「自治のすゝめ」(要約版)

      第4編

第十六章  窪田次郎らの苦悩

  窪田次郎の民選議院設立尚早論
 
明治七年の一月に、板垣退助らにより、民選議院設立の建白書が政府に提出され、賛否両論で沸きます。
 明治五年には、自分の住む粟根村で、村の代議人の選挙を実施した窪田次郎ですが、国会議院の設立には時期尚早と考えます。まだまだ『人民ノ智識未ダ開ケズ』なので、その費用の半分を教育に廻し、残りの半分で模範となる人物を表彰することを提案します。

  区内惣集会討論ノ上
 
国会議院の設立には時期尚早を唱えた窪田次郎ですが、小田県には『民選議院ノ儀ニ付願書』を提出して、『下議員結構ノ議案』の方式で県民の意見を聞いて欲しいと願い出ます。
 まずは『区内惣集会討論ノ上』、区内の意見をまとめて決議し、大区、県会と積み上げ、政府が召集する地方官会議に持ち上げる。彼らの努力の結果、小区、大区の会議は県内全域とは行かなかったが、臨時県会で意見をまとめることができました。


  少々疑フ所アリ 

 『広く会議ヲ興シ 万機公論ニ決スヘシ』は、『三歳ノ小児』も暗唱するようになっているのに、政治の実態は『上下隔絶』となっている。そのため『少々疑ウ所アリ』と、事例をなんと二十六も挙げています。内容は解かりかねますが、参考までに列記しましょう。
   『 律例監獄則等ニ考ヘテ少々疑ウ所アリ
     御布告中少々疑ウ所アリ
     御説諭中少々疑ウ所アリ
     入籍送籍ノ件少々疑ウ所アリ
     租税少々疑ウ所アリ
     上地ノ入札少々疑ウ所アリ
     道路修繕少々疑ウ所アリ
     勧業少々疑ウ所アリ
     御官員ヲ初メ戸長ノ行状少々疑ウ所アリ
     芸妓横行少々疑ウ所アリ
     角力芝居鶏市賭博等少々疑ウ所アリ
     官立学校私立学校ノ分界応否少々疑ウ所アリ
     小学教員ノ定価少々疑ウ所アリ
     学制学則少々疑ウ所アリ
     小児ト童子トノ教育法少々疑ウ所アリ
     聴訟少々疑ウ所アリ
     裁判賞罰少々疑ウ所アリ
     民時ヲ弁ゼズ延引ノ件少々疑ウ所アリ
     代書人ノ名実義務少々疑ウ所アリ
     結社ノ御世話少々疑ウ所アリ
     殖産会社取立金少々疑ウ所アリ
     島田製糸場上棟ノ儀式少々疑ウ所アリ
     諸省ヘ御取次ノ件少々疑ウ所アリ
     造酒家ノ御検査少々疑ウ所アリ
     御官員ニテ営利ニ関係少々疑ウ所アリ
     無給ノ職ヲ命ジ舌頭ヲ以テ下ヲ愚役少々疑ウ所アリ   』
 これらの疑問を解くために、小田県に臨時議院を開く必要があると県令に迫ります。


  官費民費ノ事
 
たくさんの『少々疑ウ所アリ』がある中で、第六大区の会議で取り上げられた議題には、次のようなものがありました。
 『第二条 官費民費ノ事』・・・その要旨は、「これまで村の総代の給料は、村民が分担、つまり民費で払った。ところが新政府ができて、戸籍事務や警察、道路や堤防の改修など多くが戸長の仕事になった。租税制度ができで税は全て政府が徴収するのだから、戸長の給料や、政府が命じる仕事については政府、つまり官費で払って欲しい。」・・・今日に通じる問題です。この時代は、官費と民費に分けますが、今日では国税と地方税の関係です。市町には、独自の仕事のほか、国や県から委任や委託された仕事があります。いろいろな種類の補助金や負担金がもあります。非常に複雑になって、国や県の仕事か、市町の仕事か・・・・法的・形式的には区別されますが、一般の住民には区別できません。役人に「何とかならないか」と要望すれば、「国や県の補助事業ですから難しいです」と答えられ、市町の仕事のはずが、国や県の仕事になってしまいます。それ以上議論にならず、「よろしくお願いします」と言うほかない。発想や工夫を阻害しています。補助金があるから飛びつく・・・国・地方双方の財政悪化の要因になっています。国や県の仕事か、市町の仕事かを明確にして、その経費負担を明らかにする必要があります。


  万民一族ノ事
 『第三条 万民一族ノ』・・・その要旨は、「五箇条の御誓文の『旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ』の理念に基づき、明治四年に解放令が出て穢多非人の名称が廃止になったのだから、華族や士族の名称も廃止すべきだ。そして、華族士族には特別に寛大な刑が科せられるが、それも止めるべきだ」・・・庶民の良識を持って話し合えば、お互いに分かり合える当然な帰結です。話し合えば「悪貨」を駆逐する、話し合わなければ「悪貨」がはびこる、と言えるのではないか・・・人権尊重は
民主主義から生れます。

  国債ノ事
 『第五条 国債ノ事』・・・その要旨は、「国民に布告や下問もなく借りた国債は、国民が払った租税で償うことはできない。担当した官員の責任で払うように」・・・窪田次郎は、武士ではないが特に福山藩の藩庁顧問に任じられ、藩債の整理に苦労した経験がありました。急場しのぎで借金を重ねるうちに、年貢による支払い能力を超え、もはや貸してくれる商人もなく、藩札の増刷に頼ってしまい、さらには豪農や豪商へ冥加金を強制的に割り振り、藩の信用を落とし、経済を混乱させて幕藩体制崩壊の原因となりました。このようなことを二度と繰り返してはならない・・・これも今日に通じる問題です。国民・住民が知らないうちに膨れ上がり、年間の税収の十倍以上も溜まってしまった国債をどうするのか。税収による支払い能力を超えても借り続ける財政は幕末の藩以上に厳しく、大変な問題です。「お願いします」と言って役人や政治家に任せ、庶民の常識が通じる政治の仕組みがなかったためと言うほかありません。
                                                    公債残高の推移
  台湾征討ノ事    (台湾出兵)
 『第八条 台湾征討ノ事』・・・その要旨は、「この問題は、日本国と国民にとって最大の事件だ。しかるに国民に何ら布告や下問がないのは、五箇条のご誓文の『広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ』に背いている。従ってこの戦闘は日本国に関係ない、それに参与した官員のみの私闘に過ぎない。従ってその費用は、大蔵省から払わず、その官員の資財で払うべきだ」・・・このような考え方に立つならば、日本が戦争への道を歩むことはなかったでしょう。

  その他の議題とその後
 租税、教育、福祉、風紀、殖産などについても取り上げられていますが、最後にもう一つ。
 『第十七条 米輸出入ノ事』・・・その要旨は、「米の輸出入については、米の価格が一石当り四円以下になれば輸入し、六円以上になれば輸出する。そうすれば、情報がない僻地の農民が、安くなったといって商人に買いたたかれる事もなくなる」・・・その後、米騒動などが起きました。今日では、年々、米の価格が下落して将来が不安な農民には身につまされる話です。


 
この活動は窪田次郎がリードし、地主や医師、僧侶、教師など一部の知識層が参加したものです。しかし、多くの人がこの活動に関心を持ち、共にこれらの議題を考え、傍聴人を前に討議して決議したことは、当時としては斬新で、今日においても光輝くものがあります。
 小区の議会では、希望すれば誰でも参加できました。村人がどの程度参加したか定かでありませんが、明治の初めに、このような新しい方法を採用し、住民が考える機会が与えられたことは興味深いものがあります。そして、小区で選出されたものが大区の議員になります。同様に大区で選出された者が、臨時県会の議員になります。いずれも傍聴することができました。小田県内のたくさんの小区や大区の中でどの範囲まで会議が開かれたか不明ですが、臨時県会や二つの大区と窪田次郎が住む第十五小区の決議は残っています。

 せっかく大区で決議した議案も、『万民一族ノ事』、『国債ノ事』、『台湾征討ノ事』などは、県会で切り捨てられました。
 県官のほとんどは士族です。そして、台湾征討の問題は、当時、大きな政治問題になっていました。県は政府の出先機関に過ぎず、政府任命の県令のもとで、これらの議題を取り上げる訳には行かなかったのでしょう。
 肝心の地方官会議は、差し迫った台湾問題のため延期となり、窪田次郎らの活動は頓挫してしまいました。


  誹訪暴言ノ議論

 
議論を進める過程で、抵抗がありました。この臨時議会は不正規なもので、既存の議員や区長・戸長を除いて組織されました。そのため、既存の勢力から誹謗や暴言があったようです。議員を選び直して再会したいと県に伺いを立てましたが、それには及ばないと県は回答しました。
 また、会議を見学した他県の者により、新聞紙上に投稿がありました。これらの議案は、政府から決議を求められたものではない、私説を述べ合っているが庶民の実情とかけ離れているという主旨のものでした。そこで窪田次郎らは、何をどのように議論したか広く知ってもらおうと、決議を郵便報知新聞に投稿します。二十一条からなる長文の決議が、明治七年十月十四日から十八日にかけて五日間に亘って新聞に掲載されました。いわば当時の全国紙です。大きな反響を呼びました。中には賛意を表する意見がありましたが、議決の各条について反論もありました。
 これを機会に、窪田次郎らは仲間を募って蛙鳴群という活動団体を組織し、新聞紙上に投稿することで活路を求めます。


  秋陽ノ清朗ヲ待ニ如カズ

 翌明治八年になって、再び地方官会議の開催が宣せら、議題として(一)道路・橋・堤防、(二)地方警察、(三)地方民会、(四)貧民救助、そして追加で(五)小学校の設立が取り上げられます。しかし、それらは新聞紙上で知らされるのみで、県からは何も言って来ない。前年のように臨時議会を開いて県令が議会の意見を聞くこともなく、傍聴人の選任についても相談がないいまま、地方官会議は開催されます。このような県の扱いに、蛙鳴群の仲間は不満を持ちます。その上、地方官会議では議題の(三)地方民会、つまり県や区で議会を開く案が、地方官(府知事や県令)の賛成二十一、反対三十九で否決されます。窪田次郎らはこのような事態を悲観して新聞紙上に投稿しますが、地方官会議の最中の明治八年六月二十八日に、政府は新聞紙条例讒謗律を布告して言論の取締りを始め、現実に投稿者や新聞の編集者が摘発され処罰される事件が起きました。彼らは、新聞紙上での活動の道も断たれ、やむなく隠忍自重することにしました。


第十七章  学問のすゝめ

  福沢諭吉 
 福沢諭吉は一万円札でおなじみ、よく知られています。ところが、何の功績を持って讃えられるのか、あまり知られていません。明治維新の頃に活躍した福沢諭吉の今日的意義は何か、私なりに検証してみたいと思います。

  「封建は親の敵(かたき)」
 
福沢諭吉は、一八三五年(天保六年)の生まれです。ですから、明治元年(一八六八年)には既に三十三歳。人となりの成長過程は、ほとんど江戸時代にありました。
 諭吉の父は、豊前(大分県)中津の奥平藩に仕える下級武士でした。諭吉は父のことを口述による自書「福翁自伝」の中で、『・・・父の生涯、四十五年の其間、封建制度に束縛されて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ・・・私の為に門閥制度は親の敵で御座る・・・』と述べています。諭吉の父は学問に熱心な人でしたが、いくら頑張っても、下級武士はいつまでたっても下級武士です。父の無念を思い、「封建は親の敵」と言ったのでした。
 福沢諭吉は他の子どもと同じように漢学の塾に通い、論語などを学びました。しかし、封建制度を支える学問に矛盾を感じ、長崎に遊学して蘭語を学びます。そして大阪に出て、緒方洪庵の滴々斎塾で学びます。
 この辺りの経緯は、窪田次郎とよく似ています。次郎も、初めは漢学の塾で学びましたが、医師になるため緒方洪庵の門下の師につきました。次郎の場合、父が長崎に行き、医学を学んでいます。次郎は明治四年から五年にかけて東京に滞在しました。その時、諭吉に会ったかどうか不明ですが、明治五年二月発行の「学問のすゝめ」を啓蒙所の教科書に使い、新聞や雑誌に載る諭吉の論文に関心を寄せていました。

  「隔靴の嘆」
 
諭吉は、維新より八年前の一八六〇年に、アメリカへ渡りました。その時の体験を「福翁自伝」の中で・・・アメリカの家庭に行くと、驚いたことに、奥さんが椅子に座って客の応対をして、主人はその世話で走り回っている。日本とはアベコベな事をしている。洋書をたくさん読んで、欧米のことは知っているつもりだったが、このような『社会上の事』は本に書いてない。靴の外からは、かゆいところに手が届かないように、実際に見聞しなければ解からない・・・と述懐しています。
 書物に取り上げられるのは、新しいことや科学的なことでした。欧米人にしてみれば当然のことは、わざわざ本に書きません。この点は、第十章「自治の実験室 アメリカ」でもお話しました。町のホームページで、タウンミーティングの議題は見れますが、タウンミーティングの様子は載りません。自治のこともそうで、「自治とは、自ら治めること」と解かったつもりになりますが、実際にその町に住んで、住民と生活を共にして自治の必要性を感じなければ、その精神が解からないでしょう。このことは第二次大戦後もそうです。せっかく新憲法に「地方自治の本旨」が謳われましたが、自治の実際を見聞できないため、今に至って地方自治が実現できない原因となっています。


  青雲の志 
 
福沢諭吉は、再三にわたって政府の役人になるよう、誘いを受けますが、その都度、辞退しました。今日でも、公務員は安定した職として希望者は多いが、とりわけ当時は廃藩置県によって行き場を失った元藩士が多く、競って官職に就こうとしました。諭吉も藩士の跡継ぎです。しかし諭吉には、考えがありました。
 諭吉は「福翁自伝」の中で、『全国の人が唯政府の一方を目的にして外に立身の道なしと思込んで居るのは、畢竟(ひっきょう=いわゆる)漢学教育の余弊で、所謂(いわゆる)宿昔「青雲の志」といふことが先祖以来の遺伝に存して居る一種の迷である。今この迷を醒まして文明独立の本義を知らせやうとするには、天下一人でも(自分が)其真実の手本を見せたい・・・』と述べています。
 文中の「青雲の志」とは、立身出世の志のことです。官に就き、徳を積み、徳政を敷いて出世する・・・孔子に始る儒教の教えであり、藩士が学んだ漢学の教えです。誰も彼れもが官職へ、政府へと依りすがって、自主独立の精神を失っては、文明国になれない・・・自分が民間にあって範を示そうというのが、諭吉の考えでした。
 窪田次郎にも、官職に就く機会がありましたが、辞退しました。最初は二十五歳の時、藩主阿部正弘公が病気になられ、藩医の一員に推挙されました。二度目は、三十五歳の時、藩の医院兼医学校の教授の命を受けました。しかし、いずれも断わりました。次郎は、父が村人の世話になって始めた粟根村の医業を受け継がなければならない事情がありました。しかし、それだけが理由ではなかったようです。次郎は後に、我が子たちへ、役人にはなるなと戒めています。それはなぜか、私の想像ですが・・・次郎は民意が反映する政治を目指しましたが、役人は民衆の方を向かず、政府や上司の方ばかりを向く・・・命ぜられるままにしか動けない、そんな束縛された立場の役人になどなるな、というのが次郎の思いだったのではないでしょうか。

  学問のすゝめ 

 福沢諭吉と言えば、「学問のすゝめ」・・・ところが、この本で諭吉の言わんとするところが伝わっていないようです。同じように、冒頭の有名な一節『人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』も、諭吉の意図したように伝わっていないようです。諭吉は何を言おうとしたのか、これまでお話したことを踏まえて説明します。
 
それまで学問と言えば、漢学つまり儒教でした。論語や四書五経などを暗記し、解釈する。そして、礼節を守り、徳を身に着け、良き指導者として世を治める・・・その学問ために、多大な時間と労力を費やしました。しかしこれからの新しい時代は、そうした学問では生きて行けない。自ら考え、探求し、判断し、自らを治める「実学」が大切だ。そのためには、何も遠慮しなくてよい。誰もが自由に学ぶことができる。封建時代のように、武士だけが学ぶ、そして主に尽くすために学ぶのではない・・・人の上に人はいない・・・自ら人生を切り開くための「学問」を奨めたのでした。
 明治五年二月に「学問のすゝめ」初編が発行され、八月に「学制」が発布されました。その学制も、第十四章で紹介したように自主・自立の精神を尊び、実学を奨励しています。そして・・・「学問は武士がやるものと思い、農工商婦女子に至っては学問を度外視して、学問について話題にもしない。武士の中に学問をする者がいるが、学問は国家の為にするのだと言い、自分が生きて行くための基礎になると思っていない。いかに暗唱出来るかを競い、空論を述べ合い、内容は高尚のようでも、実践して事態に対処することが出来ない。これは旧態依然の悪習である」・・・と述べて、武士だけでなく、国民全てに学問が必要なことを説いています。
 この学制の考えは、諭吉と同じです。諭吉の「学問のすゝめ」が爆発的に売れ、小学の教科書にもなりました。窪田次郎も、早速、「学問のすゝめ」を教科書に使っています。このような当時の状況から見て、「学制」は、多分に福沢諭吉の影響を受けたのではないかと推測されます。
 ところが残念なことに、福沢諭吉の真意は正しく理解されていません。
 「人の上に人をつくらず・・・」、そうだ、人間は平等だ、と思うのは当然ですが、ただ単に平等を言っているのではありません。人の上に人はいないのだから、上から命じられるままでなく、自主・自立の精神をもって自ら考え、実践して前進するように諭吉は呼びかけています。
 「学問のすゝめ」は、その題名にとらわれて、教育の重要性を強調し、日本の教育水準の向上に貢献したと思いがちです。そして日本の教育は戦後も、知識偏重で考える力よりも記憶力が必要な教育に傾斜して、子どもたちを受験競争に駆り立てています。しかしそれは、諭吉の期待したものではありません。このような受験競争や学歴重視は、世界的にも儒教の歴史を持つ国に特有な現象です。福沢諭吉は、早くも明治の初めにこの問題に気付き、儒教的教育を脱して考える力を養う教育を推奨しました。しかしその後は、第十四章でお話しましたように、儒教一色の「教育勅語」のもとで教育が進められました。戦後は、そうした教育を反省し、新たに出発したはずですが、簡単に『先祖伝来の遺伝』を脱し得ず、詰込み教育などが反省され、生きる力を学ぶ教育などいろいろ模索されているところです。とりわけ近年は、経済の壁にぶちあたり、実力が問われる時代となり、正に考える力、生きる力が教育の重要な課題となっています。

  小児の手に利刀を渡す 
 
諭吉は、「学問のすゝめ」の中で、「徳のある者が治める」政治の弊害を具体的に批判しています。
 「・・・一国の中で、徳を持って人民を治める者が数人、他の国民はこれに従う・・・そうなれば、国は平安に治まるかもしれないが、誰も彼もが徳のある人に頼り、国を心配することもない。そうなると、いざという時に民は国に頼り、国を守れない・・・」。人の上に立つ一部の智者による政治では国を守れない。一人ひとりが我が身を治め、国に頼らず、一身独立してこそ、国を守れる・・・『一身独立して一国独立す』・・・これが、諭吉の主張であり、官に就かず、民に在って自ら実践する諭吉の信念でした。

 
そして諭吉は、明治十年に著した「分権論」の中で、国に頼る中央集権と人民に参政の機会を与える分権自治を比較して、次のように述べています。
 「・・・人民に自治権を与えることは心配なことかもしれない。しかし、『人民に権力を授るは小児の手に利刀を渡すが如し』で、誤って怪我するかもしれないが、怪我をすればそれに懲りて反省するだろう・・・人の自由はこのようにして育つ。今はまさに、そのための分権の時だ。」
 自由や民主主義は、体験しながら学ぶもの。自治は民主主義の学校・・・この考え方は、自治の進んだ国々の常識であり、窪田次郎も広く住民に『実地験習ノ効ヲ積ミ』、『人民自治ノ端緒ヲ開ク』ことを呼びかけました。しかし、この「自治は民主主義の学校」という考え方は、今もって日本では認識が浅いようです。 
 『小児の手に利刀を渡す』・・・明治の初めに、諭吉はこの大切さを叫んだのですが・・・絶えず政府や県から借金の是非など指導を受けたはずなのに、夕張市のような市町が出てしまいました。依然として住民によるチェック機能が育っていません。財政の仕組を解かり易くして、住民の常識が通じる自治機能を備える必要があります。


  諭吉の分権論 
 
地方分権の必要性が叫ばれ、長年に亘って論議されましたが、福沢諭吉の著書「分権論」が取り上げられないのは不思議です。諭吉の「分権論」は、そのまま今日に通じるのですが・・・
 その中で諭吉は、国権には政権と治権の二様があると言います。政権とは、外交、徴兵、貨幣など全国一様に関する権力で、治権とは、学校、衛生、道路など地域の実情に応じて『其地方に居住する人民の幸福を謀(はか)ることなり』と明確に区別します。そして、『集権論者は・・・政権を集るは固(もと)より無論、治権の些細なるものに至るまでも悉皆(しっかい)これを中央に集めて、同一様の治風を全国に施し、各地の旧俗習慣にも拘はらず、之をして真直水平の如くならしめんと欲する者あり。』・・・全国各地が金太郎飴の町づくり・・・諭吉の予言の通りになりました。
 そしてさらに諭吉は、『中央に政権を集合して又これに治権を集合するときは、非常の勢力を生ずるや明なり・・・二権の集合はただに人を脅服するのみならず、又人の常習を変更し人を孤立せしめて個々に就て之を威服するものなり・・・』 まさにその通りで、自治の権利まで集権して、人々を孤立させ、脅服させて、戦争に追いやりました。



  無鳥里の蝙蝠

 さらに諭吉は、論及します。「集権論者は言う。中央政府のみ開明的で、地方の住民は無智。中央は神速で、地方は緩慢。中央は事を行うに慣れ、地方は命令に従うのに慣れる。そうなると、長ずる中央はますます長じ、地方はいつまで経っても進歩しない。」・・・地方は考えようとしないで中央に伺いを立て、工夫をしようとしないで補助金に頼る。諭吉が心配した通りになりました。
 
そして諭吉は、「村の区長や戸長が、政府の地方官の鼻息をうかがい、県官が巡回すれば村境まで出迎え、先導して皆を静めるのが仕事。そして官員が帰った後は『無鳥里の蝙蝠(鳥なき里のこうもり)』・・・飛べるから鳥の仲間だと威張る蝙蝠のように、区長や戸長が官員気取りで皆を指図し、願書の字や用紙など細かに注文をつけ、何度も足を運ばせる。これは、集権と言わざるを得ない。」
 明治七年には、窪田次郎らが議論したように、政府=官の仕事と村=民の仕事を区別し、政府=官の仕事は官費、村=民の仕事は民費と区別して考えました。明治八年に初めて県令を集めて地方官会議を開催しました。県令は政府の任命でしたが、県民の声に耳を傾けようとする県令や民会(議会)の設置に賛成の県令もいました。ところが政府が地方統治のため全国に大区小区制をしき、区長や戸長を任命して、戸籍、徴兵、納税、警察、学制など官の仕事を義務付け、次第に政府の末端組織化しました。そのような状況を嘆き、諭吉は明治十年に「分権論」をしたため、警告を発したのだと思います。しかし、次章でお話するように、政府は地方を体制内に組み込み中央集権化に突き進みました。
 今も、自治体職員が「無鳥里の蝙蝠」になってはいないか・・・国の指導ですから。国の制度ですから。国の補助がないので・・・国や県の威光を背負ってはいないか。裃(かみしも)を着て住民に接していないか。住民の味方になっていると住民に感じていただいているだろうか。


第十八章  幻の自由自治元
  
  
諭吉と次郎
 
同じような考えを持つ福沢諭吉と窪田次郎に接点があります。
 窪田次郎は明治五年から六年にかけて東京に滞在しました。その間、次郎が諭吉を尋ねたかどうか、定かでありません。
 ちょうどその頃の明治五年二月に「学問のすゝめ」の初編が発行され、大きな反響を呼びます。その初編の端書に、諭吉の故郷中津に学校が開かれるので書いたが、せっかくだから広く活用してはどうかと勧められたので出版したと記されています。それを読んだ次郎は、原本より大き目の本に印刷して啓蒙所の教科書に使いました。それを知った諭吉は、著作権侵害とカンカンに怒り、法廷に持ち込みかねない様子。ちょうど慶応義塾に福山出身の者がいて連絡を受け、県の学事課長杉山新十郎が諭吉に面会して謝罪しました。そして九月になってようやく諭吉の了解を取り付けました。諭吉は啓蒙所の活動に感心し、『天下に先ち天晴の功名を挙げたりと繰返し賞賛し』、三百部の摺立てを許可し、さらに土産に「学問のすゝめ」を百部寄贈してくれたそうです。
 「啓蒙所大意」の『士農工商貧富ヲ分タス』は、「学問のすゝめ」の『人の上に人をつくらず・・・』と同じものでした。諭吉は、さすが同門、自分と同じ考えで実践していると感じたのででしょう。


  維新のワンチャンス
 
諭吉の説得に当った県の学事課長が、明治五年六月に文部省を訪問して「啓蒙社大意」を見せました。そのとき、『次郎の卓見に感心せり』とのことです。その文部省は、二ケ月後の八月に「学制」を発布しました。「学制」は、諭吉の「学問のすゝめ」と同じ論点に立ち、個人の自主・独立の精神を尊び、実学的な学問を奨励しました。
 「啓蒙所大意」に、後日、次の附箋が付けられました。『・・・学資ヲ官ニ依頼セスシテ人民自治ノ端緒ヲ開キ、他日小学校設立ノ基礎ヲ建ツ・・・』。文部省が制定の「学制」により、啓蒙所は小学校となりました。そして全国的にも、明治六、七、八年ごろから小学校が発足します。国の指導はありましたが、今日のように国からの補助がある訳ではありません。次郎らの啓蒙所と同じように、村人がお金を出し合って先生を雇い、家の離れを借りたり小屋を改造したりして準備しました。それはちょうどアメリカの西部開拓民が話し合って学校を発足させたと同じように、村の「自治」立による学校教育の出発でした。
  この時期、新しい時代の到来に期待し、各地で競って小学校を発足させ、日本中の村々が盛り上がりました。第十四章で紹介したように、村ごとに願いを込めて命名した斬新な校名からも、当時の機運を窺うことができます。
 しかしその後、学校教育は第十四章で述べたように国の関与が深まり、全国統一して集権的に進められることになります。


  ベストセラー「学問のすゝめ」

 
沢諭吉の「学問のすゝめ」は、爆発的な売行きを示しました。初版だけで、偽版を含め二十二万部。当時の人口を三千五百万人とすれば、百六十人に一部の割合です。今日でさえ、そんなベストセラーはないでしょう。「人の上に人をつくらず・・・」は、封建社会からの脱出に大きな励みとなったことでしょう。
 先にお話したように、諭吉は「青雲の志」を漢学つまり儒教の弊害として嫌いました。そして、明治七年一月発行の「学問のすゝめ」第四編の『学者の職分を論ず』の中で、学者の姿勢を痛烈に批判します。諭吉が言うに、学者は政府に寄りすがり、官に就くことばかり考え、私にあって独立して歩もうとしない。そして、何をするにも官の許可が必要で、ますます官が強くなっている。
 窪田次郎も同じようなことを言っています。彼の民選議院設立時期尚早論の中で、才識のある者は皆官にあり、あるいは官職を求め、東京へ東京へと集る。これでは地方にあって、地方の発展や子どもの教育に専念する者がいなくなる。それではいけないので、自分は東京に行かず、民にあって頑張る。
 ・・・この頃から、中央主権、東京中心、官僚主導が始ります。諭吉はいち早くその傾向に気付き、警告を発したのですが。

  国権と民権と官権 
 
この諭吉に反論する学者がありました。国法学者の加藤弘之です。
 彼は明治七年三月発行の「明六雑誌」第二号に論文を載せて、学者が官に就いて何が悪いか、と切り返し、役人よりも、人民の「自由」が過ぎるのが問題だ、と論じます。 
加藤弘之は、人民の自由が過ぎるので、それに押されて「国権」が弱くなる、そのために官の指導を強化しなければならないと言うのです。
 ところがこの加藤弘之は、明治七年十月発行の明六雑誌第十六号に「軽国政府」という論文を発表して次のように論じます・・・政府が国事を秘密にしたり、人民をほしいままに制圧してはならない、人民の力は、すなわち政府の力であり、『人民は本にして政府は末なればなり、末にして本を忘れ、末をもって本を圧せんと欲すれば、民は離反、国の衰亡を招く』、そのような政府を『軽国政府』だと論じます。
 そこで窪田次郎の登場です。
 この『軽国政府』を読んだ窪田次郎は、加藤弘之が前々から言っていることと矛盾すると指摘します。そして、「国権」と「官権」を混同していると言います。加藤弘之が民の自由が過ぎると困ると言う場合は「国権」ではなくて「官権」であり、「民権」に対峙するものです。それに対して「国権」とは、国の総合的な力で外国に対するものです・・・加藤弘之が言う「軽国政府」とは、国の本である民が弱いため「国権」が危うくなる場合です。
 この区別は大切です。国の独立を考える際の判断基準になります。「官権」が如何に強くても、「国権」が弱ければ国の独立は保てません。
 この判断基準は、「地方自治」を考える上でも重要です。
 「町が町民の声を聴かない。」という場合の町は「官権」です。民の声を反映する「民権」が保障されていなければ、自治は成り立ちません。同じように、自治体に如何に権限や財源があっても、住民の願いが反映できていなければ、「自治」とは言えません。
 この判断基準は、地方自治を考える場合の基礎として、序章の「住民自治と団体自治」でお話しました。
 明治も七、八年頃になると、中央政府から県に派遣された官吏によって、中央集権的な行政が押し進められつつありました。そして、せっかく育ちつつあった「地方自治」は、政府の傘下に組み込まれ、機能を失って行きます。
 窪田次郎は、廃藩置県によって藩それぞれの独立性が失われ、県が政府の地方行政体制に組み込まれ、政府が任命した県令をはじめ官吏のもとで政府の施策が推進されるのを目の当りにして、この問題を身近に感じたに違いありません。

   いたずら

  徒ニ自由ノ理論 
 
国会図書館に、「自由自治」第一巻があります。明治九年の出版です。原文の表題は、”On Civil Liberty And Goverenment "です。ここで「自由自治」とは、直接「地方自治」を指すのではなく「自由な国民による政治」という意味です。この本の著者は、リーベルというドイツ生まれの法律家で、後にアメリカの大学で教授を勤めました。
 そして、この本を翻訳して出版したのは、上記の加藤弘之です。
 加藤弘之は、この本の冒頭で、原作と著者を紹介して次のように記しています。
 リーベルは、『…独米両国人民ノ中間ニ立チ・・・其長所ヲ交換セシムル所ノ媒介人ノ如ク・・・』。そしてこの書は、『・・・此書ノ如キハ徒(いたずら)ニ自由ノ理論ノミヲ以テ主旨ト為サス・・・』。

 
ところが加藤弘之は、「自由自治」の第一巻の末尾に『全二十冊追々続刻』と書き添えているにもかかわらず、第二巻以降を出版していません。それはなぜか・・・
 加藤弘之は、翻訳出版を途中で止めた理由を特に言っていません。この点について、加藤弘之を研究された吉田曠二は、著書「加藤弘之と『弘之自伝』について」の中で、原著が急進的で、加藤の思想と符合しなかったからだろうと述べています。
 この辺りの事情を理解するには、加藤弘之の理論が時代とともに変化した状況を知る必要があります。


  スイスは万民同権の政体

 
加藤弘之は、福沢諭吉よりも一歳年下で、一八三六年(天保七年)の生れ。彼は、明治維新よりも前の尊王攘夷の嵐が吹き荒れる一八六一年(文久元年)に、スイスは『万民共治』の政体で、『自主の数邦を合して一国』となる理想の国であり、『その公明なることは政体の右に出ずるものあらず』と、アメリカ合衆国とともに高く評価しています。
 ところが明治になると、一転して、立憲君主制国家を主張します。そして、過渡的には絶対君主制も評価します。そのことを著書の「真政大意」(明治三年)の中で、『いまだまったく開化文明に進まずして、愚昧な民の多い国では、立憲政体を立ててひろく公議輿論を取りたてたところが、ただ頑愚の議論のみでかえって治安の害をなすでござるから、かような国ではやむことをえずしばらく専治等の政体を用いて、自然臣民の権利をも限制しておかねばならぬこともあるでござる』と述べています。
 「自由自治」の著者リーベルは、立憲君主国ドイツの法律家だから、その書は立憲君主制を是認したもので『徒(いたずら)ニ自由ノ理論ノミヲ以テ主旨ト為サス』と思って本を紹介したものの、翻訳するうちにアメリカ流の自由を主旨とするものであることが分かったため、第一巻で出版を止めてしまったのでした。
 加藤弘之も福沢諭吉も、維新の前から世界に目を開き、自由民主の国があることを知り、それらの国に理想を求めました。ところが、福沢諭吉が民間にあってその理念を堅持したのに対して、加藤弘之は儒教的観念を引きずり、明治政府の招きに応じて政体律令取調御用掛の職に就き、以後、政府の要職を経て東京大学の初代学長になりました。

 
日本のその後は、明治当初の「広く会議を興し 万機公論に決すべし」の理念が後退して、加藤弘之らが主張する専制国家の道を歩むことになります。
 当時、加藤弘之等が模範としたドイツの絶対君主制については、追って紹介します。


  木ニ縁リ魚ヲ求ムル
 
明治七年に、板垣退助らが「民選議院設立の建白」を政府に提出し、これをめぐって盛んに論議されました。
 文明国になるためには欧米に倣って民選議院を導入すべきだ。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の実践だ。困難はあるが経験を踏みながら向上するという論に対して、加藤弘之は時期尚早論を唱えます。日本人は民選をするレベルに達していない、「木ニ縁リ魚ヲ求ムル」ようなものだ、というのです。そして、選ばれた議員も未熟だから、そのような議員による議決は愚論に過ぎない。愚論でも民選議院で決まれば政府は実施しなければならないから大変なことになる、当面は教育が大切と主張します。
 窪田次郎も、時期尚早論を唱え、教育の充実を主張しました。彼は、明治四年に、彼の住む粟根村で代議人の選挙を実施しました。村のいろいろな問題を解決するために、代議人の必要を感じたのでした。しかし、選挙を実施するには苦労したようです。読み書きができる人は限られていました。それでも先駆的に実施して、他の村にも推奨しています。その経験から、窪田次郎は、村のような範囲なら選挙が可能だが、国の民選議院のように範囲が広くなると、情報が行き渡らず、誰を選ぶか判断することが無理と考えます。当面は、何よりもまず啓蒙所を充実して教育を推進すべきと考えました。そして、地方の優秀な人材が民選議員となって東京へ吸収されのを嫌いました。


  自由自治元年 
 
古いことですが、昭和五十七年にNHK大河ドラマで山田太一原作の「獅子の時代」が放映されました。菅原文太が扮する平沼銑次と加藤剛が扮する刈谷嘉顕が主人公です。二人は、明治維新の大きな時の流れに翻弄されます。そして最後の場面で「自治」の問題が取り上げられました。
 幕末に会津で討幕軍と戦って敗れた平沼銑治は流れ流れて秩父事件に巻き込まれます。そして一揆に加わり、最後には「自由自治元年」の旗を揚げて敵陣に切り込みます。
 刈谷嘉顕は政府の役人になり、政府の中枢にあって憲法の草案に携わります。そして、憲法制定の任にあった伊藤博文と論議します。そのシナリオから、
『伊藤「民間の意見に失望した」
 嘉顕「・・・・・・」
 伊藤「どれもこれも、日本の現状を棚に上げた理想論ばかりだ。」
 嘉顕「・・・・・・」
 伊藤「フランス、イギリスの自由民権論を金科玉条とし、自由と権利をよこせ、税金を減らせ。本気で日本の将来を考えているものは、まったくない!」
 嘉顕「・・・・・・」
 伊藤「奴らに日本をまかしたら、どうなるかね?いや、奴らには本気で日本を引き受ける気などないのだ。」
 嘉顕「では憲法は、自由民権論をどのように・・・・・」
 伊藤「問題にせんよ」
 嘉顕「は?」
 伊藤「日本の国民はね、刈谷さん」
 嘉顕「はい (早く聞きたい)」
 伊藤「まだ自由や権利を持つほど、成熟していないんだ」
 嘉顕「・・・・・・(衝撃をおさえている)」
     ・・・・・・・・・・                                      』
 役人を辞した刈谷嘉顕は、自分の理想の憲法草案をしたため、鹿鳴館の舞踏会に出席中の伊藤博文に届けようとして警官ともみ合いになります。
『嘉顕「願わくば、国民の自由自治を根本とする日本国憲法たらんことを・・・・」 』
 そう叫びながら、非業の最期を遂げます。

 
結局、日本は、プロシア(ドイツ)の専制的な憲法を模範とした憲法を制定しました。


第十九章  律令にかわる名望家支配

  律令の反省、しかし 
 明治政府は中央集権体制を敷きました。
 幕藩体制下で、「国」と言えば藩でした。幕府は藩に対して規制を掛けましたが、財政的には藩に頼っていました。何かにつけ藩に協力金を負担させ、普請や土木事業などを実施させました。この点は今日とは逆で、分権的でした。藩においても、藩主の権限は強力で封建的で、村に対して藩への忠誠と質素倹約を求めましたが、村は応分の年貢を納めさえすれば、生活のもろもろのことについて村に任されていました。藩は年貢をとるだけで、今日のような見返りの施策はなかったのです。村の運営は一部の有力者を中心に行われていましたが、農地の集積は未発達な状態にあり、村の年貢を集めるには村人の協力が必要なことから、有力者の一方的な運営はできませんでした。

 
ところが明治政府は、律令体制のもとに全ての権限を中央政府に集めました。そして地方には、政府の地方機関として県を配置して、政府任命の県令を派遣しました。県下には大区小区制を敷き、従来の大小の村を無視して概ね五〇〇戸を小区とし、いくつかの小区の上に大区を配置し、県令の指揮下に置きました。
 このような一方的な体制に対して、政府内でも反省の声が出たようです。
 例えば大久保利通は、明治十一年に「地方之体制等改正之儀上申」を太政大臣三条実美に出し、「・・・今日世情が騒然とし、兇徒が蜂起し、地方の安寧が妨害されているのは、政府の政策がよくないのでもなければ、府県長官の行政手腕が足りないからでもない。地方政治に関することをすべて中央政府の権限におさめ、地方に独自の権限を許さなかったためである。この仕組みでは、戸長がした過ちも、たちまち中央政府の罪ということにされてしまう。もし、地方に会議を開き一定の独立権限をあたえたならば、政治の是非得失が住民共同の責任となり、中央政府に怨みをもつような事はなくなるであろう・・・」(大島美津子著「明治のむら」)
 木戸孝允も、明治十一年の日誌に「・・・今日の形情を察するに、農なり商なり士なり満天下皆不平のもののみ・・・ただただ得意なるものは官員ばかりなり・・・政府上辺境窮陲(国境)の事情を不察、数百年の慣習を不顧、暴断するもの不少、実に政府は人民の政府たる主意を失ふものあるに似たり・・・」(大島美津子著同書)と記しています。
 中央集権化し、官僚優位となった状況がよく分かります。

  無恒産者無恒心  
 
このような反省から、政府は大区小区制を廃止して旧来の町村を認め、地方税や地方財政の独立を認めるとともに、官選だった戸長を民選にし、議会議員の選挙も認めました。ました。いわゆる「三新法」と言われるもので、明治十一年のことです。
 しかし、選挙権は土地所有者に限られ、誰が誰に投票したかが分かる記名投票でした。そして、戸長の給料はわずか、議員は無給でした。従ってその実態は、「明治十三年改正教育令理由書」によると、「・・・各地方ノ景況ヲ通観スルニ、おおよそ戸長トナル者ハ、其町村ニ名望アル者、又ハ才幹衆ニ超ユル者、又ハ旧家ニシテ郷関ニ尊重セラルゝ者ニシテ、固ヨリ其町村人民ノ上流ニ居ル者・・・」(大島美津子著同書)とあるように、戸長や議員は一部の有力者に限られていました。
 その背景には、明治政府の土地政策がありました。明治政府は、まず初めに戸籍制度を整え、土地を調査して地券を発行し、土地売買の自由を認めます。その結果、経済の激動下で土地が一部の地主に集積され、地主が強い権限を持つようになっていました。まだまだ稲作に経済基盤を置くほかなかった状況の下で、土地がますます物を言う稲作強制の社会に逆行したのでした。
 このような実態を政府は是認します。明治十一年の「地方官(府県令)会議傍聴録第二号」に、「恒産無キノ人ハ亦恒心アルコト難シ、其世安ヲ図リ公益ヲ務ムル者、往々資力アルノ人ニ於テ之得」(大島美津子著同書)と発言したとあります。
 この「恒産無き人、恒心無し」は、孟子の「王道論」に由来します。儒教は別名で「孔孟の教え」とも言われます。儒教には、そうした考えが根底にあるとしか言いようがありません。


  市制町村制
 
立憲政治に腰の重い政府に対して、自由自治を求める活動が活発になります。明治十五年から十七年にかけて自由民権運動が勃発しました。前章で紹介した秩父事件や福島事件、高田事件、加波山事件などです。
 これらの自由民権運動はいずれも敗北しますが、自治の進展に不安を感じた政府は、明治十七年に、町村の監督強化のため地方行政区画を再編成するとともに、再び戸長を官選としました。その時に出された「戸長官選ニ付訓示心得」に、「戸長ハナルベク 永ク其町村ニ居住シ 名望資産ヲ有スル者ニツイテ選任スベシ」とあります。前掲の大島美津子著「明治のむら」は、「・・・地方の名望家を国家の支配機構のなかにとりこみ、彼が地域社会にもつ信頼感と権威を政治に利用しよう・・・」としたものと述べています。
 このようにして一旦は官選となりました。しかしその後、政府部内でも諸外国の自治制度の研究が進められ、官選では立憲制を目指す国としてふさわしくないとの反省があったものと見られます。明治二十二年に憲法が発布されますが、それに先立って明治二十一年に市制・町村制が制定され、再び民選となりました。その制定に際して示された「市制町村制理由」には、地方自治について積極的な理解の姿勢が著されています。
 まず、「本制ノ旨趣ハ 自治及び分権ノ原則ヲ実施セントスルニ在リ」と宣言します。
 そして、維新以来の集権的な地方制度を反省して、「・・・政府ノ事務ヲ地方ニ分任シ 又人民ヲシテ之ニ参与セシメ 以テ政府ノ繁雑ヲ省キ 併セテ人民ノ本務ヲ尽サシメントスルニ在リ・・・・人民ハ自治ノ責任ヲ分チ 以テ専ラ地方ノ公益ヲ計ルノ心ヲ起スニ至ル可シ 蓋(けだし)人民参政ノ思想発達スルニ従ヒ 之ヲ利用シテ地方ノ公事ニ練習セシメ 施政
ノ難易ヲ知ラシメ 漸(ようや)ク国事ニ任スルノ実力ヲ養成セントス。 是将来立憲ノ制ニ於テ 国家百世ノ基礎ヲ立ツルノ根源タリ・・・」
 集権の弊害を体験し、西欧の進んだ地方自治を学んで自治の大切さを理解した立法者の心意気が伝わってきます。戦後、充分な研究の時間もないうちに導入され、「地方自治の本旨」と言うだけで、形ばかりとなった現行の地方自治法よりも斬新さを感じます。戦後の国の指導には、地方自治に参加することによって「公事ニ練習セシメ 施政難易ヲ知ラシメ」といった姿勢さえ見られません。その結果、例えば、税収をもって経費に充てる自治の体験も未熟なまま国の補助金などの支出に頼り、国の財政を破綻状況に追い込んでしまいました。
 このように地方自治に理解を示した市制町村制ですが、その理念とは裏腹に非常に厳しい制限選挙を採用しました。それは「等級選挙制」と言って、町村税総額の半分を納めるごく少数の高額納税者が一級として議員の半数を選び、残りの国税二円以上の納税者が二級として半分の議員を選ぶというもので、しかも選挙に当っては二級の者が先に選挙し、その結果を見て一級の者が選挙するというものでした。市制では、更に三級に区分して行われました。
 あれほど地方自治に積極的な姿勢を見せた市制町村制が、なぜ、このように後退した制限選挙を導入したのか。「市制町村制理由」の中で、「・・・市町村ヲ以テ其盛衰ニ利害ノ関係ヲ有セザル無智無産ノ小民ニ放任スル事ヲ欲セザルガ為メナリ・・・」、そして等級選挙について、「小民ノ多数ヲ以テ資産家ヲ抑厭スルノ患ヲ免ル可キカ故ニ・・・・細民ノ多数ニ制セラルゝノ弊ヲ防グ・・・」と明言してはばかりませんでした。また、町長、助役、議員は「名誉職」とし、原則として無給としました。その理由として、「町村公民ノ軽カラザル義務ナレハ 資産アル者ニ非サレハ之ニ任スルコト能ハス・・・」としています。
 その後、選挙の制限は段階的に緩和され、大正十五年(一九二六年)に至ってようやく二十才以上の男子による選挙が実現するのですが、時既に遅く地域社会は名望家支配が定着し、地方自治はひ弱なものとなっていました。


 「家」制度 
 
社会を制約する農地の所有者は、人というよりも、むしろ「家」でした。家族は「家」に隷属し、懸命に働きます。農地を分割相続すれば、「家」は貧しくなり、税が少なくなれば支配者は困ります。だから、一子による一括相続つまり家督相続が民法上の制度となりました。

       小説「紀の川」

(記述の部分を加筆・修正することがあります。ご容赦ください。)



第二十章  ドイツの自治

        自治の受難 
        ゲーテの悩み
        共同体精神の培養
        偽装された立憲主義
 
       ナチスと自治
        伝統の自治の復活  
        多様な文化を育む分権社会
 

                                                         次のページへ続く     目次へ戻る

                                                   ここから直接、地方自治を確立する会トップページ