とあります。その時期には、提出される議案などが、ホームページに載ってくると思われます。

 
タウン・ミーティング
 
タウン・ミーティングは換言すれば住民総会のことで、彼らの住民総会は、第1章で紹介した「古ゲルマンの集会」に始まり、スイスやイギリスのマン島に今もなお伝えられているとをお話しました。
 
タウン・ミーティング、すなわち住民総会は、議員を選んで、議員に決定権を委ねるのではなく、住民自身が集会に参加して発言し、決定できる制度です。その方法が、今日、出来るかとお思いでしょうが、実際に今日もやっています。
 先ほど紹介したマサチューセッツ州のモントレーは、Berkshire County(郡)の中の市町村のひとつです。
 この郡には32の市町村があります。その中で、28市町村がタウンミーティングの制度を持っています。人口が12000人以上になると市になることができ、議会制を持つことができます。残る4市は、市長・議会制や議会制とタウンミーっティングの併用等です。このBerkshire County(郡)は、マサチューセッツ州でも、山間地にあり、町村の人口は小さいものでたったの130人、1000人未満もたくさんあります。10000人以上でもタウンミーティングを実施しています。
 沿岸部の人口の多い地域はどうか、始めに紹介したプリマスのあるPlymouth County(郡)の場合、27市町村のうち、25市町村がタウンミーティングを実施しています。人口が2万を超える町も実施しています。町村の大半は1万人前後です。議会制をとっているのは、人口5万と9万の市です。
 参考までにどのようなことを審議しているか、そのひとつ、Carver町(人口11、163人)のタウンミーティングを見てみましょう。毎年、定例と予算、そして特別案件と3回以上のタウン・ミーティングが開かれています。
 そんなに多くの人が集ることが出来るか、疑問をお持ちでしょう。たとえ集っても、多くの人数で審議が出来るか、騒がしいだけでどうしようもない。実際にセレモニーとして、あるいはお祭りのような側面もあるようです。しかし、賛否が伯仲するような場合、誰もが発言できる、住民の最後の砦になるでしょう。
 とは言え、私自身、現場を見たことはありません。
  ・・・見ずに語るのは申し訳ないことですが。実は、こうしたことが一番の問題なのです。
 私たちには、タウンミーティングは珍しい、驚くことですが、マサチューセッツ州の人々にとって、珍しくもなんともない。まるで空気のようなもので、ことさら仕組みを詳しく説明する必要もない。町や村のホームページにも、タウン・ミーティングの様子は出ていません。議案は詳しく出ていますが・・・
 物質文明は、明治以来、どんどん輸入しました。非物質的なものでも、芸能とか、文学、音楽等は、見せるためのものだし、見たいと思う・・・私たちも接する機会が多いのですが、自治のことになると、外部に見せるものでもない。
 どれだけ自治が機能して、住民の立場が守られているのか=民主的か、実際にそこに生活する者でなければ解らない。
 結局、私たちは、私たちなりに、日本の流儀が当たり前と思ってやってきました。しかし、アジアの多く・・・そして日本の地方制度は、あまりにも中央集権的で、政治家や官僚・役人任せの、世界的に極めて特異なものになっています。

 もう少し説明しましょう。なぜ、マサチューセッツ州の人々は、タウン・ミーティングを存続できるか。
 先ほど紹介したマサチューセッツ州の市町村は、17世紀から18世紀にかけて誕生しました。彼らは、入植して生活を始めますが、一家族ではやって行けない。自分たちを守るため、子どもの教育のため、宗教的生活を送るため、・・・・地域にある程度の人数が定住すると、集って相談して村を造ろうということになります。そのために必要な経費を計算し、それを割り振って、皆で負担します。その延長線上に、今があります。
 自分たちのことは、自分たちでやるしかない。州も連邦も助けてくれない。いざという時に、頼りになるのは自分たちの町や村・・・だから、町や村はそのまま、人口が130人になってしまった村があれば、5万人に膨れ上がった市もある。しかし彼らは、容易に合併はしません。自分たちの村は、自分たちで・・・・それは排他的というのではなく、自分たちの村や町には、祖先が苦労した歴史があり、誇りがあり、伝統や財産があり、その村や町ならではのやり方がある・・・我が村や町への愛着は非常に強い。
 その点、日本は、国の政策で、明治の初めに全国一律に市町村ができ、その運営は国や県の指導のもと、一部の有力者で行われ、気が付いた時には、税源は乏しく、交付金や補助金など国に頼るほかない。
 ・・・合併と言われれば、そうせざるを得ず、何回か合併を重ねた。
 自ら参加して確認しなければ納得できないマサチューセッツ州の人々と、お任せに慣れっこになった私たち日本人の間で、「自治意識」に大きな格差があることは否めません。
         (* 参考  Town Meetings
 なお私では語り尽くせないところがあるので、先ほど紹介したNHK海外取材班が実際にタウンミーティングの様子を見て伝えた一説を引用します。
 「・・・(タウンミーティングへ参加することによって)人々は今、自分たちの町の政府を構成するという権利を厳粛に行使している。その政府は、互いに気心を知り合った隣人たちによって構成され運営されるのが望ましく、いわば財布のひもは見知らぬ人に預けるわけにはいかないという考え方が基本にある。身近な問題を扱う町村の政府には特別な人ではなくて、誰もが参画できなければならないし、それでも権力というものは監視の力が小さければ気ままになって専制化しやすい性格をもっているため、できるだけ民衆のそばに置き、民衆が細かく意思決定に関与しなければならないと考える。このためニューイングランド(マサチューセッツ州を含むこの一帯は、歴史の経過から、「新しいイギリス」の意味で呼ばれる)の地方自治体はおしなべて小さく、マサチューセッツ州の自治体の六十パーセントは、住民総会(=タウンミーティング)による直接民主制の伝統を守っている・・・」

 余談ですが、彼らは裁判も、専門家任せにしない。法は、もとを正せば、国民が定めたものだ。法の運用も、国民の目の届くところに・・・住民は「陪審員」となって直接裁判に参加する。
 日本の明治以降の地方行政制度については、第十四から十九章でお伝えします。


 制度の選択も自治のうち

 
アメリカの町を訪ねると、ますはじめに、、「私たちの町は○○年に設立した古い町、新しい町・・・」と紹介します。
 そこのところが、私たち日本人には、ピンと来ない。市になって○○年とか、合併して新しい名前になって○○年とか・・・
 そこが、アメリカは違う。州も、当初の8州があれば、後に合衆国に参加した州がある。
州は郡に仕切られ、郡の中は、市町村が治めている区域があれば、市町村の設立がまだで、郡が直接治めている区域もある
                      (この点は、朝風第4号住民投票の中の図をご覧ください。)

 
そして彼らは、それぞれ自由に町や村をつくりました。そしてその後も、試行錯誤で、いろいろ工夫して町づくりを進めました。つい気を許して任せたら、不正、腐敗、怠慢、高税、大借金、破産・・・いつの間にか裏切られ、大変なことになる。税を引き下げるには効率よく、しかも住民の目が届くように・・・人口が多すぎてタウン・ミーティングが駄目なら、案件ごとに賛否をとる住民投票で、あるいは計画や政策について事前に住民の意見を求めるパブリック・コメント制を・・・体系的には、住民総会型、委員会型、支配人型(議会ー支配人)、首長型(議会ー首長)、そして弱首長型、強首長型など多様です。 日本の国会のように議員の中から首長を選ぶ方法や、公募して経験があり有能な支配人を選び、議会が細かくチェックする方法などがあります。
 制度を選択するのも、自治のうちです。日本は、地方自治法で全国統一ですが・・・
 このようなことから、イギリスが「自治の母国」と言われるのに対して、アメリカは「自治の実験室」と言われます。
















  
アメリカ合衆国 イリノイ州の選挙
        
2000年4月21日に実施されたもので
  
上 ↑ は、投票項目を記載したパンフレットです。
   案件は約20項目あります
   その下の段は、大統領選挙の候補者
    ジョージ ブッシュ   1→
       ・・・・
    ジョーン マケイン   5→
   そのほか、上院議員、湖埋立管理委員、クック郡選出のイリノイ州検事、クック郡の公証人、クック郡の巡回裁判所事務官、
  最高裁判事、上告裁判所判事(組織が日本と違い、正確な役職は分かりかねます。)

  
それに加えて、上の段は、住民投票にかけられた案件です。賛成なら 283→  反対なら 285→
  住民投票にかけられた案件は、禁煙と医療に関するものです。

  
投票案件の英文は
       OFFICIAL  BALLOT
(公式の投票)
     COOK COUNTY、ILLINOIS
(イリノイ州クック郡)
       MARCH 21、 2000  (2000年4
21
     ADVISORY  REFERENDUM  (住民投票)

      
諮問的な住民投票=最終的には議会で議決・・・・法的に即決定の住民投票もあります
  TO THE ELECTORS OF COOK COUNTY 
(クック郡の選挙民へ)

  " Shall Illinois' share of the tobacco lawsuit settlement be committed to fund comprehensive
  smoking prevention and medical treatment programs and to fulfill the mandate of the Bernardin
  Amendment which calls for decent health care for everybody in Illinois? "
                                                  YES
(賛成)  283→
                                                  NO 
(反対)  285→
  
英語とフランス語で書かれていますが、別に、ドイツ語、イタリア語、中国語などほとんどの言葉で準備されています。
  イリノイ州は、大都市シカゴを抱え、いろいろな言語が使われているからです。


 
 右 → は、パンチカードです。これをパンフレットの下に挟み、の先に、釘のようなもので穴を開けると、
  パンチカードの所定の番号のところに穴が開く仕組みになっています。
  項目は多くても、パンチカードですから集計は早い。
  パンチカードは、穴がずれて判断できないことがあり、この前の選挙ではマークシート(鉛筆で黒く塗る)が使われたようです。
  将来的には電子投票の方式が導入されるでしょう。

  日本ですと、たった1名の名前を書くのに投票所に向かいます。
  彼らは、いろいろな公職・・・例えば、日本で言うと、教育長、消防長、水道局長、ほか各種の委員長や委員を同時に選挙します。候補者が多くて判断できないときは、支持する政党が推薦する候補に任す方法もあります。
  これらの選挙にあわせて、懸案となっている事項を住民投票にかけます。同時に実施するのは、経費節減と投票率向上の狙いがあるのでしょう。住民投票は、合衆国全体でも、かなり頻繁に行われています。賛否が別れ、関心が多いと、投票率は上がります。重要案件のほか、増税となる事項や、住民の協力を得なければ実施できないような事項は、できるだけ住民投票にかけるようです。



 アメリカ魂  
 
アメリカの広い大地で、彼らの開拓精神は培われました。それはちょうど、北のヨーロッパでゲルマンが自由に活動した森のようなものです。西へ西へと進む彼らのほとんどは自作農でした。伝統的な権威はありません。自らが働き、自らを守り、あるいはお互いに力を合わせました。そして、民主主義を学び、自由と独立の精神を養い、自発的な参加による自治を育てました。
 西部劇は、そうした彼らの開拓の歴史です。


 独立戦争

 
イギリス国王の迫害から逃れ、自由を求めてアメリカにやってきましたが、その後もイギリスの干渉に苦しみます。
 自治を基盤とする民主的な政治を進めようとするかれらに対して、イギリス本国は植民地支配を続けようと弾圧したため独立運動が勃発しました。しかし、独立までの道程は険しく、メイフラワー号が上陸して160年余り経った1783年に、ようやく独立を果たします。
 それはちょうど、ウイリアム・テルの物語を同じでした。植民地支配を続けて収奪しようとするイギリスに対して、アメリカの各地が力を合わせ抵抗して果たし得たのです。







                    「団結か、死か」 
                 アメリカ合衆国の国旗の候補
    フランクリンの新聞漫画                      フランクリンの漫画の発想から、国旗の候補に蛇の図柄が
    蛇が切断されると、死ぬ。                    候補に上がったが、小差で採用されなかった。
    8州へ団結を呼びかけました。                 国防省ペンタゴンに展示してありました。
    イギリス本国に対する抵抗は、
    フランクリン自身、生死をかけたものでした。

         独立宣言とフランクリン

 
アメリカの独立は、ヨーロッパに影響し、フランス革命を勇気付けました。
 独裁者ヒットラーを打破する力になりました。軍国日本に対しても・・・
 自由が侵されると、自国であろうと、他国であろう黙って見ておれない・・・彼らには、世界の民主化の先頭に立った自負があります。しかし、それぞれの国には歴史の発展段階があります。その段階を踏まえ、民主化を援護する長期的視野が必要と思えまます。
 そうした行動に対して人的にも財政的にも多大な犠牲を払っていますが、国内的には民主的な合意の手順を踏んでいます。アメリカに望むことがあれば、アメリカ国内の世論に働きかけ、地域社会の関心を呼び興すことが大切と思います。
 できるだけ他人に任せない、できるだけ自分で・・・他人に任せれば不安だ、いつ裏切られるか分らない、監視しなければ・・・そうした彼らの姿勢は、例えば、自分を守るのは最終的に自分、だから銃は離せない、あるいは医療は自分で保険会社と思い思いに契約する、一律に扱われるのは嫌だ、といったことなどに顕著に現れます。日本のように、行政や議会に任せきりで、国民、町民が一丸になって、お互いに助け合いの心を大切に・・・どちらが正しいと結論づけるつもりはありません。ここでは、日本の自治の特色を明らかにするため、欧米の自治の原点を探り、比較することに主眼を置いています。
 ともかく日本も、彼らの成果をいただき、彼らの力を借りて民主化を進めてきました。それがどこまで理解され、定着し、民主化に結びついたか・・・
 この点については、また後でお話します。


第十一章  挫折

 「七人の侍」 
 
舞台を日本に戻します。
 西部劇は自治の物語と申しましたが、そのアメリカの西部劇が日本の映画を参考に製作されました。ユル・ブリンナー、スティーブマックイーン、チャールズ・ブロンソンなどの名優がガンマンに扮する「荒野の七人」は、黒沢明監督の「七人の侍」からヒントを得だのだそうです。「七人の侍」はヴェネチ映画祭の銀獅子賞を受賞したので、そうした機会に目にとまったのでしょう。
 ということは逆に、日本映画の「七人の侍」は自治をテーマとしていたことになります。
 ・・・・「七人の侍」の舞台は、戦国の世です。その時代、村はいつ野盗に襲われるかもしれない。村人は、自分たちで村を守らなければなりませんでした。
 ストーリーは、「七人の侍」も「荒野の七人」も同じです。村人は相談のうえ、侍=ガンマンを雇います。そして、戦います。
 そして、やっとのことで戦いに勝ちますが、どちらの映画も最後に、生き残った侍=ガンマンはつぶやき、村を後にします。
 「勝ったのは俺たちではない。あの百姓たちが勝ったのだ。」

 蓮如の苦悩 
 
「七人の侍」のように、農民に味方する武士もあったでしょう。しかしほとんどの武士は、一国一城の主を目指して時代の前面に出てきます。その壮絶な戦いに目を奪われて、とかく私たちは、戦国時代を武士対武士の戦いの時代と見てしまいますが、本当のところは、武士対民衆の戦い、すなわち武士の封建支配対民衆の自治との戦いでした。
 
巣立ちしたばかりの小鳥は、飛べる喜びで一杯です。勇んで「飛び立ち」、大空を自由に飛び回ろうとします。回りの恐ろしい獣や鷲も目に入りません。ちょうどこれと同じように、初めて目覚めて「自治」することを知った人たちは、「自治」することの喜びを知り、思い切り背伸びしようとします。そして随所で、旧勢力や武士と衝突するようになりました。
 その時の蓮如の苦悩は、大変なものでした。これまで苦労して育てた各地の門徒集団が戦火に巻き込まれる。差し迫った状況下で、蓮如は次々と「掟(おきて)」を門徒に発しました。(以下、笠原一男著「乱世に生きる・蓮如の生涯」から)
「一 諸法・諸仏・菩薩などを軽んじてはならない 
 一 真宗の作法を基準として他宗を非難してはならない
 一 守護・地頭などの政治権力の言いつけを大切にし、これを軽んじてはならない
 一 社会的には王法を第一とし、内心には仏法を本とせよ
 一 われこそは・・・本願寺門徒だといって(所かまわず、遠慮もせず)真宗のことを人にこれ見よがしにみせつけることは、
   たいへんな間違いである。
 一 もし人が「あなたはどのような仏法を信じる人か」とたずねても、はっきりと真宗の念仏者だと答えてはならない・・・・・
 一 四講の会合のとき、念仏の信・不信についての話しあいのほか、政治・社会などの世間の問題を云々することはいけない
 一 ・・・大勢であるから守護・地頭を刺激するゆえ、よくないことだ。必要な人数だけをえりすぐって・・・・             」

 蓮如の懸命の呼びかけにもかかわらず、守護・地頭など支配勢力と前面衝突となります。
 彼らは生産者であり、兵農未分離の状態で武力を備えることができました。そんな彼らが利害を超えて厚い信仰心で結束したとき、その勢力は強力なものになりました。彼らは、攻められ、殺されても、念仏を唱え戦いました。

 
第九章でお話しました山城国や加賀国の自治は、このようにして一揆に発展したのです。
 武士対民衆の戦い・・・武器を持って、武士のコーナーで戦っては負ける・・・とりあえず武士に従い、内心は仏の教えに従う。武士と共存しながら仏法を守り、時節を待つ・・・蓮如の願いもむなしく、武士の支配下に組み込まれて行きます。
 「進者往生極楽 退者無間地獄」(進む者は極楽に往生する、退く者は無間の地獄に落ちる)の旗を押したて徹底的に抗戦します。しかし、時の武士は、いかに懐柔しても服従させることが無理とみるや、彼らを皆殺しにする「根切り」をしました。


 したたかな自治
 
蓮如が求めたのは、たとえ表面上は支配されても、心までは屈しない・・・その姿勢から連想するものがあります。これまでお話したヨーロッパの例です。
 キリスト教は、三百年にもわたりローマ帝国の迫害に耐えました。「なんじの隣びとを自らのごとく愛せよ」、「敵を愛し、迫害者のために祈れ」を守り、厳しい弾圧の中で信者を増やし、遂に帝国の国教として認められました。
 その後も領主や王の支配を受けますが、教区自治でお互いに励まし合い、時には彼らは秘かに教会の地下室に集り、自治の精神を守り伝えました。そうした人々に伝えられたのが、ウイリアム・テルの物語であり、ロビン・フットの物語なのです。そうした物語が実際にあったかどうかが問題ではなく、そういう自治の物語を秘かに伝え、心までは支配に屈することなく、自治の精神を守ったことに意義があるのです。
 ウイリアム・テルの物語について、私たちはとかくウイリアム・テルの派手な立ち回りに目を奪われますが、この物語の大切なところは、代官のゲスラーが重い税を課したり、城造りに徴用したり、いろいろと無理難題を押し付け挑発します。それでも村人は、お互いに励ましあって我慢に我慢を重ねます・・・・読者さえも、もはや我慢できないというところまで追い込みます・・・・この物語もロビンフットの物語も、ヨーロッパの人たちに、北風の時も我慢して時を待てば、必ず南風の時が来る、それが真の勇気だということを教えています。
  ところが日本では、我が子の命を賭して国を守った英雄・・・そして、近年では、我が子を危険にさらす危険な物語として・・・

 リターン・バック

 
戦国時代の真の戦いは、武士対武士の戦いではなく、武士対農民の戦いだっと申しました。
 戦国時代も始めの頃は兵農未分離でした。農民は、地方の豪族の要請を受け、鍬を槍に換えて兵として協力しました。平素から農民を守り、大切にしてくれる武士でなければ積極的に協力しない・・・その意味で武士と農民は対等の協力関係にありました。「人は城」と言って城を築かなかった武士もいました。ところがやがて、ご承知のように兵農は分離され、農は武士の支配下に組み込まれてしまいました。
 武士対農民の戦いの最たるものが一向宗徒の戦いでしたが、多くの場合は知らず知らずのうちに武士の支配下に置かれ、身動きできない状況に追い込まれます。

第十二章  よろしからざる事

 家康の体験
 
ここからしばらく、暗い、気の重くなる話ばかりですが、ご辛抱ください。
 信長、秀吉、家康をもって戦国時代は終焉します。この過程で経験が家康以降の政策に反映されます。

 
信長は、10年に及ぶ西本願寺の戦いや、長島、越前、紀伊、雑賀等の一揆に苦労しました。信長に従った秀吉も同様ですが、家康も、三河の一揆のため何度か死地に追い詰められました。そのため、秀吉が始めた刀狩などの兵農分離策や身分制度を受け継ぎ、強化します。
 
そしてさらに、次々と民衆の抑圧政策を推し進めます。

 再び稲作強制 
 
秀吉は、大仏を建立すれば国土安全・万民快楽になると刀・槍などを集めました。そして、検地を強行します。その徹底振りから、太閤検地とよばれます。家康もこれを受け継ぎ、全国六十余州の検地を行い、石高制による領国支配の基礎を固めました。
 そして、農民を土地に縛り付けます。
 まず、農民が無断で土地を離れることを「逃散」と言い、罪とします。
 例えば、慶長十二年(1607年)に備前岡山の監国となった池田利隆は「申し渡百姓にす覚え」では、今後は人質はとらないが無断で逃散した場合には罰すると言い渡しています。さらに寛永十九年(1642年)になると、同じ岡山藩では「御法式」を示し、逃散があった場合、五人組みの責任を問い、さらに親類を尋問し、宿を貸したり荷物を送るのを手伝った者には米一石を出させ、村中の百姓から一軒当たり米一升を出させる。そして、逃げた後の田畑のことにも細かく注文をつけます。
 さらに慶安二年(1649年)に出されたものに慶安の御触書があります。質素倹約など農民の生活を細かく戒めています。
 寛永二十年(1643年)には田畑の永代売買禁止令を出して農民を農地に縛り付け、代々家を守り、土地を守ることを宿命つけます。 また、島原の乱以後、寺に宗門改めを行わせ、宗教や思想を監視します。

 徒党 
 
そしてさらにいろいろな規制を加えます。
 一揆の体験から、幕府や藩が恐れたのは、人々の自主的な集会でした。集会の場で不満が爆発して力が結集されると、一揆に発展します。そこで、「百姓大勢申合わせ候を徒党」と言い、「よろしからざる事」と言って罪悪視するようになりました。
 広島藩に「青枯集」という藩の下級役人の手引書が残されています。その中で、百姓が日々暮らせるのはお上のご恩だから、ありがたく思い、農業に精を出し、滞りなく年貢を納めるように。そして、徒党をすれば所の騒ぎになり、当人たちにとっても為にならないので、秘かに役人に申し出るように、庄屋が取り次がない場合は村回りか代官に封書で申し出るように。以上のことを百姓へ漏らさず読み聞かせるように・・・


 高札 
 
このような百姓への戒めが、「高札」として村に掲げられました。広島県福山市に伝わるものです。要約しますと、
      定
 一 よろしからざる事は徒党、そして徒党して強いて願事を企てることを強訴、申し合わせて村を立ち退くことを逃散
    徒党、強訴、逃散をその筋の役所へ訴え出た者には、褒美に銀百枚、場合によっては苗字帯刀も許す。
    たとえ一旦、仲間になっていても、発言した者の名前を申し出るならば、罪を許し、褒美を与える。
 一 訴え出る者もなく騒動になった場合も、村人を差し押さえた者、あるいは徒党に加わらなかった村方や鎮めた者に
    褒美を出し、名字帯刀を許す。


 暗黒の時代
 
もはや、人を信じることができなくなりました。たとえ不満があっても、それを口に出したり、相談すると、密告される恐れがあります。人々の心は歪められ、「見ざる、言わざる、聞かざる」を守り、我が身を大切に、閉ざされた村の片隅で黙々と生きるほかなくなったのです。これでは「自治」など成り立ちません。
 横山十四男著「百姓一揆と義民伝承」によると、江戸時代におよそ3212回の百姓一揆や打ち壊しがあったということです。一揆に至らないで、未然に発覚したものもあったでしょう。農民の要求を認めると、農民の自治を「自治」を認めることになります。そのため止むを得ず、咎めを覚悟で一揆に訴えます。それによって認められる場合もありますが、その後、首謀者は徹底的に糾弾されました。そして、集会や強訴、逃散を防止するため、「ためにならない」、「よろしからざる事」と人々を圧迫しました。


 村の広場 
 戦国時代以前では、村で頻繁に集会が行われ、村の掟に、村人の集会への出席義務を明記しているものもありました。
 ところが江戸時代になると、年に一度でも、村人が集って公式集会を開くということがなくなりました。村を運営するのは、もっぱら庄屋や組頭など村役人や有力者となりました。
 だから、日本の村や町には、集会の広場がありません。ここが、ヨーロッパの村や町との大きな違いです。ヨーロッパの場合、村や町の中央部に広場があって、周辺に公共施設や教会などがあります。ところが私たちの周辺の村や町を振り返っても、集会の広場だったというような場所は残されていません。近年、役所の隣に公民館や町民センターといった大きな集会所が建ってられましたが・・・
 日本の村や町には、広場はなかったが、「高札場」がありました。村の自治は無視して、高札に上意下達の禁止事項が張り出されました。


 享保の百姓一揆
 
私の郷里にも典型的な百姓一揆がありました。それは、郷土史家植田吾朗氏の研究で、大朝町歴史民族研究会編「あぜみち放談」に発表されました。要約しますと、江戸時代の後半に、ある百姓が砂鉄の関連事業で財を成し、広島藩から所務役人に取り立てられました。その頃、藩は財政の悪化で苦しんでいたため、その所務役人に年貢の増徴を指示します。それに反対して、村人は所務役人はじめ周辺の庄屋へ踏み込み、打ち壊しをします。藩はやむなく増徴案を引っ込めますが、騒動が鎮まった後、首謀者を探し出し、斬首、入獄などの刑に処しました。

 「義」
 村が窮地に追い込まれたとき、最後の手段は一揆でした。しかし、先頭に立つと自分や家族が犠牲になります。確かにそのとおりで、 新村出編「広辞苑」には、「義民=正義・人道のため一身をささげる民。江戸時代、百姓一揆の指導者などを呼んだ。義人。」とあります。問題は、辞書でも「義民」を江戸時代に限っていることです。
 ウイリアム・テルも、ロビン・フットも、日本流に言えば、「義民」と言うことになるでしょう。しかし、これらの物語を読んでも、彼らには、人のために犠牲になる、という思いがありません。そして、人々を勇気付けています。ハッピーエンドの物語だからと言えばそれまでですが、日本にも戦国時代までには、ウイリアム・テルの物語のように村人が力を合わせて村を守った物語がたくさんあったに違いありません。しかしそれらのハッピーエンドの物語は江戸時代になると、抑圧され、語ることができなくなり、葬り去られたのではないでしょうか・・・「義民」とは、自治のない時代に上から押さえつけられ団体自治が侵された時の、命と引き換えの最後の手段でした。


第十三章  上下の分

  再び儒教 
 
中世から戦国にかけて、世は乱れましたが、個人の主体性は発揮されるようになりました。
 主従関係を結ぶにも、双方に選択の自由がありました。「七度主君を変えねば、武士(もののふ)とは言えぬ」、実力主義で勝ち抜く社会でした。信長に見込まれた秀吉と光秀、そして信長に反旗を翻した光秀、主君に替わって君臨した秀吉、その秀吉も、家康をはじめ諸侯に秀頼へ忠節を誓わさなければなりませんでした。
 ヨーロッパの場合も、第七章「中世の自由」で紹介したように、フェーデ権を預けて主従の契約で結び、同時に複数の主君と契約を結ぶこともありました。
 ところが、日本の場合、ほどなく急転して、「滅私奉公」、「二君に見(まみ)えず」そして「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」・・・たとえ君がしっかりしていなくても、臣は臣の勤めとしてしっかり仕えなければならない・・・そうすることが美徳で、常識の時代になります。
 何でこのように変わったのでしょうか。
 「儒教」です。第四章「公」・官僚優位の思想でお話した孔子の儒教です。儒教は、徳を積んだ優秀な役人が、君主に代わって世を平安に治める、というものです。この儒教は、古代律令制社会に持ち込まれましたが、再びこの時期に持ち出されたのです。
 それを持ち出したのは、家康でした。家康は、下克上の世を目の当たりにして、儒教を積極的に導入しました。
 日本儒学年表(斯文会編)によると、文禄二年(一五九三年)に、家康は藤原惺窩(せいか)に「貞観政要」を講じさせたとあります。貞観とは、唐の太宗の時代で、儒教の教えによって世がたいへん良く治まったと言われます。
 一五九三年は秀吉が天下の時代で、朝鮮の役の最中でした。その頃既に、家康は準備していたのです。関が原の戦いの前年の一五九九年には、孔子の書物を木版により出版しています。

  家康と儒教
 そうした儒教の教化活動が、幕府の政策に反映するようになります。
 例えば、大名の憲法とも言うべき「武家諸法度」は、初めて制定された慶長二十年(一六一五年)のものは第一条が「文武弓馬之道、専可相嗜事」(文武弓馬の道をもっぱら相たしなむべきこと)と単純に文武を奨励していますが、天和三年(一六八三年)の武家諸法度では第一条が「文武忠孝を励し、可正礼義事」(文武忠孝に励み、礼儀を正すべきこと)、同じく第三条は「人馬兵具等、分限応じ可相嗜事」(人馬兵具等は身分に応じて相たしなむべきこと」というように、儒教色が濃いものに変わります。
 同じように武士一般に対して制定された「諸士法度も、寛永九年(一六三二年)のものは第一条が「侍之道無油断、軍役等可相嗜事」とありますが、早々に寛永十二年(一六三五年)には改定して「忠孝をはげまし、礼法をただし、常に文道武芸を心がけ、義理を専らにし、風俗をみだるべからざる事」となります。
 儒教は、徳川幕府の安泰のため利用されました。そしてさらに、人々の心に大きな影響を与えました。
 今でもよく知られるのが家康の遺訓です。桑田忠親著「現代に生きるリーダーの哲学ー徳川家康名言集」から、
 「人の人生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常をおもえば不足なし。こころに欲おこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ。勝つ事ばかり知って、負けることをしらざれば、害その身にいたる。おのれを責めて人をせめるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。       慶長八年正月十五日    家康(花押)  」
 さらに同書では、「人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな」など現代にも受け継がれている名言をたくさん紹介されています。

   朱子学 
 
藤原惺窩が家康に講じたのは、儒教の中でも朱子学で、道徳的な儒教を政治論として体系付けたものでした。惺窩弟子の林羅山は、家康以来三代に仕え、朱子学を幕府の官学とする基礎を築き、以後、林家は代々にわたって儒家として幕府に仕えました。そして、幕府の手厚い庇護を受け、寛政二年(一七九〇年)には寛政異学の禁により朱子学を正学とし、他の学派の者は官吏に採用しないこととしました。
 この朱子学について、平凡社「国民百科事典」から要点を抜粋します。
 「・・・朱子学の厳粛主義は、義を利からきびしく分かち・・・国家中心主義・・・宋以後の官僚制中央集権の深化に対応して形成され・・・元以後清まで官学に採用された・・・」
 そして朱子学は、次のような一節をもって江戸時代の人々に迫りました。
 「 上下分を定めて
     その尊卑貴賎の位
       古今乱るべからず
   天は尊く地は卑し
     上下差別あるごとく
       その上下の次第を分かって
          礼儀法度という        」
 徳の高い者が君主に代わって世の中を治める指導者原理=官僚支配=中央集権=国家中心、そして上下身分の固定化・・・このような儒教・朱子学の思想は「自治」と相容れるべくもありません。人々は支配され、蔑まれ、ただ黙々と働き、窮々として生きる。不満も言えず、閉ざされた狭い世界で、自分のことに執着し、人を裏切ることも平気になる。せっかく育ちつつあった自主自立の精神は、封建支配の中に埋没してしまいました。
 この儒教・朱子学の精神は社会の中に深く根を下ろし、日本人の心に巣くい、明治以降も払拭されず、むしろ国家の形成とともに中央集権や官僚支配を強め、今日なお自治の進展を阻んでいます。

  君臣上下の分

 幕府の支配体制や愚民化政策を擁護したのは、官学の朱子学ばかりではなく、在野の儒教各派も君臣のあり方を説き上下序列支配の原理を説きました。新井白石、中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎などたくさんあります。
 人々は、「天下の御政道を論ずるのはもっての外」と、幕府や藩の政治を批判できず、狭い町や村の中にも序列が生まれ、町や村の政治にも口出しできない立場におかれました。このようにして植え付けられた意識は、自由で対等な参加を大前提とする自治を進める上で決定的な障害となりました。

第十四章  日本の夜明

  「人民が一番上」 
 
泰平の眠りをむさぼっていた日本にとって、嘉永六年(一八五三年)のぺリー来航はたいへんな出来事でした。四隻の黒船に、日本中が大騒ぎになりました。このペリーの来航は歴史的大事件として知られますが、それよりも前にアメリカ人が日本に上陸した事実がいくつかあります。
 その中のひとつ、ペリー来航の五年前に、マクドナルドというアメリカの青年が、北海道の焼尻島に上陸して捕らえられるという事件がありました。日本を探検したい一心から、漂流を装って上陸したのです。その青年は、翌年にアメリカの艦船に引き渡されますが、その時、迎えに来たグリン艦長が青年から次のような供述書をとっています。(刀水歴史全書5・マクドナルド「日本回想記」富田虎男訳訂の解説より)
 ・・・松前藩の役人が、青年マクドナルドを迎えに来るグリン艦長の位はどれくらいか、質問したそうです。藩として、クリン艦長の位に相応の役人が対面しようと考えたのです。その時、青年が「人民が一番上」と言ったら、藩の役人がけげんな顔をした。そして、二番目が大統領、その次が海軍長官、提督、大佐、中佐のグリン艦長はその次だと答えたら、役人はビックリ仰天したと供述しています。
 最初に「人民が一番上」と答えたときに役人がけげんな顔をしたのは、恐らくその意味が理解できなかったからでしょう。そして、グリン艦長の位を答えたときにビックリ仰天したのは、このみすぼらしい一青年を、そんなに位の高い人がわざわざ迎えに来るのか、と驚いたのでしょう。当時の日本では、位の高い武士が、庶民一人のため艦船を動かして迎えに行くなど考えられないことでした。
 一八四八年のアメリカといえば、独立して八十年も経ち、西部開拓もたけなわ、次々と新しい州が誕生していました。そうした西部出身のジャクソンが一八二八年に大統領になり、西部の町での「自治・民主」の体験を生かし、一部の者の特権打破と大衆の政治参加に努めていました。そして一八六一年に、奴隷制度をめぐって南北戦争に突入しました。その後に生まれた大統領が、「人民の、人民による、人民のための政治」で有名なリンカーンでした。
 この時代に育ったアメリカの青年マクドナルドは、専制支配と民主主義の違いがよく解っていました。彼は、日本人の役人の反応を目ざとく見つけて、「思ったとおり、民主主義がさっぱり解らない国だ」と嘲笑し、報告しているのです。


  ええじゃないか
 
慶応三年から四年にかけて、民衆の中に不思議な現象が起きました。慶応四年は、明治維新の年にになります。
 人々が一団となって、「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂いうのです。それは、神仏のお札が、家の屋根や庭に振ることから始ります。お札が振った家では、お札を神棚か仏壇に供え、酒肴を準備します。集った人たちは、土足で家に上がり込み、酒肴の振る舞いを受け、酔うほどに熱狂して踊り狂い、「ええじゃないか」と囃し立て、町を練り回ります。お札が振るのは、豪農や豪商でした。
 このおかしな現象は、三河あたりで始り、関東、近畿、山陽にまで波及しました。
 この不可解な騒ぎは、何を意味するか。「ええじゃないか」を口ずさんでみてください。
 二百数十年にわたって抑圧され、虐げられ、やり場のない人々の立場になって口ずさんで見ると、解るような気がします。平素は玄関に入るのも平身低頭する豪農や豪商の家に、今日はどたどたと土足で上がり、酒肴を持ってこさせる・・・何か時代が変わるらしい。「いいぞ、いいぞ」という気持ち。さりとて、楽になるものやら、いっそう苦しくなるものやら・・・「どうにでもなれ」という投げやりの気持ちも伝わってきます。
 島崎藤村の「夜明け前」の主人公の半蔵も、この「ええじゃないか」に、「下々(しもじも)の草叢(くさむら)の中」から燃え上がるエネルギーを肌身で感じ、胸をときめかしていました。


  明治〃維新〃 
 
何かしら新しい時代が来るらしい、人々は、幕末の相次ぐ出来事の中に時代の大きなうねりを感じ取っていました。
 そんな中、慶応四年(明治元年)三月に、五個条御誓文が発布されます。その第一条「広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スヘシ」の条文は、子どもでも暗唱するほどでした。
 しかしながら、人々の期待とは裏腹の方向に流れました。依然として人々の政治参加の道は閉ざされ、「広ク会議ヲ興シ・・・」は実現されませんでした。それはなぜか、いままでお話した視点に立って分析するとよく解ります。
 要約しますと、
(一) 明治政府は、中央には古代律令体制と同じ太政官・大臣制を取り入れ、地方には政府任命の知事、その下に知事任命の郡長、区長を配し、上意下達の中央集権・官僚支配体制を敷きました。
(二) この官僚体制を支える儒教が受け継がれました。儒教については既に再三述べたように、孔子に始まり、国を平安に治めるため、徳の高い人が君主に代わって慈政を施すことを是としました。
(三) そして、儒教が引き継がれたことにより、主従、忠孝、上下といった精神が残存し、民主的精神の発育を阻みました。
(四) 引き続き稲作強制が行われ、人々は土地に閉じ込められました。


  再び律令制 

 まず初めに、(一)の律令制のことです。
 明治維新政府の体制は、古代律令制と同じだと言えば、そうだったかなとお思いでしょう。事実、そうなのです。
 それには背景がありました。幕藩体制下では、各藩は幕府の監視下にありましたが、それでも各藩は独立して経済を営み、当時「国」と言えば藩のことを指し、地方それぞれが特色のある国を形成していました。ところが幕末になると、日本をめぐる国際環境は急を告げ、フランスやイギリスなどが幕府や藩に触手を伸ばし、中国のように列強の植民地にされかねない状況にありました。そのような緊迫した状況下で、各藩や諸勢力をまとめ、日本を一つの国として統一する方法として登場したのが、王政復古、尊王攘夷でした。日本古来の天皇を頂点とする律令体制を敷き、中央集権体制を構築することによって日本の統一を図ったのです。
 幕末の動乱の中で活躍した坂本竜馬は、維新の一年前の慶応3年に『八策』という意見書を提出しています。その中で、『第四義 律令ヲ撰シ 新ニ無究ノ大典ヲ定ム 律令既ニ定レハ 諸侯伯皆此ヲ奉シテ 部下ヲ率ス』と律令制を推奨しています。
 その状況は、かって古代日本の統一過程で、豪族などの諸勢力を押さえるため、律令制を確立した「大化の改新」と同じようなものでした。
 そして この律令制を支える思想が、儒教がでした。
 実際に明治四年に太政官制が敷かれ、地方には廃藩置県が行われました。県には政府任命の府知事や県令が送り込まれました。さらに明治五年には太政官布告が発せられ、昔からの村とは別に一〇〇戸もしくは五〇〇戸を単位に小区とし、一〇〇〇〇戸を単位に大区を設ける一方的な再編成が行われ、従前の庄屋といった呼び名を廃して戸長、区長と呼ぶよう指示しました。

 新潟県史によると、改革の熱意に燃えて地方に下った少壮の県令が、郡政(郡中)改革としてこのような地方制度を推し進めたとあります。全国どの県も、同じようなことだったでしょう。
 
新政府の役人のほとんどは、儒教の流れを汲む漢学を教え込まれた元藩士でした。
 このようにして始まった官僚主導の政治思想は、戦後も払拭されることなく続き、官僚任せの政治となり、民主化の道を阻ばむ要因となりました。


  「跋扈の幣」
 
この新潟県郡政改革の中で、従来の村や庄屋の体制を止めて、画一的な集権体制が必要な理由を挙げています。
 その理由の一つに、村を庄屋に任せると、『跋扈の弊』があるというのです。跋扈の弊とは、何か。それは、後漢書雀馬伝の中で使われた用語で、「大魚が籠に入らないではねる・・・転じて、上を疎かにして思うままに振舞うこと」を意味します。
 幕藩体制下では、年貢を集めて納める外、村のことは庄屋に任されていました。庄屋任せでは、徴税、徴兵その他の行政を画一的に進めることができません。近代国家を目指すには、全国の市町村を掌握して上意下達の体制を整える必要がありました。そのため、新に県が任命した戸長や区長に、『例規ニ照ラシ』、『細大トナク』県に届けることを義務付け、区独自の布告の禁止、訴訟状へ区長や戸長が所見を書き添える奥書の禁止、許可なく課税の禁止などで自治を制約しました。


  「広ク会議・・・」と言いながら
 
五箇条の御誓文では、その最初の「広ク会議ヲ興シ ・・・」は広く知られ、人々に新しい時代の到来を予感させました。しかしその実は、集会に消極的・否定的でした。
 御誓文が発布された慶応四年三月十四日の翌日の明治元年三月十五日に、太政官は、第十二章で紹介した高札と内容がほとんど同じ高札を掲げました。徒党、強訴、逃散を御法度として禁じ、犯した者を知らせれば褒美をやるというものです。そして、戸長を通して、村寄合と称して集り、酒食に興ずるような事は止めるように。相談事があるなら、村の主だった者だけで話し合うように布達を出しています。
 さらに後には自由民権運動が活発になりますが、それに対して集会取締規則を定め、演説などに制約を加えました。


  またまた儒教
 
明治以降も、儒教が受け継がれました。
 乱れた世の中を治める際に持ち出されるのが儒教です。これが、明治維新後も政治思想の基調に置かれました。
 慶応四年三月の、先ほど紹介した徒党、強訴、逃散を禁じた高札と同じ時に、次の高札を掲げます。
   『  高札 第一札  人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事     
               ・・・・・                        太政官   』
 五倫とは、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友のあるべき姿を説く、儒教に基本となる教えです。その教えるところの秩序・・・家長中心の家の秩序、さらに家を擬制した国の父と臣下や民などの上下的秩序を守ることによって国を治めようというものです。それは、五箇条の御誓文の『旧来ノ陋習を破り・・・』の理念とも矛盾するものですが、幕藩時代と同様に政治のバックボーンとなりました。そしてその国家理念は、やがて国家ナショナリズムへの道へ引きずり込むこととなります。


  教育勅語
 
この儒教に、教育も押し流されます。
 明治五年に政府が教育に取り組む際に発布された「学制」では、その序文に、『人々自ラ其身ヲ立テ 其産ヲ治メ 其業ヲ昌ニシテ 以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ外ニナシ・・・』とあるように、自主・自立の精神を尊び、そのための学問を奨励しています。その「学制」のもとに学校が建てられ、例えば広島県北広島町の例ですが、創設された学校の名前は、「出藍舎」といった漢学風のものがある中で、「自由舎」、「進取舎」、「日新舎」、「芟陋舎(古いしきたりを刈り取るの意)」、「鳴皐舎(気高く進むの意)」というように斬新な校名も見受けられ、新しい教育への意気込みが感じられます。
 ところが一方で、明治政府は儒教の導入に走ります。例えば、先に家康の儒教導入について紹介した斯文会編「儒学年表」によると、『明治十三年二月 右大臣岩倉具視 儒教に依りて堅実なる思想を養成し、以て国基を鞏固ならしめんとし・・・・』儒学者と協議したとあります。そうした政府の姿勢は、政策に反映されます。その一つで、人々に大きな影響を与えたのが「教育勅語」でした。『・・・我臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ・・・臣民父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ夫婦相和シ 朋友相和シ・・・』と儒教そのものの内容になりました。

  稲作強制の強化
 
明治以降も、稲作強制は引き継がれ、むしろ強化されます。
 幕藩体制化では、庄屋が農民から年貢を集め、藩主に納めました。年貢は強制的に賦課され、藩の政治を批判することは許されなかったが、農地の売買が禁止されていたので、農村内部は比較的平等な状況が保たれ、講などの場で話合いや相互扶助を行うことができました。
 ところが、明治になると農地の売買が自由になり、地券が発行され簡単に売買されるようになりました。そして、作況に関わらず、地価に応じてお金で直接税を払わなければならなくなりました。そうなると、不作、あるいは病気などで税の支払いや生活に行き詰まると、農地を手放す農民が増え、一方では多くの田地と小作人を持つ地主が現れます。その結果、農村は階層分化が進み、複雑な序列が生れ、村の運営は一握りの有力者が行うようになりました。そうした社会構造のもとで、農民はますます土地から離れられない状況に置かれました。

 以上のような状況下では、自治の進展は難しく、一方では産業や軍備の強化を急ぎ、住民の思いが届く政治の道は閉ざされました。


第十五章  窪田次郎らの実践
 
 民選議院設立の建白
 
幕末のいろいろな出来事から人々は新しい時代の夜明けを感じ、「広ク会議ヲ興シ・・・」は新しい時代のスローガンと受け止めました。しかし、それをいかに実行するか、具体策が示されないまま時が経過しました。その一方で、戸籍、租税、徴兵などの政策が進められ、征韓論や台湾征討などの問題が世論を賑わすようになると、国民の中から、「広ク会議ヲ興シ・・・」を実行しない政府に対して批判が高まります。明治七年に、板垣退助らは民選議院設立の建白書を提出して政府に迫りました。
 政権は『独り有司に帰す』、そして『夫れ人民、政府に対して租税を払うの義務あるもの 乃政府の事を予知可否するの権理を有す』と主張します。この「有司」の意味は二段階に考えられます。まず第一段階として、「有司」とは論語に出てくる言葉で、役人・官僚という意味です。「有能な司(つかさ)」ということでしょうか。ですから、政治が官僚の思うままに進められていると官僚政治を批判しています。さらに第二段階として、提出した板垣らからすると、有司とは官僚の中でも政権の中枢にいる薩長出身の役人のことでした。建白書の中では特定していませんが、政敵としての薩長でした。そのような事情から、板垣らがせっかく納税者の権利を出張しながらも、当時の世論の中には、自らも官僚を辞任した身ではないかと政権争いに受け止められた側面がありました。
 ともかくも、この建白書は却下されますが、これを契機に各地で自由民権運動が始ります。


  
窪田次郎
 こうした板垣らの活動や自由民権運動については広く知られているところですが、それよりも早く明治四年頃から、
「広ク会議ヲ興シ・・・」の実現をめざして活動した人たちがいました。その中心になったのが窪田次郎でした。
 場所は、福山藩、そして廃藩置県後は小田県となった今日の広島県東部と岡山県西部一帯。窪田次郎は、現在の福山市加茂町にあたる粟根村の医師でした。
 窪田次郎は、子どもの教育が大切と考え、藩内の村々に啓蒙所という教育施設の設置を提唱します。当時の厳しい藩財政では藩に頼ることができないため、それぞれの村でお米を出し合って啓蒙所を設立する方法を考え、村人を説得しました。そのため粟根村では、選挙をして代議人による政治を試みました。そうした経験をもとに、民意が反映される政治に関心を持つようになります。

  
下議員結構ノ議案
 
政府は全国に、大区小区を設けます。そして県には政府任命の県令が派遣され、概ね五〇〇戸を一小区の基準とし、従来の小さな村を数村ずつ集めて小区とし、小区の上に概ね郡の単位で大区を置きました。そして県令が、小区には戸長、大区には区長を任命して、戸籍などの事務を行わせました。従来の村の慣行を無視して、正に律令制度を上から押し付けるものでした。そして政府は、「上から」一方的かつ効率的に行政を推し進めようとしました。この仕組みでは政策は上から下へ降りてきますが、民意が政府に上がりません。地方の人々は納税や兵役などを押し付けられるだけで不満が溜まります。窪田j次郎は、何とかして民意を政府に伝え、民意を反映した政治が行えるよう思案しました。そして生まれたのが『下議員結構ノ議案』の構想をです。
 
その構想とは、『
議政ハ下ヨリ昇』るよう、小区会から大区会へ、県会へと臨時議会を開き、当時課題となっていた問題を議論して、その決議を積み上げて、民意を政府の議会に持ち込むというものです。

  
自主ノ民権
 
窪田次郎が『下議員結構ノ議案』を構想した目的の一つは、民意の反映する政府を目指したものでしたが、今一つの目的は、人々のそうした政治への参加を通じて学習の機会を得て、『一区中人々 自主の民権を保テ 戸々繁栄資財倍息可能致様』というものでした。その発想は、正に「地方自治は民主主義の学校」という考えで、第三章「世界の夜明け」でお話したイギリスの地方自治の理念に通じるものです。

  
直接参政
 
小区、大区、県において民選議員による議会を提案しますが、同時に民意が政治に直接反映できるよう心をくだきます。
 小区においては、子どもたちが学ぶ啓蒙所と隣接して会所を配置します。そして、啓蒙所の子どもたちが会議を見学し、県からの通達などを子どもたちに暗唱させ、家族に話し伝える。
 そして『格外ノ大事件』は、戸長や組頭など主だった者や代議人だけで決議しないで、住民一同に議案を丁寧に読み聞かせ、所存のある者は三日以内に代議人に申し出て四日目に臨時議会を開いて決議する、としています。大区においても『格外ノ大事件』は小区の代議人二名に戸長、組頭など主だった者や啓蒙所の教師などで大会議を開いて決議する。また、県会において、特定の地域に関係する議案については、管轄する大区の議員は一旦大区に持ち帰って大区臨時議会を開いて意見を聞き、県会に臨む。
 窪田次郎らが、これまで紹介した住民総会、タウン・ミーティングあるいは住民投票といったイギリスやスイスやアメリカなどの直接参政制度を知る由もありません。しかし、できるだけ民意が反映する政治をしたいと思うとき、行き着くところはこうした直接的な方法がもっとも民主的ということでしょう。


  空論ヲ飾ラズ
 『下議員結構ノ議案』の構想の中で、会議が円滑に進行するよう細かに条文に定めています。
 まず現状として・・・「郡内村々の風土や人々をお互いに知らない、教育が行き渡っていない、選挙をするに読み書きも不十分で人物を鑑定する力がない。そして、話上手な人を開達家と見なし、沈黙の人を深謀遠慮な人と見なし、喧嘩や言い争いをまあまあと治める人を機略勇決の人と見なす。選ばれた議員が、空論を張って議員然としたり、古い考えで新しい問題に対処しようとする。あるいは、あれこれ策略をめぐらすが、問題を解決することができない」・・・・この説明には、窪田次郎の苦労がにじみ出ています。江戸時代から明けたばかりの明治の初めです。いきなり、話し合いで物事を解決するということは難しかったことでしょう。
 彼の苦労は、『下議員結構ノ議案』の条文からも窺えます・・・・ 「選挙に当っては、『職業貧富才不才学不学ニ拘ワラズ』平生から万事について候補者を観察し、信頼できる人を、自分で考えて投票するように。代議人は、布告などをよく理解して区内に広める。そして、区内の家々の暮しや人々の気風行状に気を配り、心得違いの者には親切に教え、困窮の者には授産の道を教え、啓蒙所が盛栄するよう尽力し 道路橋梁堤防等の修理の方策を考え、 地域の産物の開発を試みるなど配慮する。議員たる者は、何があっても決して怒を発したり 自分の勝手な思いで言動しないこと。また、議員であることを誇ったり 威勢を張るようなことをしてなならない。もし、議員が会議に欠席して、後になって異論を主張し 決議を妨げるようなことをしてはならない。たとえ自分の目的に沿わない人や仕事であっても、決議したことには従わなければならない」・・・誠に懇切丁寧に諭しています。
 「そして、『外ノ大事件』の決議に際して、三日以内に異議を申し出ずに後になって決議を誹謗する者は狂乱者と見なし、役場にその名を掲示する。また、村人の喧嘩や争闘を調停する人は代議人に限る、他の者はたとえ篤行や才略の評判があっても一切手出しをしてはならない。そしてさらに、会議中にほかの事を話したり、ほかの人を誘って中座したり、曖昧な言葉や決議表明をしてはならない。自分本位になって、公けの大切なことを疎かにしてはならない。自分の思うことは丁寧に反復して、詳細に話すように。」

 窪田次郎の細かな記述は
一見、滑稽な感じさえしますがしかし、決して明治の頃に限った問題ではありません・・・・今日でも似たようなことが多々見受けられます。ついつい怒りを発する、攻め立てるように話す、人の名誉を傷つける、悲観的な話に終始する、長演説で具体性のない空論を述べる、他人事のように話す、せっかく出席しても一言も話さない、自分や自分たちの集団のことばかり話す、同じ事をいつまでも言う、後になってぐずぐず言う・・・・等々のため、お互いに納得できる解決ができない。今日に至っても克服されていない課題です。
 これらの問題は、自治の体験が乏しいことも一因です。何度も申し上げるように、地方自治は民主主義の学校と言われ、自分たちの問題は自分たちで話合い、解決する。そうしなければお互いに損をする。欧米では民族が始って以来、生きるために培ってきた地方自治の精神・・・その体験が、日本では戦後も不十分なまま今日に至り、話合いはいつも役人や政治家に「お願いします、頑張ってください」で終わってしまい、役人任せ、政治家任せになって、気が付いたときには国や自治体が多額な借金を抱えてしまいました。

  議政ハ下ヨリ、為政ハ上ヨリ
 
治五年に作成した『下議員結構ノ議案』の構想は、明治七年になって実践のチャンスが来ました。
 明治七年一月、板垣退助らによる民選議院設立の建白書が政府に提出され大きな反響を呼びましたが、これを政府は取り上げる様子もなく日が過ぎた五月二日、政府は、全国府県の知事や県令を集めて地方官会議を開催すると宣しました。その後、兵庫県令が、地方官会議に先立って県民の意向を把握しておきたいので、意見のある者は申し出るように県民に告示し、地方官会議の議長に対して傍聴人を同行してよいか伺いを立てている新聞記事が出ました。窪田次郎は、その記事を見て思いつきます。自分が構想した『下議員結構ノ議案』を活用して県民の意見をまとめ、県令に県民の意見を知ってもらう。さらに傍聴人が同行して県令から相談を受けながら地方官会議に臨めば、地方の声が政府に届く・・・国に民選議院の設立が駄目なら、この方法がある。窪田次郎は、仲間を説得して実行に移します。
 議題には、日ごろ彼らが政府に対して疑問や不満に思っていた問題を取り上げ、小区で話合い、各小区の議決を持ち寄って大区で話合い、さらに各大区の議決を持ち寄って臨時県会で話し合い議決する。小区、大区、県会と積み上げて意見を集約するという膨大な計画です。

  政治の基本
 
窪田次郎が、この時代に、どうしてこのような開明的で民主的な境地になったのか不思議です。
 憶測するほかないのですが、一つには、彼は蘭医学を学んだことです。蘭医学の師をたどれば緒方洪庵の門下になり、また彼の父は長崎でシーボルトに学びました。蘭医学を通して欧米の思想を知ることができました。病気の治療には、貧富も身分もないという考えがありました。一部の者だけでなく、皆が良くならなければ・・・・という考え方を医学から受け継いだと考えられます。
 窪田次郎が欧米の思想の影響を受けたルートがもう一つあります。一八五三年に黒船が来航した時に幕府の老中首座にあったのは、福山藩主阿部正弘でした。正弘公は、広く意見を聞き、合議により鎖国の禁を解いて開国の道を開きました。正弘公に従った藩士やその折に開設された蛮書調所置、後の洋学調所に派遣された塾友から欧米の思想や制度を聞く機会がありました。そして、正弘公の合議の姿勢は、その後の福山藩に受け継がれました。
 今一つ、彼は、理屈ではなく、実践的に学んだことです。子どもの教育が必要と考え、藩や村人を説得します。村に啓蒙所を設立するためには、各戸からお米や生徒を集めなければなりません。食べ物に事欠く時代です。当時、子どもは一家の働き手でした。旧来の儒教を教える漢学者の抵抗もあります。しかし、今日のように義務教育として強制的に進めることはできません。そうした困難な中で、各戸が米を出し、子どもを学校に行かせるよう協力を得るには、一人ひとりに理解を求める民主的な方法以外に方法がなかったと思われます。
 途中、明治四年の秋に、藩債処理のため東京に行き、半年くらい東京で過ごします。そして、東京の一方的な文明の進歩や政治の展開とはかけ離れた、旧態依然の故郷・・・無知なる故に発生する大一揆など、中央と地方の乖離を痛感します。政府から村々へ、村々から政府へ・・・・どうすれば意思の疎通が図れるか、真面目に考え、真面目に実践したのが窪田次郎でした。
 実際のところ、自治の母国と言われるイギリス、自治の学校と言われるスイス、自治の実験室と言われるアメリカなどいずれも、理論や制度が先あって出発したものではありません。お互いに分かり合える地域の住民が、真面目に話し合い、真面目に実践しながら前進した結果です。


  実地験習ノ効ヲ積ミ
 
窪田次郎は、この構想の実践に大きな期待を抱きました。
 「・・・『実地験習ノ効ヲ積ミ』、これを行うこと十年にして、山間や島々の民は面目を新たにして、御誓文のお陰で、『旧習ノ雲霧』を払い、『新政ノ日光』を拝み、『私欲ノ迷路』を出て、『天地ノ公道』に立ち帰ることができる」・・・彼は、「地方自治は民主主義の学校」という視点に立っていました。

  協同合一、供ニ公益ヲ謀ルノ権利
 
人が力を合わせれば、大きな力が生まれます。その力を合わせる場の一つが、地方自治です。
 「小田県は条件が恵まれているのに貧しいのは、そうした場がないため、争いで疲弊し、小利に走り、『協同合一、供ニ公益ヲ謀ルノ権利』を知らないためだ。県の役人が駄目なだけではない。県民にも責任がある。一人ひとりが、将来に大きな希望を持ちコツコツと努力して『自主ノ民権』を保つならば、家々は繁栄し、豊かになるだろう。

 
今日につながる問題です。経済の流れるままに流れてしまった。その結果が、過疎過密でした。今日に至って地域づくりが叫ばれていますが、高度経済成長の前から、自治に根ざした地域づくりの取組みがあれば、もう少し違った、地域に特色があり、地域バランスの取れた日本になったことでしょう。
 話合いは、人を動かします。問題を理解すれば、自分も何とかしなければと思うようになります。行政や他人任せにせず、自分も責任の一端を担おうという気になります。そうした自治の精神から、ボランティアは生まれます・・・「
ボランティア」と外来語で言わなければならないことは、自治の歴史がない日本を物語っています。

  啓蒙所
 
生活を豊かにするにも、旧来の蒙昧から脱して文明を享受するにも、教育が大切というのが、窪田次郎の考えでした。そのため、幼児教育施設を「啓蒙所」と名付けました。そして、目前の生活にとらわれて、子守をさせたり、牛馬を飼わせたり、肥料にするため落ち葉を拾わせたりして子どもを働かせていては、いつまで経っても貧困から脱し得ない。寝酒の一勺、肴(さかな)の一切れを節約し、こんにゃくの一枚、薪割り一本を余分に働いて啓蒙所に助力して欲しいと説得します。
 スイス人はその昔、貧しい時代に、山間僻地で生きるため家内工業を興し、子どもを酷使しましたが、教育の大切さに気付き、学校を始めました。そして優秀な人材を育て、内陸の山間に適した産業を興しました。西部開拓で村人が集って最初に取り組んだのが、教会と学校でした。村人が我が子の成長のため学校を設ける共同事業は自治の出発点であり、住民の身近にあって絶えずその成果が問われるのは今も変わりません。

 
啓蒙所が小田県内で始められたのが明治四年頃でした。文部省が明治五年に学制を布告して、全国に学校が設立されるのは、それから二、三年後のことでした。

  人材陶冶
 
智識のための教育ではなく、実践的な教育を目指しました。そのため、啓蒙所と役所や議事所を隣接して配置することを提案します。そして、子どもに会議の様子を見せたり、通達などを暗記させ、家族へ伝えさせようとしました。家族ともども勉強しようというのです。
 
子どもの頃から自治を体験して共同社会の運営を学ぶことは大切です。そのため、スイスでは、放課後センターといったところで、「こども村」や青年クラブを自主運営させ、親は見守るが干渉しない・・・それを見た日本人が、日本の親なら非行少年の溜まり場になると言ってほっとかないだろうと印象を述べています。自主自立の人を育てることが教育の目的であり、同時に自治の目的でもある訳です。


第十六章  窪田次郎らの苦悩

  窪田次郎の民選議院設立尚早論
 
明治七年の一月に、板垣退助らにより、民選議院設立の建白書が政府に提出され、賛否両論で沸きます。
 明治五年には、自分の住む粟根村で、村の代議人の選挙を実施した窪田次郎ですが、国会議院の設立には時期尚早と考えます。まだまだ『人民ノ智識未ダ開ケズ』なので、その費用の半分を教育に廻し、残りの半分で模範となる人物を表彰することを提案します。

  区内惣集会討論ノ上
 
国会議院の設立には時期尚早を唱えた窪田次郎ですが、小田県には『民選議院ノ儀ニ付願書』を提出して、『下議員結構ノ議案』の方式で県民の意見を聞いて欲しいと願い出ます。
 まずは『区内惣集会討論ノ上』、区内の意見をまとめて決議し、大区、県会と積み上げ、政府が召集する地方官会議に持ち上げる。彼らの努力の結果、小区、大区の会議は県内全域とは行かなかったが、臨時県会で意見をまとめることができました。


  少々疑フ所アリ 

 『広く会議ヲ興シ 万機公論ニ決スヘシ』は、『三歳ノ小児』も暗唱するようになっているのに、政治の実態は『上下隔絶』となっている。そのため『少々疑ウ所アリ』と、事例をなんと二十六も挙げています。内容は解かりかねますが、参考までに列記しましょう。
   『 律例監獄則等ニ考ヘテ少々疑ウ所アリ
     御布告中少々疑ウ所アリ
     御説諭中少々疑ウ所アリ
     入籍送籍ノ件少々疑ウ所アリ
     租税少々疑ウ所アリ
     上地ノ入札少々疑ウ所アリ
     道路修繕少々疑ウ所アリ
     勧業少々疑ウ所アリ
     御官員ヲ初メ戸長ノ行状少々疑ウ所アリ
     芸妓横行少々疑ウ所アリ
     角力芝居鶏市賭博等少々疑ウ所アリ
     官立学校私立学校ノ分界応否少々疑ウ所アリ
     小学教員ノ定価少々疑ウ所アリ
     学制学則少々疑ウ所アリ
     小児ト童子トノ教育法少々疑ウ所アリ
     聴訟少々疑ウ所アリ
     裁判賞罰少々疑ウ所アリ
     民時ヲ弁ゼズ延引ノ件少々疑ウ所アリ
     代書人ノ名実義務少々疑ウ所アリ
     結社ノ御世話少々疑ウ所アリ
     殖産会社取立金少々疑ウ所アリ
     島田製糸場上棟ノ儀式少々疑ウ所アリ
     諸省ヘ御取次ノ件少々疑ウ所アリ
     造酒家ノ御検査少々疑ウ所アリ
     御官員ニテ営利ニ関係少々疑ウ所アリ
     無給ノ職ヲ命ジ舌頭ヲ以テ下ヲ愚役少々疑ウ所アリ   』
 これらの疑問を解くために、小田県に臨時議院を開く必要があると県令に迫ります。


  官費民費ノ事
 
たくさんの『少々疑ウ所アリ』がある中で、第六大区の会議で取り上げられた議題には、次のようなものがありました。
 『第二条 官費民費ノ事』・・・その要旨は、「これまで村の総代の給料は、村民が分担、つまり民費で払った。ところが新政府ができて、戸籍事務や警察、道路や堤防の改修など多くが戸長の仕事になった。租税制度ができで税は全て政府が徴収するのだから、戸長の給料や、政府が命じる仕事については政府、つまり官費で払って欲しい。」・・・今日に通じる問題です。この時代は、官費と民費に分けますが、今日では国税と地方税の関係です。市町には、独自の仕事のほか、国や県から委任や委託された仕事があります。いろいろな種類の補助金や負担金がもあります。非常に複雑になって、国や県の仕事か、市町の仕事か・・・・法的・形式的には区別されますが、一般の住民には区別できません。役人に「何とかならないか」と要望すれば、「国や県の補助事業ですから難しいです」と答えられ、市町の仕事のはずが、国や県の仕事になってしまいます。それ以上議論にならず、「よろしくお願いします」と言うほかない。発想や工夫を阻害しています。補助金があるから飛びつく・・・国・地方双方の財政悪化の要因になっています。国や県の仕事か、市町の仕事かを明確にして、その経費負担を明らかにする必要があります。


  万民一族ノ事
 『第三条 万民一族ノ』・・・その要旨は、「五箇条の御誓文の『旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ』の理念に基づき、明治四年に解放令が出て穢多非人の名称が廃止になったのだから、華族や士族の名称も廃止すべきだ。そして、華族士族には特別に寛大な刑が科せられるが、それも止めるべきだ」・・・庶民の良識を持って話し合えば、お互いに分かり合える当然な帰結です。話し合えば「悪貨」を駆逐する、話し合わなければ「悪貨」がはびこる、と言えるのではないか・・・人権尊重は
民主主義から生れます。

  国債ノ事
 『第五条 国債ノ事』・・・その要旨は、「国民に布告や下問もなく借りた国債は、国民が払った租税で償うことはできない。担当した官員の責任で払うように」・・・窪田次郎は、武士ではないが特に福山藩の藩庁顧問に任じられ、藩債の整理に苦労した経験がありました。急場しのぎで借金を重ねるうちに、年貢による支払い能力を超え、もはや貸してくれる商人もなく、藩札の増刷に頼ってしまい、さらには豪農や豪商へ冥加金を強制的に割り振り、藩の信用を落とし、経済を混乱させて幕藩体制崩壊の原因となりました。このようなことを二度と繰り返してはならない・・・これも今日に通じる問題です。国民・住民が知らないうちに膨れ上がり、年間の税収の十倍以上も溜まってしまった国債をどうするのか。税収による支払い能力を超えても借り続ける財政は幕末の藩以上に厳しく、大変な問題です。「お願いします」と言って役人や政治家に任せ、庶民の常識が通じる政治の仕組みがなかったためと言うほかありません。
                                                    公債残高の推移
  台湾征討ノ事    (台湾出兵)
 『第八条 台湾征討ノ事』・・・その要旨は、「この問題は、日本国と国民にとって最大の事件だ。しかるに国民に何ら布告や下問がないのは、五箇条のご誓文の『広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ』に背いている。従ってこの戦闘は日本国に関係ない、それに参与した官員のみの私闘に過ぎない。従ってその費用は、大蔵省から払わず、その官員の資財で払うべきだ」・・・このような考え方に立つならば、日本が戦争への道を歩むことはなかったでしょう。

  その他の議題とその後
 租税、教育、福祉、風紀、殖産などについても取り上げられていますが、最後にもう一つ。
 『第十七条 米輸出入ノ事』・・・その要旨は、「米の輸出入については、米の価格が一石当り四円以下になれば輸入し、六円以上になれば輸出する。そうすれば、情報がない僻地の農民が、安くなったといって商人に買いたたかれる事もなくなる」・・・その後、米騒動などが起きました。今日では、年々、米の価格が下落して将来が不安な農民には身につまされる話です。


 
この活動は窪田次郎がリードし、地主や医師、僧侶、教師など一部の知識層が参加したものです。しかし、多くの人がこの活動に関心を持ち、共にこれらの議題を考え、傍聴人を前に討議して決議したことは、当時としては斬新で、今日においても光輝くものがあります。
 小区の議会では、希望すれば誰でも参加できました。村人がどの程度参加したか定かでありませんが、明治の初めに、このような新しい方法を採用し、住民が考える機会が与えられたことは興味深いものがあります。そして、小区で選出されたものが大区の議員になります。同様に大区で選出された者が、臨時県会の議員になります。いずれも傍聴することができました。小田県内のたくさんの小区や大区の中でどの範囲まで会議が開かれたか不明ですが、臨時県会や二つの大区と窪田次郎が住む第十五小区の決議は残っています。

 せっかく大区で決議した議案も、『万民一族ノ事』、『国債ノ事』、『台湾征討ノ事』などは、県会で切り捨てられました。
 県官のほとんどは士族です。そして、台湾征討の問題は、当時、大きな政治問題になっていました。県は政府の出先機関に過ぎず、政府任命の県令のもとで、これらの議題を取り上げる訳には行かなかったのでしょう。
 肝心の地方官会議は、差し迫った台湾問題のため延期となり、窪田次郎らの活動は頓挫してしまいました。


  誹訪暴言ノ議論

 
議論を進める過程で、抵抗がありました。この臨時議会は不正規なもので、既存の議員や区長・戸長を除いて組織されました。そのため、既存の勢力から誹謗や暴言があったようです。議員を選び直して再会したいと県に伺いを立てましたが、それには及ばないと県は回答しました。
 また、会議を見学した他県の者により、新聞紙上に投稿がありました。これらの議案は、政府から決議を求められたものではない、私説を述べ合っているが庶民の実情とかけ離れているという主旨のものでした。そこで窪田次郎らは、何をどのように議論したか広く知ってもらおうと、決議を郵便報知新聞に投稿します。二十一条からなる長文の決議が、明治七年十月十四日から十八日にかけて五日間に亘って新聞に掲載されました。いわば当時の全国紙です。大きな反響を呼びました。中には賛意を表する意見がありましたが、議決の各条について反論もありました。
 これを機会に、窪田次郎らは仲間を募って蛙鳴群という活動団体を組織し、新聞紙上に投稿することで活路を求めます。


  秋陽ノ清朗ヲ待ニ如カズ

 翌明治八年になって、再び地方官会議の開催が宣せら、議題として(一)道路・橋・堤防、(二)地方警察、(三)地方民会、(四)貧民救助、そして追加で(五)小学校の設立が取り上げられます。しかし、それらは新聞紙上で知らされるのみで、県からは何も言って来ない。前年のように臨時議会を開いて県令が議会の意見を聞くこともなく、傍聴人の選任についても相談がないいまま、地方官会議は開催されます。このような県の扱いに、蛙鳴群の仲間は不満を持ちます。その上、地方官会議では議題の(三)地方民会、つまり県や区で議会を開く案が、地方官(府知事や県令)の賛成二十一、反対三十九で否決されます。窪田次郎らはこのような事態を悲観して新聞紙上に投稿しますが、地方官会議の最中の明治八年六月二十八日に、政府は新聞紙条例讒謗律を布告して言論の取締りを始め、現実に投稿者や新聞の編集者が摘発され処罰される事件が起きました。彼らは、新聞紙上での活動の道も断たれ、やむなく隠忍自重することにしました。


第十七章  学問のすゝめ

  福沢諭吉 
 福沢諭吉は一万円札でおなじみ、よく知られています。ところが、何の功績を持って讃えられるのか、あまり知られていません。明治維新の頃に活躍した福沢諭吉の今日的意義は何か、私なりに検証してみたいと思います。

  「封建は親の敵(かたき)」
 
福沢諭吉は、一八三五年(天保六年)の生まれです。ですから、明治元年(一八六八年)には既に三十三歳。人となりの成長過程は、ほとんど江戸時代にありました。
 諭吉の父は、豊前(大分県)中津の奥平藩に仕える下級武士でした。諭吉は父のことを口述による自書「福翁自伝」の中で、『・・・父の生涯、四十五年の其間、封建制度に束縛されて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ・・・私の為に門閥制度は親の敵で御座る・・・』と述べています。諭吉の父は学問に熱心な人でしたが、いくら頑張っても、下級武士はいつまでたっても下級武士です。父の無念を思い、「封建は親の敵」と言ったのでした。
 福沢諭吉は他の子どもと同じように漢学の塾に通い、論語などを学びました。しかし、封建制度を支える学問に矛盾を感じ、長崎に遊学して蘭語を学びます。そして大阪に出て、緒方洪庵の滴々斎塾で学びます。
 この辺りの経緯は、窪田次郎とよく似ています。次郎も、初めは漢学の塾で学びましたが、医師になるため緒方洪庵の門下の師につきました。次郎の場合、父が長崎に行き、医学を学んでいます。次郎は明治四年から五年にかけて東京に滞在しました。その時、諭吉に会ったかどうか不明ですが、明治五年二月発行の「学問のすゝめ」を啓蒙所の教科書に使い、新聞や雑誌に載る諭吉の論文に関心を寄せていました。

  「隔靴の嘆」
 
諭吉は、維新より八年前の一八六〇年に、アメリカへ渡りました。その時の体験を「福翁自伝」の中で・・・アメリカの家庭に行くと、驚いたことに、奥さんが椅子に座って客の応対をして、主人はその世話で走り回っている。日本とはアベコベな事をしている。洋書をたくさん読んで、欧米のことは知っているつもりだったが、このような『社会上の事』は本に書いてない。靴の外からは、かゆいところに手が届かないように、実際に見聞しなければ解からない・・・と述懐しています。
 書物に取り上げられるのは、新しいことや科学的なことでした。欧米人にしてみれば当然のことは、わざわざ本に書きません。この点は、第十章「自治の実験室 アメリカ」でもお話しました。町のホームページで、タウンミーティングの議題は見れますが、タウンミーティングの様子は載りません。自治のこともそうで、「自治とは、自ら治めること」と解かったつもりになりますが、実際にその町に住んで、住民と生活を共にして自治の必要性を感じなければ、その精神が解からないでしょう。このことは第二次大戦後もそうです。せっかく新憲法に「地方自治の本旨」が謳われましたが、自治の実際を見聞できないため、今に至って地方自治が実現できない原因となっています。


  青雲の志 
 
福沢諭吉は、再三にわたって政府の役人になるよう、誘いを受けますが、その都度、辞退しました。今日でも、公務員は安定した職として希望者は多いが、とりわけ当時は廃藩置県によって行き場を失った元藩士が多く、競って官職に就こうとしました。諭吉も藩士の跡継ぎです。しかし諭吉には、考えがありました。
 諭吉は「福翁自伝」の中で、『全国の人が唯政府の一方を目的にして外に立身の道なしと思込んで居るのは、畢竟(ひっきょう=いわゆる)漢学教育の余弊で、所謂(いわゆる)宿昔「青雲の志」といふことが先祖以来の遺伝に存して居る一種の迷である。今この迷を醒まして文明独立の本義を知らせやうとするには、天下一人でも(自分が)其真実の手本を見せたい・・・』と述べています。
 文中の「青雲の志」とは、立身出世の志のことです。官に就き、徳を積み、徳政を敷いて出世する・・・孔子に始る儒教の教えであり、藩士が学んだ漢学の教えです。誰も彼れもが官職へ、政府へと依りすがって、自主独立の精神を失っては、文明国になれない・・・自分が民間にあって範を示そうというのが、諭吉の考えでした。
 窪田次郎にも、官職に就く機会がありましたが、辞退しました。最初は二十五歳の時、藩主阿部正弘公が病気になられ、藩医の一員に推挙されました。二度目は、三十五歳の時、藩の医院兼医学校の教授の命を受けました。しかし、いずれも断わりました。次郎は、父が村人の世話になって始めた粟根村の医業を受け継がなければならない事情がありました。しかし、それだけが理由ではなかったようです。次郎は後に、我が子たちへ、役人にはなるなと戒めています。それはなぜか、私の想像ですが・・・次郎は民意が反映する政治を目指しましたが、役人は民衆の方を向かず、政府や上司の方ばかりを向く・・・命ぜられるままにしか動けない、そんな束縛された立場の役人になどなるな、というのが次郎の思いだったのではないでしょうか。

  学問のすゝめ 

 福沢諭吉と言えば、「学問のすゝめ」・・・ところが、この本で諭吉の言わんとするところが伝わっていないようです。同じように、冒頭の有名な一節『人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』も、諭吉の意図したように伝わっていないようです。諭吉は何を言おうとしたのか、これまでお話したことを踏まえて説明します。
 
それまで学問と言えば、漢学つまり儒教でした。論語や四書五経などを暗記し、解釈する。そして、礼節を守り、徳を身に着け、良き指導者として世を治める・・・その学問ために、多大な時間と労力を費やしました。しかしこれからの新しい時代は、そうした学問では生きて行けない。自ら考え、探求し、判断し、自らを治める「実学」が大切だ。そのためには、何も遠慮しなくてよい。誰もが自由に学ぶことができる。封建時代のように、武士だけが学ぶ、そして主に尽くすために学ぶのではない・・・人の上に人はいない・・・自ら人生を切り開くための「学問」を奨めたのでした。
 明治五年二月に「学問のすゝめ」初編が発行され、八月に「学制」が発布されました。その学制も、第十四章で紹介したように自主・自立の精神を尊び、実学を奨励しています。そして・・・「学問は武士がやるものと思い、農工商婦女子に至っては学問を度外視して、学問について話題にもしない。武士の中に学問をする者がいるが、学問は国家の為にするのだと言い、自分が生きて行くための基礎になると思っていない。いかに暗唱出来るかを競い、空論を述べ合い、内容は高尚のようでも、実践して事態に対処することが出来ない。これは旧態依然の悪習である」・・・と述べて、武士だけでなく、国民全てに学問が必要なことを説いています。
 この学制の考えは、諭吉と同じです。諭吉の「学問のすゝめ」が爆発的に売れ、小学の教科書にもなりました。窪田次郎も、早速、「学問のすゝめ」を教科書に使っています。このような当時の状況から見て、「学制」は、多分に福沢諭吉の影響を受けたのではないかと推測されます。
 ところが残念なことに、福沢諭吉の真意は正しく理解されていません。
 「人の上に人をつくらず・・・」、そうだ、人間は平等だ、と思うのは当然ですが、ただ単に平等を言っているのではありません。人の上に人はいないのだから、上から命じられるままでなく、自主・自立の精神をもって自ら考え、実践して前進するように諭吉は呼びかけています。
 「学問のすゝめ」は、その題名にとらわれて、教育の重要性を強調し、日本の教育水準の向上に貢献したと思いがちです。そして日本の教育は戦後も、知識偏重で考える力よりも記憶力が必要な教育に傾斜して、子どもたちを受験競争に駆り立てています。しかしそれは、諭吉の期待したものではありません。このような受験競争や学歴重視は、世界的にも儒教の歴史を持つ国に特有な現象です。福沢諭吉は、早くも明治の初めにこの問題に気付き、儒教的教育を脱して考える力を養う教育を推奨しました。しかしその後は、第十四章でお話しましたように、儒教一色の「教育勅語」のもとで教育が進められました。戦後は、そうした教育を反省し、新たに出発したはずですが、簡単に『先祖伝来の遺伝』を脱し得ず、詰込み教育などが反省され、生きる力を学ぶ教育などいろいろ模索されているところです。とりわけ近年は、経済の壁にぶちあたり、実力が問われる時代となり、正に考える力、生きる力が教育の重要な課題となっています。

  小児の手に利刀を渡す 
 
諭吉は、「学問のすゝめ」の中で、「徳のある者が治める」政治の弊害を具体的に批判しています。
 「・・・一国の中で、徳を持って人民を治める者が数人、他の国民はこれに従う・・・そうなれば、国は平安に治まるかもしれないが、誰も彼もが徳のある人に頼り、国を心配することもない。そうなると、いざという時に民は国に頼り、国を守れない・・・」。人の上に立つ一部の智者による政治では国を守れない。一人ひとりが我が身を治め、国に頼らず、一身独立してこそ、国を守れる・・・『一身独立して一国独立す』・・・これが、諭吉の主張であり、官に就かず、民に在って自ら実践する諭吉の信念でした。

 
そして諭吉は、明治十年に著した「分権論」の中で、国に頼る中央集権と人民に参政の機会を与える分権自治を比較して、次のように述べています。
 「・・・人民に自治権を与えることは心配なことかもしれない。しかし、『人民に権力を授るは小児の手に利刀を渡すが如し』で、誤って怪我するかもしれないが、怪我をすればそれに懲りて反省するだろう・・・人の自由はこのようにして育つ。今はまさに、そのための分権の時だ。」
 自由や民主主義は、体験しながら学ぶもの。自治は民主主義の学校・・・この考え方は、自治の進んだ国々の常識であり、窪田次郎も広く住民に『実地験習ノ効ヲ積ミ』、『人民自治ノ端緒ヲ開ク』ことを呼びかけました。しかし、この「自治は民主主義の学校」という考え方は、今もって日本では認識が浅いようです。 
 『小児の手に利刀を渡す』・・・明治の初めに、諭吉はこの大切さを叫んだのですが・・・絶えず政府や県から借金の是非など指導を受けたはずなのに、夕張市のような市町が出てしまいました。依然として住民によるチェック機能が育っていません。財政の仕組を解かり易くして、住民の常識が通じる自治機能を備える必要があります。


  諭吉の分権論 
 
地方分権の必要性が叫ばれ、長年に亘って論議されましたが、福沢諭吉の著書「分権論」が取り上げられないのは不思議です。諭吉の「分権論」は、そのまま今日に通じるのですが・・・
 その中で諭吉は、国権には政権と治権の二様があると言います。政権とは、外交、徴兵、貨幣など全国一様に関する権力で、治権とは、学校、衛生、道路など地域の実情に応じて『其地方に居住する人民の幸福を謀(はか)ることなり』と明確に区別します。そして、『集権論者は・・・政権を集るは固(もと)より無論、治権の些細なるものに至るまでも悉皆(しっかい)これを中央に集めて、同一様の治風を全国に施し、各地の旧俗習慣にも拘はらず、之をして真直水平の如くならしめんと欲する者あり。』・・・全国各地が金太郎飴の町づくり・・・諭吉の予言の通りになりました。
 そしてさらに諭吉は、『中央に政権を集合して又これに治権を集合するときは、非常の勢力を生ずるや明なり・・・二権の集合はただに人を脅服するのみならず、又人の常習を変更し人を孤立せしめて個々に就て之を威服するものなり・・・』 まさにその通りで、自治の権利まで集権して、人々を孤立させ、脅服させて、戦争に追いやりました。



  無鳥里の蝙蝠

 さらに諭吉は、論及します。「集権論者は言う。中央政府のみ開明的で、地方の住民は無智。中央は神速で、地方は緩慢。中央は事を行うに慣れ、地方は命令に従うのに慣れる。そうなると、長ずる中央はますます長じ、地方はいつまで経っても進歩しない。」・・・地方は考えようとしないで中央に伺いを立て、工夫をしようとしないで補助金に頼る。諭吉が心配した通りになりました。
 
そして諭吉は、「村の区長や戸長が、政府の地方官の鼻息をうかがい、県官が巡回すれば村境まで出迎え、先導して皆を静めるのが仕事。そして官員が帰った後は『無鳥里の蝙蝠(鳥なき里のこうもり)』・・・飛べるから鳥の仲間だと威張る蝙蝠のように、区長や戸長が官員気取りで皆を指図し、願書の字や用紙など細かに注文をつけ、何度も足を運ばせる。これは、集権と言わざるを得ない。」
 明治七年には、窪田次郎らが議論したように、政府=官の仕事と村=民の仕事を区別し、政府=官の仕事は官費、村=民の仕事は民費と区別して考えました。明治八年に初めて県令を集めて地方官会議を開催しました。県令は政府の任命でしたが、県民の声に耳を傾けようとする県令や民会(議会)の設置に賛成の県令もいました。ところが政府が地方統治のため全国に大区小区制をしき、区長や戸長を任命して、戸籍、徴兵、納税、警察、学制など官の仕事を義務付け、次第に政府の末端組織化しました。そのような状況を嘆き、諭吉は明治十年に「分権論」をしたため、警告を発したのだと思います。しかし、次章でお話するように、政府は地方を体制内に組み込み中央集権化に突き進みました。
 今も、自治体職員が「無鳥里の蝙蝠」になってはいないか・・・国の指導ですから。国の制度ですから。国の補助がないので・・・国や県の威光を背負ってはいないか。裃(かみしも)を着て住民に接していないか。住民の味方になっていると住民に感じていただいているだろうか。


第十八章  幻の自由自治元
  
  
諭吉と次郎
 
同じような考えを持つ福沢諭吉と窪田次郎に接点があります。
 窪田次郎は明治五年から六年にかけて東京に滞在しました。その間、次郎が諭吉を尋ねたかどうか、定かでありません。
 ちょうどその頃の明治五年二月に「学問のすゝめ」の初編が発行され、大きな反響を呼びます。その初編の端書に、諭吉の故郷中津に学校が開かれるので書いたが、せっかくだから広く活用してはどうかと勧められたので出版したと記されています。それを読んだ次郎は、原本より大き目の本に印刷して啓蒙所の教科書に使いました。それを知った諭吉は、著作権侵害とカンカンに怒り、法廷に持ち込みかねない様子。ちょうど慶応義塾に福山出身の者がいて連絡を受け、県の学事課長杉山新十郎が諭吉に面会して謝罪しました。そして九月になってようやく諭吉の了解を取り付けました。諭吉は啓蒙所の活動に感心し、『天下に先ち天晴の功名を挙げたりと繰返し賞賛し』、三百部の摺立てを許可し、さらに土産に「学問のすゝめ」を百部寄贈してくれたそうです。
 「啓蒙所大意」の『士農工商貧富ヲ分タス』は、「学問のすゝめ」の『人の上に人をつくらず・・・』と同じものでした。諭吉は、さすが同門、自分と同じ考えで実践していると感じたのででしょう。


  維新のワンチャンス
 
諭吉の説得に当った県の学事課長が、明治五年六月に文部省を訪問して「啓蒙社大意」を見せました。そのとき、『次郎の卓見に感心せり』とのことです。その文部省は、二ケ月後の八月に「学制」を発布しました。「学制」は、諭吉の「学問のすゝめ」と同じ論点に立ち、個人の自主・独立の精神を尊び、実学的な学問を奨励しました。
 「啓蒙所大意」に、後日、次の附箋が付けられました。『・・・学資ヲ官ニ依頼セスシテ人民自治ノ端緒ヲ開キ、他日小学校設立ノ基礎ヲ建ツ・・・』。文部省が制定の「学制」により、啓蒙所は小学校となりました。そして全国的にも、明治六、七、八年ごろから小学校が発足します。国の指導はありましたが、今日のように国からの補助がある訳ではありません。次郎らの啓蒙所と同じように、村人がお金を出し合って先生を雇い、家の離れを借りたり小屋を改造したりして準備しました。それはちょうどアメリカの西部開拓民が話し合って学校を発足させたと同じように、村の「自治」立による学校教育の出発でした。
  この時期、新しい時代の到来に期待し、各地で競って小学校を発足させ、日本中の村々が盛り上がりました。第十四章で紹介したように、村ごとに願いを込めて命名した斬新な校名からも、当時の機運を窺うことができます。
 しかしその後、学校教育は第十四章で述べたように国の関与が深まり、全国統一して集権的に進められることになります。


  ベストセラー「学問のすゝめ」

 
沢諭吉の「学問のすゝめ」は、爆発的な売行きを示しました。初版だけで、偽版を含め二十二万部。当時の人口を三千五百万人とすれば、百六十人に一部の割合です。今日でさえ、そんなベストセラーはないでしょう。「人の上に人をつくらず・・・」は、封建社会からの脱出に大きな励みとなったことでしょう。
 先にお話したように、諭吉は「青雲の志」を漢学つまり儒教の弊害として嫌いました。そして、明治七年一月発行の「学問のすゝめ」第四編の『学者の職分を論ず』の中で、学者の姿勢を痛烈に批判します。諭吉が言うに、学者は政府に寄りすがり、官に就くことばかり考え、私にあって独立して歩もうとしない。そして、何をするにも官の許可が必要で、ますます官が強くなっている。
 窪田次郎も同じようなことを言っています。彼の民選議院設立時期尚早論の中で、才識のある者は皆官にあり、あるいは官職を求め、東京へ東京へと集る。これでは地方にあって、地方の発展や子どもの教育に専念する者がいなくなる。それではいけないので、自分は東京に行かず、民にあって頑張る。
 ・・・この頃から、中央主権、東京中心、官僚主導が始ります。諭吉はいち早くその傾向に気付き、警告を発したのですが。

  国権と民権と官権 
 
この諭吉に反論する学者がありました。国法学者の加藤弘之です。
 彼は明治七年三月発行の「明六雑誌」第二号に論文を載せて、学者が官に就いて何が悪いか、と切り返し、役人よりも、人民の「自由」が過ぎるのが問題だ、と論じます。 
加藤弘之は、人民の自由が過ぎるので、それに押されて「国権」が弱くなる、そのために官の指導を強化しなければならないと言うのです。
 ところがこの加藤弘之は、明治七年十月発行の明六雑誌第十六号に「軽国政府」という論文を発表して次のように論じます・・・政府が国事を秘密にしたり、人民をほしいままに制圧してはならない、人民の力は、すなわち政府の力であり、『人民は本にして政府は末なればなり、末にして本を忘れ、末をもって本を圧せんと欲すれば、民は離反、国の衰亡を招く』、そのような政府を『軽国政府』だと論じます。
 そこで窪田次郎の登場です。
 この『軽国政府』を読んだ窪田次郎は、加藤弘之が前々から言っていることと矛盾すると指摘します。そして、「国権」と「官権」を混同していると言います。加藤弘之が民の自由が過ぎると困ると言う場合は「国権」ではなくて「官権」であり、「民権」に対峙するものです。それに対して「国権」とは、国の総合的な力で外国に対するものです・・・加藤弘之が言う「軽国政府」とは、国の本である民が弱いため「国権」が危うくなる場合です。
 この区別は大切です。国の独立を考える際の判断基準になります。「官権」が如何に強くても、「国権」が弱ければ国の独立は保てません。
 この判断基準は、「地方自治」を考える上でも重要です。
 「町が町民の声を聴かない。」という場合の町は「官権」です。民の声を反映する「民権」が保障されていなければ、自治は成り立ちません。同じように、自治体に如何に権限や財源があっても、住民の願いが反映できていなければ、「自治」とは言えません。
 この判断基準は、地方自治を考える場合の基礎として、序章の「住民自治と団体自治」でお話しました。
 明治も七、八年頃になると、中央政府から県に派遣された官吏によって、中央集権的な行政が押し進められつつありました。そして、せっかく育ちつつあった「地方自治」は、政府の傘下に組み込まれ、機能を失って行きます。
 窪田次郎は、廃藩置県によって藩それぞれの独立性が失われ、県が政府の地方行政体制に組み込まれ、政府が任命した県令をはじめ官吏のもとで政府の施策が推進されるのを目の当りにして、この問題を身近に感じたに違いありません。

   いたずら

  徒ニ自由ノ理論 
 
国会図書館に、「自由自治」第一巻があります。明治九年の出版です。原文の表題は、”On Civil Liberty And Goverenment "です。ここで「自由自治」とは、直接「地方自治」を指すのではなく「自由な国民による政治」という意味です。この本の著者は、リーベルというドイツ生まれの法律家で、後にアメリカの大学で教授を勤めました。
 そして、この本を翻訳して出版したのは、上記の加藤弘之です。
 加藤弘之は、この本の冒頭で、原作と著者を紹介して次のように記しています。
 リーベルは、『…独米両国人民ノ中間ニ立チ・・・其長所ヲ交換セシムル所ノ媒介人ノ如ク・・・』。そしてこの書は、『・・・此書ノ如キハ徒(いたずら)ニ自由ノ理論ノミヲ以テ主旨ト為サス・・・』。

 
ところが加藤弘之は、「自由自治」の第一巻の末尾に『全二十冊追々続刻』と書き添えているにもかかわらず、第二巻以降を出版していません。それはなぜか・・・
 加藤弘之は、翻訳出版を途中で止めた理由を特に言っていません。この点について、加藤弘之を研究された吉田曠二は、著書「加藤弘之と『弘之自伝』について」の中で、原著が急進的で、加藤の思想と符合しなかったからだろうと述べています。
 この辺りの事情を理解するには、加藤弘之の理論が時代とともに変化した状況を知る必要があります。


  スイスは万民同権の政体

 
加藤弘之は、福沢諭吉よりも一歳年下で、一八三六年(天保七年)の生れ。彼は、明治維新よりも前の尊王攘夷の嵐が吹き荒れる一八六一年(文久元年)に、スイスは『万民共治』の政体で、『自主の数邦を合して一国』となる理想の国であり、『その公明なることは政体の右に出ずるものあらず』と、アメリカ合衆国とともに高く評価しています。
 ところが明治になると、一転して、立憲君主制国家を主張します。そして、過渡的には絶対君主制も評価します。そのことを著書の「真政大意」(明治三年)の中で、『いまだまったく開化文明に進まずして、愚昧な民の多い国では、立憲政体を立ててひろく公議輿論を取りたてたところが、ただ頑愚の議論のみでかえって治安の害をなすでござるから、かような国ではやむことをえずしばらく専治等の政体を用いて、自然臣民の権利をも限制しておかねばならぬこともあるでござる』と述べています。
 「自由自治」の著者リーベルは、立憲君主国ドイツの法律家だから、その書は立憲君主制を是認したもので『徒(いたずら)ニ自由ノ理論ノミヲ以テ主旨ト為サス』と思って本を紹介したものの、翻訳するうちにアメリカ流の自由を主旨とするものであることが分かったため、第一巻で出版を止めてしまったのでした。
 加藤弘之も福沢諭吉も、維新の前から世界に目を開き、自由民主の国があることを知り、それらの国に理想を求めました。ところが、福沢諭吉が民間にあってその理念を堅持したのに対して、加藤弘之は儒教的観念を引きずり、明治政府の招きに応じて政体律令取調御用掛の職に就き、以後、政府の要職を経て東京大学の初代学長になりました。

 
日本のその後は、明治当初の「広く会議を興し 万機公論に決すべし」の理念が後退して、加藤弘之らが主張する専制国家の道を歩むことになります。
 当時、加藤弘之等が模範としたドイツの絶対君主制については、追って紹介します。


  木ニ縁リ魚ヲ求ムル
 
明治七年に、板垣退助らが「民選議院設立の建白」を政府に提出し、これをめぐって盛んに論議されました。
 文明国になるためには欧米に倣って民選議院を導入すべきだ。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の実践だ。困難はあるが経験を踏みながら向上するという論に対して、加藤弘之は時期尚早論を唱えます。日本人は民選をするレベルに達していない、「木ニ縁リ魚ヲ求ムル」ようなものだ、というのです。そして、選ばれた議員も未熟だから、そのような議員による議決は愚論に過ぎない。愚論でも民選議院で決まれば政府は実施しなければならないから大変なことになる、当面は教育が大切と主張します。
 窪田次郎も、時期尚早論を唱え、教育の充実を主張しました。彼は、明治四年に、彼の住む粟根村で代議人の選挙を実施しました。村のいろいろな問題を解決するために、代議人の必要を感じたのでした。しかし、選挙を実施するには苦労したようです。読み書きができる人は限られていました。それでも先駆的に実施して、他の村にも推奨しています。その経験から、窪田次郎は、村のような範囲なら選挙が可能だが、国の民選議院のように範囲が広くなると、情報が行き渡らず、誰を選ぶか判断することが無理と考えます。当面は、何よりもまず啓蒙所を充実して教育を推進すべきと考えました。そして、地方の優秀な人材が民選議員となって東京へ吸収されのを嫌いました。


  自由自治元年 
 
古いことですが、昭和五十七年にNHK大河ドラマで山田太一原作の「獅子の時代」が放映されました。菅原文太が扮する平沼銑次と加藤剛が扮する刈谷嘉顕が主人公です。二人は、明治維新の大きな時の流れに翻弄されます。そして最後の場面で「自治」の問題が取り上げられました。
 幕末に会津で討幕軍と戦って敗れた平沼銑治は流れ流れて秩父事件に巻き込まれます。そして一揆に加わり、最後には「自由自治元年」の旗を揚げて敵陣に切り込みます。
 刈谷嘉顕は政府の役人になり、政府の中枢にあって憲法の草案に携わります。そして、憲法制定の任にあった伊藤博文と論議します。そのシナリオから、
『伊藤「民間の意見に失望した」
 嘉顕「・・・・・・」
 伊藤「どれもこれも、日本の現状を棚に上げた理想論ばかりだ。」
 嘉顕「・・・・・・」
 伊藤「フランス、イギリスの自由民権論を金科玉条とし、自由と権利をよこせ、税金を減らせ。本気で日本の将来を考えているものは、まったくない!」
 嘉顕「・・・・・・」
 伊藤「奴らに日本をまかしたら、どうなるかね?いや、奴らには本気で日本を引き受ける気などないのだ。」
 嘉顕「では憲法は、自由民権論をどのように・・・・・」
 伊藤「問題にせんよ」
 嘉顕「は?」
 伊藤「日本の国民はね、刈谷さん」
 嘉顕「はい (早く聞きたい)」
 伊藤「まだ自由や権利を持つほど、成熟していないんだ」
 嘉顕「・・・・・・(衝撃をおさえている)」
     ・・・・・・・・・・                                      』
 役人を辞した刈谷嘉顕は、自分の理想の憲法草案をしたため、鹿鳴館の舞踏会に出席中の伊藤博文に届けようとして警官ともみ合いになります。
『嘉顕「願わくば、国民の自由自治を根本とする日本国憲法たらんことを・・・・」 』
 そう叫びながら、非業の最期を遂げます。

 
結局、日本は、プロシア(ドイツ)の専制的な憲法を模範とした憲法を制定しました。


第十九章  律令にかわる名望家支配

  律令の反省、しかし 
 明治政府は中央集権体制を敷きました。
 幕藩体制下で、「国」と言えば藩でした。幕府は藩に対して規制を掛けましたが、財政的には藩に頼っていました。何かにつけ藩に協力金を負担させ、普請や土木事業などを実施させました。この点は今日とは逆で、分権的でした。藩においても、藩主の権限は強力で封建的で、村に対して藩への忠誠と質素倹約を求めましたが、村は応分の年貢を納めさえすれば、生活のもろもろのことについて村に任されていました。藩は年貢をとるだけで、今日のような見返りの施策はなかったのです。村の運営は一部の有力者を中心に行われていましたが、農地の集積は未発達な状態にあり、村の年貢を集めるには村人の協力が必要なことから、有力者の一方的な運営はできませんでした。

 
ところが明治政府は、律令体制のもとに全ての権限を中央政府に集めました。そして地方には、政府の地方機関として県を配置して、政府任命の県令を派遣しました。県下には大区小区制を敷き、従来の大小の村を無視して概ね五〇〇戸を小区とし、いくつかの小区の上に大区を配置し、県令の指揮下に置きました。
 このような一方的な体制に対して、政府内でも反省の声が出たようです。
 例えば大久保利通は、明治十一年に「地方之体制等改正之儀上申」を太政大臣三条実美に出し、「・・・今日世情が騒然とし、兇徒が蜂起し、地方の安寧が妨害されているのは、政府の政策がよくないのでもなければ、府県長官の行政手腕が足りないからでもない。地方政治に関することをすべて中央政府の権限におさめ、地方に独自の権限を許さなかったためである。この仕組みでは、戸長がした過ちも、たちまち中央政府の罪ということにされてしまう。もし、地方に会議を開き一定の独立権限をあたえたならば、政治の是非得失が住民共同の責任となり、中央政府に怨みをもつような事はなくなるであろう・・・」(大島美津子著「明治のむら」)
 木戸孝允も、明治十一年の日誌に「・・・今日の形情を察するに、農なり商なり士なり満天下皆不平のもののみ・・・ただただ得意なるものは官員ばかりなり・・・政府上辺境窮陲(国境)の事情を不察、数百年の慣習を不顧、暴断するもの不少、実に政府は人民の政府たる主意を失ふものあるに似たり・・・」(大島美津子著同書)と記しています。
 中央集権化し、官僚優位となった状況がよく分かります。

  無恒産者無恒心  
 
このような反省から、政府は大区小区制を廃止して旧来の町村を認め、地方税や地方財政の独立を認めるとともに、官選だった戸長を民選にし、議会議員の選挙も認めました。ました。いわゆる「三新法」と言われるもので、明治十一年のことです。
 しかし、選挙権は土地所有者に限られ、誰が誰に投票したかが分かる記名投票でした。そして、戸長の給料はわずか、議員は無給でした。従ってその実態は、「明治十三年改正教育令理由書」によると、「・・・各地方ノ景況ヲ通観スルニ、おおよそ戸長トナル者ハ、其町村ニ名望アル者、又ハ才幹衆ニ超ユル者、又ハ旧家ニシテ郷関ニ尊重セラルゝ者ニシテ、固ヨリ其町村人民ノ上流ニ居ル者・・・」(大島美津子著同書)とあるように、戸長や議員は一部の有力者に限られていました。
 その背景には、明治政府の土地政策がありました。明治政府は、まず初めに戸籍制度を整え、土地を調査して地券を発行し、土地売買の自由を認めます。その結果、経済の激動下で土地が一部の地主に集積され、地主が強い権限を持つようになっていました。まだまだ稲作に経済基盤を置くほかなかった状況の下で、土地がますます物を言う稲作強制の社会に逆行したのでした。
 このような実態を政府は是認します。明治十一年の「地方官(府県令)会議傍聴録第二号」に、「恒産無キノ人ハ亦恒心アルコト難シ、其世安ヲ図リ公益ヲ務ムル者、往々資力アルノ人ニ於テ之得」(大島美津子著同書)と発言したとあります。
 この「恒産無き人、恒心無し」は、孟子の「王道論」に由来します。儒教は別名で「孔孟の教え」とも言われます。儒教には、そうした考えが根底にあるとしか言いようがありません。


  市制町村制
 
立憲政治に腰の重い政府に対して、自由自治を求める活動が活発になります。明治十五年から十七年にかけて自由民権運動が勃発しました。前章で紹介した秩父事件や福島事件、高田事件、加波山事件などです。
 これらの自由民権運動はいずれも敗北しますが、自治の進展に不安を感じた政府は、明治十七年に、町村の監督強化のため地方行政区画を再編成するとともに、再び戸長を官選としました。その時に出された「戸長官選ニ付訓示心得」に、「戸長ハナルベク 永ク其町村ニ居住シ 名望資産ヲ有スル者ニツイテ選任スベシ」とあります。前掲の大島美津子著「明治のむら」は、「・・・地方の名望家を国家の支配機構のなかにとりこみ、彼が地域社会にもつ信頼感と権威を政治に利用しよう・・・」としたものと述べています。
 このようにして一旦は官選となりました。しかしその後、政府部内でも諸外国の自治制度の研究が進められ、官選では立憲制を目指す国としてふさわしくないとの反省があったものと見られます。明治二十二年に憲法が発布されますが、それに先立って明治二十一年に市制・町村制が制定され、再び民選となりました。その制定に際して示された「市制町村制理由」には、地方自治について積極的な理解の姿勢が著されています。
 まず、「本制ノ旨趣ハ 自治及び分権ノ原則ヲ実施セントスルニ在リ」と宣言します。
 そして、維新以来の集権的な地方制度を反省して、「・・・政府ノ事務ヲ地方ニ分任シ 又人民ヲシテ之ニ参与セシメ 以テ政府ノ繁雑ヲ省キ 併セテ人民ノ本務ヲ尽サシメントスルニ在リ・・・・人民ハ自治ノ責任ヲ分チ 以テ専ラ地方ノ公益ヲ計ルノ心ヲ起スニ至ル可シ 蓋(けだし)人民参政ノ思想発達スルニ従ヒ 之ヲ利用シテ地方ノ公事ニ練習セシメ 施政
ノ難易ヲ知ラシメ 漸(ようや)ク国事ニ任スルノ実力ヲ養成セントス。 是将来立憲ノ制ニ於テ 国家百世ノ基礎ヲ立ツルノ根源タリ・・・」
 集権の弊害を体験し、西欧の進んだ地方自治を学んで自治の大切さを理解した立法者の心意気が伝わってきます。戦後、充分な研究の時間もないうちに導入され、「地方自治の本旨」と言うだけで、形ばかりとなった現行の地方自治法よりも斬新さを感じます。戦後の国の指導には、地方自治に参加することによって「公事ニ練習セシメ 施政難易ヲ知ラシメ」といった姿勢さえ見られません。その結果、例えば、税収をもって経費に充てる自治の体験も未熟なまま国の補助金などの支出に頼り、国の財政を破綻状況に追い込んでしまいました。
 このように地方自治に理解を示した市制町村制ですが、その理念とは裏腹に非常に厳しい制限選挙を採用しました。それは「等級選挙制」と言って、町村税総額の半分を納めるごく少数の高額納税者が一級として議員の半数を選び、残りの国税二円以上の納税者が二級として半分の議員を選ぶというもので、しかも選挙に当っては二級の者が先に選挙し、その結果を見て一級の者が選挙するというものでした。市制では、更に三級に区分して行われました。
 あれほど地方自治に積極的な姿勢を見せた市制町村制が、なぜ、このように後退した制限選挙を導入したのか。「市制町村制理由」の中で、「・・・市町村ヲ以テ其盛衰ニ利害ノ関係ヲ有セザル無智無産ノ小民ニ放任スル事ヲ欲セザルガ為メナリ・・・」、そして等級選挙について、「小民ノ多数ヲ以テ資産家ヲ抑厭スルノ患ヲ免ル可キカ故ニ・・・・細民ノ多数ニ制セラルゝノ弊ヲ防グ・・・」と明言してはばかりませんでした。また、町長、助役、議員は「名誉職」とし、原則として無給としました。その理由として、「町村公民ノ軽カラザル義務ナレハ 資産アル者ニ非サレハ之ニ任スルコト能ハス・・・」としています。
 その後、選挙の制限は段階的に緩和され、大正十五年(一九二六年)に至ってようやく二十才以上の男子による選挙が実現するのですが、時既に遅く地域社会は名望家支配が定着し、地方自治はひ弱なものとなっていました。


 「家」制度 
 
社会を制約する農地の所有者は、人というよりも、むしろ「家」でした。家族は「家」に隷属し、懸命に働きます。農地を分割相続すれば、「家」は貧しくなり、税が少なくなれば支配者は困ります。だから、一子による一括相続つまり家督相続が民法上の制度となりました。

       小説「紀の川

(記述の部分を加筆・修正することがあります。ご容赦ください。)



第二十章  ドイツの自治

        自治の受難 
        ゲーテの悩み
        共同体精神の培養
        偽装された立憲主義

       ナチスと自治
        伝統の自治の復活  
        多様な文化を育む分権社会


第二十一章 フランスの自治

        コミューン  
        集権と抵抗 
        フランス革命 
        コミュニティー活動

第二十二章 スイスの自治

        ルソーはジュネーヴ市民 
        間接民主制は次善の策

      コミューンの村民、そしてカントンの州民、ついで連邦の国民
       連邦は自治の延長
        ガラス張りで政治浄化 
        戦えば分裂=永世中立

       自治あってのEC

第二十三章 地方自治の本旨

        占領下の自治導入
        日本の集権体質の壁 
        経済優先
        地方自治の本旨
        集権化から分権化へ・・・第三の波
         間接民主主義の限界
        責任転嫁から自己責任へ分権・半直接制へ 
        臨調から行革審へ 

第二十四章 私たちの実践 

        現代版「無鳥里の蝙蝠(こうもり)」
        補助金の毒
        補助金と民間活力
        活性化委員会  

       活動を振り返って
        分権推進委から分権法へ 
        されど課題山積


第二十五章 福祉自治

        「家」福祉から社会福祉へ 
        「寝たきり」のない国 

       スウェーデンの福祉についての誤解
        自治のある国の福祉 

       福祉・医療・保健の総合化
        ボランティア


第二十六章 教育自治

         「自立」の子育て 
         「べき」の子育て
         新しい足音

        「自立」そして「自治」へ 
         「自立」とは孤独 
         分権と参加の教育

        保護者や住民の参加による教育自治

第二十七章 「自立」の経済

        貯蓄の功罪  
        貯蓄の動機
        地方財政の独立から
        福祉そして教育、住宅

        経済合理主義の行方
        地域循環社会   

第二十八章 住民の、住民による、住民のための

       シカゴの選挙
        レフェレンダム 
        日本の住民投票 
        住民自治の工夫
  
       町村合併の問題に直面して 
        合併問題を機会に
        分権自治の確立を目指して
        補完性の原理 
        そして地方自治の本旨 




  
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