抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信

  
  シリーズ 24   ・
    時代を映す蔵迫・中山・舞綱       ・

 * 地域にお伺いした折に取材したものです。地域外の者が適宜に地域を紹介することをお許しください。

           おきつね
 中山には、吉川興経の墓がある。
 布川(深川)で殺害された興経の首を、忠犬がくわえて新庄に向かったが、目前の中山で息絶えた。
 首は転がって止まった。そこに興経の首を埋めた。そのことから、興経の墓の右上に忠犬の墓があると…   吉川興経

    
      中山から日山城への登城路脇にある常仙寺跡の興経墓所、その左上に犬塚がある

 興経には、もう一ケ所、墓があります。 布川(深川)の地を訪ねました。

     
                布川(深川)にある吉川興経の墓

 吉川家と毛利家は深い姻戚関係にある。もちろん、時代からして政略結婚だ。
    もとなり
 毛利元就は、興経の祖父の吉川国経の次女妙玖を娶った。吉川興経の母は、毛利元就の妹である。

 その頃、戦国の世は進み、中国地方は東の尼子と西の大内に二分された。その中間の地にあった吉川と毛利は、両勢力の狭間に揺れた。
 一方が勢力を張ればそちらにつき、他方が勢力を張ればそちらにつき ・・・生き延びるためにはやむを得なかった。
                 あまこ
 元就も興経も、はじめは尼子方についた。ところが、元就が大内側に転じた。そのため、骨肉合い争うことになった。
 大内側が優勢になり、元就は間を取り持ち、興経を大内側に引き込んだ。しかし、尼子方が優勢となると、興経は再び尼子方につく。
 やがて大内方がこの地域で大勢を占めるようになり、元就は大内方の許しを得て、興経を布川(広島市深川)に隠居させ、元就の次男の元春を吉川家の養子に入れた。

 しかし、依然として興経は尼子方と通じているという風説が絶えなかった。遂に、元就は決断して、興経暗殺の刺客を送る。
 ・・・・以上は、概略です。詳しくは、大朝町史上巻をご覧ください。
    小生は歴史家ではないので、厳密さに欠くことはお許しいただきたい。ざっとした話です。
 以下、深川の現地に臨場して、ドラマチックに想像してみました。

 「天文19年9月27日の夜。旧暦の27日といえば、闇夜。
 元就の刺客は興経の住いを急襲した。興経は、戦場を駆け廻った武勇の人として知られた。あらかじめ内通者を送って、興経の刀の刃を潰し、弓の弦を切った。それでも興経や忠臣は必死に抵抗した。
               
せんぼうし                    かしわばりょうい
 斬り合いの最中、子の千法師は乳母に抱きかかえられ、側室の柏庭了意と共に、畦道を裏山へ脱出した。寝間着姿で裸足のまま・・・ 闇夜だがぬかりなく、妻子の見張り役が手配されていた。
 「こちらに逃げたぞ」・・・興経を倒した刺客は、後を追った。
 山の斜面は急だ。乳母は、幼児の手を引き、お尻を押し上げ、よじり登る。しかし、中腹にある街道の一歩手前で、千法師と乳母は捕らえられ、その場で殺害された・・・・駿河吉川の直系は、ここで絶えた。
                                            
かいどう                やいば
 千法師は可愛そうだが、自分は女だ・・・側室は我が子を置き去りに、街道を北へ走った。しかし、刺客の刃は、女とて容赦しない。執拗に追う。
              
             かるが
 柏庭了意は、数キロメートル先の狩留家で捕まり、そこで殺害された。
   ・・・狩留家には、昔の街道の傍に、地元で「おんぼの墓」と呼ぶ墓があるそうだ。これが側室の墓という確証はない。
  
 興経の忠臣手島兄弟も殉死した。その手島兄弟の墓は、興経の墓の近くにある。


 そして・・・・そして舞台は中山
 中山の日山登山道横に興経の墓がある。
 その言い伝え・・・興経の愛犬が、主君の首をくわえて、深川から小倉山城へ向かったが、ここで息絶えた。興経の首は斜面を転がった。そこに首を埋めたため、忠犬の墓の下に、興経の墓がある・・・・と。子どもの頃は、そのように聞かされた。
 また一説によると、興経に白石、松風という従女がいて、そのいづれかが興経の首を携えて小倉城に向かったが、中山にたどり着いて遂に力尽きた・・・・と。

 後に、歴史家から教えていただいた話
 刺客を送った元就が、首実検をしない訳がない。興経親子の首は、吉田の郡山城へ送られた。本来ならば、小倉山城もしくは歴代の祖先が眠る吉川家の墓所に埋葬したいところだが・・・元春は興経に替わって吉川家の跡を継いだ。小倉城には、それを素直に受け入れない勢力があった。元春が小倉城から日山城へ移った理由の一つとも言われる。そのような状況で興経の首級を新庄に渡せば、吉川家の感情を逆なですることになる。そのため、元春の目が行き届く日山城下に埋葬した・・・と。
 左上の墓は、興経が幼い頃から仕えた忠臣ではなかろうか。その忠臣につながる一族があるため、名前を伏せたのでは・・・そして、忠犬の仕業ということにしたのでは・・・
  
 余談
  戦国の世は、強い者が勝つ弱肉強食の時代。状況次第で、主君を見限り、優位な方につく行為は、あちこちで見られた。時に、主君を倒すこともあった。忠義を大切にする道徳は、江戸時代になって広められた。忠臣は忠犬の話にして、後に作られたのではないか・・・と。

    
         興経の墓より北の椎村山の中腹にある千法師と乳母の墓

 万徳院春を食べる会は、蔵迫、中山、舞綱の方々で毎年開催。
 春が遅くて山菜集めに苦労する、雨にもやられる…苦労は多いようですが、地域一体となって頑張っておられます。

       

        平成19年 第6回 万徳院 を食べるかい!
                                       4月22日
 暖冬で、今年は春が早いと思って、例年より開催日を早めたら、意外と寒くて、山菜を集めるのに苦労したとか
 おまけに・・・・・それでも、地域の方々の協力で、賑やかでした。


      
                   
      平成22年第9回万徳院を食べるかい
 今年は寒いので、木の芽を求めて、鈴張の方へ出かけたとか・・・・今年は良い天気で賑わいました

 万徳院は、吉川元春の嫡男元長が建立した。元長の祈りの場となり、没後は元長の菩提寺となった。 万徳院跡(広島県の文化財)
 しかし、関が原の戦いの後、吉川家が岩国に移封となり、万徳院も岩国へ移った
                      つぼね
 元春の妻、元長の母は、新庄の局。熊谷信直の娘である。この時代、武将の多くは側室を持ったが、元春は側室を持たず、ひたすら新庄の局を愛し、大切にした。それに感じた親の熊谷信直は、元春に味方して尽力した
 ・・・・新庄の局は美人とは言えなかった。にもかかわらず、元春が申し出て娶り、大切にした。一層、熊谷信直は意に感じて元春に味方した。
 この話は、後に作られたのではないかという説もある。     新庄の局

 新庄学園は、明治42年に吉川元春が贈位された際、生きた記念を創ろうと、地域の方が協力して発足した。当時、この山間の地に、いわゆる義務教育後に学ぶ男子の学校さえもない時代に、なぜ、女子教育の私学を発足させたか・・・・
 この点については、「新庄学園百年史」にありますが、一説によると、新庄の局は、良妻賢母で、吉川家を盛り立て、妻そして母の鏡と伝えられた・・・・明治のことです。そうしたことが教育の大きな目標とされました。
 元春の信条の「至誠・質実・協力」とともに、この新庄の局の精神が校風として受け継がれ、特に女子寮の伝統として今日に伝えられている。

 そして、今日の「万徳院を食べるかい
 ・・・新庄学園の吹奏楽部が高々と吹奏楽を披露しました。(男子もいますが、女子が主体)
 女子生徒が リズムの合わせて、元気ハツラツとダンスを見せてくれました。(写真・ステージ前)
 新庄の局は草葉の陰で、たまげて・・・いかばかりか、お慶びのことか・・・


        

 岩国市の万徳院へお参りしました
 関が原の戦いの後、吉川氏が岩国へ移封され、万徳院も移されました・・・・・・幾度か再建されたもので、舞綱の万徳院を模したものではない。舞綱で復元された万徳院より一回り小さいようです。舞綱時代の物が残されているか、また別の機会に。
 万徳院の由来について、ホームページがありましたので紹介します。Senngoku Samurai 吉川元長 第5回 万徳院


















 殿様のお風呂
    舞綱の万徳院跡に復元された中世の蒸(むし)風呂
 写真の左側は、かまど  釜で湯を沸かし、蒸気を部屋に送る。白衣を着て、戸を閉め、暗い室で、静かに瞑想。じわじわと汗が出て、サウナ状態 ・・・・・ まさに 殿様気分です。右の写真は、千代田町教委発行のパンフから借用しました
 地元の方により、月に1回・日曜日にお風呂を沸かしていただけます。無料です。事前に教育委員会へお問い合わせください。


   
                               蔵迫の明知の溜池

 江戸時代の文化年間のこと。
 浅野藩のお代官様が、山縣郡内を巡視された。お駕籠に乗って、蔵迫村から川戸村へ向かう。その途中、狭い道で、馬を引く若者に出会った。馬には、米俵二俵を負わせていた。
 「下におれ、下におれ。」
 道がが狭くて馬の逃げ場がない。とっさに若者は、米二俵を負わせた馬もろとも両腕に抱えて小溝を越え、道をあけてお代官のお駕籠を通した。
 お代官はその怪力に驚き、若者を呼び寄せ、「あっぱれである。褒美をとらせる。何なりと言うてみよ。」
 若者は、「さして功をなした訳でもありません。しかし、お言葉に甘えてお願いしたいことがあります。この地は灌漑用水に乏しく、旱害に苦しむこと再々です。どうか、溜池を造ることをお許し下さい。」
          あけち
 かくして、この明知の溜池ができました。
                           あらぶんどう
 この若者は、蔵迫村の上杉家に生まれた荒分銅である。彼は力持ちで、井ケ尻の築堰の際に運んだ巨石が川にあるという話だ。
  ・・・・名田富太郎著「山県郡巡り道中記」から


       
       蔵迫の261号線沿いの上田武三宅に隣接の慰霊碑と遺品等の収蔵庫

        12月8日は、真珠湾攻撃の日・・・太平洋戦争が始った
      かみた
 蔵迫の上田定(上田武三さんの兄)兵曹長は、特殊潜航艇に乗り込み、真珠湾に潜航、魚雷で米戦艦を轟沈させたが母艦に帰ることは出来なかった・・・一命を賭した戦功から、上田兵曹長は、軍神として崇められた・・・・というように聞かされた。

 ところが、この12月6日のNHKテレビ「真珠湾の謎・悲劇の特殊潜航艇・・・ハワイの海底で秘密兵器を発見、奇襲の真相」によると、上田兵曹長らが乗ったと思われる特殊潜航艇が、真珠湾の沖5kmの海底400mで発見された。(出陣した5艇のうち、既に4艇は発見されている。)
 魚雷はつけていなかった・・・発射したものかどうかは不明。潜航艇は、切断されていた・・・攻撃を受けて沈んだのではなく、廃棄されたようだ。
 ・・・・他の4艇の中に、方向を誤って浜に乗り上げ、だ捕された潜航艇があった。米軍は、この潜航艇を確保して調査したので、上田兵曹長らの潜航艇は不要だったのだではないか・・・

 一方、撃沈されたと言われる米主力戦艦アリゾナは、今も真珠湾にそのまま沈んでいるが、魚雷の攻撃を受けた形跡はない。戦闘機によって沈没したとされている。

 真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄の日誌によると、潜水艦の参謀から、アリゾナ轟沈を特殊潜航艇の戦果にして欲しいと頼まれた・・・そして、特殊潜航艇の戦果として報じられ、これに乗り込んだ兵士は軍神としてとして崇められ、やがて後の神風特攻隊につながっていった。

 浜に乗り上げた潜航艇の酒巻少尉は捕虜になった。そのため、軍神として扱われず、一緒に写った写真からも削り取られた。

 上田定さんが生きておられれば90歳代。ご遺族の上田武三さんも、このテレビをご覧になったそうです。
 テレビ放送の翌日、お参りすると、慰霊碑にたくさんの花がたむけてありました。

 あらためて、戦争の無残さ、そして事実がゆがめられる怖さを思い知らされました。
                                      参考  惨烈の時代
                                           終戦と放送
 ほか、関連のホームページはいろいろあります


         
                        黙々と中山峠を行進訓練中の自衛隊員
    自衛隊 行進訓練
                   海田自衛隊 第46普通科連隊第2中隊 50名
 平成18年10月
   26日 千代田 道の駅 夕方6時出発 国道261を大朝へ 運動公園で休憩
             川戸を下って壬生経由 千代田 道の駅 帰着 27日朝5時の予定
   27日 本隊が装備する火器・車両、人命救助システムの展示、携行食等の試食

 自衛隊としては、定期的にアチコチで実施する行進訓練だそうですが、本町では始めて


         


           養護老人ホーム 仁愛園    (蔵迫)

               町議会福祉保健常任委員会で訪問しました。
     
 定員50名、今、21名が町内からとのことです。
 (町外からについては、出身の市町から経費を出していただきます。)
 歴史は古く、昭和26年の創立  当時としては、先駆的な事業でした。
 養護老人ホームには、いろいろな事情で居宅での生活ができない人が入所されます。今日では、特別養護老人ホームが多くなっています。「特別」の意味は、早く言えば、介護等の必要な方が入所。ところが今日では、この養護老人ホームの中にも、介護が必要な方が多くなってきたそうです。
 以前は、川の向こう側にありましたが、国道建設で移転。
 旧大朝町・千代田町・豊平町3町で組織する山県東中部福祉衛生組合で運営してきましたが、合併により、北広島町の直営になりました。
 入所を希望される方は、それぞれの市町にご相談くださいとのこと。    

       

  仕掛け花火 ?
     蔵迫の老人ホーム仁愛園  夏祭り
         入所者やその縁者、そして地元蔵迫の協力で恒例の夏祭り
            太い紐に灯油をしゅませて点火・・・・・・ちょっとした仕掛け花火


 旧蔵迫小学校
    


 小学校はバイパス(国道)用地に・・・正門がバイパス脇に残る。隣に学校の歴史を伝える記念碑
 その中に、「明治8年5月5日 尚實舎開校・・・・・・・・昭和45年4月11日 八重小学校へ統合」とある
 広島方面から志路原川に架かる高い橋を渡ると、国道は直角に右へ大朝方面へ、左の山寄せに蔵迫小学校があった。


     

 蔵迫保育所
 大朝方面や志路原方面につながる便利さから、域外の園児も・・・・敷地が狭隘なため、新築移転を計画。


    

 千代田の FUNKY TALKY さんで食事をしていて、この本に出会いました。
 著者は、市頭たつ子 さん・・・・・市頭眼科医院の奥様です。

 ・・・パーティーの中でも「ホームパーティー」について、その意義や準備、マナー、食事などを具体的に紹介されています。
 ホームパーティーとは、「家に友人を招いて食事会」・・・ピッタシの日本語がありません。それはなぜか? 

 少し講釈させてください。
 もともと日本には、他人を我が家に招いて食事会を開く習慣がありません。古来より日本の「家」は閉鎖的です。定住民族の日本人にとって、家は言わば「城」でした。地域社会の中でしっかりと家を守リさえすれば安住できました。結婚式や葬儀など「家」のための特別の行事以外に、他人を招いて食事をすることはありません。

 ところが、時代は変わりつつあります。
 人の活動は広域化し、移動も活発になりました。そして、人々は互いに親しいを求めて交流するようになりました。そうした交流は、都市部ばかりでなく、農村部にも始まりつつあります。庭に芝や草木を植え、ベランダを造り、テーブルを設けたり、家の新築や改装の折には、食堂と居間をくっ付けて広く取り、大勢が集れるようにしたり、囲炉裏を造ったり、他人を招くことを考えるようになりました。
 ・・・・都市から移り住む人の多くは、そうした工夫をして親しい人との交流を楽しみにしておられるようです。近年では、従来から農村部に住む人も、田舎の良さを見直し、互いに行き来して交流の場を持つようになってきました。
 
 そうした交流によって、友人と互いに理解を深め、あるいは新たに友達に出会うことができるでしょう。日々の生活の中に潤いのひと時を持ち、生活の幅を拡げ、人生を豊たかにすることができるでしょう。核家族化して孤立しがちな家庭にとって、我が家を見直す良いチャンスになるかもしれません。お年寄り同士が呼びかけあって、お茶するのも大切なことです。子どもの教育にとっても、良い機会になるでしょう。いろいろな情報交換の場となり、世論形成の一端を担うことにもなるでしょう。

 しかし、家に来てもらうには、料理や飾り付け、持て成しなどいろいろと気を使います。お伺いする方も、お土産や服装などどうすればよいか、迷います。ざっくばらんな集りも良いでしょう。男中心で、飲み会になってしまうこともあるでしょう。お客様を迎えるのだとたいそうなご馳走を準備して構える必要はないでしょうが、互いの気持ちを損なわないマナーがあるようです。

 そんな中で、市頭たつ子さんの「ホームパーティー」は、西洋で発達した作法をベースに、日本の料理やお花見などの習慣も取り入れ、マナーに則ったフォーマルなホームパーティーを推奨されています。
                                     スペースクリエーション 本の入手 Amazon/co.jp
 本の写真は、市頭眼科医院の正面玄関2階のベランダです。
 写真の遠景は、蔵迫の山や家々です・・・・医院の建物やお庭のモダンな雰囲気がうなずけるところです。


    

 蔵迫の国道沿いの転作田で、茅葺屋根用の茅を採集
      ・・・・昔は、こんな風景があちこちにみられました。 北広島町の茅葺屋根


  中山温泉 スタンド

    石橋直喜 さん 掘り当てる

 先に、中国新聞でも紹介されました

 単純放射能冷鉱泉  140マッヘ
 14.2℃  36リットル/分  ph6.6

  平成18年9月26日に祈願祭が営まれ、
    石橋さんがお持ちの酒1斗ビンの半分を
      飲んでしまったとか・・・・

  場所は、旧道沿い
          中山 円光寺 前
  
  無料ですが、右の柱に
           賽銭の缶があります
  


         
    
          平成19年3月    千代田は、中山の石橋直喜さんが製作
         
懐かしい 米俵  しかも22俵
 今の時代、こんなに沢山の米俵を見ることがあるでしょうか?
 昔は収穫の後、米俵を造って、供出しました。 もう、見ることはないと思っていましたが・・・・・ただし、俵の中は籾です
 これらの米俵は、江田島市の依頼で製作されたもので、春に道の駅「舞ロード」へ展示した後、 江田島市へおくられるそうです。江田島市では、合併の記念行事に・・・・・

                                     あやくら
  国道をよく通るのに、目立たないところに 四季乃家 彩蔵  があります。
  場所は、蔵迫と春木の間の高速道・高架橋の下。ほのかな灯りが、アットホームな感じ。 女性に人気があるそです。
  ご予約で、ゆったり気分。   予約状況は ホームページ 彩蔵  で 
      
          


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