シリーズ 14 |
雲月山の麓・土橋 ・ |
抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信
* 地域にお伺いした折に取材したものです。地域外の者が適宜に地域を紹介することをお許しください。
うんげつ
小学生の頃、学校から親子遠足で、雲月山に行った。
登ると言いたいところだが、山の中腹の峠までバスで行ける。
遠足から帰った後、母から聞いた。
私たち数人がいなくなったというので、皆が大騒ぎして探したそうだ。
ある先生は、峠を越えて島根の方へ降りたのではと探しに行かれたとか。
何のことはない・・・・私たちは、谷間にいたので見えなかったのだ。
大声で呼んだそうだが、聞こえなかった。
探す先生や親は、一望して見えないから、どこかへ無断で行ったと思われたらしい。
その時、先生は何も言われなかった・・・家に帰って、母からこのことを知らされた。
あれから五十余年。
小学生の孫と一緒に、キャンピングカーで、峠の駐車場で一泊した。
牛を放牧してあると言うことだが、2、3頭しか見えない。
おそらく、谷間で草を食んでいるのだろう。
雲月山の山焼き。
尾根側の道の沿って草を刈り、ベルト状に焼いて、
尾根の向こう側に燃え移らないよう緩衝地帯をつくる。
うつつき そして、徐々に下に向かって焼く
雲月小学校の生徒も見学。
山里に降りると、整備されて間もない石碑があった。
説明書きを読む。
(要約) 昔(江戸中期)、この土橋村に医師の親子があった。今の広島市で医術を学んで帰郷し、診療所を開いた道益と、その子の松益だ。二人とも医術に優れ、人情に篤く、貧しい人には無料で治療を施し、村人から大いに慕われた。天明の飢饉では、私財を投げ打って人々を助けた。その功績が浅野藩主に認められ、褒賞が贈られた。後世に至り、土橋地区の村人は、二人の篤行を永く伝えようと石碑を建て「頌徳碑(しょうとくひ)」と名づけた。碑の向いには、二人の墓がある。
幕末に川小田から江戸に出て、福澤諭吉の弟子になり、広く活躍した岡本周吉(のちの古川正雄)に、少なからず影響を与えたものと推察されます。
土橋生活改善センター
夏の姿
土橋生活改善センター
冬の姿
05年12月21日の朝
地元の宮本裕之さんに
撮影していただきました
雪は屋根につかえそうですが、
建物は、さらに一段高い
ところにあります。
元、土橋小学校跡の
ノートルダム清心の芸北教育場「ユリア館」
ノートルダム清心中・高等学校
若やいだ声や、保護者と思われるお母さん方の声が、道まで聞こえてくる。
その先には、YMCAのキャンプ場
芸北の自然は、教育的にも魅力があるのだろう。
奥原の浄謙寺の庫裏の壁に取り付けられた郵便受け
これは、新聞受けだそうです。
家と家の距離があるので、通常の新聞代金では配達が採算に合わない。
郵便で配達すれば、料金が上乗せになる
そのため、土橋の出入り口にある浄謙寺の新聞受けに配達,各戸がここで受け取る。
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