「自治のすゝめ」(要約版)
著・杉本武信
(第1編)
は し が き
地方の時代と言われて久しく、地方自治の大切さが叫ばれて年が経ち、ようやく平成十二年に、いわゆる地方分権法が制定されました。しかし、住民にとって今までと変わった感じがしません。
それは、なぜでしょうか。
真の分権自治の確立には、まだまだ他に必要な条件がたくさんあるからです。
その条件とは・・・・しかし、その説明も、理解も簡単ではないようです。
日本にとって、分権自治の歴史も経験もない、初めてのことですから・・・・
同じ敗戦国のドイツは、伝統の自治を復活させて、地域それぞれに特色のある国づくりを進めています。
同じようにゲルマン民族の流れを汲むイギリスやアメリカ、スイスも、自治に根ざした住民サイドの国づくりを展開しています。
日本は戦後、新憲法のもとで、「地方自治の本旨に基いて」、地方行政を進めることになりました。
「地方自治の本旨」・・・そうだ、地方自治は大切だ。解ったような気がします。
しかし、この「地方自治の本旨」は、占領国アメリカから一方的にいただいたものです。
ここらでもう一度、「地方自治」とは何か、基本を考えてみる必要があるようです。
そこで、まず手掛かりに、皆さんご承知の「ウイリアム・テル」を紹介したいと思います。
なぜなら、「ウイリアム・テル」は、本来、自治の物語なのですから・・・・・・
序 章 ウイリアム・テル
童話「ウイリアム・テル」 物語の背景
「ウイリアム・テル」を、私たち日本人にもよく知られた物語です。ところが時代によって、いろいろと語られました。
戦前は、わが子の危険をかえりみず、国のために戦った弓の名人・・・英雄として語られました。
戦後は、わが子の頭上のリンゴを射るとは、いかに自信があろうと、いかに理由があろうと危険だ・・・今の子どもたちは知っているでしょうか。今日、日本では、「ウイリアム・テル」の物語が次第に忘れられようとしています。
その昔、スイスの人々はアルプスの谷々に思い思いに住んでいました。
ところが、国王の名代として代官がやってきて、スイスを支配しようといろいろと難題を持ちかけます。
スイスの人々は、この代官の挑発に応じず我慢します。スイスの人々の抵抗に業を煮やした代官は、広場に自分の帽子を掲げ、そこを通る時に、帽子を脱ぎ膝をまげてお辞儀をするように「お触れ」を出します。それが、国王への忠義の証だというのです。
そこへウイリアム・テル親子が通りかかります。
お辞儀をしなかったテル親子を見つけて、国王へ不敬を働いたとテルを責め、牢獄へ引き立てようとします。代官は、ウイリアム・テルは勇敢な弓の名人で、スイスの人たちに慕われていることを知っていました。この機会に、スイス人の英雄として慕われているウイリアム・テルの名声を汚して、スイス人の気力を挫こうと考えました。
「テル、お前は弓の名人と聞くが、我が子の頭上のリンゴを射落とすことができるか。射落とせたら許して放免してやろう。」
テルは、そんな危険なことはできないと許しを請いますが、弓を取らないなら親子ともども牢獄へ入れると脅し、勇気のない奴とけなします。
やむなく、テルは弓を取ります。テルは見事にリンゴを射落としました。ところが代官は約束を破って、テル親子を牢獄へ引き立てようとします。それを見ていたスイス人は、代官の卑劣なやり方に我慢できず、ついに立ち上がりました。
かねてより、谷々の村のスイスの人々は、秘かに連絡を取り合って、力を合わせ代官を倒そうと話し合っていました。この機に、スイスの人々は連合して立ち上がり、代官を追い払いました。
そして、このことをきっかけに谷々の村が同盟を結び、協力して外部からの支配に立ち向かい、共に自由で住みよい国を造ることになりました。「ウイリアム・テル」は、村々の自治に根ざしたスイスの国の発祥を伝える物語なのです。
ところが日本では、この本来の物語の主旨が、今もって理解されていません。
・・・自治を大切にする、自治に根ざした国でないから・・・・ここが、これからのお話の出発点なのです。
ゲルマン民族
同じような物語がイギリスにあります。「ロビンフットの冒険」です。
この物語では、悪代官の横暴に苦しむ村人が、代官を懲らしめるロビンフットを応援します。
イギリスは、元はといえば、北欧から海を渡ったゲルマン民族の一種族アングロ・サクソン人が主流です。 イギリスは、世界に先駆けて国王の権力を制約して、民主革命を成し遂げました。さらにイギリスからアメリカに移住して、自治に根ざした自由な国を築きました。
スイスも、言い伝えによると、北欧から新天地を求めて来たと言われます。
ある年、北欧の村は飢饉に襲われ、食料が乏しく、このままでは村人全員が冬を越せない事態になりました。そこで村人は全員が集って話し合い、食料で賄えるだけの人数が村に残りり、後の者は南へ向かって新天地を求め旅立つことになりました。だれが村に残るか、くじ引きで決め、村を出ることになった者は、南へ南へと進みました。そして、まだ誰も住んでいないアルプスの谷間にやってきたというのです。
食料の奪い合いをせず、話合いをして解決する。強者が強引にというのでなく、くじ引きで決める・・・こうした解決方法に象徴されるように、これらの国はいずれも共通して優れた「地方自治」の伝統を持ち、今もその実態を伝えています。
日本人にはあまり知られていない諺ですが、「イギリスは自治の母国」、 「スイスは自治の学校」、 「アメリカは自治の実験室」 と言われます。
そして、これらの国は、いずれも 「民主主義」という点で、世界有数の先進国です。
住民自治と団体自治
「自治」を考えるうえで基本になるので、初めに説明します。
「自治」には、「住民自治」と「団体自治」の2面があります。
住民に良く知らされ、住民が考える機会があり、住民の意見は反映される・・・・・ これが「住民自治」です。
しかし、いくら「住民自治」を実現しようとしても、権限や財源がなければ、どうしようもありません。 国が全ての権限や財源をもっていては、「住民自治」をやろうにもできません。
逆に、自治体に財源や権限があって「団体自治」が保障されていても、首長の独断で物事が進められ、住民に意見を問う「住民自治」の実態がなければ、「自治」成り立ちません。
「住民自治」と「団体自治」の実現は、「自治」の実現のための「車の両輪」のようなものです。
第1編
第一章 古ゲルマンの自治
ドイツの冬
ゲルマン人の発祥の地、ドイツ辺りは、北海道よりも高緯度。日差しは柔らかで、冬は暗く、長い。
その点、アジアは太陽に恵まれています。サンサンと注ぐ太陽。雨も多い。収穫は豊富です。
ところがゲルマンの故郷は、雨が少ないので大地の侵食が進んでいない。
広い平原や森を切り拓いて畑作。しかし、収量はそんなに多くない。
古ゲルマンの登場
彼らがいつからそこに住んでいたか定かでありません。(日本のように島国でないから移動は可能です。)
彼らが歴史に登場したのは、紀元前1世紀の中頃、ローマ軍が北に遠征して彼らと衝突した時です。
その時の彼らの生活の様子が、シーザーの残した「ガリア戦記」に記されています。
さらに時代が下って紀元1世紀の末、従軍したローマの歴史家タキトウスが記した「ゲルマーニア」があります。
彼らは、牧畜が主で、農業は補充。何年かしては移動の生活をしていたと言います。
古ゲルマンの森の生活
このような記録から推測した彼らの生活を画いたのが、右の図です。
中央の(T)が民家。敵の来襲から守るため、中央に固まっています。
(U)は畑。6区画に分かれ、一筋ごとに各戸に平等に配分されます。
(V)は牧場、共同で放牧します。
そして(W)は森。狩猟や薪の採集。
森は外に向かって無限に続きます。
出典・秦玄龍著「ヨーロッパ経済史」(東洋経済新報社)
マルク共同体説
かれらの社会には、共同体員間において、徹底した平等の原則が貫かれていました。
耕地は、風向きも考慮して均等・均質に配分され、作業は一斉に行われる。 狩猟や外敵からの防御は共同してあたる。この共同体の存在を論ずる学説を「マルク共同体説」と言い、正当な学説として長く信奉されていました。
しかし今日、それほどまで完璧な平等社会であったかどうか、疑問視されるようになりました。それにしても、アジアの多くの場合と比べ、まったく異質な社会であることは間違いありません。
森は無限に続き、土地はいくらでもある。畑作だから、土地は痩せ、連作障害もおきる。狩をするうちに周りの獣も獲りつくす。別な土地に移るのに躊躇することはない。共同作業はもとより、狩をするにも、外敵から守るにも、一人ひとりの参加が必要だ。そのため、一人ひとりが大切にされる社会ができました。
連合・協定
彼らの悩みはもちろん食料の確保でしたが、もうひとつ大きな悩みは、村を襲い、せっかくの食料を略奪したりする外敵から村を守ることでした。そのため、男性の大きな役割は武器を取って戦うことでしたが、いまひとつの方法は、周辺の同じような村々と協定を結び、相互に保障し合い、連合して敵に立ち向かうことでした。
ゲルマン流
ウイリアム・テルの場合もそうでした。
アルプスの谷々の村が連絡を取り合い、機会を見て代官に立ち向かうことを決めていました。テルの華々しい活躍も、そうした村々の連合があったからできたことでした。それがスイスの国の始まりと言われますが、このような経緯からスイスは、各地域の自治体=州が連合して国を組織する連邦体制をとっています。だからスイスは、正式には Swiss
Confederation スイス連邦 と言います。
そういえば、ゲルマン民族によってつくられた国は連合組織をとっています。
アメリカは、The United States Of America アメリカ合衆国、ドイツは、Bundesrepublik Deutschland ドイツ連邦共和国、イギリスは、私たち日本人は聞きなれませんが、正しくは、United Kingdom Of
Great Britain And Northern Ireland グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国 と言います。
自治に基盤を置き、連合体制を組む国づくりの方法は、ゲルマンならではの流儀と言えましょう。
古ゲルマンの集会
「ウイリアム・テル」の物語は、シラーの戯曲として世界に知られるようになりました。
その戯曲の中で、近隣の3州から武装した村人が密かに集って議論する場面が、前半のクライマックスになっています。
先ほど紹介した「ゲルマーニア」にも、彼らの集会の様子が伝えられています。
「ゲルマーニア」泉井久之助訳・岩波文庫によると、連合する部族全体の集会の様子ですが、小さい事案には各首長が集り、大きな問題には部民全員が参集する。そして静かに傾聴し、意見にそぐわない時には聴衆はざわめき一蹴する、意見にそう時には剣をたたいて鳴らす、と伝えています。
当時の先進国ローマの歴史家タキトウスにとって、個々人の自発性に基盤を置き活力あふれる古ゲルマンの社会は、奴隷の生産に頼り、身分社会に安住して廃頽の兆しさえも見えるローマの社会とは新鮮なものを感じ、「ゲルマーニア」でローマに警鐘を鳴らしているように思えます。
住民総会
この古ゲルマンの集会と同じような集会が、今もスイスに伝えられているそうです。
そのひとつ、アペンツェル州の年に一度の州民総会の様子が、NHK海外取材班「自治と民衆」(日本放送出版協会出版)に紹介されています。
NHK海外取材班「自治と民衆」
スイスのアペンツエル州の州民総会の様子
住民は、今も剣を携えて参集し、一年間の州政報告、決算報告、予算案、法律案などが次々と議題に取り上げられる、意見のあるものは登壇して堂々と一席弁じる。意見をたたかわせば、結論は自ずから出てくると考えられている、政治を役人や議員任せにせず、有権者が直接政治に参加することを政治の基本においている、と報告しています。
直接参政の原則
このように一堂に集ることは、いろいろな事情から困難になっているため、案件について資料を各戸に配布して住民投票にかける方法をとり、住民の直接参加の原則を守っているということです。
自分たちのことは自分たちで・・・・他人に任せると裏切られる恐れがある・・・・・自分が直接参加して、理解・納得すれば安心だ・・・・・スイス人の基本的な政治姿勢です。
自治の原形
先に序章で、「自治」が成り立つにためは、「住民自治」と「団体自治」の2面が実現されることが、車の両輪のように大切と述べました。その視点でみると、彼らは、住民参加が実現され、進んで他と協定して支配されることなく両輪を働かせ、立派に「自治」を成立させています。
この時代に、今日のような人権尊重や平等の思想や法律があった訳ではありません。それが自ずとできたのは、広い森の中に分散して自給自足できる経済基盤、そして、支配に抵抗し、支配されそうならいずこへでも逃げ延びることができる自然条件にあったと思われます。
実力と友情の社会
「実力と友情の社会」は、熊野聡著「北の農民・ヴァイキング」(平凡社)の副題です。
ヴァイキングは荒海に乗り出す勇ましい海賊として知られますが、ゲルマン民族の一種族で、ノルマン人とも言います。 8〜12世紀の頃、北欧を根拠地としてヨーロッパ各地に侵入し,その活発な生き方はヨーロッパ中世社会に大きな影響を与えました。
この本によると、彼らのように己の実力によって自立的経営をする者にとって、隣人との関係は既に「外交」問題である、お互いに話し合い、保障し合って共通の外敵にあたる、それは「私的」関係に過ぎないが、そうした私的関係の総和として集団的機構が成り立っている、今日のように、あらかじめ国家が存在し、公的世界が前面に展開される社会とは異なる、従って、そうした私的関係がつながる範囲が国の領域となるというのです。
領域は、領土ではなくて、人と人の友情でつながり、絶えず移動可能な集団と考えられていたというのです。
タキトウスも「ゲルマーニア」の中で、彼らは広い森の中で「相互の恐怖」によって仕切られていると述べています。私的関係や友情のつながりの限界が国の領域なのです。
第二章
アジアの「他治」
ナイルの賜物
場面は、大きく変わります。
紀元前5世紀というから、交通もままならない時代です。
古代ギリシャの学者ヘロドトウスは、エジプトを旅し、ナイル川デルタ地帯の農業を見て驚きました。
この広いデルタ地帯では、増水期に種をまき、豚を放って踏みつけさせ、渇水期に収穫する・・・・いわば「ナイルの賜物」と言うべきもので、楽々と収穫を上げている。
ヨーロッパから見れば、誠に恵まれた条件です。
このような農業は、エジプトに限らず、アジアの多くはこのような農業から出発しました。
デルタや川岸の平野、谷水の出口など、灌漑が容易な土地さえ手に入れば、そこに居座って幾代にわたり、農業を続けることができます。そのような土地は川が養分を運んで肥沃です。緯度が低いから、太陽の光りにも恵まれている。
適地さえ確保すれば・・・・・・
しかし、そこには大きな落とし穴が隠れていました。
そのような適地は、砂糖に群がる蟻のように人々が集り、たちまち飽和状態になります。そうなると、一人ひとりの立場は弱いものです。たとえ搾取されても、侮辱されても、日々の糧を得るため、そこにしがみついていなければなりません。ゲルマンのように、他の土地へ逃げるというわけにいかないのです。逃げ延びたところで、行き着く先が簡単に受け入れてくれるはずはありません。
そのような弱い立場の人々を支配するのは容易いことです。
土地を支配し、人々を土地に縛りつけ、まさにピラミッド型の支配体制が築かれました。
ピラミッドの世界
まさに「ピラミッド」は、アジアの社会を象徴しています。
はじめは、そこそこで土地を支配し、人々を支配する世襲の権力者が現れるでしょう。そうした支配者は近隣の支配者と対立すると、勝者は敗者の上に立ち、ちょうどトーナメント戦のように勝ち残り、ついに一帯を支配する専制君主が生まれる。敗者は滅びるか、あるいは、定期的に貢物を差し出すことにより、支配下に入る。このようにして、肥沃な適地に応じた支配体制が築かれました。
中でも世界に先駆けて花開いた古代エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、そして黄河文明はよく知られていますが、いずれも多数の隷属的立場の人々を底辺にピラミッド型の社会が形成され、その体制下で吸い上げられた富の集積によって築かれた文明です。
古墳
日本もアジアの一角にあって、稲作に適した川べりや湿地から文明が開けました。
そして、ピラミッドに負けない大きな古墳を造りました。
そうなると、自ずと日本の「古墳」のもつ意味がわかってくるでしょう。
日本民族も初めの頃は狩猟や木の実などの採集が主な生活でしたが、稲作が始まると、そこそこの適地に定住して農耕を始めました。そうなると規模の大小はともかくナイルのデルタと同じで、その土地に応じた支配者が現れ、さらに各地の支配者の上に立つ支配者が現れ、さらにその上に立つ支配者が現れ、やがて一帯を統一する支配者が現れます。そして、統一が進むにつれて古墳は大きくなり、大和朝廷の成立によって最大となりました。
ゲルマンの墓
もう一度、タキトウスの「ゲルマーニア」に戻ります。
それによると、古ゲルマンの場合、人によって弔いに差がない、火葬も質素で、勇者だからといって記念碑などを建てるようなことはしない、心から死を悲しみ、悼み、弔う、と言うのだ。
それはタキトウスにとって驚きで、葬式や墓に「ミエ」をはり、英雄の死には記念碑を建てるローマのやり方とは異質のものに映ったに違いない。彼らには葬儀を派手にするような余裕もなかったでしょうが、派手にすることによって特定の者の権威を誇張することは、一人ひとりが参加して成り立つ共同社会では許されなかったためと思われます。
古墳と自治
日本の場合も、すんなりとピラミッド型の支配体制ができたわけではありません。
村や部族を守るため、周囲に堀をめぐらした環濠集落の存在がそれを物語っています。そこでは、村人が集って話し合い、共に武器を取って戦ったことでしょう。しかし、戦いに敗れてもそこを立ち去ることもできず、年々貢物を差し出し、命令に従うことを誓って、生きながらえるほかありません。もはや、村人の話し合いよりも命令が優先し、何事も伺いを立てなければならない状況に置かれます。そうした状況の下で、村々から人夫が駆り出され、古墳が造営されました。
「古墳」は、自治のない時代を象徴しているように思えます。
魏志倭人伝の世界
このように統一が進む過程の日本の状況を伝える資料が、中国にあります。
「魏志倭人伝」といい、魏の使節が日本を訪れ、自国へ報告したものです。
それは、ヨーロッパで北の古ゲルマンの様子が「ゲルマーニア」によって先進国のローマに伝えられたのと同じように、当時のアジアの先進国中国からみた日本の3世紀の頃の様子を伝える貴重な資料です。
「魏志倭人伝の世界」山田宗睦著・教育社歴史新書によると、その昔、倭国は百余国に分かれ、漢の時代に毎年漢の王に使節を送って臣下の礼をとる国があったが、魏の時代になって使節を送っているのは三十国である・・・・・後漢の末に男子を王としたが、魏の時代になると争乱がおこり、各国が互いに攻め合い、ついに女子を王とした。名を卑弥呼と言う。卑弥呼は鬼道をあやつり、大衆を操作する能力があった・・・・奴婢千人が侍従し、ただ一人が飲食の世話をし、卑弥呼の言葉を取り次ぐ男がいる。卑弥呼の住居には物見やぐらや城柵を設け、いつも武器をもった兵士が守衛している・・・・・・・この国の北方には一大軍団を置いて、検察させており、諸国はこの軍団を畏怖している・・・・・・また、軍団は伊都国に常駐し、これらの諸国において魏の国の地方官の役割をしている・・・・・そして、上位の層はみな五、六人の妻を持つ・・・・・部族の間に尊卑の差があり、身分秩序が定まっていて、臣下の礼をとり服従している・・・・・・下位の者が上位の者に道で出会うと、後ずさりして草むらに入り、道を譲る・・・・下位の者が上位の者に伝える時は、うずくまるか膝まずき、両手を地につけ敬意を表す・・・・卑弥呼が死ぬと古墳を造った。径が30メートルあり、殉死する奴婢が100人を超えた・・・・
「魏志倭人伝」で伝える社会は、既に中央集権化の様相を呈しており、地方は団体自治の権限を奪われ、社会は階級分化が進み住民参加の自治など考えられない状況になっています。
第三章 世界の夜明け
ゲルマンの王
ゲルマンにも王がいました。
広い森の中では、略奪が日常茶飯事でした。
村を守るには、皆の先頭に立ち、、統率・指揮する者を必要としました。
ウイリアム・テルも、戦いの後、村を守るリーダーとして王に推挙されましたが、彼の場合は辞退しました。
「ゲルマーニア」に、王についての記述があります。
これによると、先頭に立って勇敢に戦い、皆に尊敬されて王に選ばれるが、それも一種の選挙による、無限の権力が与えられるものではない、ということです。
こんな弱い立場の王は、アジアの感覚では「王」と言えないかも知れませんが・・・・・・・この考え方はイギリスに受け継がれ、王の権力を制限して、民主革命を達成する原動力になりました。
イギリス・自治の黄金時代
ドイツ辺りの森で育ったゲルマン民族の一部が5、6世紀にイギリスに渡り、アングロ・サクソン人によるイングランド王国を築きました。
「イギリス地方自治論」後藤一郎著・敬文堂によると、中央に政府がありましたが地方への力は弱く、地方の習慣が大きな決定力を持ち、各地方団体は自由民が参加する総会があり、極めて民主的に組織されていたということで、イギリス地方政治史における「自治の黄金時代」と評されています。この時代の自治の体験が、今日の「民主政治の原則」の源流となったということです。
その伝統は今に伝えられ、年に一度のお祭といった感じで住民が集り、法律の公布や住民の嘆願書を提出する大切な行事として開催される地域が、イギリス本島とアイルランドの間に浮かぶマン島にあるそうです。
平成11年8月12日放映NHKテレビ「バイキング・ロード」
マン島の「ティンウオルド・セレモニー」の様子
イギリスの王の伝統
ゲルマンの王の伝統はイギリスに受け継がれました。
イギリスの王は、国民の了解なくしては権限が与えられず、アジアのように超越的・絶対的権力を与えられることはありませんでした。イギリスの歴史として中学校や高校の教科書にも出てくる「大憲章」や「権利の請願」は、国王に対してこの原則を確認したもので、国王の絶対主義化を牽制し、民主革命の道筋を開きました。
社会契約
国民や住民が話し合い、約束する・・・・それを、個人と個人が話し合って約束する私的契約の延長線上に捉える、つまり、国民や住民の合意による社会契約と考える・・・・・王とても、この契約に一当事者として参加する・・・・・この考え方を理論的にまとめたのが、ジョン=ロックの社会契約説と言われます。
人間が生まれながらにしてもっている独立して自由・平等な自然権を守るため人民が同意して国家(政府)を組織したのであるから、政府が人民の主権を侵害した時には、政府を取り替えることができる・・・これがイギリスの名誉革命を弁護するものとなりました。
そうした考え方は、地方自治の場において培養された民主主義の思想を発展させたもので、「地方自治は民主主義の学校」と言われる所以です。
この点はアジアと大きく異なるところです。アジアでは自治が専制支配に抹殺され、民主的思想が育たず、王の絶対的権力が普遍化して、自力で民主化できない事態に陥りました。
慣習
このような自治の体験は、いわば判例として積み重ねられ、慣習となって後々の判断基準になります。それは、住民の生活の場における良識の集積です。王とても、それに従わざるを得ず、独断で法を作り、自治を侵す訳にはまいりません。国家もこのような不文法の慣習法によって、王や一部の政治権力の専制支配を排除することができました。
ロビン・フッドの物語
しかしながら、イギリスの自治も12世紀になると、ノルマン王朝の支配が強まり、アングロ・サクソン以来の自由かつ分権的な地方自治が危機に瀕します。
王朝から派遣の県令が財政、軍事、司法、警察等に強い権限を持ち、地方政治を支配するようになったのです。 県令やその配下の代官は、人々に王への服従を要求し、増税や兵役を強いました。人々も初めのうちは抵抗するが、やがて仕返しや見せしめを恐れて従うようになる。 なおも抵抗する者は、村を離れ、森に逃れて戦う。そんな話のひとつが、「ロビン・フッドの物語」です。
支配され、虐げられた村人が、表面上は従いながらも、陰ではロビン・フッドを応援する。勇敢なロビン・フッドの物語はバラード(民衆の小唄)として歌い継がれ、支配され虐げられる北風のときもこの唄に願いを託し、自由や自治の魂を守り伝えました。
第四章 「公」・官僚優位の思想
潅漑
話をアジアに戻しましょう。
第2章でお話しましたように、アジアでは、農業の適地が限られ、いったん農地を開墾して定住すると容易に他の地へ逃れることがきないため、たやすく支配者に支配され、ピラミッド型の集権体制が構築されました。
さらに人々を土地に縛り付けだのが「灌漑」です。アジアの農業にとって灌漑施設は不可欠です。しかし、それは個人の力でできるものではありません。水害から田畑を守る護岸工事もそうです。多くの人を動員して工事を進めなければなりません。本来、これらの建設工事は、個人が結束して取り組む共同事業に過ぎないのですが、それが単なる共同事業を超えて個人の前に超越的に立ちはだかることになります。
灌漑や護岸工事の動員は拒むことはできないでしょう。個人の都合を優先して参加しなければなりません。そして、水の配分を受ける権利は、農地とは別のものとなり、部外者がその権利を得ることは難しくなります。だから、いったん農地を離れると、流浪の民となってしまいます。人々は、ますます農地に縛られ、支配を受けるようになりました。
ゲルマンの場合、前章でお話しましたように、「公」といっても個人対個人の私的関係の延長線上にあり、「公」は、いわば個人の意思の総和として社会は運営されました。ところがアジアでは、「公」は明らかに私的なものとは次元が異なる超越的な存在として個人を抑圧し、支配の具として利用されることになりました。
禹の伝説
文明の先駆けとなった黄河の流域は、まさに典型的なアジアの様相を呈して社会が形成されました。
黄河の治水は有史以来の大事業で、今も中国の重要な政策課題となっています。
この治水に始まる国づくりの由来を端的に物語る伝説が、中国にあります。「禹の伝説」です。この伝説は、禹が始祖となった夏王朝にまつわるものです。
「中国の歴史・上巻」貝塚茂樹著・岩波新書からその箇所を要約すると、
・・・・禹の父の鯀は尭帝の命を受けて洪水を治めようと、竜王の宮殿へ行き、河の道筋を書いた「河図」を盗み出したが、発覚して竜王の罰を受けました。息子の禹は、その「河図」をたよりに河道をつけたところ洪水は治まりました。そこで一帯を九つの州に分けて、それぞれの土地に応じた貢物を中央の夏王朝に納める「禹貢」の制度をうち立てました。
黄河が平野地帯に入ると扇状の沖積地をつくります。そこでは、河が分流していくつもの中洲ができます。中国古代の華北農民は、この肥沃な中洲に住みつき、農業を始めました。彼らにとって、いくつにも分岐した河道を整える治水灌漑が何よりも重要でした。その事業の先頭に立った禹が王となって、各州から貢物を徴収する中央集権体制を築いたことを伝える物語です。・・・・・
この禹の伝説は、NHK報道番組「大黄河」で紹介されました。そして、「黄河(水)を治める者が天下を治める」という諺の由来を伝えていました。
ゲルマンの王は、「人」の了解を得てはじめて天下を治めることができました。ところが黄河の流域では、「人」ではなくて「水」を治める者が王になる・・・・・日本もアジアの一角にあって、この諺がそのまま通じる社会になりました。
尭舜の世
このように黄河の流域に始まる中国の初期の歴史について、もう少し付け加えましょう。
この時代、徳の優れた聖人君子が五人あり、五帝と言います。その最初の帝を「黄帝」と言い、黄河の流域に住みつき、漢民族をまとめて初めて中国を統一したと伝えられます。黄帝の名は、黄色の水が流れる黄河に由来します。五帝のうち5番目の帝は、「舜」です。「禹の伝説」でお話したように、舜は黄河の治水事業に成功した禹に王位を禅譲しました。その舜は、親孝行に努めた立派な人ということで前帝の「尭」の大臣に抜擢され、そのとおり徳を持って人々を導いた功績が認められ、尭から王位を禅譲されました。尭もまた、徳の高い人で、倹約に心がけ、人民の平安な暮らしのために尽くしたと言われます。この尭と舜は聖人君子としてあがめられ、「尭舜の世」と言えば、理想的な太平の時代の模範とみなされました。
しかし、この時代は「禹の伝説」と言われるように、資料的根拠のない伝説の時代です。時代が下り、殷の王朝の時代になると、史実もある程度解ってきますが、この時代でさえも、亀の甲を焼いてできた裂け目で天命を占う亀トが行われ、君子以下全てがこれに従うというような没個人的社会でした。このような時代よりもさらに前の時代に、人徳をもって秩序が保たれた社会があったとは思えません。平穏な秩序は、徳によると言うよりも、専制的な支配秩序の下で人々は奴属的な状態に置かれていたためではないかと思われます。にもかかわらず、この「尭舜の世」を徳によって治められた理想の時代と高く評価したのは、後の時代になって生まれた儒教でした。
その儒教を興したのは、孔子でした。
孔子
孔子が登場した時代は、個人の実力が発揮される社会となり、弱肉強食で世の秩序は乱れ、戦乱が相次いでいました。
この乱れた社会をいかに秩序ある平穏な社会に取り戻すか、支配する側にとって大きな悩みでした。そこで孔子は、人のあるべき徳の道を示し、徳をもって秩序を正し、国を治めるよう、諸侯を説いて回りました。
孔子が説いた人のあるべき道とは、「君、君たり、臣、臣たり、父、父たり、子、子たり」というもので、人にはおのずと身分に上下があり、それぞれの身分に応じて礼節を守る・・・・・これによって世の秩序や和を保つというものでした。
この儒教を学んだ有能な官僚が臣として君に忠義を尽くし、君に代わって人民を導き治める・・・儒教は、為政者にとって好都合の論理でした。そして、戦乱の世を治めるためにも好都合でした。かくして、「公」と官僚が個人を超越した優位な立場に立つ特殊な社会が生まれてしまったのです。
このような政治思想は日本にも持ち込まれ、少なからず今も引きずっています。
和
儒教は、秩序を維持するため「和」を大切に考え、我慢・忍耐を美徳として教えます。共に生活するために和が大切なことは言うまでもないことですが、和を大切にするあまりに、問題があっても提起しない・・・・とやかく言う人は我慢・忍耐のできない人とみなされる。そして、社会の問題が「誰が悪い、これが悪い」と個人の問題に摩り替えられ、問題解決を先送りする・・・・自浄能力=自治のない社会になる要因になりました。
もしもこれがゲルマンの場合、はっきりと意思表示して話し合い、問題解決を図るでしょう。しかし、それでも自分の意に反するときには屈せず、戦うか、離れる(今日ならば、裁判に持ち込む)・・・・・意に反しても我慢して従うことは、彼らにはできないことです。
このようなゲルマン(欧米)流の考え方の是非について、いろいろ意見があるところです。伝統的な日本の考え方からすれば馴染めないところです。
・・・・ともかくここでは、民族の伝統として双方に大きな違いがあることを理解して欲しいと思います。
第五章 古代日本
天津罪
日本の典型的な農村の風景を思い浮かべてみましょう。
谷水を集めて流れる一筋の川。
その両側に農地が広がる。
稲作は、谷合の水を集めて水田を拓き、さらには川を堰き止めて水を引き営まれるようになりました。
この絵図は、第一章で紹介した古ゲルマンの森の生活の絵図と比べ、大きな違いがあることにお気付きでしょう。
このような古代日本の稲作社会にとって、灌漑施設や稲作の秩序を守ることが最大の課題でした。
そのため、灌漑施設の破壊行為や農地の侵犯行為が最も重罪とされました。そうした罪を「天津罪(あまつつみ)」と言い、大祓の祝詞(おおはらえののりと)や古事記・日本書紀に出てきます。田の畔を壊す「畔放(あぜはなち)」、水路を埋める「溝埋(みぞうみ)」、用水の樋を取り外す「樋放(ひはなち)」、そして他人が既に種を蒔いている田に重ねて種を蒔く「頻蒔(しきまき)」、他人の田の稲を収穫する「串刺(くしさし)」がありました。
これらは農耕に関する罪ですが、天津罪にはもう一種類、宗教行事を妨害したり、政治的権威や支配秩序を乱す罪がありました。生きている馬の皮を剥いで投げ込む「生剥(いけはぎ)」や「逆剥(さかはぎ)」、祭場に糞尿をまきちらす「糞戸(くそへ)」です。
「天の岩戸」・「八岐大蛇」
この天津罪にまつわる神話があります。「天の岩戸」です。
・・・・伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神に、三人の子がありました。三人の子のうち、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は高天原(たかまがはら)の統治を、月読命(つくよみのみこと)は夜の統治を、須佐之男命(すさのおのみこと)は海原の統治を任されました。
ところが、須佐之男命はその任が不満で・・・・・営田(つくだ)の畔をきり、溝を埋め、神殿に糞をまき散らし、さらに馬の皮を剥いで機屋に投げ込み機織女を驚死させるに及び、天照大御神は天の岩戸へお隠れになりました。
そのため世は真っ暗になり、人々は困り果てました。そこで八百万(やおよろず)の神々は相談し、天宇受売命(うずめのみこと)に賑やかに踊らせ、天照大御神が何事かとわずかに岩戸を開けたとき、天手力男命(あめのたちからおのみこと)の強い力で天の岩戸を開かせます・・・・畔放、溝埋、糞戸、生剥などの重罪を犯した須佐之男命は、高天原を追放されました。
(蔵迫神楽団 「天岩戸」 平成19年6月16日千代田神楽競演大会)
さらに物語は、「八岐大蛇(やまたのおろち)」の神話に続きます。
・・・・須佐之男命が失意のまま出雲の国の簸の川(ひのかわ)にさしかかると、川上から流れる箸を見つけました。人が住んでいるに違いないと川をさかのぼると、老夫婦と娘が嘆き悲しんでいました。
翁が言うに、彼らは簸の川から樋を掛けて水を引き、千町万町の田畑を拓いて沢山の収穫を得たが、八人の娘のうち七人が年毎に、川上に潜む八岐大蛇に呑みとられ、今年は残る櫛稲田姫(くしいなだひめ)の番になっている。もし拒否すれば、大蛇は雷雨を起こし、洪水で田畑は流される。
・・・・須佐之男命は、大蛇に酒を飲ませて退治し、櫛稲田姫をめとります。
八岐大蛇とは、洪水の際に平野をいくつもに分岐して暴れる川の化身で、上流で山岳民族が砂鉄を採取するため大量の土砂が田畑に流れ込み、いわば公害のように稲作農民を悩ませました・・・・
筏津神楽団 「八岐大蛇」 絵・植野精華
高天原では重罪を犯した須佐之男命ですが、出雲の国では稲作農民を助けました。
豊かな太陽の恵みに感謝するとともに、稲作を基盤とする社会の秩序を整え、民族を護る・・・・・日本民族の由来を物語る神話です。
公地公民
農民は農地に縛られ、ゲルマンのように簡単に移動することができない状況に置かれました・・・・・
そのような状況だから、班田収受の法を敷くことができました。国中の農地を公地とし、国中の成人を公民として、男子には2反、女子にはその3分の2を割り当て、五公五民というような高い税を課しました。
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
そのような農民の辛い生活を詠んだ歌が、万葉集にあります。山上憶良(やまのうえおくら)の貧窮問答歌です。
(短歌) 「世間を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
この歌は前歌(長歌)に続くものです。その意味合いは、
・・・・天地は広いと言うのに、自分たちは閉じ込められ、貧しい生活を送っている。税が払えないと役人がむちをもって催促に来る。飛んで逃げたいが、鳥ではないのでそれもできない・・・・
律令
この時代、中国の隋や唐にならって律令制が敷かれました。
天皇を支える官僚組織として、中央に神祗、太政の2官が置かれ、太政官のもとに中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内の8省が置かれ、弾正台が官人を監察し、衛門、左右衛士、左右兵衛の5衛府が天皇に直属して軍事や警察の任務にあたる。地方は国、郡、里の3段階に区分けされ、中央から国司が派遣され、在地の有力者を郡司、里長として従え、地方を治める・・・・・というものでした。
かくして地方は、このピラミッド型の中央集権体制下に置かれ、地方は中央に従うのみで地方の団体自治は乏しいものでした。
・・・・中央は地方から税を吸い上げることに専念します。庶民の生活や生産に関する諸問題の解決は地方の裁量でしたが、地方の社会は豪族や有力者の支配下にあって住民の政治参加の道は閉ざされ、住民自治の点でも寂しいものでした。
道徳
しかしながら、そうした天皇を頂点にいただく中央集権体制が簡単にできあがったわけではありません。
日本の統一過程で、まだまだ中央、地方の豪族の力は強く、争いは絶えず、世情は不安定でした。
そこで導入されたのが、儒教でした。その先頭にたったのが聖徳太子でした。
聖徳太子が定めた「十七条の憲法」の第一条「和を以て貴しと為す・・・」は、論語第一巻学而篇「有子曰わく、礼はこれ和を用うるを貴しと為す・・・」から引用したものと言われます。中国で戦乱の世を治めるため孔子が提案した儒教が、同じように政情不安なこの時代の日本に導入されたのです。
この儒教の教えは民衆に対しても指し示めされました。
この時代、人々は「飛び立ちかねつ」の状態にありましたが、それでも飢饉や役人の仕打ちに耐えかねて逃亡したり、山野に隠れたりする者がありました。そうした人たちに対して、儒教道徳をもって戒めています。
山上憶良は遣唐使として長安に学び、国司として地方の政務に当たりました。山上憶良は「貧窮問答歌」の中で大君(おおきみ)から授かった農地を捨て、親や妻を捨てて山沢に隠れ住む民を、君臣、父子、夫婦の道に背くものだと儒教の教えで諭しています。このような役人の姿勢は、山上憶良に限らず、役人共通のものとなっていました。
このような時代の日本の人々を、イギリスのロビン・フットたちと単純に比較するのはいかがとは思いますが、同じように国司や代官の徴収に耐えかねて山野へ逃げ込みながらも、ロビン・フットたちは弓矢を取って戦い、あるいは村人は勇敢なロビン・フットの物語をバラード(民謡)として口ずさみ、抵抗の精神を守り伝えました。
日本のこの時代、住民の側にそのような勇敢な物語はありそうもなく、惨めなものだったようです。
東風吹かば
この時代、儒教は役人にとって必須科目でした。
あの有名な菅原道真も儒学で仕える家筋にありました。その道真が、讃岐の国の国司の時、友人に送った「寒早十首」と題する詩の中で、他国に逃げたが捕らえられ送り返された人にとって、冬の寒さは厳しい、土地は痩せ、実りは乏しく、うろうろするばかりで、身体は痩せこけている・・・・・人々の惨状を伝え、慈悲の政治を訴えています。
しかしその一方で、讃岐の国へ赴く時、中央を離れ地方に下る我が身を嘆き、地方の役人たちがつきまとうのも煩わしいと愚痴をこぼし、一日でも早く都へ帰りたいと思いを募らすのでした。
都へ帰った道真は、次々と出世して右大臣になりますが、政敵の讒言のため大宰府へ左遷されました。その時、大宰府で詠んだ和歌「東風(こち)吹かば・・・」は、ただ単に都へ帰りたいというような生易しいものではなく、出世の道が絶たれ遠く地方へ流された・・・・必ず中央へ復帰するからそれまで梅の花を咲かせて待っていて欲しいという道真の怨念が歌に込められ、都の人々にも道真の無念さがよく分かったが故に、道真の怨念におののき「天神信仰」として後々に伝えられることになりました。
自治の暗黒時代
イギリスのアングロ・サクソン人によるイングランド王国の時代を「自治の黄金時代」と呼ぶならば、日本におけるこの時代は、地方に団体自治も住民自治もない中央集権体制下にあり、「自治の暗黒時代」と呼ぶことができるでしょう。
このような官僚支配体制のもとで、役人は官職に就き、位を昇ることに汲々としていました。そんな役人の舞台裏をのぞく描写が、清少納言の「枕草子」にあります。
・・・・興ざめなものにもいろいろあるが、役人の発令の日に選に漏れた人の家もそうだ。任官を願い寺社に参拝し、任官となれば使ってもらおうと人々が集り、酒を飲みながら騒いでいるのになかなか沙汰がなく、やがて一人去り、二人去り、去るわけにもいかない古参の家来が来年に任期が来る国司を指折り数えてうろついているのも気の毒なことだ・・・・
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