抜粋:地方自治を確立する会 
        杉本武信 
     http://www.khiro.jp/jiti/

 恐ろしい事を申してすみません。
 しかし、天災は忘れた頃にやってくると申します。
 そのために、9月1日は「災害の日」と定められたのでしょうから。

 全国的にも、世界的にも、災害のニュースが続きます。
 まさか自分の所が、と思っておられたようです。
 私たちが住むところは大丈夫なのでしょうか?

    
 私は、子どもの頃、祖父から聞かされました。
     「地震になったら、竹やぶへ逃げ込め。
(竹やぶは根が細かく横に張って、粘りがある)
      地震が続くようなら、はでご
(稲をかけて干すための長い木)を出して、
      地面に縦横斜めに置いて、その上に畳を敷いて、その上で過ごせ。」
          なるほど、それなら地割れが起きても助かる

 祖父は、地震を体験していないはず。その話を、どこから聞いたのだろうか?
 大朝では、郷土の歴史を掘り出そうと、古老が集って「あぜみち放談」という本を発行していました。
 そのメンバーに、この質問をしたところ、何人かのお年寄りが、自分も聞いているとおっしゃいます。


    
そこで思案の末、思いついたのは、当地で一番影響があったと伝えられる浜田沖地震。
    しかし、いつの事か、被害はどうだったか、当地には記録がありません。
    浜田沖というからには、浜田市には記録が残っているに違いない。
    浜田市にお願いして「浜田市誌」を調べました。

 ありました。たいへんなことでした。その記述どおり、
「 明治五年二月六日(旧暦)午後四時半、浜田を中心として発した激震は全壊家屋四千戸、死者実に五百数十人、負傷者約五百七十余と伝えられている。田畑、堤防はもとより水源、溜池、用水路、道路、橋梁等の破壊、山くずれも著しく、石見地方古今みぞうの大震で、明治二十四年の濃尾、同二十七年の酒田、同二十九年の陸羽地震とともに明治時代の日本四大地震の一つに上げられている。
 その被害は東は宍道湖の西方より簸川平野の沖積地一帯におよび西は鹿足の奥部にまでおよんだのである。震源地に近い石見一円の被害もさることながら中心地たる浜田の恐怖と惨状は言語に絶する状況であったことは当時の記録に、また古老の語り草に今なお浜田地震として恐れられている。」
   
 これだ、祖父が話してくれたのは・・・浜田からは、海産物の行商人がやってくる。
                           お米と交換、我が家に泊まる方もあった。

 さらにこれによると、
一週間前から、地鳴りなどの前兆があった。    (長くなると竹やぶに居続けることはできないでしょう
大震数分前には退潮が始り、浜田浦では深さ二メートル、
海岸より約三百五十メートル沖合まで海底が露出した
土地の変動として、隆起陥没 三メートルに達したものも
            亀裂    各地に大小無数  水を砂を噴出
            山くずれ  浜田では幅四〜六メートル長さ二〇〇メートル
                   那賀郡、邑智郡、邇摩郡に多かった


 この部分は、後に挿入しました。
 当時、創刊されたばかりの東京日日新聞に、浜田地震のニュースが載っていました。


     浜田地震の惨状を伝える東京日日新聞・明治5年3月6日(旧暦)付第16号(日本図書センター)

 死人498人 怪我人725人 潰家(全壊)4575軒  半潰(半壊)8365軒 等々,大変な被害です。

 当時の浜田市及び周辺は、現在よりも人口が少なく、家も少なかった。
 現在だと、被害はもっと大変なものになるでしょう
 この記事は、どの範囲を調査したものかわかりません。

 広島県側の被害状況はどうだったのでしょうか。
 平成19年に策定された北広島町地域防災計画に、関係の記述がありました。
 その震災対策編の「広島県に被害を及ぼした主な地震とその被害状況」の表の中に、
「1872年(明治5年3月14日新暦)
        浜田地震
        マグニチュード 7.1±0.2    震源地 石見・出雲
        被害等の概要 中野村(芸北)で亀裂(延長500m)を生じた
                  県内各地で被害                    」

 浜田市の沿岸から、県境(雲月山)まで直線で15キロメートルしかありません。
 広島県側も、島根県境地域は相当のものだったと思われます。

 八幡村史に、次の記述がありました。
「 明治5年3月 大地震が起こり、余震は一週間も続き、梯子(はしご)などを持ち出してその上に退避していた者も多く、ところによっては亀裂が生じたと言われ、幸いにして人畜等の被害はなかった。      」

旧八幡村も県境、そして旧大朝町も県境。浜田の海岸まで35キロメートル。
我が家の祖父は、明治25年生まれ。
その父は、安政2年生まれで、地震のあった明治5年には17歳。
我が家でも、父の体験が語り伝えられたでしょう。
地鳴りがして不気味な一週間。
どうなるのか・・・たいへんな事になるのでは・・・家の中は危ない
   (終わってみれば、それほどでもなかったのかもしれませんが・・・・)
我が家でも、梯子を出したり、はでごを出したりしたのかもしれません。


昔とは、家の構造が違います。
明治の初めは茅葺で、合掌に組んで、縄で縛る・・・地震には強いと思う。
今日では、屋根に重い瓦。柱に敷居や平物。箪笥(たんす)や水屋。ガラス戸。
      電気やガス、石油などがある。    ・・・地震には弱い

人生60年そこそこの経験ですが、
昭和38年豪雪。お米と漬物でしのぎました。
阪神淡路震災・・・古着を集めて送りました。テレビを見て感じたのは皆様と同じ。
19号台風で、一番困ったのは、電気が数日間、ストップ。
飲み水は、近所の山水をいただきました。風呂や冷蔵庫が使えない、夜は真っ暗・・・
無線放送と電池のラジオで、何とか情報が入りました。

平成18年の千代田・豊平の豪雨災害
携帯電話が有効だったとか・・・

      
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大災害になると、救急車ら消防車に、あるいは給水に頼るのはどうか・・・できるだけ自分の努力が必要

我が家では、
19号台風の経験から、100ボルトの発電機を買いました。まだ、新品のままです。
   自動車のガソリンを抜けば、しばらくの間、必要最小限度の電力は自給できるはず。

無線放送は、必ず電池を替える・・・電気が止まると、無線放送も聴けない
   停電になると、電池が作動するようになっています。
   しかし、光ケーブルが入ると、いずれ無線はなくなるとか・・・

それなら、携帯電話を有効に活用。
   提案ですが、
    @ ホームページで、災害情報を出せないか。
       火事のとき、外に出ていると、どこが火事かわからないときがあります。
    A メールで発信
        消防団員は、戸外で仕事中でも、町外にいても、直ぐ分る
        消防団員はもとより、希望者にはメールが入るように・・・
        一度に送れるので簡単・・・経費がどうか・・・
        消防署か、役場に届けておけば、メールで情報がもらえる
        これも、火事のときなどに役立つ
    B 多くの人に音声で連絡できる方法はできないか
        メールだと、気づかないことも・・・
        繰り返し放送のように、誰もが聞ける(電話連絡)
    C ケーブルテレビが入っても、やはり全町的に地デジを電波・アンテナで観れるように・・・
        ワンセグで、災害情報を観る
        アンテナで受信できるようにしておくことも・・・自家発電できれば観れる
    D 電気が長く止まると、携帯の電気が切れても、充電できない
        自動車の電源や電池とつなげる方式があったら・・・

飲み水の確保に必要なのは、ポリタンク
    しかし、いざというときには殺到して品不足になります。
    役場で、かなりの数が在庫できないか。
    ペットボトルの大を10個以上確保

電気釜に代わる物・・・ガスや薪でご飯を炊く

昔のように、はでご(稲はで)も梯子(木製の大きな梯子)もない今日、
地震で屋内は危険というとき、
外に出る・・・亀裂が怖い・・・どうする・・・そんなことはない・・・ことにするか?
安全な場所は、戸外の自動車の中?  ・・・  寒いときや夜は良いでしょう。
   しかし、街中には、車をとめる空き地がない
    ・・・ともかく、危険な場所にいないこと
  傾斜地、谷の出口、屋根の下、壁の傍、池の下、川の傍(池や水田などの決壊で急に増水)
  電柱や電線の傍、海岸や河口
  道に出るのは危ない(急ぐ自動車がある)、それから・・・

医療関係の準備はもちろんです。

地域で、いざというとき助け合える地域防災活動・・・特に、被害を受けたときの助け合いが必要
  ・・・しかし、全町的には、まだまだです。(豊平地域は、かなり組織されていますが)
その昔(昭和30〜40年頃まで)は、講中、あるいは芸北地域では別の言い方があるようですが・・・
地域で助け合いの組織がありました
遠くの親戚よりも、近くの他人」ということがありますが、
災害を受けたときは、頼りになるのは、頼りにしなければならないのは近隣です。


                
(以下、続く)


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