抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信

 
  シリーズ  36 ・
 
  お地蔵さん巡り in 北広島町   ・ 


 如来様は、悟りを開いた仏様。
 菩薩様は、悟りを開く一歩手前の方。
 お地蔵様は、正しくは地蔵菩薩と言い、菩薩様。
 だから、悟りを開くため修行の身。
 だから、道行く人の安寧を祈りながら、自らは修行されている。
 だから、雨露の下で、立っておられる・・・お地蔵様が多い。
 北広島町内には、たくさんのお地蔵さんがおられます。
 まだまだ、いらっしゃるのではないかと思いますが、今、わかる限りを・・・・


 本地には、四体のお地蔵さんがあります。(ほかにもあるかも・・・・)
 そのうち三体は、水害に関連します。


 千坊のお地蔵さん

 街道と別所川が出会う所にお地蔵さん。
 その昔、別所川が氾濫して、お地蔵さんが流された。
 お地蔵さんは直ぐに見つかったが、頭がとれてない。
 しばらく経って、今の80歳代の方が子どもの頃、
 下流で川遊びをしていて、頭を見つけた。
  ・・・頭と胴の間が割れて痛々しい
 
 別所川は、猿喰山の山麓を流れ、集水範囲が広い。
 昔から幾度となく氾濫したそうだ。








   
  下本地のお地蔵さん

 土の中から見つかった。
 上流から流れて来たに違いないと尋ねたが分からない。
 それほど古いものか。

 この地にお祀りした。
 それまで周辺の家が長続きしなかったが、以来、代々が栄えるようになった。
 この地域の家々は、お地蔵さんを大切にするよう言い伝えている。

 なぜか、このお地蔵さんも、首が胴と離れている。
 
 結婚式の度に、式場へ持ち出される。
 間違えて、別なお地蔵さんが返された。
 ・・・・風習では、新郎新婦は、お地蔵さんに新しい前掛をお付けして
  村人に尋ねながら、元に場所にお返しすることになっている。
  それが新夫婦の初仕事になる。






 広能のお地蔵さん

 本地の東の大懸山から流れ出る川筋にある。

 平成18年の水害で、
 大懸山からの濁流が高速道を越してお地蔵さんを襲った。
 しかし、濁流はお地蔵さんの手前で二手に分かれ、
     お地蔵さんは奇跡的に助かった。

 文久2年(1862年)にも、同じように水害があって、
 同じように濁流がお地蔵さんの手前で二手に分かれ
 お地蔵さんが助かったそうだ。
  やしろ
 お社と並んでいる。
 昔から、4月3日には神主さんをお迎え、
 餅をついてお供えしてお祭りをするそうだ。 


 昔、本地郵便局の近くに関所があったそうな。
 その関所の傍に立てられたお地蔵さん
      前の道は、左右に旧街道

 広島藩の時代、
   本地は、浜田への街道筋
         山県郡東部の玄関口
 関所と言っても、有事の場合に検問するため

 飢饉等で食料が乏しくなると、
 土地を離れ、
 役所があり、賑やかな街がある本地へ、
 更には広島に向かって、
 食を求めて流れ来る者があった。

 そして、行き倒れ、
 この関所周辺で息絶える者もあった。
 そうした無縁の死者を弔うため、
 この地蔵さんが祀られた・・・・という話です。

 結婚式の式場に、
 このお地蔵さんが届けられた。
    3尺以上あり、重い。
 家の座が抜けてしまったとか・・・
 夫婦二人では、とても返せません。



  正確な場所は言いません・・・・テクテクと探し、訪ねてみるのも一興でしょう。

 

 有田のお地蔵さん



 旧千代田町役場庁舎の西の道端に、
 お地蔵さんと石碑があります。
 足を止めて碑文を読んでいると、
 近所の方に声をかけられました。

 その方のお話によると、
  ・・・・広島藩の厳しい取立てに
 抗議して一揆の先頭に立ち、
 農民の要求を認めさせたが、
 その罪で斬首され、この地で獄門
 (囚人の首をさらすこと)に掛けられた
 義民吉左衛門を祀ったお地蔵さん。

 享保の百姓一揆





     
      だお
  えりょう峠のお地蔵さん
 額田部から有田へ超えるえりょう峠の入口の道端においでになる。

 
通る人の安寧を祈り、見守っていてくださる。
 ところで、「えりょう」の漢字がわかりません。地域の方にお尋ねしたのですが・・・・
 ご存知の方はありませんか?



   

 丁保余原のお地蔵さん


    

 丁保余原のお地蔵さん

    
 川東の谷地蔵さん・・・・南無八幡地蔵菩薩とも言います。

 少し前までは、由来を書いた板があったが、なくなってしまったとか。
 近所の方に、思い出しながら教えていただきました。
 ・・・年号もかなり古い昔、この地域に疫病がはやって多くの人が死に、牛も病気で死んだ。困り果てていると、高野山から旅の僧が通りかかり、しばらくこの地に留まってお地蔵さんを彫られた。そして、この地に安置すると、疫病はおさまり、牛も死ななくなった。
 もともとは椿の木の下にあったが、地域のものがお金や米を出し合って、祠を建てた。

 お地蔵さんのように腰が据わって、ということでアチコチの結婚式にお出かけになる。

 この谷は、その昔は亀谷街道と言い、谷を上り峠を越えると、美土里町の亀谷、塩瀬に出る。多くの人が通った。壬生の花田植えには、飾り牛や多くの見物客が峠を越えてやって来られた。また、野賀(川西)に藤井病院があった頃には、通院の方が通られた。病人が戸板に乗せて運ばれるのを見たこともある、と。

 ・・・・今では行き止まりとなっている上の谷の道端にお地蔵さんがおられる理由が分かりました。







    

 河内の大月川の川辺に、
      ぼつりとお地蔵さんが・・・・
 
 普通、お地蔵さんは、道の側に・・・・
 近くの方にいわれをお聞きすると、
 悲しい物語が・・・・

 昔、この川辺に家があった
    ・・・今は畑になっている。
 雨で川の水嵩が増した時、
 この家の幼い子が川に落ちて流された。
 親がたいそう悲しんで、
 子が落ちた川辺に
 お地蔵さんを祀ったのだそうだ・・・








 

 上川戸と中川戸の間。
 江川と県道が山に迫る所がある。
 昔の街道は、山の中にあったが、
 荷車や馬車が使用されるようになり、ここを通るようになった。
 しかし昔は、川が山すそにぶつかり、交通の難所だった。
 お地蔵さんは、いつごろ安置されたのだろうか。
 石の表面は平らで、ほとんどお姿が分らない。
 なんでも、旅のお坊さんが滞在して掘られたものだそうだ。
 もともとは、昔の道の下端に祀られていた。
 道は「吊り道」と言い、崖に木を組んで吊り橋のように吊ったものだった。
 そのため、幾度となく人や車が橋から川に落ちた。
 ある時は、洪水の時に人が落ちて渦に巻き込まれそうになり、
 岸にしがみついているのを助けた。
 またある時は、馬車が落ちた。
 前に荷を積む三輪車が落ちたこともある。
 しかし、不思議に大怪我をした者がいなかった。
 お地蔵さんのお蔭と人々は感謝した。

 なんでも、遠くの方から、乳がよく出るようになったと、
 小豆を供えてお参りされる女性があるそうだ。




    
 川戸のお地蔵さん

 川戸出身で実業界で活躍された  三宅 勇 さんが、
 郷土の安寧を願って、川戸路へ立てられました。

 三宅勇さんは、芸石地域の郷土英俊の奨学を目的として
 昭和43年に三宅奨学会を設立され、奨学金を貸与。
 以来、平成19年まで39年間に、540名の奨学生に奨学金を貸与してきた。

 川戸路の
 大朝境の山側
 上川戸の
 中川戸の
 惣森の国道433号線と県道が交わるT字路の川戸寄りのカーブ

 まだ、あるのでしょうが・・・・










         

          左側の祠が中山峠のお地蔵さん
             中山は広島と浜田をつなぐ街道の中間点として栄えた
             古くからある。いわれは定かでない。
             地蔵さんの後ろにはたくさんの「よだれかけ」。ぼろぼろになって、書いてある字が読めないものも・・・・。
             昔より、多くの方の結婚式にご出張遊ばされたのだ。
             その昔、ある家に不幸が続いた。そして、お地蔵さんを祠に返していないことに気付いた。
             お地蔵さんは、漬け菜部屋にあった。漬物の重しにしていたのだ。
             よだれかけを掛けて、丁重にお返ししたそうな。
             また、ある人が歯が痛いので、お地蔵さんにお祈りしたが一向に治らない。
             腹を立てて、お地蔵さんを川へ投げてしまったそうな。
             その後、中山の方が新しいお地蔵さんを寄進されたとか…。



     

 宮迫のお地蔵さん

     
 
くもんみょう 
 九門明の子安地蔵さん            
しも
 
大朝の九門明に西教寺というお寺がある。その下の堀田さん宅の横の山添に、子安地蔵さんがある。県道からよく見える。
 写真のように、赤いお蔵の中におられる。雪に映えて、美しい。
 御覧のように、両脇にたくさんの前掛けがある。たくさんの結婚式にお出かけになったのだ。それもそのはず、子安地蔵さんだから、近在の結婚式には必ず呼ばれる。
 この地蔵さんには由来がある。北広島町図書館編集・発行の「大朝の昔話・伝説2」文と絵小田ひろみによると、堀田さんの五代前の吉五郎さんの夢枕にお地蔵さんが立って、「裏の山の谷川に浸かって、辛い目に遭うとるから、どうか助けてくれまいか」と言われたそうな。次の朝、そこに行ってみると、お地蔵さんが頭から川に浸かっておられた。そこで上ケ原に安置したが、戦後の開拓で畑になったため、現在地に移動したのだそうだ。
 結婚式の度にお出かけになったが、すべからく子宝に恵まれ、安産だったので、お地蔵さんのおかげと評判になった。
 今では代々がお世話になり、こうして感謝のお参りもあり、お地蔵さんの周りは賑やかだ。


      

 観音滝の観音さん

 芸北は小原の県道沿い。
 交通安全を祈願して祀られた。
 昔は、山裾に大暮川がぶつかり、
 交通の難所だった。
 昔の道は川沿いにあって、
 洪水のときは命がけで通った。
 旅人を襲う賊が出ることもあった。
 旅の安全を願い、
 九州の方からいただいて
 お祀りしたと伝えられる。











     

 奥原のお地蔵さん

    

 土橋のお地蔵さん

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