シリーズ  15    。         
       
       
享保の百姓一揆           ・

                                          抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信
 旧千代田町役場庁舎の西の道端に、お地蔵さんと石碑があります。
 足を止めて碑文を読んでいると、近所の方に声をかけられました。

 その方のお話によると、
  ・・・・広島藩の厳しい取立てに抗議して一揆の先頭に立ち、農民の要求を認めさせたが、その罪で斬首され、この地で獄門(囚人の首をさらすこと)に掛けられた義民吉左衛門を祀ったお地蔵さん。
 このT字路は、左へ本地、右へ中山、手前へ壬生・・・その時代の交通の要所でした。
 ここに首をさらし、見せしめにしたのです。
 当時、志路原川は、農協、北広島町庁舎、千代田中央病院の方向に流れて、冠川(本地からの)と合流していました。斬首は、その川筋の五郎淵河原で行われました。
 お地蔵さんは、斬首を命じた本地の役人が祀ったということです。
 
 本地の役人がお地蔵さんを祀ったというのは言い伝えで、何も書き物は残っていません。農民の為に犠牲になったとは言え、罪人です。農民が祀る訳には行かなかったでしょう。やむなく役人ということにしたのか。それとも、藩から役人を命じられた庄屋の中に奇特な者がいて、同じ農民として忍びない、あるいは打ち壊しを免れたことの謝意を表するため祀ったか。本地の歴史に詳しい方にお聞きしたところ、当時、本地には屋号を金市(かねがいち)、苗字を水戸と言い、宿場役人も兼ねた大庄屋がいたので、それか・・・・いずれも定かでありませんが、農民の感謝の気持ちが込められたお地蔵さんには違いないようです。

 以来、お地蔵さんは、長い間ここに立っていましたが、お顔が分からないほど風化しました。粗末なことをしてはいけないと、地元有志が昭和60年に石の祠を造って安置し、記念碑を立てました。焼香台の前側には、吉左衛門が使っていた印判が掘り込まれています。
 一揆は、備後の方からの呼びかけに応じたもので、吉左衛門をはじめ11人がこの有田村に集って話し合い、壬生の庄屋を襲いました。一揆は川戸から大朝へ、さらに雄鹿原へ波及しました。
 一揆を先導した雄鹿原の百姓も捕らえられ、本地の牢に入れられました。道中が長いので死体が腐るというので冬になって斬首され、雪道をそりに乗せて雄鹿原へ運んだそうです・・・・
 

 そこで、雄鹿原の石碑を思い出しました。
 国道から芸北国際スキー場へ行く道の中祖川の橋のたもとにあります。

 義農安左衛門の碑の建立に尽力された方のお話によると、安左衛門はこの場所で獄門に掛けられました。
 郷土の歴史家の発案で、安左衛門没後250年、明治維新100年にあたる昭和43年に建立され、石碑の題字は、当時、斬首を命じる立場にあった広島藩主浅野吉長から数えて7代目に当る浅野長武氏にお願いしたものだそうです。
 遺体は、棒にくくり付けて両端を担いで運びました。しかし、腐って臭いが堪らないので、枕の峠(田原ー溝口)の土中に胴体を埋め、首だけを持ち帰ったと伝えられているそうです。
 前者と食い違う点です。
 安左衛門の財産は没収され、一家は他家へ引き取られました。
 ※享保3年=1718年  明治元年=1868年  昭和43年=1968年


 そこで、千代田町史、芸北町史、大朝町史、雄鹿原村史、そして大朝町歴史民族研究会編の「あぜみち放談」などの記述をひも解き、広島県史を参考に町村史を合併?して、一揆を要約してみました。
 地方自治の見地で分析すると、興味深いものがあります。
 そして、現代に通じるものを感じます。
                                                   (22.6.9)

 江戸時代も中頃になると、幕府も藩も財政が苦しくなってきました。幕府は、吉宗で知られるように享保の改革を打ち出し財政再建を図りますが、それよりも数年前から広島藩も、農民に対して倹約令を出し、貢租の増徴を検討していました。そして、五代藩主浅野吉長は正徳2年(1712年)に地方支配を強化するため「正徳新格」を発布して郡政改革に着手しました。
 それは、従来の「郡奉行ー郡廻りー代官ー大割庄屋ー庄屋ー組頭」の組織を「郡奉行ー郡支配ー所務役人ー頭庄屋ー庄屋ー組頭」に改編するものです。従来の組織では庄屋や農民の抵抗があって改革が進まないので、有力な庄屋の中から所務役人を抜擢して苗字帯刀や乗馬を許し俸給も与え、さらにその配下に二名の頭庄屋を置いてこれにも俸給を与え、彼等を推進役に改革を推し進めようというものでした。
 この改革によって貢租が強化され、藩全体に農民の不満が溜まりました。その頃、隣藩の福山藩や三次藩において農民の不満から一揆が起り、広島藩も誘発され、享保3年(1718年)3月に今の甲奴、世羅あたりに始まり、豊田、安芸、佐伯と県下に波及しました。一揆の矛先は、年貢取立ての先鋒にたった所務役人や頭庄屋に向けられ、次々と居宅が打壊しに遭いました。
 山県郡への波及を恐れた藩は、先手を打って自重を呼びかけ、所務役人と頭庄屋を罷免し、歎願があれば本地村へ派遣した高槻孫兵衛に差し出すよう触れました。このことからも、この時点で既に一揆は県下に波及して、農民側の勝利が大勢を占めていたことが窺えます。

 そうした藩の対応の甲斐もなく、山県郡では3月26日午前8時、有田村の吉左衛門、小右衛門、長九郎、万五、庄右衛門、平右衛門等11人が荷俵を背負って壬生村に向かいました。近村からも農民が押し寄せ、阿戸の橋詰に集結しました。本地村から高槻孫兵衛の配下が駆けつけて説得しましたが治まらず、夕刻になって一揆勢は頭庄屋の助右衛門(壬生、本地、今田、寺原、蔵迫の村々を管轄)宅を襲いました。さらに翌朝、川戸村から大朝村へ、さらに大塚村の所務役人勝浦小兵衛(頭庄屋の宮地村四郎兵衛と志路原村七右衛門を配下に34村を所轄)宅を襲いました。宅内の道具を砕き、衣類を田に踏み込み、酒桶を壊し、刀脇差を石に打ちつけました。


 この鳥居は、枝の宮八幡神社のもの。勝浦省兵衛が繁栄した頃に寄贈した。

 翌28日に、一揆勢は二手に分かれ、一手は宮地村(雄鹿原)から加計方面へ、他の一手は田原村から庄原村(都志見)へ波及しました。
 宮地村では、頭庄屋の四郎兵衛(今の芸北一帯の村と新庄、宮迫、岩戸の村々を管轄)が襲われ、その先頭に立ったのが安左衛門でした。
 そして、本地村に集り、25ケ条からなる願書を高槻孫兵衛に差し出し、さらに一部の者は、頭庄屋の南方村の利左衛門(南方、有田、春木の村々を管轄)宅を打ち壊しました。
 この一揆によって、山県郡では3人の所務役人と6人の頭庄屋や藩任命の他の役人のうち、8軒が打壊しにあったと言われます。

 農民の要求のうちほとんどが認められ、藩主吉長の「正徳新格」は失敗に終わりました。
 「正徳新格」の内容、一揆の経過や農民の要求など詳しくは、上記の町史などに載っています。
 惨めなのは、その後の藩の厳しい追及と処罰です。
 一揆が沈静化して一月以上たってから、首謀者が次々と逮捕され、処刑されました。藩全体で、斬首・獄門となどの極刑に処せられた者49名、入牢、手錠など129名、その外逮捕を逃れて逐電したもの多数に及んだと言われます。
 山県郡の場合、他地域の呼びかけに誘発されたものと見なされ比較的刑を受けた者は少なかったが、有田村の吉左衛門と中祖村の安左衛門の2名が一揆の先頭に立ったとして、斬首獄門の刑を受けました。そのほかにも、永牢、追放、禁足などの刑を受けた者や逃走した者がいました。
 一方の打壊しに所務役人や頭庄屋などに対しては、弁償金が郡内に割り当てられ、損害に応じて支払われました。

 この一揆に中で地方自治の見地から注目すべき点は、
@ 藩は財政再建するため、支出の削減策を講じる一方で、農民に倹約令を出すとともに貢租の増徴策を図った。
A 従来の庄屋は年貢を取りまとめる役目があった。庄屋は農民の側に立つため、藩の思い通りに年貢を強化できなかった。そこで藩は、改革の名のもとに農民の中から有力な者を所務役人や頭庄屋に引き立て、年貢の強化を実行させた。
B 所務役人や頭庄屋は、藩に任命されて厳しく臨んだ。そのため農民の反感を買った。
C 直訴(越訴)は御法度で禁じられていた。要望があれば、庄屋が代官に取り次いだ。ところが所務役人が取り次がないため、やむなく直訴や騒動に至った。
D この時代は、政策は藩から一方的に出され、村に命じられた。村が藩の命に我慢できない場合、代官へ願い出る。それが聞き入れない場合、直訴や一揆に訴えるほかなかった。しかし、直訴や一揆となると、吉左衛門や安左衛門のような犠牲を覚悟しなければならなかった。

 地方行政のあり方は、時代でさまざまです。地方に生きる者をいかに治めるか、時代を超えた課題です。今日と比較してさらに分析を進めたいと思います。
                                                  (22.6.15)

 藩主吉長は、江戸生まれで、名を将軍綱吉から賜ったと言われます。学問を好み、理想を追い求め、次々に改革の手を打ちました。しかし、急な余りに必ずしも家中一統の支持を得ることができなかったとあります。(広島県史近世T)この「正徳新格」の失敗も、その一つの例ということです。
 この時代、慣行はいわば法律です。それによって、人々の生活は成り立っていました。それを変えるとなると、関係する人たちの理解が必要です。
 今日なら、民主政治のルールにより、法律を改正して改革に取り組むことになります。しかし、税を強化するとなると国民・住民の抵抗は大きく、消費税などに見られるように容易なものではありません。
 江戸時代は、藩主の決断で実行できました。しかしそれでも、命に代えがたい事態になると一揆に発展しました。
 この時代、通常は住民が集って会議をするということはありません。集会所とか広場はないのです。決め事は組頭など村の主だった者が相談しました。幕府や藩は、住民が集って「徒党を組む」ことを禁じていたからです。有田村の吉左衛門等11人も、恐らく秘かに集って相談したに違いありません。
 今日に言う議会や住民の集会がない・・・自治が成り立つ条件の「住民参加」が許されなかったのです。
 藩に要望がある場合、庄屋がまとめて代官にお願いに上がる・・・いわゆる陳情です。それをどう扱うかは、藩の判断次第です。当然のことながら村には、藩と交渉する権限・・・自治が成り立つ条件の「権限」がなかったのです。

 この正徳新格で藩は、農民の中から有力な者を所務役人や頭庄屋に取立て、上意下達の組織を徹底して農民を抑えようとしました。所務役人や頭庄屋にしてみれば藩の命に従うほかなかったでしょうが、農民を苦しめる矢面に立ち、農民の憎しみを買いました。農民のはずの彼等が藩の側に立ち、農民の苦しい立場を理解してくれなかった・・・農民の憤りが爆発して一揆となったのでした。
 山県郡に一揆が及んだときには既に藩は折れて所務役人や頭庄屋は罷免し、農民に要望書を提出するように指示していたにもかかわらず行動に走りました。壬生村では、藩の役人が制止したにもかかわらず打ち壊しを始めました。そして大塚村では、砂鉄産業で急速に財を成し、所務役人に抜擢されて「芥川屋代官」とまで称された勝浦小兵衛に対して、一揆勢は許された刀脇差を藤のかずらのようになるまで執拗に砕き、恐らく武士風のものを身に付けていたと思われる着物を田の中に踏み込みました。しかし、扇動され、興奮状態にあったとはいえ、死傷者や焼打ちの記録は見られません。日常の生活の中で積もり積もって抑えることができない怒りが爆発した・・・・なんとも悲しい結幕の一揆でした。

 有田の方のお話によると、昭和60年に石碑を建てたことが新聞に載ったとき、吉左衛門に蜂起を誘った世羅方面から、お寺の住職が吉左衛門のお地蔵さんへお参りになりました。世羅では6人が斬首され、今もその墓があるそうです。
                                                  (22.6.19)





有田の義民吉左衛門を祀ったお地蔵さん



 中祖の義農安左衛門の碑


この鳥居は、枝の宮八幡神社のもの。勝浦省兵衛が繁栄した頃に寄贈した

         ご参考=「自治のすゝめ」第十二章の節「享保の百姓一揆」

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