抜粋・「地方自治を確立する会」杉本武信


  シリーズ 25   
  
 
    雄鹿原合戦炎の祭典    ・
  


 「雄鹿原合戦」の戦跡を訪ねました。
 中世は残された史料が乏しく、確証の少ない時代です。未解明な事柄も多く、賢明な歴史家は安直に語れないところです。
 そこを敢えて、先人の書物と地域の伝承をもとに、小生のつたない想像を混ぜて合戦の様子をお伝えします。

 この合戦があったのは、武士が歴史の前面に出て激しく戦う戦国時代より少し前の頃です。 室町幕府の力が衰え、地方における守護・地頭の支配秩序が崩れつつあり、一方では開墾のため農民を集めたり、あるいは戦いのため農民を使役や兵卒に使うことなど兵農未分離の状況もあり、農民の力が相対的に強く、時に支配に抵抗して蜂起する土一揆(どいっき)が起こり、世は複雑な様相を呈していました。
 この時代、芸北地域の二十四村は奥山庄と呼ばれ、加計筋の太田庄の栗栖氏の支配下にありました。栗栖氏は厳島神社の後ろ盾を得て勢力を拡大したのです。芸北地域に厳島神社の霊験を戴く神社があるのは、その頃に由来するものと思われます。
 その奥山庄へ、石見の国の今市の福屋氏が攻め込みます。福屋氏が、なぜ安芸の国へ軍を進めたか。その理由として、雲耕の岡田家に残された記録に、栗栖氏の年貢の取り立てが厳しいため、農民が相談して福屋氏にお願いしたとあります。したがって、この戦いには、農民の力が大きく影響したものと思われます。

 このような発端から太田庄の栗栖氏と石見の国の福屋氏の戦いが繰り広げられ、その最終決戦となったのが雄鹿原合戦です。
 その決戦に至るまでの戦いの一つが、「大利城の合戦」です。 



 大利城

 城山の東側に
 
うつつき 
 雲月小学校

 この山を
 「金毘羅山城」とも呼ぶが、
 それは後の時代のこと。








                                                                             ごんのかみ
 今の雲月小学校の裏山はぽっくりと突き出て、奥原や刈屋形、草安を西に、大利原や奥中原を東に眺望がよい。この山に栗栖権頭親忠が城を構え、この城を石見の国今市の福屋杢之丞が攻めたのです。その戦いの前に雲月山や土橋、奥原辺りでいくつかの戦いがあり、不利と見た栗栖権頭が城に立て籠もったものと思われます。
 福屋勢は、西側から攻め立てますが、一隊を草安から大利原へ山越えして東側から挟み撃ちにします。栗栖勢は耐え切れず、城を逃れました。
 その後、大利城は福屋勢が陣を張ります。

 
  昔から、この地域にこんな言い伝えがあります。
               みのかさ
    栗栖権頭は両手に蓑傘を持ち、バタバタさせて城から飛び降りて逃げた。 
                                    おおとんだ 
    その時に栗栖権頭が飛び降りたところの家の屋号を「王飛田」と言うようになり、
                                 はんみょう
    城の麓で飛ぶ姿を見上げたところの家の屋号を「半明」と言うようになったそうな・・・・・・と。   ・

   



 栗栖権頭は、そのまま奥山庄から撤退したのか、その後も幾度か戦いがあって遂にかなわず撤退したのかのか定かでありませんが、奥山庄は福屋氏が支配するようになります。その後、栗栖側は、福屋側が溝口以西の奥山二十四村を不当に奪っ取った、直ちに戻せ、さもなくば刀の切っ先にかけても貰い受けると迫ります。福屋側は、奪い取ったのではない、百姓の頼みで奥山の庄を治めていると主張します。栗栖氏はいろいろと画策し、衝突や小競り合いがあったのでしょう。福屋勢は、決着をつけようと栗栖の本拠地の発坂城(ほっさかじょう=戸河内の土居)へ攻め込みます。
 福屋勢の攻撃で発坂城は落ち、栗栖権頭は追われる身となり、太田庄内の城を点々として、遂に奥山へ向います。そして橋山村を通り、阿弥陀ケ峰に敗残兵を集めます。阿弥陀ケ峰は城岩のある山のことで、雄鹿原が一望できます。
 しかし、栗栖勢の中には降参して福屋方に恭順する者もあり、集合に遅れる者もあって、阿弥陀が峰への集結は権頭の側近に限ら得ました。
 
 しかし、一方の大利城の留守を守る福屋方は、突然の栗栖勢の出現に慌てます。福屋勢の本隊は太田庄に向かったままだ。残っている兵はわずか。この栗栖勢の反転攻撃に、大利城の福屋勢は動揺します。




 これが牛岩です。

 荒神原のホリステックセンターから
 北へ行く道添左側にあります。
 
 まるで牛が寝そべっているようです。
 向こう側にも、牛に似た石があります。
 親子一緒の牛のように見えます。
 南に、阿弥陀ケ峰がよく見えます。
 城岩からも、この辺りがよく見えるでしょう。




 その時、、福屋勢が頼んだのか、農民が申し出たのか、大利城周辺の農民をかり集め、松明の木や牛を集めました。そして夜半に、俵原から牛岩にかけて赤々と松明を照らし、牛を走らせて足音をたて、騎馬の大軍を装いました。雄鹿原辺りの農民も、松明の木を携え、牛を引いて馳せ参じます。これを阿弥陀ケ峰から眼下に見たの栗栖勢は、唖然としたことでしょう。福屋勢の本隊は留守のはずなのに、こんなに大勢いるのか。

 福屋勢は軍を三隊に分け、一隊は宮地に、一隊は牛岩辺りに、残る一隊は阿弥陀ケ峰の背後の吉見坂に回しました。
 太田庄の福屋勢は、庄内に残る栗栖勢の鎮圧に手間取っていました。栗栖権頭はどこに逃げたか。まさか、福屋方の本拠に向かったとは・・・・大利城からの急報で福屋勢の本隊は雄鹿原へ向かいます。そして留守居の軍と吉見坂で合流し、夜が白むとともに城岩を目指して攻め上がりました。



 阿弥陀ケ峰の頂上にある
 
     城岩

 大きいです。
 背丈の三倍あるでしょう。
 左も岩です。
 里から頂上を見れば、
 城岩が分かります。

 栗栖権頭が立てこもったので、
 城岩と言うようになったとか。
 




 城岩から雄鹿原を望む。

 正面の突き出た森が
 物見ケ岡

 栗栖勢は、ここから駆け下り、
 物見ケ岡へ突き進んだ。

 手前が城岩
 左のくぼみが、
 栗栖権頭が飛んだと言われる
 馬の蹄の跡か?













 栗栖勢は、雲耕へ移動して土草峠で福屋勢を迎え撃とうと作戦を立てました。戦況が不利と見たら八幡原へ後退し、妻の里の益田へ落ち延びようと考えたのかも知れません。土草峠に向かうにはどこを通るか、福屋勢の配置状況を確かめようと夜明けを待っていました。ところがその朝は霧が出て、見晴らしがきかない。迷っているうちに、福屋勢が攻め上がりました。仕方なく栗栖勢は山を下り、中祖の河内谷に出ます。そこを、牛岩の一隊が北側から攻めます。南に向かおうとしましたが、福屋勢の本隊の一部は既に阿弥陀峰の南の峠を越えて、南側から攻めます。




 物見ケ丘の麓から見た
 阿弥陀ケ峰
 右の高い山で、
 山頂に城岩がある。

 その山の麓が中祖
 こちら側が政所

 金剛庵は、
 この地点から右手の山へ
 百メートルほど入った所にある。


 栗栖勢は直進するほかなく、政所から物見ケ岡の方向へ騎馬を走らせ、物見ケ岡の裾を回ってから雲耕へ向かおうとしました。それを見た物見ケ岡の物見は、「こちらに来るぞ。」と裏側の宮地の福屋勢に合図をします。(この時から、「物見ケ岡」と言うようになったのでしょう。)
 宮地に配置した福屋勢は体勢を整え、待ち構えていました。農民は松明を角に付けた暴れ牛をけしかけます。栗栖勢は物見ケ岡を回ったところで総崩れになり、後退します。後ろからは、追手が来る。栗栖権頭はじめ主従八騎は、覚悟を決めて南の山中の金剛庵に入り、自刃しました。
 今の雄鹿原小学校辺りが、最後の決戦の場となったと思われます。



 金剛庵

 阿弥陀ケ峰から見て
 物見ケ岡の手前左奥の山中にあります。

 栗栖権頭は、
 物見ケ岡を前にして
 金剛庵に入り、自刃しました。

 当時は、大きな建物だったのでしょう。











  左は、
  栗栖権頭の墓と伝えられる殿塚
  物見ケ岡の付け根にある

  一段低い
  物見ケ岡の平坦部に
  家来の墓と伝えられる
郎塚がある







 


  昔から言い伝えがあります。
      栗栖権頭は、城岩から馬に乗って物見ケ岡まで飛んだ。
      城岩には、その馬の足跡が二つ残っている・・・・・と。

  そして、戦いの翌日、
      栗栖権頭が物見ケ岡から、白馬に乗って東の空に向かって飛んで行った・・・・と。    ・ 
  栗栖権頭は、戦いを前に一子朝丸を二人の家来に託しました。
  家来は九歳の朝丸を背負い、戸谷村鉄穴原へ落ち延びました。
  その戸谷村は、物見ケ岡から東の方角にあります。



 この時、農民の喜びはいかばかりだったでしょうか。武士と農民が一緒になって勝利を祝ったことでしょう。
 そして、追い詰められた栗栖権頭が慌てて大利城や城岩を駆け降りた様子が誇張され、農民の自慢話として語り継がれるうちに、空を飛んだとまで誇張されるようになったのではないでしょうか。
 武士を侮辱するような話は、後の士農工商が確立した江戸時代に途絶えますが、この時代を超えて語り継がれたことに、また一つの意義があります。

 
 以上の話から、栗栖権頭は、取り立てが厳しい非情な侍のように思われがちなので、権頭の名誉のため、少し付け加えたいと思います。
 最初にも申し上げたように、旧来の秩序が乱れ、武士が台頭して争いが活発になります。そうした状況には地域差がありますが、山陽側が山陰側に比べて展開が速かったことは考えられます。そして栗栖権頭は、厳島神社の神領主の地位にありました。そのお蔭で権威を振る舞うことができましたが、そのためには命じられるままに年貢を集めて奉納しなければなりませんでした。政情が不安定になればなるほど、要求される額は高くなります。権頭は神社と農民の間に立ってつらい立場にあったのです。
 それに対して山陰側の福屋氏は、世情が安定して余裕がありました。そうした状況の違いが背景にあったと考えられます。




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 この雄鹿原合戦を今に伝えて、雄鹿原地区では毎年九月に乙九日炎の祭典を開催して、写真のような武者行列や、松明行列、手筒花火、火牛の舞などが賑やかに行われます。
 乙九日とは二十九日のことで、昔より旧暦の九月二十八日から三十日までの三日間、亀山八幡神社の例祭が行われました。
 この例祭に併せて、平成五年から、雄鹿原合戦を再現しようと炎の祭典が開催されるようになりました。
 炎の祭典には、雄鹿原合戦で示された農民パワーを再現することにより、とかく過疎化で沈滞しがちな地域社会のエネルギーを掘り起こし、住民の力を結集して町づくり・村づくりにつなげようという願いが込められています。



 松明行列
   武者
(福屋勢)を先頭に

 武者や有志の参加者が
 物見ケ岡に集合
 甲冑をまとった武者を先頭に
 松明を掲げ、
 参道を亀山八幡神社に向かいます。

 私も松明をいただき、
 行列に参加させていただきました。










 ・・・武者に続く
 農民の松明行列

 暗闇の中、
 炎は一段と華やかで
 威勢よく見えたことでしょう。


 旧暦の二十九日なら闇夜。
 新暦で闇夜に開催するには、
 日程調整に苦労されるのでは?

 




 手筒花火

 武者が威勢よく発射します。

 初めて見た私は、
 そばにいてビックリしました。
 しかし、境内で行うのは
 平成17年が最後で、
 今は神社の前の田んぼで
 行われています。

 目前で手筒花火の発火を
 見た時の衝撃は
 今も忘れません。









 火牛の舞

 雄鹿原の合戦は、日中に行われました。
 前夜に俵原や牛岩辺りで
 たくさんの松明を木にくくりつけ、
 あるいは手に持って移動しながら、
 多勢を装いました。しかし、松明を
 牛の角にくくりつけるのはどうか。
 牛は暴れるでしょう・・・・
 馬に代えてたくさんの牛の足音で
 騎馬の大軍を装ったのではないでしょうか。

 翌日に、栗栖勢に対して、
 松明を付けた暴れ牛を
 けしかけたかもしれません。



 そんな理屈はともかく、この火牛の舞には、農民が腰をかがめ、声を押し殺して「やった。やった。」と喜び合う表情が感じられ、その当時の素朴ながらも、したたかな農民の姿を想像させるものがあります。


 
   雄鹿原合戦の物語ウイリアム・テルの物語          <雄鹿原合戦の歴史的意義を探る> 
 
 この二つの物語が関係ある?
 あるのです。
 ウイリアム・テルの物語は、ご承知のように、スイスの谷間の農民が、領主の圧政に苦しみ、力を合わせて領主と戦い、圧政をはねのけます。そのリーダーとなったのが、ウイリアム・テルでした。この物語が史実かどうかは定かではないようです。それはともかくとして大切なのは、農民が力を合わせて圧政に抵抗した話を営々と語り伝えたことです。このウイリアム・テルの物語に似た物語がイギリスにあります。ロビンフットの物語です。ロビンフットの仲間は、同じように勇敢に戦って領主の圧政に抵抗します。このロビンフットの物語も、そのとおり史実とは言えないようです。しかし、このロビンフットの物語をバラード(民謡)として歌い継ぎました。そしてどちらの場合も、語り継ぎ、歌い継ぐことによって、封建支配や君主の支配を耐え抜き、農民の自主独立の精神を守り伝え、今日の民主主義の源となりました。
 同じように日本の場合も、武士の無謀な剥奪に勇敢に戦った物語があったはずです。雄鹿原の合戦の背後には、農民をまとめ、勇敢に先頭に立った者がいたはずです。ところが戦国時代が終わり、徳川幕府のもとで士農工商の身分制度が確立した結果、農民の抵抗や百姓一揆を助長するような物語は葬り去られ、忠義報恩を最大の美徳とする社会が形成されました。そのような歴史から、日本では独自の力で民主的な社会を作り上げることが非常に困難になり、結局は、敗戦により欧米から民主主義を授かるほかなくなりました。
 そのような悲しい日本の歴史の中で、雄鹿原の合戦の中で果たした農民のパワーを伝える物語は、こうして今日に営々と語り伝えられた故にこそ、光り輝くものがあります。
 スイスの谷間の村は、生産性が乏しく、また攻めるには困難な地理的条件にありました。この雄鹿原や中野も、古き時代はこれと似た条件にあったと思われます。そして、厳しい自然条件のもとで生き抜くには、農民が力を合わせ、励まし合う連帯の精神が大切だったでしょう。その意味で、雄鹿原の合戦は人々の誇りであり、耐え抜く力の源だったと思われます・・・・ウイリアム・テルやロビンフットの物語と同じように。

 これらの物語とよく似た物語があります。「七人の侍」です。黒沢明監督によって映画化されました。映画用に創作された物語です。この映画をヒントに西部劇の「荒野の七人」が制作されました。
 収穫時期になると野党がやってきて奪う。そのため農民は話し合って、武士を雇い、野党と戦います。

 雄鹿原の合戦も、そのようなストーリーが可能です。
 ・・・・栗栖権頭の厳しい取り立てに農民が苦しむ場面
    農民が密かに集まって相談する場面 勇気、臆病、ついに決起。
    福屋氏に頼み込む場面。
    福屋氏が峠を超えて攻め込む。それを陰から支援する農民。
    大利城の合戦
    栗栖権頭が領地を取り返そうとして画策し、いざこざが起きる。
    ついに太田の庄への遠征。
    栗栖権頭が阿弥陀が峰に現れて、慌てる農民。
    再び、栗栖氏の支配となったら、どんな仕打ちを受けることか。農民は結束する。
    そして、雄鹿原の合戦

 面白いストーリーが描けそうです。映画にもなるかも・・・・


       
(記述中です。ご指摘をいただいて修正加筆することがあります。)





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