抜粋・ 「地方自治を確立する会」杉本武信


 シリーズ 27  ・
 
  雲耕、雄鹿原、八幡原の地名の由来  ・

 * 地域にお伺いした折に取材したものです。地域外の者が適宜に地域を紹介することをお許しください。


 芸北は雄鹿原の「雲耕」は、「うずのう」と読みます。
 地名の由来について、雄鹿原村史の中に、雲耕の岡田家に残された記録が紹介されているので、それを書き下してみました。
 この記録は、語り継がれたものを後の世に文章化にされたものであることをお含みください。

 「この地は深々と木が覆い茂り、月や星が見えないほどであった。中束七郎右衛門という者が廿日市から鹿狩にやって来た。うっそうとした茂みの中で、木の間が開けて雲が見える箇所があり、そこは鹿が足で掻き回して沼になっていた。試しに、春の三月に来て籾を蒔いたところ、立派に稲が育ったので、秋に来て収穫した。七郎右衛門は思った通り良い所だと確信し、そこに住家を構え開墾に着手した。この因縁から、雲を耕すと書いて「雲耕」というようになった。開墾を着手した所は、今も「早開(さびらき)」という。

 雲耕の里

 右手の森に、
 地主神社がある。

 左の建物は、
 農業法人
 芸北おおさ

 農産物集荷場と
 農機具倉庫

 開祖七郎右衛門の
 開拓精神を受け継ぎ、
 若者が力を合わせ、
 稲作や野菜作りに
 取り組んでいる。



 雲耕の里は、南に向かって日当たりがよく、、両脇を山で囲まれて日本海からの冷たい風が当たらないので、この辺りでは暖かく、いろいろな花が咲くそうです。位置的には高いが、最初に開拓が始められたのも故あるところです。

 さらに雲耕の岡田家に残された記録から、その後のことを書き下して紹介します。
 七郎右衛門に続いて、多くの人が開墾しました。
 そしてある時、今の八幡原に鹿狩りに行ったところ、犬が吠え、七郎右衛門の長着の裾をくわえて引っ張るのでついて行くと、大きな木の穴に八幡宮御鏡がありました。御鏡を持ち帰りましたが、挽見(匹見)の方から、自分たちの神様だから渡すように言ってきました。刀にかけてもと、強腰です。挽見から攻めてくるかと思われたので、御鏡をあちこちに隠しました。隠した場所の一つが、「滝の御前」でした。




 滝の御前

 雲耕の南の山中にあります。
 水量が多いときには、
 見事な滝になるそうです。
 里から約百メートルですが、
 道が壊れ、
 川筋を登らなければなりません















 そして遂に、御鏡があった場所で勝負することになりました。戦いの結果、七郎右衛門らが勝ちましたが、多くの死者が出ました。そこで死者を弔うため、一人に一文字の経文を書き、経文を首に束ねて淵に埋めました。故に、その近くの橋を「経塚(束)橋」と言い、八幡宮御鏡を授かったので「八幡原」と言うようになりました。
 戦いを終え八幡原から峠を越えて雲耕の里へ降りる時、血の付いた刀を洗い、鞘に納めました。刀を洗った川を「太刀洗川(たちあらいがわ)」と言うようになりました。滝の御前のある谷の西側の川です。

 七郎右衛門らは思案の末、亀山に社を建て、八幡宮御鏡を御神体として崇め祀りました。天喜元年(西暦一〇五三年)のことでした。
 これが亀山八幡神社の由緒です。


 地主神社

 祭神は大土ノ神で、
 併せて開拓の祖の
 七郎右衛門を祀ります。

 地主神社の「地主」は、
 地主、小作の意味ではなく、
 土地を開墾した祖
 ということでしょう。
 地主神社は草安にもあります。
 同じような歴史が
 あるのではないでしょうか。




 
そして、この一帯に鹿が棲んでいたことから、「雄鹿原」と言うようになったのでしょう。
 今日では、この辺りに鹿はいないようです。大朝地域の大塚に「女鹿原」という集落があります。鹿を見かけたことがありますが、棲みついてはいません。この時代は今より温かかったのでしょうか。それとも、鹿の餌場や棲家だった平野部を人間が占拠したため、いなくなったのかもしれません。

 亀山八幡神社が鎮座となった十一世紀は、公地公民の律令制度が崩れ、積極的に開墾が行われた時代です。芸北地域もこの頃から開墾が進み、村々が形成されたものと思われます。

 
 曹洞宗の開祖道元の詩文に、「耕雲」の言葉が使われています。
 禅宗に関する辞書によると、
 「釣月耕雲」とは、「月の上で釣り,雲に上って耕す。世俗を超越し,森羅万象とともに日々を過ごす行雲流水の心境。」
耕雲種月」とは、「雲を踏んで耕し、月を戴いて植えることで,老苦を厭わず修行に精進することをいう。」
耕雲種月自由人 田地分明契券真」とは、「流動する雲に耕作し,月世界に種をおろすことができれば,自由無碍の人といえる。自由人の区分は,はっきりとして,割符に照らし合わせるまでもなく,ちゃんとしている。」とあり、「割符とはこの時代に発行された取引を確認するための証紙のこと」だそうです。
 この漢文体の「耕雲」は「雲を耕す」で、「雲耕」の地名と関連があるように思われます。
 道元は十三世紀の人です。亀山八幡神社の開基より、約二百年後のことになります。


 なお、インターネットで、「雲耕」や「耕雲」を調べると、いろいろ出てきます。長野県には、雲耕院や耕雲院という曹洞宗のお寺もあります。

 ちなみに、安養寺や妙蓮寺は、はじめは曹洞宗でした。
 写真は、地久院の枝垂れ桜です。右の御堂は禅寺風です。この御堂は、島根県波佐の永昌寺さんが毎年、春に供養をされます。この寺は、曹洞宗です。









 豊かな雲耕、そして雄鹿原の一帯では、営々と農業が営まれました。
 今日、農事組合法人芸北おおさでは、いろいろ工夫して農地の活用に努めておられます。
                                             
 キャベツの生産。
 お好み焼きは広島県は発祥。しかし、キャベツの県内自給率は10%程度。
 キャベツは面積が必要なので、法人に適している。県内の法人が連携してキャベツの振興に取り組んでいます。
 広島県立農業技術センターでは、昨年は「水田転作畑における適正土壌pH及び高pH時のキャベツ収量の安定化」の調査研究に取り組まれ、今年も県内の島しょ部から山間地までキャベツの産地を巡回。大敵のネコブ病(根にコブができて養分をとる病気)と phとの関係について研究中・・・・・(隣接の宮地の農地)
 法人の組合員は、農閑期には、建設業、林業やスキー場などの仕事にも携わり頑張っておられます。
       
 
ソバのハデ乾し
 ・・・・長い茎のソバを、なんとも丁寧なことだ。豊平のコンバインによる収穫と比べると手間なことと思ったが、聞いてみると、それは見当違い。実も要るが、茎も要るのだ。茎は乾して、焼く。そのが、コンニャク作りに必要なのだ。
 普通、コンニャクを煮て固める際に、消石灰などの凝固剤を使う。  凝固剤別のコンニャクの作り方
 炭酸ソーダなどの凝固剤を使うと、コンニャク独特の臭いが出る。その点、ソバの灰を使うと臭いがない。そのために、茎の長いソバをハデ乾しする。(宮地と雲耕の農地)

 コンニャクの芋は、芸北一帯や豊平からも持ち込まれる。
 それを農事組合法人芸北おおさの加工部が買い取り、芸北ホリスティックセンター裏のコンニャク加工センターで加工する。
 ・・・・コンニャクは、小さな畑でも、傾斜のある畑でも育つ。あまり手間が要らない。お年寄りの作物として最適。少しでも年金の足しになればと…・
     
  (記述中です。ご意見、ご指摘をいただくため公開しました。修正があることをご理解ください。)

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