抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信

 
 
シリーズ 37  
 

   
清流の里 大暮     ・
  


 こんなことだったのかなと思って作った話です。

 ・・・・源氏が東国から押し寄せてくる。平家の武将はもとより、平家から拝命を受けた西国の守護・地頭も戦いに駆り出された。しかし、平家一門は都を追われ、壇ノ浦、一ノ谷、屋島の戦いに敗れ、行き場を失った。
 戦に行った夫は帰らない。悲壮な知らせばかりだ。早々に厳しい追及があるに違いない。子どもを連れた者はなおさらだ。昔、頼朝や義経を連れた静御前に情けをかけて助けたために、源氏再興の因となったことが思い出される。女御衆は、京を目指す訳にも行かず、幼い子を連れてあてどもなく野山をさまよった。
 そのような女御と子どもの一行が、太田川をさかのぼった。
 太田庄には、厳島の社領があって、平家に恩を感じるものは多いはすだ。しかし、所の主だった者は、すでに天下の情勢を知っていた。落人を受け入れてくれる者はなかった。
 追手が迫っているかもしれない。彼らはやむなく険しい滝山川に分け入り、大暮川をさかのぼった。
 まともな道は危険だ。峡谷の道なき道を進む。山を越え、川を渡る。
 この川の水量は多い。奥は深く、きっと上流に人が住んでいるに違いない。
    ・・・・・・・・・・
 やっとの思いで、集落が見えてきた。
 彼らは。辛い長旅で疲れ切っていた。しかし、やつれたとはいえ、雅やかな衣装で色白な女御の上品な身のこなしや都言葉に、里人は見とれた。そして、都の高貴な方に違いないとうわさした。
 彼らは、一夜の宿を頼んだ。そして、農家の薄明りのもとで、都のことを話して聞かせた。宮中や公達のこと、平家一門のことを・・・まるで当人かのように語った。里人は、聞いたこともない都の話に目を輝かせた。そしていつしか、彼らが御子と御前の一行かと思うようになった。
 翌日、彼らはさらに上流に向かった。そして里人も、途中まで彼らにつき従い、隣の村の境の橋まで見送った。
 ・・・・・このことから、この里を「王泊」というようになり、見送った橋を「王渡橋」と言うようになった。今は、この里にダムができて「王泊ダム」と言い、「王渡橋」があったところもダムに埋まり、高い位置に広域農道の赤い橋が架かっている。

  


 王泊ダム

 ダムの堰堤から上流へ向かって、
 右の方が大暮川

 夏に家族で遊びに行きました。
 昔は、鯉を釣りに来ました。










   


 赤い大きな橋は、広域農道の「王渡橋」
 昔は、この下の大暮川に「王渡橋」があった。
 左の白いつり橋は、ダムができてから、












 一行は、さらに上流へ向かった。
 里が見えてきた。山間だがかなりの人が住んでいる。珍しそうに見る里人の中を、一行は奥へと進んだ。
 やがて日が暮れた。東西に高い山に囲まれた村は、日暮れとなると早い。里を過ぎて再び山に入ったが、この先には、人は住んでいないらしい(その時代は、まだ、深山に人が住んでいなかった。)。どうしたものか途方に暮れて、谷水を飲み一休みしていると、里人がやってきて食事を差し出した。親切な里人に囲まれて、都の話などしているうちに里人と親しくなり、この地にしばらく留まることになった。里人は、茅や木々を集めて小屋を建ててくれた。
 一行の中でも姥御前という方は、いろいろなことを教えてくれた。生活や生産の新しい知恵を授けて村人を助けた。村人は感謝して後々に伝え、そこに「姥御前神社」を建てた。

    



 毛無山の山裾にある
    「姥御前神社
 木立に囲まれ、
 そばを、谷水が流れる。


 今も、村の有志が、
 毎年、お祀りをされる。

 このお祀りには、
 広島方面から、
 このあたりの山が好きな
 登山家が参拝されるそうです。




 その場所に、今も「姥御前神社」が静かにたたずむ。
 そのようなことから、この地を「王暮」と言ったが、いつしか「王」と語るのを憚って「大暮」と言うようになった。
     ・・・・・・
 しばらく年を経て、王とされた者が死に、大朝の「大塚」に埋葬された。
 大塚は、その昔は「王塚」と言ったのだそうだ。





 大暮川
 ・・・正面に見えるのが毛無山。
 その山中へ分け入ると
 姥御前神社がある。




















 秋深まる養魚場あたり
 …手前は製鉄所の煙突


















    

     
大暮の山県製鉄所大暮工場跡の煙突
 説明板によると、明治34年に設立し、大正14年まで操業したとあります。
 この工場では、廃棄物の鍛冶屋とくそと言われるものをさらに製錬して二次的に鉄を取り出した。
 鍛冶屋とくそとは、鍛冶屋で鉄製品を加工するに先立って、たたら製鉄で生産された鉄の側にある質の悪い部分を崩して取り去る際の廃棄物のこと。従来は捨てたものを再利用した。
 工場跡に残る煙突は、子ども(孫で1年生)と比べて解るように相当大きいものです。
 工場も、石垣の上に階段状にあったようです。

 この地が選ばれたのは、私の想像ですが、特にこの一帯がたたら製鉄が盛んで、周辺に鍛冶屋も多かった。。
 ここから奥に向かって山が深い(ざっと20ku)ので炭がたくさん生産された。
 また水域が広いので大暮川の水量が多く、段差があるので 工場の送風のため水車を廻すのに便利だったと考えられます。

      

 大暮養魚場の釣堀

 真夏のお昼ごろ  娘婿と孫と釣を楽しむ
 コース1  釣っただけを、kgで買う 
           ・・・・親子向き
 コース2  定額を払い、1時間以内で釣り放題 
           ・・・・釣り自慢向き

 場内で焼いて食べることも
            
 養魚場については 
     大暮養魚場

    平成19年9月議会





    
                                        平成19年12月
    何でしょう?  オークガーデンの水槽の 山女 大暮養魚場で育った山女です

          
         統合のため廃校となった美和西小学校清流の家として活用

     
                             みやま
 大規模林道細見大塚線が、大暮川の最上流の深山の谷を、天狗石山側から、阿佐山側へ渡る。
                                       (左)        (右)

                 みうらのすけ   かずさのすけ
        勅命を受けた三浦の介上総の介が那須野が原へ出向き、悪狐を退治する。
           狐は正体を現せた・・・白い狐だ。
         
狐なので、弓矢で成敗します。
   
         大暮神楽団   「 三浦 」   平成18年 宮瀬神社 秋の大祭

         
                                   平成19年10月
    懐かしい農作業
    その昔は、高はで(たかはで)  6〜8段  
                高はでは、家の前に結い、稲束を運びました。
                高いところは、稲束を棒にはせて、わたしました。
    昭和50年頃から、2〜3段はで
            写真手前のバインダーで刈って、田ごとにはでを結いました。
            そして、田ごとにハーベスターで脱穀
    それもいつの間にか見なくなりました。
    それが、ありました・・・・・懐かしくて、写真を撮らせていただきました。

 
 阿佐山・・・ああ、阿佐山

 50年前のことです。
 私が新庄中学校へ入学した年の5月4日に、先生と阿佐山に登りました。
 筏津から近いから、阿佐山を知っているだろうと先生から言われました。それまで何度か、阿佐山の向かいにある畳山に登ったことがありました。小学校の遠足といえば、畳山でした。ああ、あの向かいの山か、と簡単に考えました。先輩に大谷の方がおられたこともあり、大谷から登ることになりました。
 新庄学園は、その前の年に創立50周年を迎えていました。はるか遠く阿佐山から新庄学園を見守っていてくださる。50周年を記念に、阿佐山の頂上に記念の木柱を立てよう。そしてこれからも、見守っていただこう・・・という趣旨の登山でした。だから先生方3人が交互に記念の木柱を担いでの登山でした。
 ところが、道なき道でした。そして急斜面です。藪の中、木柱を担いで登るのは無理なので、先生3人が交互に先に登って手渡しするようなことでした。
 やっとの思いで頂上に達し、木柱を立て、それを囲んで創立記念日の唄を歌って踊ったのを記憶しています。
 登る途中で、木の葉の下に雪がありました。5月4日というのに。


  左の高い山が、阿佐山
  右の逆V型のゲレンデが丸瀬山
  阿佐山は頂上が県境
  丸瀬山は山全体が島根県

  新庄の方から撮影
   
 (平成18年12月4日)






 あれから数十年たち、芸北の友人から、大暮から登れば道があり、そんなに険しくはないと教えていただきました。
 そこで小中学生4人家族で大暮に行き、養魚場でヤマメを買って、阿佐山に登りました。そして山頂でヤマメを焼いて食べました。その時は、既に木柱の字は消えていましたが、あの時の記念の木柱らしきものが残っていました。 
 尾根を伝って瑞穂ハイランドがある丸瀬山へ行くとレストランがあったので、そこで食事をしました。
 大朝が一望でき、しばらく家族で見とれていました…・・その時は夏でしたが、温度が全く違うのです。寒いと気が付いたときは遅く、長女は風邪をひきました。
     ・・・・・・・
 新庄学園は、一昨年に100周年を迎えました。
 阿佐山は、標高1218メートル。北広島町では臥竜山に次いで高い山です。麓から言えば、高さが際立っています。そして大朝盆地をじっと見守っていただいています。
     ・・・・・・                                                      みやま
 阿佐山は、大暮側が緩やかなので、山は広い。反対側の天狗石山の山麓も広い。この谷一帯は、「深山」と呼ばれ、その昔は炭焼き、砂鉄、そして地産交流の里・才乙でお話ししましたように、平安の昔から蓑やハバキの材料になるコーラが採れる大切な山でした。そして戦後は、この広い山の斜面一帯が見事に植林され、緑一面の森になっています。山が広いから、川の水量も多い。養魚場を支える水源です。
 
 阿佐山は、私たち人間のいろいろな活動を静かに見守っていただいています。
 ・・・・永劫の阿佐山から見れば、つかの間の人間の営みに過ぎないのでしょうが。


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