シリーズ 9   吉川氏の遺跡をめぐる    ・

                                     抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信
吉川氏の遺跡は、国の史跡に指定
   発掘や整備に、長年、多額の経費を使いました。

吉川氏の遺跡は、何が大切なのか・・・
吉川氏の遺跡が、私たちに語るものは・・・
  
   ・・・ぼそぼそとでも、いろんな角度から探ってみましょう。





    
                          大朝の間所 寒曳山の麓
     駿河丸城跡     
      このたび、竹が伐採され、城跡が姿を現しました。
      吉川氏が、正和2年(1313年)に静岡からやって来て、初めて城を構えたところです。
      吉川氏は、承久3年(1221年)の承久の変において勲功が認められ、北条義時から
      安芸国大朝本庄の地頭職を補任されていました。以後、駿河国から遠隔の地大朝本庄を
      統治していましたが、90年余り経ちようやくにして大朝にやってきたのでした。
         前面に大朝の平野が見渡せます。
         駿河の国の吉河村は、天竜川の下流の傍にあり、暖かいところです。
         冬は寒かったことでしょう。








    小倉山城跡 

 この写真は、昭和30年代のもの 東南の方向から撮影しています
                写真は、旧大朝町パンフレットから
 昭和30年頃は、城跡は地域共同の草刈場で、周囲には畑があり、城がよく見えました。
 今は周囲に木が立ち、このように城の姿を見ることはできません。



 広島浜田自動車道から、小倉山を見る
    白い建物は、新庄学園・・・・その建物の右端の上あたりの山(遠くの霞んだ山ではありません)
  昔のように樹木がなければ、上の写真のように、城の輪郭がよくわかるのですが・・・
              高速から、ぽっかりと見えたら、
      高速を通る人が、「あれは何だ・・・城のようだねー・・・・
                 「あの城が見えるところが、新庄・・・その城下に新庄の町や学園・・・
                  今度、インターを降りて、行ってみようか。 
                  ついでに、あちこち行ってみるか。       
       」
      ということになるのでしょうが・・・・なんとか!


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 中山には、吉川興経の墓がある。
 布川(深川)で殺害された興経の首を忠犬がくわえて新庄に向かったが、目前の中山で息絶えた。
 首は転がって止まった。そこに興経の首を埋めた。
 そのことから、興経の墓の右上に忠犬の墓があると…          吉川興経

    
       中山から日山城への登城路脇にある常仙寺跡の興経墓所、その左上に犬塚がある

 興経には、もう一ケ所、墓があります。
 布川(深川)の地を訪ねました。


     
                布川(深川)にある吉川興経の墓

 吉川家と毛利家は深い姻戚関係にある。
 もちろん、時代からして政略結婚だ。
    もとなり
 毛利元就は、興経の祖父吉川国経の次女妙玖を娶った。(その頃は、吉川家が毛利家より優勢だった。)
    おきつね
 吉川興経の母は、毛利元就の妹である。(この頃、勢力は逆転していた。)

 その頃、戦国の世は進み、中国地方は東の尼子と西の大内に二分された。
 その中間の地にあった吉川と毛利は、両勢力の狭間に揺れた。
 一方が勢力を張ればそちらにつき、他方が勢力を張ればそちらにつき ・・・
 生き延びるためにはやむを得なかった。
                 あまこ
 元就も興経も、はじめは尼子方についた。
 ところが、元就が大内側に転じた。
 そのため、骨肉合い争うことになった。
 大内側が優勢になり、元就は間を取り持ち、興経を大内側に引き込んだ。
 しかし、尼子方が優勢となると、興経は再び尼子方につく。
 やがて大内方がこの地域で大勢を占めるようになり、元就は大内方の許しを得て、
 興経を布川(広島市深川)に隠居させ、元就の次男の元春を吉川家の養子に入れた。

 しかし、依然として興経は尼子方と通じているという風説が絶えなかった。
 遂に、元就は決断して、興経暗殺の刺客を送る。
 ・・・・以上は、概略です。詳しくは、大朝町史上巻をご覧ください。
    小生は歴史家ではないので、厳密さに欠くことはお許しいただきたい。
    ざっとした話です。
 以下、深川の現地に臨場して、ドラマチックに想像してみました。

 「天文19年9月27日の夜。旧暦の27日といえば、闇夜。
 元就の刺客は興経の住いを急襲した。
 興経は、戦場を駆け廻った武勇の人として知られた。
 しかし、あらかじめ内応者に興経の刀の刃を潰し、弓の弦を切らせていた。
 興経は力尽き、興経の忠臣も抵抗したが及ばなかった。
              
せんぼうし     
 斬り合いの最中、子の千法師は乳母に抱きかかえられ、
     
 かしわばりょうい
 側室の柏庭了意と共に、畦道を裏山へ脱出した。
 寝間着姿で裸足のまま・・・
 闇夜だがぬかりなく、妻子の見張り役が手配されていた。

 「こちらに逃げたぞ」・・・興経を倒した刺客は、後を追った。
 山の斜面は急だ。
 乳母は、幼児の手を引き、お尻を押し上げ、よじり登る。
 しかし、中腹にある街道の一歩手前で、千法師と乳母は捕らえられ、その場で殺害された。
  ・・・・駿河吉川の直系は、ここで絶えた。
                                            
かいどう
 千法師は可愛そうだが、自分は女だ・・・側室は我が子を置き去りに、街道を北へ走った。
          
やいば
 しかし、刺客の刃は、女とて容赦しない。執拗に追う。
              
             かるが
 柏庭了意は、数キロメートル先の狩留家で捕まり、そこで殺害された。
   ・・・狩留家には、昔の街道の傍に、地元で「おんぼの墓」と呼ぶ墓があるそうだ。
     これが側室の墓という確証はない。
  
 興経の忠臣手島兄弟も殉死した。
 その手島兄弟の墓は、興経の墓の近くにある。


 そして・・・・そして舞台は中山
 中山の日山城登山道横に興経の墓がある。
 その言い伝え・・・
  興経の愛犬が、主君の首をくわえて、深川から小倉山城へ向かったが、ここで息絶えた。
  興経の首は斜面を転がった。そのため、忠犬の墓の下に、興経の墓がある・・・・と。
  子どもの頃は、そのように聞かされた。
  また一説によると、興経に白石、松風という従女がいて、そのいづれかが興経の首を携えて小倉城に向かったが、中山にたどり着いて遂に力尽きた・・・・と。

後に、歴史家から教えていただいた話
  刺客を送った元就が、首実検をしない訳がない。
  興経親子の首は、吉田の郡山城へ送られた。
  元春は、その年に小倉城から日山城に入った。
  本来ならば、小倉山城もしくは歴代の祖先が眠る吉川家の墓所に埋葬したいところだが・・・
  元春は興経に替わって吉川家の跡を継いだ。
  小倉城には、それを素直に受け入れない勢力があった。
  元春が小倉城から日山城へ移った理由の一つとも言われる。
  そのような状況で興経の首級を新庄に渡せば、吉川家の旧勢力の感情を逆なですることになる。
  そのため、元春の目が行き届く日山城下に埋葬した・・・と。
  左上の墓は、興経が幼い頃から仕えた忠臣ではなかろうか。
  その忠臣につながる一族があるため、名前を伏せたのでは・・・
  そして、忠犬の仕業ということにしたのでは・・・
 
  
 余談
  戦国の世は、強い者が勝つ弱肉強食の時代。
  状況次第で、主君を見限り、優位な方につく行為は、あちこちで見られた。
  時に、主君を倒すこともあった。
  忠義を大切にする道徳は、江戸時代になって広められた。
  忠臣は忠犬の話にして、後に作られたのではないか・・・と。


    
         興経の墓より北の椎村山の中腹にある千法師と乳母の墓







   大朝のお医者さんの 金谷俊則 さん 著

   「 吉川興経 」  発行・中央公論事業出版
                 


         本の帯書から
  「安芸の小国・吉川氏直系最後の当主・興経。
 大内・毛利と尼子の間で変節を重ねながら下克上の世を
 生き抜き、ついには元就によって殺害される悲運の生涯を、
 地元在住の著者が足で集めた貴重な資料をもとに
 鮮やかに描写した。」







  吉川家の菩提寺洞仙寺跡とその周辺の代々の墓と思われる墓地

    

      岩戸の洞仙寺跡    (国指定史跡)
 小倉城の東、岩戸地区から西側の山中へ (町道の上って左に案内版があります)
     地元の方に、山道の草を刈っていただいています。
 吉川経基、国経、元経を葬ったと伝えられます。
 墓には、菩提樹の老木や若木があります。
              菩提樹は、どなたかが、旅から持ち帰ったものとか・・・
              そのこぼれ生えが岩戸の工谷に植えられ、大きな樹になっています

 寺は、この墓の前か、東側にあったと思われますが、未発掘で解りません。
 西側にも、墓の跡がいくつかあります。
   ・・・落ち葉や土に埋もれ、定かでありません。
      歴史ボランティアの方のお手伝いで、調査されています。




  吉川氏は、関が原の戦いの後、岩国へ移封となります。
  多くの人や物が、岩国へ移りました。
  その時、岩国へ移された岩国の洞仙寺
               ・・・岩国城下の紅葉谷公園にあります
   お参りすると、遠くからですが、仏壇の奥に古そうな仏像がありました
      はたして、新庄から、移されたものでしょうか・・・






     

       岩国市由宇町の榊八幡宮の本殿

 
関ヶ原の戦の後、吉川氏が岩国に移封された際に、新庄の駿河八幡宮(竜山八幡神社とも称する。)の嫡男は新庄にとどまり、父は二男を連れ、祖霊を奉じて岩国に移った。今も両社とも宮司は三上姓を名乗る。
 本殿は、龍山八幡神社を模したものと思われ、2間、3間の似た造りとなっている。


     

     新庄の竜山八幡神社の本殿…国の重要文化財





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殿様のお風呂
    舞綱の万徳院跡に復元された中世の蒸(むし)風呂
       写真の左側は、かまど  釜で湯を沸かし、蒸気を部屋に送る
    白衣を着て、戸を閉め、暗い室で、静かに瞑想
       じわじわと汗が出て、サウナ状態 ・・・・・ まさに 殿様気分です
             左の写真は、千代田町教委発行のパンフから借用しました

 地元の方により、月に1回・日曜日にお風呂を沸かしていただけます
    無料です   教育委員会に問い合わせてお出かけください





   
                   地元の皆さんにより、山菜の天ぷら
   平成20年万徳院 を食べるかい

    暖冬で、今年は春が早いと思って、例年より開催日を早めたら、
            意外と寒くて、山菜を集めるのに苦労したとか
        おまけに・・・・・
             それでも、地域の方々の協力で、賑やかでした。


      
                   平成22年第9回万徳院を食べるかい
                          今年は寒いので、木の芽を求めて、
                          鈴張の方へ出かけたとか・・・・
                          今年は良い天気で賑わいました



   万徳院は、吉川元春の嫡男元長が建立した。
   元長の祈りの場となり、没後は元長の菩提寺となった。 万徳院跡(広島県の文化財)
   しかし、関が原の戦いの後、吉川家が岩国に移封となり、
   万徳院も岩国へ移った
                       つぼね
   元春の妻、元長の母は、新庄の局。熊谷信直の娘である。
   この時代、武将の多くは側室を持ったが、元春は側室を持たず、
  ひたすら新庄の局を愛し、大切にした。
   それに感じた親の熊谷信直は、元春に味方して尽力した
   ・・・・新庄の局は、美人とは言えなかった。
      にもかかわらず、元春が申し出て娶り、大切にした、
      一層、熊谷信直は意に感じて元春に味方した。
   この話は、後に作られたのではないかという説もある。     新庄の局

   新庄学園は、明治42年に吉川元春が贈位された際、
  生きた記念を創ろうと、地域の方が協力して発足した。
   当時、この山間の地に、いわゆる義務教育後に学ぶ男子の学校さえもない時代に、
  なぜ、女子教育の私学を発足させたか・・・・

   この点については、近々に発行される「新庄学園百年史」にありますが、
  一説によると、
   新庄の局は、良妻賢母で、吉川家を盛り立て、妻そして母の鏡と伝えられた。
   ・・・明治のことです。そうしたことが教育の大きな目標とされました。

   元春の信条の「至誠・質実・協力」とともに、
   この新庄の局の精神が校風として受け継がれ、
   特に女子寮の伝統として今日に伝えられている。

   そして、今日の「万徳院を食べるかい
   ・・・新庄学園の吹奏楽部が高々と吹奏楽を披露しました。
                    (男子もいますが、女子が主体)
    女子生徒が リズムの合わせて、元気ハツラツとダンスを見せてくれました。
                     (写真・ステージ前)

   草葉の陰で、新庄の局はいかばかりか、お慶びのことか・・・




        

     岩国市の万徳院へお参りしました
       関が原の戦いの後、吉川氏が岩国へ移封され、万徳院も移されました
       ・・・・・・幾度か再建されたもので、舞綱の万徳院を模したものではない
            舞綱で復元された万徳院より一回り小さいようです
            舞綱時代の物が残されているか不明
       万徳院の由来について、ホームページがありましたので紹介します
                      Senngoku Samurai 吉川元長 第5回 万徳院

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  吉川元春館跡 (海応寺)







 昨年12月
    建築中の
      展示室











    展示室の中央に配置された
                吉川元春館跡 復元模型
    

        手前が今も残る石垣   左の台所と右の庭園は復元されています。



      
                  平成19年8月吉川元春館跡歴史公園竣工祝賀会

        1578年、元春が伯耆国の羽衣石(うえいし)城の南条元続を攻めた時、
          元続が踊り好きなことを知り、部下を踊り子に扮装させ奇襲したことに
          由来すると言われます。
           虫送りの祭りの際に五穀豊穣を祈って踊られ伝承されていましたが、
          今は新庄地域の若者によって受け継がれています。


     
                   平成19年8月吉川元春館跡歴史公園竣工祝賀会

       本地の花笠踊り (広島県無形民俗文化財)

            本地の花笠踊りも、元春の羽衣石城の戦いに由来すると言われます。
            新庄の南条踊りは陣笠、陣羽織を着用しますが、本地の花笠踊りは、
           男性がゆかたで女装して艶やかに踊ります。


   


  余談ですが・・・・・・・・
      20年近く前、吉川氏城館跡整備事業に取り組むにあたり、町職員として
     事前勉強のため鳥取県・広瀬町の月山富田城を見学し、
     広瀬町に宿泊した時のことです。
     宿で、地元の方と酒を酌み交わしながらの会話
         「どちらからですか?」
         「広島県の大朝町というところから来ました。」
         「それは、遠方からようこそ。」
         「先ほど見たのですが、広瀬町の資料館には、
          吉川元春?広家?の肖像の軸がありますね。
          もともと吉川氏は、大朝町に城を構えていたのですが、
          戦国の時代、ご当地へ移りました。
          こんな因縁がありますので、よろしく・・・・」
     と言ったとたん、地元の方は急に不機嫌になられ、
         「君たちと酒を飲めない。」
          
     なぜ?
     攻めた方は忘れても、攻められ、苦しめられた方は、
                         何百年たっても忘れられない・・・・

     山中鹿之助
        「願はくは、我に七難八苦を与え給え」
     戦前は、よく話し伝えられたとか
         ・・・・戦前には教科書にも載った(小学国語読本)
                                     詳しくは、山中鹿助の館    

     酒の座での冗談とも思われましたが、本気のようにも思われました。

     いつか、安芸高田市(毛利氏)と三原市(小早川氏)と相談して
          広瀬町(尼子氏)や関係地と仲直りの会を催おし、
                長年の怨念を絶ちたいものです。







    
                 平成20年10月「吉川戦国まつり」

          吉川家は、関が原の戦いの後、家康により岩国へ移封
             岩国藩鉄砲隊   その保存会の演武
                「ズドン!」 あたりに轟きわたりました
                   なかに、女性の隊員2名
                     火縄銃のためか、小雨の中、テントの下で発砲
           旗は吉川家の紋章






    

     吉川元春館跡   復元された台所の かまど

       NHK 大河ドラマ「功名が辻」の頃のもの
                       
               黒い割れ目が焚口
                   TVに出てくるかまどの口は、少し広いようですが・・・・

            お千代さんじゃないけど、笹の甘茶をいただきました





       

            小雨の中、今田城の本丸に咲いた こぶしの花
                     眼下に千代田の平野
           毎年、こぶしの花が咲くころに、地元の方々で「こぶし祭り」を開催
                       今田神楽団の神楽など

            今田氏は、吉川家の有力家臣
               岩国に移った後は、家老として吉川家に尽くしました
                     こぶし祭りには、今田氏にゆかりの方もご参加 


 5月15日に「史跡ハイキング」がありました。
 小倉城で、広島県教育委員会の木村信幸さんから、お話を聞きました。

   

 その時に説明があった資料です。
                    (吉川家文書四二四)
 「  今度以元春契約之辻、至御領中居住候、殊千法師事、御懇之儀、令安堵候、
    仍向後対元春・隆元・元就聊不可存別儀悪心候、此旨若偽候者、
  梵天、帝釈、四大天王、惣而日本国中大小神祇、天満大自在天神、別厳島両大明神、
  氏八幡大菩薩、鳥子七社、枝宮七社、各々神罰冥罰可罷蒙者、起請如件

                             吉川治部少輔
                天文十六年七月十九日           興経(花押)
     毛利右馬頭殿  (元就)
     吉川少輔次郎殿 (元春)
     毛利少輔太郎殿 (隆元)
                     参                                  」

 要約しますと(細かくは解りませんので)・・・・元春を吉川家へ養子に迎え、私(興経)や我が子千法師を助けていただき感謝します。この上は、元春、隆元、元就様に決して悪心を抱かないことを、
梵天、帝釈天、 以下神々を並び立てて誓っています。
 氏八幡大菩薩とは吉川家氏神の龍山八幡神社、鳥子七社とは大朝の宮松の富士神社(正式には、鳥子富士大権現宮という)境内の神々、枝宮七社とは大朝の枝宮八幡神社境内の神々。


 このように神々に誓いましたが、興経と千法師は、三年のちの天文十九年九月に、布川(深川)で暗殺されます。 
                                                 →このページの中ほどに紹介

 この資料を見て考えさせられます。
 興経は、この誓いを破って、尼子に通じたので殺された、と思ったのですが・・・・
、興経は、これほどにまで書いて、いわば「命乞い」をしなければならないほど弱い立場にあった。
 興経はもはや、いてほしくない、邪魔な存在だった・・・だから、千法師や妻や乳母までも殺害した。
 どうなんでしょうね。



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