抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信

 
 シリーズ 21 
 
 
   有田城争奪戦     ・



 (一)

 インターネットの時代は、恐ろしく便利になった。
 千代田の平野を舞台とした戦国時代の合戦を勉強していたところ、これらが詳しくWikipediaに紹介されている。どなたが執筆されたのでしょうか。ありがたいことです。中井手の合戦
 また、佐伯文四郎さんのご研究は、合戦の様子がよく分かるので紹介します。有田(中井手)合戦


 そうは言っても、簡単に時代背景を・・・
 戦国時代。16世紀の初め、世は二つの勢力に分かれ、有田城の争奪を巡って両勢力が激突した。、
 中国地方は大内氏が勢力を拡大。それに対抗するのが尼子氏。
 その頃、京で政変が起こり、足利義材が追放され、足利義澄が将軍となった。足利義材は大内義興を頼って山口に下向。大内義興は支配下の諸将を従え、足利義材を奉じて上洛した。
 大内義興は勢力拡大を図り、安芸の国の佐東、山県、安南の分郡守護だった武田元繁を制圧して支配下に置いた。そのため武田元繁も大内義興に従って上洛したが、安芸の国でいさかいが起き、これを治めるよう義興から命じられて帰国した。ところが武田元繁は帰国すると反旗を翻し、尼子氏の支援を受けて大内氏配下の城を攻め始めた。この動きを牽制するため、義興は毛利と吉川に命じて、武田方の山県民部が守る有田城を攻略した。そして有田城は吉川方の小田信忠が守ることになった。
 そこで、武田元繁は有田城や周辺の村々の支配権を奪還しようと攻め込んできた。
 武田元繁は元守護としての誇りがあり、まだまだその兵力は毛利・吉川を凌ぐものがあった。
 武田元繁は、武田方の今田城へ陣を構え、有田城を取り囲んだ。籠城する有田城は二年近くも持ち堪えた。どのように柵をめぐらし、守備態勢を敷いたのであろうか。食糧の補給はどうだったのであろうか。
 やがて毛利の当主の興元が没すると、毛利家の動揺の隙をついて元繁は活発に兵を動かし、有田城の攻撃を強めた。これを見殺しにすると、毛利の面目が立たない。興元の幼少の嫡男に代わって分家で猿掛城主の毛利元就が毛利軍を率いることになり、吉川氏とともに陥落寸前の有田城の救出へ向かった。元就にとって初陣となった。時に21歳であった。
 その時、毛利勢約一五〇〇、吉川勢約二〇〇だった。

  


 役場の南、冠川の向側の土手下
   丁保余原の山根敬三さん宅裏にある
 熊谷次郎三郎元直公戦死の地の碑

 昭和40年代までは、
   木柱に三角の石を乗せた塚だった。

 旧千代田町の公民館で講演会があり、
 可部下町屋の熊谷金蔵さんが講演された。

 その節、
 熊谷元直戦死の碑があることを伝えると、
   碑を再建された。

 碑には、
 元直公19代の末孫 熊谷金蔵 とある。

 その際には、
 町内の熊谷を名のる方も参画されたそうだ。





 迎え撃つ武田勢は、五五〇〇とも言われる。
 武田元繁は、本隊を今の須倉辺りに置いた。そして毛利元就の進攻に備えて中井手に柵を設けて、熊谷元直に守らせた。この中井手の柵は、武田元繁の本隊が攻められたとき、後方から毛利勢を挟み撃ちにする目的も持っていた。
 元就は、物見を走らせ、中井手の柵が堅固なことを知る。この中井手の柵を攻めるのは避けて、直接、武田氏の本隊へ向かうのも選択肢にあった。有田城の救援も急がれた。しかし元就は、軍を二手に分け、中井手の攻撃に主力を傾けた。
 中井手で戦闘が始まった。多勢に無勢、熊谷元直は苦戦した。しかし、武田元繁は応援を送らなかった。毛利の本隊は春木、古保利方面にあって、そちらから武田の本隊を攻めてくるものと思った。
 柵が破られ、味方が次々と打たれる。部下は熊谷元直に撤退を進言した。しかし、熊谷元直は、
「こは口惜し、敵に後は見せじものを。」
 さらに部下が鎧の袖を引いたが、
「元直は、次郎直實以来、終に敵に後を見せたる例なし、吾後詰のために、一陣を堅め、言い甲斐なく、切崩させ多くの郎等を討たせ、何の面目ありて、元繁に会はれうぞ、幸ひ元就間近く控へられたり、直ちに雌雄を決すべし」と、敵陣に乱入した。熊谷元直は、流れ矢に当たって落馬し、吉川軍の宮ノ庄下野守経久に打ち取られた。(名田冨太郎著「山県郡巡り道中記」から)

 熊谷元直戦死の知らせが、可部の高松城に届いた。元直の妻は悲嘆の涙にくれ、なぜ遺体を持ち帰らなかったかと従者を責めた。しかし、今となっては仕方のないこと。敵の手に落ちた戦地へ、再度、従者を行かせるのは危うい。意を決して女一人、夜陰に紛れて中井手へ忍び込む。しかし、名だたる武将は首をとられ、見分けがつかない。そこは夫婦。夫の腕には、腫れ物の痕が残っている。それを頼りに亡き夫を探し当てた。
 よゝとばかり泣き伏した。そして遺体を運ぼうとしたが、女一人ではどうしようもない。涙ながらに夫の腕を切り取り、高松城に持ち帰って菩提寺に弔った。

 元繁は判断の誤りを悔やんだ。元就は、毛利家をまとめきっていないと聞く。二十歳そこそこの若僧に何ができる。戦場は初めてと言うではないか。しかも、兵は武田勢が多い・・・・手をこまねいているうちに、忠臣を失ってしまった。思わぬ苦戦に、元繁はいきり立った。


 (二)

 毛利・吉川勢は勢いづいて、武田の本陣へ向かった。
 これに対して武田元繁は、熊谷元直の仇を討たんと全軍を鼓舞し、自ら打って出た。
 大将ともあろうものが無謀なことを・・・元就は、元繁に焦りを感じ取った。
 毛利軍は前進を試みたが、重厚な武田勢に押されて後退。今の須倉の入り口辺りまで軍を引いた。
 ここぞとばかりに、騎乗の武田元繁は先頭に立って、又打川を越えようとした。
 それを見た元就は、ここぞとばかり、
 「あれ射て落とせや、者共」と号令した。
 毛利軍が放った一矢が元繁の胸を貫通した。川へ真っ逆さまに落馬したところを、井上左衛門尉が駆け寄って首をとった。
 総大将を失った武田勢は総崩れとなり、今田城へ退散した。

   

 須倉の入り口
 又打川が南の山裾から北へ流れる
 その川の西の岸辺に立つ
 武田元繁 戦没地の木柱

 又打川を乗り越えようとして
 毛利軍の矢に当たった













 (三)

 武田軍の残兵は、今田城へ退却。
 その途中で毛利勢の追撃を受け、打ち取られたり、逃亡する兵が多数に上った。
 その夜、有田城は解放の喜びに沸き、威勢よくかがり火を焚いた。
 一方の今田城も残兵を集めんと旗を立て、赤々とかがり火を焚いた。

 今田城では、将が集まって今後の対応を評議した。
 論議は二手に分かれた。
 意見を積極的に述べた武将は、有田城の北側に陣取っていたため、元繁が早くも戦死してほとんど本格的な戦いもせずに退却した香川行景、己斐帥道、粟屋繁宗らであった。
 香川行景や己斐帥道は、毛利勢は連戦で疲れきっている、勝利に酔いしれて油断している、直ちに元繁の弔い合戦をしようと言う。一方の粟屋繁宗らは、ここは一旦引き上げて元繁の遺子を盛りたて、再起を計るのも勇気であり、忠義だと言う。

    
石柱には、
 「戦国武将己斐豊後守帥道戦死跡」
 とある。
 中国縦貫道が西から冠川を渡る手前、
 中国縦貫道の北側にある。
 さらに、この石柱には、
 「お供養 嫡孫己斐孫次郎隆常直系
       廿三代己斐二郎建立     」
 とある。そしてさらに、
 「地主、円光寺門徒 中興一 嗣家孝臣」
 とある。
 中さんの水田の一角にある。
 中さんのお話によると、
 中国縦貫道建設の際、この碑を避けたとのこと
 もともとは土盛りであったが、
 中さんが側に石積みをした。
 そして、高速道の完成を前後して、
 呉の己斐歯科医院から来られ、
 碑や石柱を立てられたそうだ。
 このあたり一帯には、同じような塚が
 たくさんあったそうだ。


       先方に見える山は有田城

 終に意見は合わず、香川行景や己斐帥道は陣へ帰り、残兵を集め、夜明けを待った。
 夜明けとともに両将は、三〇〇余騎を率いて有田の敵陣へ乱入し、猛戦・討死した。

 兵の数が多くて優勢だった武田方が、なぜ負けたか。その原因を考えると、最初は中井手の熊谷の隊が孤軍奮闘、次は武田元繁が勇んで前に出過ぎて矢面に立ち憤死、そしてその時は脇にあって本格的な戦いをしなかった香川・己斐の隊が最後に弔い合戦というようにバラバラになってしまったことだ。
 戦いは終わり、毛利元就は武田元繁、熊谷元直、己斐帥道、香川行景の遺骸を円光寺へ送り供養した。円光寺とは、現在の中山の円光寺と思われる。
 そして、その他の兵八〇〇の首級は、有田の河本に桶塚を築き、敵味方共に土中に埋葬した。

 元就は、不利な状況にもかかわらず陥落寸前の有田城を救ったことで、武将としての義を果たすことができた。
 その結果、安芸の国の有力な武将として認められ、毛利家内で確固たる地位を築くことになった。

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(22.8.24)
 この有田合戦をして、「西の桶狭間の戦」と評する史家があるそうだ。
 なるほど、似ている。
 その時、織田信長は26歳。、まだまだ配下を掌握しきれていない頃であった。今川の大軍が押し寄せ、織田勢の出城が落とされた。籠城を勧める部下もあったが、俄然、奮い立って攻め込み、今川義元を打ち取った。
 元就の場合もそうだ。有田城が落ちれば、次は毛利や吉川の城へ攻め込んでくる。兵力は少ないが、攻め込んで勝機を見つけるほかなかった。元就は、この戦いに勝利して中国の覇者の足掛かりをつかんだ。



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                       ↓役場                 ↓熊谷元直公戦死の地の碑 
           

 平成22年11月3日
 地方史研究会(千代田公民館)により、亀岡定美先生による「有田合戦について」の講演会がありました。
 時代背景から、合戦に至るまでの経緯など幅広くお話しいただきました。
 その後、現地研修として有田城へ登りました。

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