抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信


   シリーズ11    先の大戦を忘れない      ・



 二宮金次郎さんのコンクリート像

  
元の八重西小学校の二宮金次郎の像は、
  最初、銅像でした。
  昭和14年3月9日に建立され、
  3月21日に除幕式が行われました。
  寺原(水崎)の大橋茂平さんの寄贈です。
  
  ところが戦火は拡大して金属が不足してきたため、
  国策として銅像の供出を命じられました。
  昭和17年3月27日、
  二宮金次郎の銅像に赤いタスキが掛けられ、式典の後、
  寺原の住民や学童ほか多数に見送られて出征しました。

  そこで、茂平さんの息子の亮一さんは、
  銅像の製造元に依頼してコンクリート造の像を製造し、
  昭和17年9月30日に寄贈されました。

  像の台には、
    「至誠 勤労」とあります。


   ・・・・優しいお顔です。
    銅像もきっとそうだったのでしょう。
       そんな金次郎さんが、
  決死の出征(溶解)とは本当に惨いことでした。

                 二宮金次郎

     戦時中、生徒は毎週1回、金次郎さんの前に並んで、二宮金次郎の歌を歌ったそうです。
      戦後、私は母の里に行き、この像の下で遊びました。



    

 溝口の元の美和東小学校にも二宮金次郎さんがおられました。
 雪の中、雪も背負っておられます。・・・・今は、美和東文化センター
 この二宮金次郎さんもコンクリート製
 1938年(昭和13年)7月17日に溝口在住の折口直太郎さんが銅像を建立・寄贈
 1942年(昭和17年)2月8日戦争による金属回収のため銅像を供出
 戦後、コンクリート製の像を建立
 ・・・・・この後、すっぽりと雪に覆われました。この写真は、地元の方からいただきました。

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           蔵迫の261号線沿いの上田武三宅に隣接の慰霊碑と遺品等の収蔵庫

        12月8日は、真珠湾攻撃の日・・・太平洋戦争が始った
      かみた
 蔵迫の上田定(上田武三さんの兄)兵曹長は、特殊潜航艇に乗り込み、
 真珠湾に潜航、魚雷で米戦艦を轟沈させたが母艦に帰ることは出来なかった・・・
 上田兵曹長は、軍神として崇められた
                          ・・・・というように聞かされていた。

 ところが、この12月6日のNHKテレビ「真珠湾の謎・悲劇の特殊潜航艇・・・ハワイの海底で秘密兵器を発見、奇襲の真相」によると、上田兵曹長らが乗ったと思われる特殊潜航艇が、真珠湾の沖5kmの海底400mで発見された。(参加した5艇のうち、既に4艇は発見されている。)
 魚雷はつけていなかった・・・発射したものかどうかは不明
 潜航艇は、切断されていた・・・攻撃されて沈んだのではなく、廃棄されたようだ。
 ・・・・他の4艇の中に、方向を誤って浜に乗り上げ、だ捕された潜航艇があった。米軍は、この潜航艇を確保して調査したので、上田兵曹長らの潜航艇は不要だったのだではないか・・・

 一方、撃沈されたと言われる米主力戦艦アリゾナは、今も真珠湾にそのまま沈んでいるが、魚雷の攻撃を受けた形跡はない。戦闘機によって沈没したとされている。

 真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄の日誌によると、潜水艦の参謀から、アリゾナ轟沈を特殊潜航艇の戦果にして欲しいと頼まれた・・・そして、特殊潜航艇の戦果として報じられ、これに乗り込んだ兵士は軍神としてとして崇められ、やがて後の神風特攻隊につながっていった。

 浜に乗り上げた潜航艇の酒巻少尉は捕虜になった。そのため、軍神として扱われず、一緒に写った写真からも削り取られた。

 上田定さんが生きておられれば90歳代
 ご遺族の上田武三さんも、このテレビをご覧になったそうです。
 テレビ放送の翌日、お参りすると、慰霊碑にたくさんの花がたむけてありました。

 あらためて、戦争の無残さ、そして事実がゆがめられる怖さを思い知らされました。

                                      参考  惨烈の時代
                                           終戦と放送
                        ほか、関連のホームページはいろいろあります

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   かえってきた つりがね 

     

     志路原の浄土寺の釣鐘
 
 1942年に、兵器を製作する原料にするため、供出させられました。
  鉄砲の弾にされたのかと諦めかけていたところ、
  1994年に滋賀県の工場から連絡があり、現存していることが分かりました。
  翌年、町をあげてその釣鐘を迎えました。
  その釣鐘は、戦争の悲劇を知る証人として、
  「平和を願うつり鐘」と名づけられました。
  浄土寺の本堂の廊下に安置されています。
     
双葉保育所の園児の鼓笛隊が演奏する中、
      保護者が釣鐘を担ぎ、小学生が前を引く
      戦争で、肉親を失った方も多い。
      出征した肉親が帰ってきたような気持ちで、涙ながらに迎える人もありました。
      お爺さん、お婆さんは、釣鐘をさすりながら、
      「鉄砲玉になって、人を殺さずに済んでよかった。」
      浄土寺の鐘の音は、村人の生活に欠かせないものでした。
      被爆してやっとの思いで帰られた娘さんが、
      うわごとに「ゴ、ゴ・・・」。
      付き添う人が「ゴーン、ゴーン」と言うと、その娘の顔がほころんだ。
      そのようなことから、戦後間もなく新しい釣鐘がかけられました。

  このことを子どもたちにも解かるよう末永く伝えようと、
  絵本「 かえってきた つりがね 」(作・児玉辰春 絵・長澤)が出版されました。
  図書館、公民館にあります。 


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戦艦大和
   護衛艦に乗務され
     戦死された海軍兵士
        最後の手紙

遺族のお家の仏壇に
  お写真とともに納めてありました

母上様
  其の後御達者でお暮らしですか
 ・・・・・
  雪は解け氷は解けて増産に
 意気込む春が訪れた事でしょう
 ・・・・・
  私は都合に依り工場を変わり
 直に出張する事になりました
 今迄は大工場(戦艦大和のこと)
 で体の余裕も充分ありましたが
 唯今は小さな工場(護衛艦のこと)
 で其の仕事も初めてではあるし
 ・・・・・
 今日は下宿も只一人で静かです
 電灯の下で筆を握り静かに目を
 閉じて遠い過去を思い浮かべては
 ・・・・・
 本日はなつかしいお便りを手にして
 どんなに嬉しかったかしれません
 何んと言ってもお母さんの便りが
 一番の楽しみです
 ・・・・・
 此の度工場を変わって
 色々と務めも重要となり
 自分は今迄以上頑張って
 御国の為に尽す覚悟です
 ・・・・・
 自分に手紙を下さるのでしたら
 当分の間前の工場宛で下さい
 ・・・・
      母上様    
   」
  (当時、手紙には検閲がありました。)

昭和20年4月6日、帰りの燃料がない
特攻作戦で艦隊は出撃、翌7日、大和は
米軍の総攻撃を受け九州沖にて沈没
大和ミュージアム外戦艦大和リンク集


同じように大和に乗員され、生還された
八杉康夫さんのホームページ


  映画 男たちの大和


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  子どもとお年寄りの集いで、「原爆」を学ぶ

    

 8月6日。筏津地域の小中学生と老人クラブが交流
 外は暑いので、室内用のグランドゴルフ
 そして、おやつの後、65年前の原爆のことを、
    直接、横川駅近くの踏切で被爆したお年寄りの話
    疎開していたが、4日後に袋町の我が家に帰り、跡形もなく、
                      小学校の黒板に伝言が書いてあった話
    母の里へ疎開していたが、父は出征中、母は兄姉のため市内にいて爆死した話
    防空壕での話
 にぎやかに騒いでいた子どもたちも、静かに聞いていました。



    
                              西楽寺の横を進む
 戸谷の琴谷を西へ林道岩見路線から峠を越えて溝口の六路谷へ。
 この道は、広島から芸北へ通じる昔の街道。
 戦時中は、兵隊さんが背嚢を背負い、銃を担いで、この坂を上り八幡の演習場へ向かったそうです。
 戦後もしばらくは、歩いて峠を超える者があったが、自動車の普及とともに途絶えました。
 今、この峠に広域農道を建設中。一部はトンネルになります。
 再び、主要な道となります。


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