抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信

  シリーズ 33   ・ 
   
   八重三山と千町原    ・

    


 
   八重小学校 校歌

一 いま 朝をよぶ 霧晴れて    
  八重三山が 手をつなぐ
  みんな仲よく 元気よく
  学ぼうここに 八重小学校
  文化の花の 咲くところ



 「八重三山」とは、何時から言うようになったのでしょうか。
 八重小学校の校歌ができた頃には、既に言われていたのでしょう。
 とは言っても、「八重」の地名は、明治以降に合併の際に生まれたもの。
 明治22年に、石井谷村、今田村、有田村、後有田村、古保利村、寺原村、春木村、有間村の8村が合併して、八重村になりました。新しい村の西に繋がる連山を、共に手をつなぐ合併の象徴として捉え、「八重三山」と呼ぶようになったのではないかと想像します。


 八重の春木から見て、八重三山は、

      
猿喰山              霧ヶ頂       樫の実      豊ヶ丸
       ↓                 ↓          ↓         ↓
 



 これらを、まるっきり裏側の、豊平の龍頭山山頂から見れば、

            豊ヶ丸      樫の実     霧ヶ頂        猿喰山
              ↓          ↓         ↓        
  

  校歌のとおり、三山が手をつないでいるような感じがします。

 八重三山のこちら側の集落は、西宗。
 西宗を右に、霧ケ頂の麓辺りが、千町原


  

 千町原・・・・向こうの三角の山が、霧ケ頂
 この千町原で、戦後、開墾が行われました。
 面積が千町もあるわけではない。千町という言葉に、大きな夢を託したのでしょう。
 

 

 中央のの部分が、概ね千町原
 この千町原は、今田、本地、西宗、都志見
大字が入り組んで複雑だ。赤の点線が字界。
 
分水嶺は猿喰山や八重三山を連なる青色の線
 千代田分の今田や本地が、分水嶺を超えて、千町原に入っている。
 豊平側も、西宗と都志見に分かれる。

 この千町原は、戦後の食糧難を背景に、昭和22年から開墾が始まった。
 その当時、今田は八重村、西宗は原村、都志見は都谷村だった。 北広島町の変遷
 この3村から、30戸以上が参加して開墾が始まった。
 本地村分には平坦部がなかったため参加がなかった。

 今日のように農機具や機械がある訳ではない。鍬と鎌の労力による開墾だった。
 しかしその後、多くの開墾地がそうであるように、農業は衰退して離村者が相次いだ。
 現在、次世代を含め在住の方は7、8戸。一方で、新たに移住された方もある。


 もう一度、地図を・・・
 県道都志見千代田線は
赤線で、豊ヶ丸の北側を通り、西宗から千代田の移原に出るが、ほろんど通れない状況。
 広域農道は、猿喰山と霧ヶ頂の間を通り、奥今田に出る。黒の点線で、途中にトンネルができる。
 広域農道ができると、豊平と千代田は本当に近くなる。
 合併の最優先課題だった。

 広域農道ができると、この千町原はもとより、西宗、中原は千代田へ至近となり、様変わりが期待される。完成済みの、豊平運動公園から千町原までの広域農道とつながれば、都志見をはじめ豊平地域から相当近くなる。待ち焦がれた事業だ。ようやく着手されたが、完成までにはまだまだ時間がかかる。

                                            特集 5 広域農道


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